▼米田淳一
『エスコート・エンジェル』(ハヤカワ文庫JA)読了。実はこれが私にとってこの作者の作品の初読。作品を四冊も出している作家ともなれば、すでに新人作家の看板は外してもいいと思うのだが、どうも、この作品もまだ習作の域を出ていない作品のように思われる。
その原因は、おそらくあまりにも膨張しすぎた設定にある。SFというのは、だいたいにおいて設定と物語が不即不離の関係にあるものだけれど、この作品においては、物語のバランスを崩すほどに設定が肥大しすぎているのである。地の文で設定が説明され、台詞の中でも設定が語られる(国家機密に属するのではないかと思われる内容を他国の人間に語ったり、相手も当然知っているはずの内容をわざわざ話したりと、説明のための台詞はとても不自然だ)。なんだか設定の説明だけで一冊分のページを費やしている印象すらある(おまけに、読み終えたあとにも「作者解説」と称して設定の説明がついているのだ!)。私は、読み終えた今でも、この作品の設定をきちんと理解できている自信がない。
さらに不思議なことに、この世界には物語を動かす原動力となる「葛藤」というものが存在しない。たとえば、ロボットたちはあまりにも無敵すぎるので、一切ピンチには陥らない。だから、いくら襲われても緊迫感がまるで感じられないのだ。それに、心理的な葛藤もまったくといっていいほど存在しない。登場人物たちの誰もがロボットたちの立場を理解し、その境遇に同情する人々ばかりだというのは、いったいどういうことなのだろう(地の文でさえロボットたちを表現する言葉は「哀れな」「哀しい」と決まっている)。おそらくそれは作者自身の彼らへの思い入れの反映なのだろうけれど、意見を異にする人がまったくいない世界というのは、私からみるととても奇異に感じられる(アフリカのイスラム教国の王女というのは、異文化という他者を描くのに絶好の設定だと思うのだが、残念ながらそれが生かされているとはいえないし、後半のシファ#16とのやりとりにしても、自己の中で完結していて、他者との葛藤などではない)。
結局のところ、どの登場人物も作者の分身でしかないのだろう。葛藤が存在しないから、登場人物たちの感情は底が浅く感じられてしまい、彼らが抱く哀しみも諦念も希望も、私には上滑りしているようにしか思えないのである。また、念の入った設定説明に対し、登場人物の感情の動きについては、逆にあまりに説明不足であるように思える。登場人物がなぜその場面でそのような感情を抱くのか、ついていけない箇所が多数見られた。おそらく作者にとっては自明のことなので説明は不要と考えたのだろうけれど、当然ながら読者にとっては自明ではない。
さて、この作品を読み終えて私が思い浮かべたのは、「イノセンス」という単語である。精神科医の鈴木茂は、最近の成人には、「汚れた」世界や他者を糾弾し「無垢な子ども」的な「けがれなさ」を最上のものとする意識が多く見られると指摘し、そうした意識の中には、たとえば周囲の人が自分のことをわかってくれないことを不満に思うような「受動的な自己中心性」があると述べている。
イノセンスとは、「失われた母胎」あるいは「理想化された起源」への郷愁である。カントはそのようなものを道徳とは認めなかった。彼にとって道徳とは、意志の力による欲望の克服であったから、幼児期の無垢のごとき幸福は、たとえ存在したとしても善とは無関係な価値にすぎない。ドストエフスキーがムイシキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフといった善意を代表する受動的な主人公たちに担わせた徳も、苦難や屈辱を経た末に獲得できる精神的な境地であって、決してイノセンスのようなものではなかった。イノセンスと力強さは、おそらく両立しがたいのである。
私はこの作品に感じるのも、力強さと無縁な「イノセンス」であり、「受動的な自己中心性」である。
主人公は無敵で、批判するものは誰もおらず、そして世界全体が設定(ガジェット)で満たされた遊び場。これはすなわち母子分離以前の幼児的万能感の世界、まさにイノセント・ワールドである。
でも、他者はどこだ?
「真の生命性は他者との関係の上に存在する」
作者はこう書いているのだけれど、私には、この小説の中に真の他者はひとりも存在しないように思えるのである。
人間、いつまでも万能感にひたりつづけているわけにはいかない。幼児的な至福にはいつか終わりが訪れる。それは当然作者にもわかっているはずだ。この世界に他者が登場したとき、母胎的な空間が崩壊して世界が遊び場でなくなったとき、主人公の万能性がおびやかされたとき、物語世界は大きな変貌をとげ、物語は真に読者という他者の方を向いた作品になるだろう。
今後、この物語世界がどう展開していくのか、興味深いところである。続巻に期待したい。
▼昨夜はタイムトラベラーやら流星群やらで、睡眠時間激減。眠いことこの上ない。
病院でも流星群の話題をしてみたが、医者も看護婦さんも、実際に起きていて見たという人はあんまりいない。みんな関心ないのかなあ。まあ、中には、前もって今日は有給を取り、富士山麓まで観測に行ったという猛者もいるのだけれど。
▼宮部みゆき
『ドリームバスター』(徳間書店)(→
【bk1】)読了。別に判型で差別するわけではないのだが、ハードカバーより、ノベルズとか文庫向けの話のような気がする。
夢の中に逃げ込んだ凶悪犯を追う賞金稼ぎ、といういかにもファンタジー的な設定を使いながらも、やっぱり描かれるのは平凡な家族の物語であり、市井の人々のささやかな喜びや哀しみだというのは、いかにも宮部さんらしいというかなんというか。まあ、人物描写はしっかりしているし、安心して読める小説ではあるのだけれど、アクションファンタジーとしては、けれんみがなくあっさりしすぎているのがちょっと物足りない。設定の説明が何度も繰り返されるのは、連作短篇集形式だから仕方がないのかな。
バケツをひっくり返したような、というバレンシップの形状は、やっぱり『キン・ザ・ザ』から来ているんでしょうか。
▼マイケル・マーシャル・スミス
『スペアーズ』(ヴィレッジブックス)(→
【bk1】)、エリック・ガルシア
『さらば、愛しき鉤爪』(ヴィレッジブックス)(→
【bk1】)購入。
▼空を見上げる夜。
今夜は晴天。絶好の観測日和。夜中の2時半頃だというのに、住宅街のそこかしこで、分厚いコートに身を包んだ人たちが空を見上げている。何やらそわそわした様子で、みんな首をかしげたり星を指差したり。中には道の真ん中に寝転がっている若者までいる(←危ないです)。そして、星が流れるたびに「見えた見えた」とか「チョーなげえ、マジで」とか、声を上げている。
ここは東京のど真ん中。街灯は明るいし、本当に見えるかどうか半信半疑だったのだけれど、首が痛くなるほど空を見上げていると、だいたい1分に1、2個くらいの割合で、すっと一筆刷いたように星が流れて消える。降るような、とまでは言えないけれど、これでも充分満足。いやあ、寒い中、外に出た甲斐がありました。
でも明日は寝不足。
▼神保町の
新世界レコードで、妙なCDを買ってきました。タイトルは
『ソヴィエト諜報大作戦 KGB愛唱歌集』(ロシア語タイトルは“ЩИТ И МЕЧ РОССИИ”)。ジャケットには楯と剣、ソ連旗と星がデザインされたKGBのバッジ。曲目も「祖国はどこから始まるか」「つらい任務」「楯と剣」「初代非常委員会議長ジェルジンスキー讃歌」「ソヴィエト・チェキスト(非常委員)讃歌」「ジェルジンスキー主義者の歌」「同士ゾルゲ」「鉄の懲役」「ジェイムズ・ボンドの歌」(←なんだこれは)などと、実に勇ましい。
曲調は、勇壮な中にも憂いをたたえたいかにもソヴィエトらしいもので、歌の意味はわからないが、なんだかこれを聴きながら原稿を書けば仕事がはかどりそうである。きっとKGBの局員たちも、こういう歌を口ずさみながら反革命的な知識人を逮捕したり粛清したりしていたんだろうなあ。
ただ、日本語で書かれているのは曲のタイトルだけが書かれた紙切れ1枚で、解説書は全部ロシア語。だから、いったいどういう内容の歌なのかさっぱりわからない。解説書には、軍服の青年が銃を構えていたり、なにやらマイクの前で演説をしていたりという写真も載っているのだが、これもいったい誰なのかまったく不明。解説くらいつけてほしかったなあ。
もう1枚、
『ロシアのスポーツ歌謡集』というCDも購入。こちらも「スポーツ行進曲」「これがサッカーだ」「腰抜けにサッカーはできない」と勇ましい曲ばかり。でも「おセンチなボクサーの歌」なんて曲もあるんだけど、何なんだろうこれは。
▼岬兄悟・大原まり子編
『SFバカ本 天然パラダイス篇』(メディアファクトリー)(→
【bk1】)読了。このシリーズを読むたびに思うのだけれど、男性作家の「バカ」と女性作家の「バカ」は、何かが決定的に違うような気がする。男性作家はただのバカ話を書こうとしているのに対して、女性作家は、バカな設定を使って何か別のものを描こうとしているというか。男性作家は本当に心の底からバカなのだけれど、女性作家はバカに徹しきれないのかも。
女性作家に多いのが、下ネタとか男女間のどろどろとかを扱った物語。セクシュアルなことを書けばバカになると思っているのかなあ。そして、そうした作品は、バカというよりは、何か濡れたものが背中に貼りついてくるかのような不気味な読後感が残るのだ。特に、松本侑子「動かぬ証拠」なんて、SFでもなければバカでもない。『だるま篇』の「サイバー帝国滞在記」もそうだったから、この作家はどうしてもバカになれない人なのかもしれない。
それに対して、男性作家の作品は、みな本当にバカだ。特に田中啓文、牧野修、小林泰三の関西三人組の作品はいずれ劣らぬバカっぷりで素晴らしい。私としては、女性作家の内にこもったバカより、男性作家の突き抜けたバカの方が好みだなあ。
▼酒井紀美
『夢語り・夢解きの中世』(朝日選書)(→
【bk1】)読了。フロイトの悪しき影響で、今じゃ誰もが夢は深層心理のあらわれだと思っているけれど、日本の中世の常識ではそうじゃなかった。夢というのは、神仏からのメッセージなのであり、あだやおろそかにしてはいけないものだったのだ。だから、中世の人々は神社仏閣に参拝し、望みの夢を見るまでに何夜でも泊まって祈りを捧げたのだそうだ。当然、寺の中では何人もの男女がうつ伏したり柱によりかかったりして眠っている、という光景が展開されたわけで、清少納言は、「せっかく長谷寺にお参りに行ったのに、身分の低い見苦しい人々が蓑虫みたいに這いつくばっていて、張り倒してやりたいくらい」と書いているそうである。ずいぶんと短気ですな、清少納言。
さらに、当時は人の夢を自分のものにすることもできたらしい。他人が見た夢をその通りに語ることによって自分がその夢を見たことになり、その夢の通りに出世する、という話があるのだ(夢を「奪われた」方はというと、鳴かず飛ばずの人生を送るのである。ひどい……)。主人の代わりに従者がお参りに行って夢を見てくる、という話もあったりする。私たちは当然、夢はそれを見た当人のものだと思っているが、当時は必ずしもそうではなかったのだ。
また、Aさんの夢の中にBさんが出てきたとする。今の常識では、その夢はあくまでAさんの無意識のあらわれとみなすところだけれど、当時の常識では、それはBさんの運命を示すものなのだ。だから、Aさんはその夢をBさんに伝え、Bさんもそれを「夢のお告げ」として重要視し、意思決定の材料にするわけである。夢は決してはかないものではなく、現実にも匹敵する重みをもったものだったのだ。
というふうに、中世の夢概念について書かれた本である。中世の夢の概念は、現在とはだいぶ違っているけれど、それでもきちんとした論理に従っていて、その論理の中では矛盾がないのである。この異論理が実にSF的で、興味深く読めた。今昔物語などからとられた豊富なエピソードも楽しめる。
▼
おととい取り上げた「チロリアン」は、思いのほか有名な(特に九州で)お菓子らしくてびっくり。東京のナボナ、大阪のパルナスみたいなものですか。私は、ナボナは子供の頃よく食べたものだけど、パルナスとチロリアンは食べたことがないなあ。
▼岬兄悟・大原まり子編
『SFバカ本 天然パラダイス篇』(メディアファクトリー)(→
【bk1】)、東雅夫編
『国枝史郎ベスト・セレクション』(学研M文庫)(→
【bk1】)、スティーヴァン・ジョーンズ編
『インスマス年代記』(学研M文庫)(上→
【bk1】、下→
【bk1】)購入。『インスマス年代記』には、スティー
ヴァン・ジョーンズとか、ラムジイ・キャン
ブルとか、マイ
カル・マーシャル・スミスとか、癖のある人名表記が多いのだけれど、何かこだわりがあるのだろうか。『ドラキュラ紀元』を『ドラキュラの年』、『オンリー・フォワード』を『前進あるのみ』などと訳しているのもいただけません。
▼篠田節子
『弥勒』(講談社文庫)(→
【bk1】)読了。大部の小説だけれど、一気に読みました。評判どおり、実に仮借ない物語。テーマ的には『ゴサインタン』や『斎藤家の核弾頭』同様、圧倒的な現実を前に、日本的な価値観のことごとくが相対化されていく物語なのだけれど、この作品では、以前の作品より相対化がはるかに徹底している。
まず、日本人が途上国に対して抱きがちな「貧しくても心は豊か」的なステレオタイプな見方が批判され、カースト制度の上に成立した伝統文化が批判され、さらにカースト制度を批判する欧米的な視点までもが批判されていく。「さまざまな文化があっていい」といった文化相対主義も、西洋合理主義も、革命家が夢想する原始理想社会も、完膚なきまでに否定されてしまう。それでは、いったい真実は、救いはどこにあるのか?
作者は明確な答えを出してはいない。結末はあっけないようだけれど、考えてみれば、これ以上にどんな結末を付け足しても蛇足にしかならない。それよりも、宗教、文明、政治、貧富の差といった、明確な答えの出せない難問に、正面から挑んだ作者の豪腕を称えるべきだろう。篠田節子、恐るべし。
▼いつも通勤に利用している駅に、
「チロル名菓チロリアン」という看板がある。なんでも、駅前にある千鳥屋という店で、チロル名菓のチロリアンという菓子を売っているようなのである。同じ看板には「千鳥饅頭」とも書いてある。どうやら姉妹品らしい。
「チロル名菓チロリアン」と「千鳥饅頭」。どういう組み合わせなんだいったい、と思うのだが、それ以上に不思議なのは、いったいなぜチロル名菓が、東京で売られているのか、ということである。熊本名菓といえば熊本で売られているものだし、仙台名菓といえば仙台で売っているものではないか。チロル名菓はチロルで売っているのが理の当然というものではないだろうか。
それに、「チロル名菓チロリアン」というネーミングはいくらなんでも安直すぎはしないか。
アメリカ名菓アメリカン
イタリア名菓イタリアン
そんな名前をつける人がいるだろうか。チロル人なら絶対につけないネーミングであろう。本当にチロリアンはチロル名菓なのか。チロルに行けばみんなチロリアンを食べているのか。そしてチロルチョコとの関係はいかに。
そもそも、「チロル」とはいったいどこにあるのだろうか。ヨーロッパのアルプスのあたり、ということは漠然とわかるものの、どこにあるかと言われれば、途方に暮れざるを得ない。スイスのあたり?
販売元の
千鳥屋本舗のページをみても、「何千年間も、イン河が彫りつづけたチロルの深い渓谷に古くから住むバコバール族の一部に伝えられたお菓子を、近代的な風味にしたてました」とか書いてあるだけで、チロルがどこにあるのかはよくわからない。同じによれば、千鳥屋の本社は福岡市天神にあるそうだ。福岡名菓じゃいけないのだろうか。
だいたい、福岡産のチロル名菓がなぜ東京で売られているのか。謎は深い。
▼田中啓文
『ベルゼブブ』(トクマノベルス)(→
【bk1】)購入。
▼山田正紀
『ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件』(早川書房)(→
【bk1】)今ごろ読了。あー、長かった。ちびりちびりと読んでいたせいもあるけど、1ヶ月くらいはかかったのではないか。絶賛している人が多いようだけど、やっぱりこれは長すぎるんじゃないかなあ。結末でようやく見えてきた物語全体の構造には感嘆したものの、その全体像が見えてくるまでが無用に長いのだ。
「検閲図書館」というアイディアは魅力的だし、作中で何度となく繰り返される「魔笛」のザラストロと夜の女王の対立や、「異形(アブノーマル)なもの、奇形的(グロテスク)なものに仮託することでしか、その真実を語ることができない、そんなものがあるのではないか」というモチーフが、結末に至って「自由主義史観」と「自虐史観」の対立にも通じる、歴史をめぐる価値観の対立に収斂していく構造には感嘆するしかない。そして、「昭和」という時代そのものを作品の中に封じ込めようとするかのようなエピローグも、見事に決まっている。
ただ、実のところ純粋に探偵小説としてみた場合、どうもそれほど感心できないのですね。解決篇では、作中にあまた散りばめられた謎が次々と解かれていくものの、物語全体の構造の壮大さや謎の魅力に比べ、解決はあまりにも矮小に感じられてしまうのだ(これは、山田正紀ミステリのほとんどに通じる欠点ではあるのだけれど)。だから、この作品は確かに力作ではあるものの、傑作とはいいがたいいびつな作品といわざるをえないのである。
▼
プロジェクトEGG。「メルヘンヴェール」、「ハイドライド」、「カレイドスコープ」、「夢幻の心臓III」……懐かしい。でも、あの頃は凶悪なゲームが多かったからなあ。果たして今やって楽しいかどうかはかなり疑問。
▼小川一水
『追伸・こちら特別配達課』(ソノラマ文庫)(→
【bk1】)読了。『こちら郵政省特配課』の続編だけど、「郵政省」がとれたのは現実に郵政省がなくなったから。いつも、ライトノベルにはなりにくそうな地味な題材、重い問題を扱いながらも、夢も希望もある作品を生み出してくれるこの作者、本作も、郵政をめぐる現実の政治情勢をふまえながらも痛快なアクションあり、荒唐無稽な展開ありの良質な作品になってます。
技術者や郵便配達人など、現場で働く裏方の矜持を描かせたらうまいのはあいかわらずだけど、この作品では、それに加えて、現場のプライドが自らの権益を守るエゴになりかねないという矛盾まできちんと描いているのには関心。やや理想主義すぎるところはあるけれど、大人の鑑賞に堪えうるライトノベルに仕上がってます。
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「5年間セックス禁止」自ら背いた王に罰 スワジランド。エイズ対策として10代後半の女性に5年間セックスをしないよう呼びかけた国王が、自ら17歳の女性と婚約したことが発覚したとか。国王は自らの非を認め、抗議のため王宮に詰めかけた300人の女性たちに牛1頭を差し出したのだそうな。
これだけじゃお笑い記事のようだけど、スワジランドの成人の25%以上がエイズに感染しており、すでにエイズのため1万人が死んでいることを思えば、国王の呼びかけは悲痛なものだったことがわかります。女性だけに呼びかける理由が謎だし、言行不一致は確かに問題だけど。
▼
『M・R・ジェイムズ怪談全集2』(創元推理文庫)(→
【bk1】)、マンフレッド・シュピッツァー
『脳 回路網の中の精神』(新曜社)(→
【bk1】)購入。
▼1958年の精神神経学雑誌に、こんな論文が載っていた。
菅原和夫「精神薄弱児に対するグルタミン酸ソーダ注射療法」
グルタミン酸ソーダ、つまりは味の素である。
「味の素を食べると頭がよくなる」という噂を子どもの頃に聞いたことがある人は多いと思うけれど、かつては真剣に研究が行われ、実際、こういう論文が書かれていたのですね。
論文によれば、なんでもグルタミン酸は脳代謝においてきわめて重要な位置を占めていることから、1946年にAlbertが精神薄弱児の治療にグルタミン酸の内服を施行。それ以来、この方面の医学的研究が活発になってきたのだそうだ。
実験は、弘前大学病院に通院している精神薄弱児と、特殊学級の児童に対して、週1回、20回にわたって頚動脈に注射する、というもの。
用いられた注射液は、グルタミン酸ソーダと、グルタミン酸ソーダ+ビタミンB1の混合液、ビタミンB1、ビタミンCの4種類。なぜビタミンB1なのかは論文のどこにも書かれていないが、
以前ここで書いた慶応大学医学部の林髞教授(またの名を推理作家・木々高太郎)の説と関係があるように思われる。今でも売られている「頭脳パン」がこの林教授の説に基づいていることも、すでに書きましたね。
結果はというと、効いたものもあり、効かなかったものもあり、というところ。IQ83だったのが、治療終了後5年たったあとではIQ92になった、という例もあるものの、ほとんど変わらなかった例もあり、逆に退行してしまった例もある。その点は著者も認めていて、有効率はおよそ30%、と書いている。うーん、これじゃほとんど効いてないも同然なんじゃないだろうか。
まあ、効かないなら効かないでその結果自体には意味があるのだけど、この実験、きちんと対照群をとっていないので、統計的にはまったく無価値なのですね。
今じゃ絶対通らないような論文である。