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4月10日(水)

▼新聞には教科書検定のニュースが。
 高校の生物Iの教科書で「進化」という言葉を使ったら、「内容が高度すぎる」と削除を求められたんだそうだ。「進化」は生物IIで学ぶ内容なのだとか。
 それから、細胞内への物質の出入りの記述に「イオン」という表現を使ったら、それは化学の内容だから、と削除を求められたんだとか。結局、「イオン」は「物質」に書き換えたのだそうだ。
 「理科基礎」の教科書では、1円玉と10円玉を使ってボルタ電池を作る記述は「貨幣を傷つけることを奨励している」という理由で、亜鉛板と銅板に変えられた。でも、こういう記述ってのは、身のまわりのもので電池が作れるというところがキモなんじゃないかなあ。身のまわりに亜鉛板や銅板なんてどこにあるんだいったい。
 なんでも「理科基礎」という科目の登場は、理数嫌いに歯止めをかけるのが目的らしいのだけれど、こんな教科書で理科好きな子どもが育つんだろうか。
 抽象的に聞こえるかもしれないけれど、理数系の魅力ってのは、「つながり」にあるのだと私は思うのですね。たとえば、物理で速度加速度を学ぶときに、あ、これは数学で学んだ微分じゃないか、と気づくということ。さらに、化学で学ぶイオンが生物にも出てくる、というように、この世界についての知識というものが、すべて絡み合い、つながりあっているということ。そんな巨大な「知のネットワーク」とでもいうようなものをかすかに垣間見させてくれる、それが、理数系の、いや理数系に限らず学ぶということの魅力なんじゃないか。私はそんなふうに思ってます。
 そんな学ぶことの魅力を、今の教科書は感じさせてくれるんだろうか。

▼栗本薫『劫火』(ハヤカワ文庫JA)、野平俊水『日本人はビックリ! 韓国人の日本偽史』(小学館文庫)、青沼陽一郎『池袋通り魔との往復書簡』(小学館文庫)購入。

4月9日(火)

▼当直。

▼Yomiuri On-Lineに、こんな記事が載っていた。
 草加の少女殺害事件、被告の元少年が16年ぶり証言
 元少年。
 「元少年」とはいったいどんな人なんだろうか。
 「元少年」というと、私はなんだか、すでに中年にさしかかろうという年齢の「元少年」の3人組が、ひらひらのついた服を着て「き、み、だけ〜に〜」などと踊りながら歌っている姿を想像してしまうのだが、これは東山ファンの妻には内緒だ。そういえば、Kinki KidsもそろそろKidsというには厳しい年齢にさしかかろうとしているのではないか。
 いや、そういう話ではない。
 どうやらこの二人は少年のときに逮捕されたから「元少年」と称されているらしいのだが、いくらなんでも「元少年」という表現は不自然ではないのか。私だって元少年には違いないし、世の中のすべての成人男性は元少年だ。
 そういえば、有本恵子さん拉致事件でよど号グループの関わりを証言した八尾恵という人の肩書きもよくわからなかった。
 八尾元店主。
 なんでも昔スナックの店主をしていたらしいのだけれど、だからといって肩書きは元店主でいいんだろうか。元店主であるという情報がこの事件にいったいどういう関わりがあるというのか。
 まだ容疑者じゃないんだから「八尾さん」でいいんじゃないか、と思うのだが、なぜそうしないんだろうか。しかも、同じ毎日新聞でも、こちらの記事では「八尾さん」になっているなど、どうも統一した方針すらないようなのだ。
 どうも、こういう被告でも容疑者でもなければ被害者でもないという人物の肩書きに、新聞はたいそう苦労しているようだ。運転手とか医師とか社長とか、たまたま肩書きになりやすい職業ならいい。でも、そうでない場合、どうも珍妙な肩書きになってしまいがちのようである。「稲垣メンバー」とか。
 今、私が何かの疑惑の渦中に立たされたとしても、新聞には「風野医師」とつまんない肩書きで載ることになるんだろう。でも、もし自分で何か小さな会社でも立ち上げて、適当な役職名を名乗れば、新聞はその通りに書いてくれるんだろうか。「大神源太名誉会長」みたいに。
 だったら私も「超絶至高名誉精神科医」とか名乗ってみようかな。

八戸直通の新幹線の愛称募集 JR東日本。ナニャドヤラ号はどうでしょうか。あと、キリストの墓号とか。

4月8日(月)

▼同僚の精神科医から聞いた話なのだけれど、彼の担当する分裂病の患者さんが『ビューティフル・マインド』を観てきて、「分裂病とは全然違う!」と言っていたそうである。そうだろうなあ。精神科医である私から見ても、あの映画に出てくる幻覚妄想は、全然分裂病的には見えない。
 この映画、ネタバレせずに語るのが非常に難しい映画なのだけれど、だいたい、『ビューティフル・マインド』に仕掛けられたサプライズで驚いた人って、どれくらいいるんだろう。そりゃ、映画に関する予備知識をまったく持たずに観に行けば驚くのかもしれないが、少しでもどんな映画なのか知っている観客なら途中でだいたい想像がついてしまうと思うんだけどなあ。あんな見え見えのトリックで長々と引っ張る演出は、どこか間違っているよ。

▼やっぱり原作を読みたくなったので、シルヴィア・ナサー『ビューティフル・マインド』(新潮社)を買ってきました。

▼池袋リブロの芸術本フロアに、なぜか津原泰水『少年トレチア』が平積みになっていました。
 なぜこんなところに『少年トレチア』が……と見れば、そこはなんと「小雪さんおすすめの本」のコーナーであるらしい。
 小雪? 小雪って誰だ? と思ったのだけれど、写真を見てわかりました。「こう見えても日経は読んでいる」の人ですね。
 ちなみに、小雪さんおすすめの本というのは、

『タオのプーさん』
『ベロニカは死ぬことにした』
『白い犬とワルツを』
『冷静と情熱のあいだ』
『人間失格』
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
『時代を拓いた女性たち』
『鏡の中、神秘の国へ』
『縁あって』
そして
『少年トレチア』

 うーん、なんか渋いようなミーハーなような微妙なところです。でも、『少年トレチア』まで読んでるとは、なかなかの読書家かも、小雪。それとも、津原やすみ時代の愛読者だったのかな。
 これをきっかけにどかんと売れたりしませんかね、『少年トレチア』。

モノレール・ソサエティ。モノレールが好きで好きでたまらないという、アメリカの岡田斗司夫みたいな人たちの集まり。東京ディズニーリゾートのモノレールのページもあれば、自宅の裏庭にモノレールを作ってしまった猛者も。そういえば裏庭にジェットコースターを作った人もいたなあ。アメリカの裏庭はいろんなものが作れてうらやましい限り。

4月7日()

▼アメリカでは、理科の実験で玉ねぎを切るために学校にナイフを持ってきた12歳の小学生が、1年間の停学処分にされたそうである。アメリカじゃ、学校への武器持ち込みに神経質になっているのはわかるのだけれど、ここまでとは。

ウィル・ウィートンのウェブ日記を発見。ウィル・ウィートンといっても誰だか知らない人が多いだろうけれど、映画『スタンド・バイ・ミー』に出演、「新スター・トレック」でウェスリー・クラッシャー役を演じていた(途中で降板したけど)人である。
 やっぱりよく訊かれるらしく、FAQの最初の項目は、「なんでスタトレをやめたんですか?」。
 答えは、スタトレに出ていることによって、映画俳優としてのキャリアに深刻な不利を受けたからだそうな。それまでいくつか映画に出てたのに、スタトレの役ときたら、ボタンを押して「イエス・サー」というだけの役だし、ミロシュ・フォアマンには「恋の掟」に出ないか、と言われていたのにスタトレで拘束されているおかげで出られなかった……。ううむ、でも、ウィートン君、そのわりにはスタトレ降板の後は鳴かず飛ばずのような気がしますが。
 ちなみにウィートン君はオタクのようで、ここでは「僕は完全なナードだよ。そしてナードを愛しているよ。昔から科学と数学が大好きだったんだ。最初に持ってたコンピュータはATARI400さ」などと書いてます。

私家版・精神医学用語辞典も、40項目を超えて、だんだんネタが尽きてきました。そこで、取り上げてほしい精神医学用語を募集します。何かリクエストがありましたら、こちらまで。参考にします(必ず取り上げるとは限りませんが)。

4月6日(土)

MZTさん森山さんもほめている『ビューティフル・マインド』を、ようやく観ましたよ。
 ううむ、なんというか、普通。確かにつまらなくはないし、手堅い出来だとは思うのだけれど、優等生的すぎておもしろみに欠けます。まあそこが職人監督ロン・ハワードらしいところではあるのだけれど。こんなふうに実在の人物を単純化して、シンプルな夫婦愛のお話にしてしまうというのはちょっとなあ。
 分裂病患者の視点から幻覚妄想体験を描いた映画だというので期待していたのだけれど、残念ながらそれほど分裂病らしさは感じられませんでした。確かに幻覚や妄想は出てくるけれど、もっと自分の身に何かが起こりそうな切迫感とか、世界が崩壊するような焦燥感がなくっちゃ。これだったら、デイヴィッド・リンチの映画とかディックの小説の方がむしろ分裂病的だと思います。
 それから分裂病の場合、特徴的なのは幻聴であって、この映画のような幻視主体の幻覚は稀ですね。幻聴だけだと映画的に見栄えがしないので幻視にしたのか、それとも本当にナッシュが幻視体験をしていたのかはわからないのですが、この設定もあんまり分裂病らしくありません。
 ……ネタバレせずに書けたでしょうか。しかし、実在の人物を描いた映画でネタバレを気にしなきゃいけない、というのはどういうことだ。
 ちなみに、映画の最初の方、プリンストン大学の自分の部屋で、ナッシュは、グレゴリオ聖歌みたいな女声の声楽曲のレコードをかけていますね。映画の最後のクレジットで気づいたのですが、この曲は12世紀の女性作曲家ヒルデガルド・フォン・ビンゲンの宗教曲。ヒルデガルドといえば、作曲家で修道女であるとともに、幼少時から何度となく幻視を体験していた人物じゃないですか。そして、この曲を聴いていたシーンを思い出してみると……なるほどね(★★★)。

▼映画にちなんで、というわけでもないのだけれど、私家版・精神医学用語辞典に、精神分裂病(統合失調症)を追加。4月2日の日記に加筆訂正したものです。

4月5日(金)

▼SFセミナーのDM発送作業で、普通の切手が貼られてしまっていたArteさんの封筒を見て、「ここにフィギュアスケート切手を使わずしてどうする!」と貼り直させたのは私です。お喜びいただけたようで何より。

▼こないだ深夜にテレビでやっていたのでビデオに録っておいた『ジャスティス・リーグ』を見る。
 どんな映画なのかは、堺三保さん(4月3日)が書いている通り。アメコミが原作のTVムービーですね。
 まあ、TVムービーでもあることだし、もともとあんまり期待してなかったんだけど、その期待をはるかに下回るダメっぷり。役者は単なるそこらへんの兄ちゃん姉ちゃんにしか見えないし、コスチュームも安っぽくて、どう見ても素人コスプレ大会。特撮もあまりといえばあまりにチープで、もういいとこなし。おそるべきつまらなさです。ちょっとかわいい主役の女の子が、いつコスプレするのかだけを楽しみにしてみていたのだけれど、コスチューム姿は最後の最後にちょっと出てきただけ。時間にして30秒もないよ!(☆)


▼ジャスティス・リーグで検索している途中で見つけた謎のマンガ。アメコミが大好きなアメリカ人の英会話教室の先生が、子どもに英語を教えるために作ったらしい。

▼池袋WAVEにて、DVD『モンティ・パイソン・アンド・ザ・ホーリー・グレイル』、CD元ちとせ『故郷・美ら・思い』、上野洋子『パズル』購入。
 買おうか買うまいかと非常に迷ったのが、なんだか強力にプッシュされていた柴田淳『オールトの雲』というアルバム。柴田淳という女性アーティストは全然知らないんだけど(「一太郎12」のCMソングを歌っていた人だそうだ。「犯人わかっちゃったんですけど」の人とは関係ないらしい)、タイトルがオールトの雲ですよ、オールトの雲。SF? これってSF? 曲タイトルもジャケットもあんまりSFっぽくないんだけどなあ。なんでこんなタイトルをつけたのか気になります。

4月4日(木)

愛沢匡『BIOHAZARD ローズ・ブランク』(電撃ゲーム文庫)(→【bk1】)読了。バイオハザード小説大賞金賞受賞作。大賞の『BIOHAZARD to the Liberty』が、映画のノベライズ風だとすれば、こっちは描写といい構成といい、まさに「小説」。ヤングアダルト小説としては少し過剰かと思われるくらいのところもあるのだけれど、私としては大賞受賞作よりこっちの方が好みです。
 だいたい、私は『バイオハザード』というゲームがそれほど好きでないのです。それは、せっかくゾンビという格好の題材を選びながら、単なるお化け屋敷めいた趣向に終わってしまっているからなのですね。今までともに戦っていた仲間を撃たなければ自分が殺されてしまうという胸がしめつけられるような哀しみ。少しずつゾンビと化していく肉親。平凡で幸せな生活が崩壊し、母が子を襲い、恋人同士が喰らいあうというやりきれなさ。そういうものが全然描かれてないじゃないですか。襲ってくるゾンビを撃って蹴飛ばすだけなんて、そんなの全然怖くないよ。
 『ローズブランク』ではそういう不満が解消されてたので、私としては満足の行く作品でした。やっぱり、ゾンビものはこうじゃなくっちゃね。

宇宙空間に50mの巨大物体もステキにSF的だけれども、私はこっちの方が好きだなあ。ブラックホールはわれわれの周辺にも存在(なぜか韓国系ニュースサイトの記事)。
 あこがれの「ブラックホールのお茶漬け」が食べられる日も遠くないのか。

4月3日(水)

▼スーパーチャンネルの「スター・トレック・ヴォイジャー」がついに最終回……。まさに長い旅が終わったような気分で、感無量であります。来週からはもうヴォイジャーのクルーには逢えないとは、寂しいかぎり。
 どうも、世間にはヴォイジャーよりもDS9を高く評価する人が多いようなのだけれど、私はどっちかといえばヴォイジャーの方が好きでした。確かに、シリーズを通して緊迫したストーリーが展開するDS9に比べ、ヴォイジャーは脳天気でぬるいエピソードが多いし、シリーズの連続性も薄かったのだけれど、それでも、その楽観的な世界観はDS9よりもはるかにスタトレ本来の伝統に近く、心地よいものでした。
 スタトレってのは、基本的に、ファミリーが力をあわせていろんな苦難を乗り切っていく物語なのですね。中心になっているのが父親か母親かという違いはあっても、スタトレのクルーは、艦長を中心としたファミリーなのです。
 それに対して、DS9のメンバーはどう考えてもファミリーじゃありませんね。DS9のストーリーは確かに面白いし、ガラックやウェイユンみたいな魅力ある悪役というのは今までのスタトレには登場しなかったキャラクターではあるのだけれど、DS9を見ていても、世界にひたる心地よさは感じられない。
 たぶん、DS9が終わったとしても、長い物語が終わったという充実感やカタルシスは感じたとしても、寂しさはそれほど感じないと思うのですよ。そして、ああ、もっとこの世界の中にひたっていたい、と思うことこそが物語本来の醍醐味なのではないかと。

 と、ヴォイジャー讃を書き連ねてきたのだけれど、正直言って、最終回の展開はかなり不満。いきなり×××と×××××がラブラブになって色ボケ状態に突入してしまったり、トゥボックは不治の病に侵されていることになったり、あまりに唐突な展開が多すぎ。時間ネタのストーリーも、ラ・フォージが出てきた「過去を救いに来た男」の二番煎じっぽいし。
 さらにいえば、スタトレの基本「ファミリー」からすれば、地球に戻ることは必ずしもハッピーエンドではないのですね。たとえ地球に帰れなくても、どこにいても、ファミリーがいるところ、それが故郷(ホーム)なのだから。
 だって、地球に戻ったら戻ったで問題山積みじゃないですか。副長やトレスらマキのメンバーは地球に戻ったらどうなってしまうのだ。セブンはちゃんと地球での生活に馴染めるのか。ボーグ・テクノロジー、29世紀のモバイル・エミッタに加えて、25世紀のテクノロジーまで搭載したヴォイジャーの帰還は、宇宙の勢力地図をどう変えるのか。あと1話分くらい使って後日談を描いてもよかったんじゃないかなあ。

オサマ・ビン・ラディン、デリー駅で逮捕(TIME OF INDIA)。もちろん、エイプリル・フール・ネタ。海外メディアはシャレの許容範囲が広くていいなあ。

4月2日(火)

▼想像してみてほしい。
 もし、何かの拍子に、あなたが、「自分」と「そうでないもの」の区別をつけられなくなってしまったらどうなるだろうか。
 普通なら、「自分」と「そうでないもの」の区別というのは、考えるまでもないくらい当たり前のことのはずだ。「自分」と「そうでないもの」の間は、目に見えない膜のようなもので隔てられていて、ごっちゃになるということはありえない。私たちは、自分の手が自分の一部であり、目の前のコップが自分ではないことに疑いを持たないし、今思い浮かべている考えは果たして自分の考えだろうか、と疑問を持つことはない。ところが、その見えない膜に穴があいて、「自分」と「そうでないもの」が混じってしまったとしたら。
 たとえるなら、それは意識の自己免疫疾患のような状態である。
 生物の体内には、免疫細胞があって、異物が体内に入りこむとすかさず攻撃する。不思議なことに自己に属する細胞は攻撃しない仕組みになっている。免疫システムは、自己と他者の区別をつけることができるのだ。
 ところが、何かの拍子に、免疫細胞が自己の細胞まで攻撃しはじめてしまうことがある。自分とそうでないものの区別がつかなくなってしまうのだ。
 これと同じように、あなたの意識にとって、自分と自分でないものの区別がわからなくなってしまったとしたら。

 「自分」が膜の外に流出すれば、当然、膜の中の「自分」濃度は薄くなる。あなたは、自分が自分じゃないような、まるで生きていないような感じになってくる(離人症)。
 今まで経験したことのない「何か」が起こりつつある。あなたはそう思う。何かとてつもないことが起きようとしている。でもそれが何なのかはわからない。実際にはとてつもないことが起きているのはあなたの意識の中なのだけれど、あなたにとっては、周りの世界そのものが崩壊しているかのように思える(世界没落体験)。

「私は、私だ」
 そう口にしてみる。
 それは、普通であれば、何ひとつ疑いをさしはさむ余地のないトートロジーに思える。  しかし、「自分」と「そうでないもの」の区別がつかなくなってしまったあなたは、「私は……」と口に出したあと、口ごもるしかない。
「私は……」
 あなたは周りを見回してみる。あなたの周りにはいろんなものがある。コップ。机。ボールペン。パソコン。そして画面上で今あなたが読んでいるこの文章。テレビからはアナウンサーの声が聞こえるし、エアコンからはかすかな空調の音が聞こえているかもしれない。
 「自分」の膜が破れてしまったあなたにとっては、周りにあるすべてのものに「自分」が感じられる。そしてまた、すべての自分でないものが、膜の中に侵入してくる。コップは自分だ。机は自分だ。ボールペンは自分だ。パソコンは自分だ。テレビは自分だ。すべては自分である。でも私は……。私とはいったい何だろう。
 あなたは何かを考えようとする。しかし、考えるそばから、いや、考えが形になる前に、それは「自分」の膜の外に漏れ出してしまう。考えは誰かに盗られてしまった。あなたは何も考えられない(思考奪取)。
 そもそも「自分の」考えというのは何だったろうか。あなたは思う。あなたは、コップにも、机にも、そして今読んでいるこの文章にも「自分」を見つける。文章を読んであなたは驚く。なぜこの書き手は、まだ形になっていない自分の考えを知っているのか(思考伝播)。この書き手は、自分の考えを盗んだのか。しかしどうやって。あなたは不安になる。
 あなたは机の上のコップを見つめる。コップという「自分でないもの」が「自分」の膜の中に侵入してくる。机の上のコップは何やらものすごい存在感であなたに迫ってくる。あなたはそこから目を離せない。アナウンサーの声は何かあなたに関係があることをしゃべっている(関係念慮)。空調の音も、何か深遠な意味を持っているかのように耳について離れない(聴覚過敏)。いや、あれは空調の音じゃなくて、誰かの声なのか?
 ふと、あなたの心に考えが浮かぶ。でも、あなたには、どうしてもそれは自分が思いついた考えではなく、誰か見知らぬ他人の考えのようにしか思えない。他人の考えが、自分の考えの中に侵入しているのだ(思考吹入)。立ち上がってみる。歩いてみる。でも、その行動すらも、自分ではなく誰か他人の意思によって操られているとしか思えない(させられ体験)。
 声が聞こえる。それは、自分の頭の中で考えたことなのに、あなたにはまるで他人の声のように聞こえてくるのだ(幻聴)。まわりには誰もいない。それは誰の声なのか。誰か知らない人か? 好きなアイドルか? それとも神か?
 声は逐一あなたの行動にコメントをするかもしれない。何か命令をするかもしれない。あなたを嘲笑するかもしれない。声が面白いことを言えば、思わず笑ってしまうかもしれない。声に対して何か答えてみるかもしれない(空笑・独語)。
 こんな状態が延々と続くのである。まわりのすべてのものが自分に関係しているように思えるし、またすべてのものが自分に向かって迫ってくるようにも思える。こんな異常事態に、なんとか説明をつけるためには、たとえば家の中に盗聴器が仕掛けられていて、巨大な組織が自分をつけ狙っている、というような非現実的な確信にたどりつくしかない(妄想)。実際、あなたにとっては非現実的でとんでもない事態が起こっているのだから、非現実的な確信を抱くしかないのである。
 あなたの考えは抜き取られ、得体の知れない声が聞こえ、モノも、人も、音も、周りにあるすべてが自分に迫ってくる。こんなことに耐えられるだろうか。
「うるさい!」あなたは大声で叫ぶかもしれない。暴れてしまうかもしれない(興奮)。あるいは周りとの接触をすべて避けて、家の中に引きこもるかもしれない(自閉)。

 つまり、これが精神分裂病(統合失調症)の体験である。

 代表的な症状を並べてみたけれど、もちろん一人の患者にすべての症状があるわけではない。さらに、かなり単純化して書いたので、分裂病という病気の本質からかえって離れてしまったきらいがあるのは仕方がない。わかりやすく書いてみたつもりだけれど、かえってわかりにくかったかも。

「明治のベストセラー「寄生木」 モデル人物の手帳公開へ」。思わず「きせいぼく」と読んで、ホラーか? と思ったことは秘密だ。

▼吉田戦車『象の怒り』(エンターブレイン)は、知性を持った象が地球を支配するSF長篇マンガだ! ギャグかと思ったら意外に普通にSFしていてびっくり。

4月1日(月)

▼小川一水『ここほれONE-ONE!2』(スーパーダッシュ文庫)(→【bk1】)、折原一・霞流一・柴田よしき・泡坂妻夫『密室レシピ』(角川スニーカー文庫)(→【bk1】)購入。
 それから、草間彌生『無限の網 草間彌生自伝』(作品社)(→【bk1】)も。わずか数行ではあるけれど、彼女を見出した精神科医西丸四方との関わりについても触れられてます。
 彼女の病は強迫神経症だといわれているけれど、本に書かれている幻覚妄想体験などからすると、むしろ精神分裂病(統合失調症)に近い病態のように思えます。そして、分裂病の天才といえば、思い浮かぶのが『ビューティフル・マインド』のジョン・ナッシュ。こういう例をみると、どうしても「天才と狂気は紙一重」という陳腐な言葉が思い浮かんでしまうのだけれど、私としては、精神病と天才性を単純に結びつけるのはどうかと思います。
 精神病が天才的な発想を生んだ、などというのは、彼/彼女に対して、たいへん失礼な物言いだと思うのですね。彼/彼女には類い稀な才能があった、というそれだけのことだ。ほとんどの非分裂病者が天才でないのと同様に、ほとんどの分裂病者は天才ではない。もちろん草間彌生の病はその作品に強い影響を及ぼしてはいるのは確かなのだけれど(ナッシュの病がその業績に影響を及ぼしているのかどうか、私は知らない)、彼女がその世界を表現できたのは、才能の裏づけがあればこそだろう。
 心を病んだ人は、決して天才的ではないし、心がピュアであったりもしない(もちろん、ピュアな人がいることは否定しない。心を病んでおらずにピュアな人がいるように)。それは「精神病=危険」というのと同じくらい、たちの悪い偏見だと思います。


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