精神分裂病(統合失調症) schizophrenia

 想像してみてほしい。
 もし、何かの拍子に、「自分」と「そうでないもの」の区別をつけられなくなってしまったとしたら、あなたはどんなふうに感じるだろうか。
 普通なら、「自分」と「そうでないもの」の区別というのは、考えるまでもないくらい当たり前のことのはず。それは、生物が生きていく上で、もっとも基本的といっていいくらいの区別である。「自分」と「そうでないもの」の間は、目に見えない膜のようなもので隔てられていて、ごっちゃになるということはありえない。
 私たちは、自分の手が自分の一部であり、目の前のコップが自分ではないことを知っている。今思い浮かべている考えは果たして自分の考えだろうか、と疑問を持つこともない。ところが、その見えない膜に穴があいて、「自分」と「そうでないもの」が混じってしまったとしたら。
 たとえるなら、それは意識の自己免疫疾患のような状態である。
 生物の体内の免疫細胞は、異物が体内に入りこむとすかさず攻撃するのだけれど、不思議なことに自己に属する細胞は攻撃しない仕組みになっている。免疫システムは、自己と他者の区別をつけることができるのである。
 ところが、何かの拍子に、免疫細胞が自己の細胞まで攻撃しはじめてしまうことがある。自分とそうでないものの区別がつかなくなってしまうのだ。これが自己免疫疾患である。
 これと同じように、あなたの意識に、自分と自分でないものの区別をつけられなくなってしまったとしたら、いったいどうなるだろうか。

 「自分」が膜の外に流出すれば、当然、膜の中の「自分」濃度は薄くなる。あなたは、自分が自分ではないような、まるで生きていないような気持ちになる(離人症)
 「何か」が起こりつつある。あなたはそう思う。今まで経験したことのない、とてつもない「何か」が起きようとしている。でもそれが何なのかはわからないので、あなたはもどかしさを感じる。何もわからないまま、焦りばかりが高まってくる。実際には変化が起きているのはあなたの意識の中なのだけれど、あなたにとっては、それは周りの世界全体の崩壊と同じことなのだ(世界没落体験)

「私は、私である」
 そう口にしてみる。
 それは、普通であれば、何ひとつ疑う余地のない当たり前の言葉に思える。
 しかし、「自分」と「そうでないもの」の区別がつかなくなってしまったあなたは、「私は……」と口に出したあと、何も言えず口ごもるしかない。
「私は……」
 困惑したあなたは、周りを見回してみる。あなたの周りにはいろんなものがあるだろう。コップ。机。ボールペン。パソコン。そしてディスプレイ上で今あなたが読んでいるこの文章。テレビからはバラエティ番組の声が聞こえるし、エアコンからはかすかな空調の音が聞こえているかもしれない。
 膜が破れて「自分」が漏れ出してしまったあなたにとっては、周りにあるすべてのものに「自分」が感じられる。そしてまた、すべての自分でないものが、膜の中に暴力的に侵入してきている。
 コップは私。机は私。ボールペンは私。パソコンは私。テレビは私。すべては私。でも私は……。私とはいったい何だろう。あなたにはわからない。
 あなたは何かを考えようとする。しかし、考えるそばから、いや、考えが形になる前に、それは「自分」の膜の外に流れ出してしまう。誰かが考えを抜き取っているのだ(思考奪取)。何か話そうとしても、話す内容は抜き取られ、途中に長い間を置いてでないとしゃべれない(思考途絶)
 そもそも「自分の」考えというのは何だったろう。あなたは思う。あなたは、コップにも、机にも、そして今読んでいるこの文章にも「自分」を見つける。今、この文章を読んでいるあなたは驚く。なぜこの書き手は、まだ形になっていない自分の考えを知っているのだろう(思考伝播)。この書き手は、自分の考えを盗んだのか。しかしどうやって。あなたは不安になる。
 あなたは机の上のコップを見つめる。すると、コップという「自分でないもの」が「自分」の膜の中に侵入してくる。机の上のコップは何やらものすごい存在感であなたに迫ってくる。あなたはそこから目を離せない。
 バラエティ番組では、人気漫才コンビがあなたの噂をしている。お客さんの笑い声。耳に突き刺さる。会場全体があなたを嘲笑しているのだ。抗議電話をかけなければ。あなたは思う(関係念慮)
 空調の音。何か深遠な意味を持っているかのように耳について離れない(聴覚過敏)。いや、あれは空調の音じゃなくて、誰かの声か? 「死、死、死、死……」 やめろ。あなたは耳をふさぐ。
 ふと、あなたの心に考えが浮かぶ。でも、あなたには、どうしてもそれは自分の考えではなく、誰か見知らぬ他人のもののようにしか思えない。他人の考えが、自分の中に侵入しているのだ(思考吹入)
「私は……」あなたは何とか「自分」を感じたくて、立ち上がってみる。歩いてみる。でも、その行動すらも、自分ではなく誰か他人の意思によって操られているとしか思えない。もはやあなたの意思すら、あなたのものではないのだ(させられ体験)
 声が聞こえる。考えたことが、声になって聞こえてくる(思考化声)。さらに、あなたがとった何気ない行動のひとつひとつについて、逐一声がコメントする。あなたに命令する。あなたを嗤う(幻聴)。たまに声が面白いことをいえば、あなたは思わず笑ってしまう。声に対して何か答えてみる(空笑・独語)。なぜ声の主はあなたの行動を知っているのだろうか。あなたには理解できない。薄気味悪くなって部屋の中を見渡してもそこには誰もいない。それは誰の声だろうか。誰か知らない人? 大好きな歌手? それとも神?
 こんな言語に絶する異常事態の中で、どうやって「自分」を保てばいいのだろうか。事態を収拾できるのはコトバだけだ。コトバの力で自分をつなぎとめるしかない。あなたは説明を探す。たとえば、巨大な組織が自分をつけ狙っていて、家の中に盗聴器が仕掛けられている、とか。あなたはそれを確信する(妄想)。それを疑うことはできない。疑えば、あなたは異常事態の渦に飲み込まれ、「自分」を失ってしまうのだ。妄想というのは、異常な状況の中で、人間がかろうじて「自分」を失わずに生きて行くための手段なのだ。

 このような状態が24時間延々と続くのである。モノも、人も、音も、周りにあるすべてが自分に関係しているように思えるし、またすべてが自分に迫ってくるようにも思える。考えは抜き取られ、得体の知れない声があなたの行動を逐一見張っている。こんなことに耐えられるだろうか。
「うるさい!」あなたは大声で叫ぶかもしれない。暴れてしまうかもしれない(精神運動興奮)。周りとの接触をすべて避けて、家の中に閉じこもるかもしれない(自閉)。あるいは、もう耐えられなくて死んでしまいたくなるかもしれない(希死念慮)

 やがて、抵抗もむなしく、あなたの「自分」は失われる。あなたは自分の部屋に引きこもっている。もう何にも関心は持てない(無為)。意欲も、楽しみもない。服も着替えず顔も洗わず髪も切らず、ただ部屋の中で過ごしている。もう感情さえ動かされない(感情鈍麻)。ほとんど話すこともしない。思考もしない。
 もう「自分」なんてどこにもないのだから。

 つまり、これが精神分裂病(統合失調症)の体験なのである。

 代表的な症状を並べてみたけれど、もちろん一人の患者にすべての症状があるわけではないし、ひとりひとり症状は違う。さらに、かなり単純化して書いたので、分裂病という病気の本質からかえって離れてしまったところもある。まあ、分裂病の体験というのはどんなものなのか、という参考程度に読んでください。
 最後に、重要なことを。こうした分裂病の症状は脳の伝達物質の異常から起こっており、抗精神病薬によって改善する。ただし、伝達物質の異常が、どのように「自分」の障害に結びつくのかはわかっていない。それ以前に、脳からどのように「自分」が生じるのかもわかっていないので、仕方がないことではあるのだけれど。
(last update 02/04/06)

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