▼ 芦辺拓
『名探偵Z 不可能推理』 (ハルキノベルス)(→
【bk1】 )読了。実になんともムチャクチャでバカバカしい話ばかりで、楽しい連作短篇集。ただ、どうにもその過度のバカバカしさがえげつなく思えるところもあるのも確かで、もう少しフランス風の洒落たエスプリがほしい気もする。実は私はエスプリというものが何なのかよくわかっていないのだけれど、とにかくそのエスプリが足りないような気がするのだ。私はいったい何を言っているのか。
この作品の中でいちばん気に入ったのが、《少女怪盗Ψ》のこの台詞。
「さよなら、このうえなく現実的で、そしてみじめったらしいみなさん!」
この台詞が、なんだか作品全体を象徴しているように思えます。
▼久能靖
『浅間山荘事件の真実』 (河出文庫)(→
【bk1】 )、テリー・イーグルトン
『とびきり可笑しなアイルランド百科』 (筑摩書房)(→
【bk1】 )購入。
▼ 恩田陸
『劫尽童女』 (光文社)(→
【bk1】 )読了。昨今の日本SF界では、「70年代に還れ」が合言葉なんでしょうか。それともちょうど子どもの頃に70年代SFを読んできた世代が作家になっている、ということなんでしょうか。あの頃のSFを思わせる作品がやけに目につくのだけれど、これも某70年代有名SF作品を連想させる作品。
巨大な組織に追われて放浪する超能力少女を描く前半(具体的に言えば「化色(前編)」まで)は、実に久々の正統派超能力SFとして楽しめたのだけれど、後半の展開にはちょっと無理があるような。
でも、
以前 書いたような「予感」の物語といった側面はほとんどなくて、70年代SFへのオマージュに徹しているので、今まで恩田陸が苦手だった人でも充分楽しめるはず。
▼
アイオワ州の20歳の女子大生が、バーで火吹き芸をやろうとして、顔と腕に3度の大やけどを負った とか。こういうバカはときどきいるけれど、女子大生というのは珍しい。
▼そうか、米田さんのいう「ソマリアの女性が救助ヘリに手榴弾を投げ込むシーン」ってのは、「大統領のヘルメット」だったのか。そんなシーンなかったことに気づかなかった私も私だけど。
▼
ヒューゴー賞ノミネート作品 が決まったそうです。
▼ 芦辺拓
『メトロポリスに死の罠を』 (双葉社)(→
【bk1】 )読了。舞台は「廃県置市」が実施された近未来の大阪、「大都市の中枢部を切り取って消してしまう」という前代未聞の犯罪が起きる……というので、これは『首都消失』か『消えたサンフランシスコ』か、あるいは『ラーゼフォン』か、と思ったのだけれども、もちろんそこはミステリ作家、SF的なネタはまったくなく、あくまでミステリとしてこのネタを料理してます。なるほど、この手があったか(ちょっと無理がある気もするが)。
とはいっても、別に本格ミステリというわけではなく、物語は単純明快な冒険活劇。『首都消失』みたいなSFよりは、むしろ細野不二彦の『東京探偵団』のノリですね、これは。波乱万丈で、しかもどこかチープな懐かしい雰囲気は楽しいのだけれど、原発反対とか地方分権とか、著者の主張が前面に出すぎているのがちょっと萎え。
▼
Itsukiたんの地元でハリポタファンがバカな真似を 。
▼
子どもたちの考える科学者のイメージ 。課外授業でフェルミ研究所を訪問する前と後に、子どもたちに科学者の絵を描いてもらったそうだ。想像図と、実物を見たあとの絵のギャップがなかなか笑えます。
▼ちょっと遅いが
デーモン・ナイト死去 (毎日新聞に小さな死亡記事が出てたので驚いたよ)。デーモン・ナイトって言っても日本じゃあんまり知られてないけれど、彼はクラリオン・ワークショップで長きに渡って作家の卵を教え続けてきたわけで、多くの作家が彼を師と慕っているはず(クラリオン出身のSF作家リストを作ったら錚々たるメンバーがそろうでしょう)。以前紹介したことのあるカナダのSF作家コリー・ドクトロウ氏もクラリオンの出身で、weblogに追悼文を書いてます(
ここ と
ここ )。
あと、
Patrick Nielsen Hayden という人は、彼についてこんなふうに書いてます。
Damon was annoying, brilliant, lyrical, irascible, funny, patient, generous, and one of the people who created the modern science fiction world. In the great cosmic index of Homeric epithets, his is one word: "Teacher."
▼
米田淳一さんの日記 (4/16)の中に、もしかしたら私のことかと思える記述が。「ちなみに『ブラックホークダウン』について……」以下のところです。ここに出てくる「そうでない人」というのはもしかしたら、私のことではないかと。もし私に向けた言葉なら、できればリンクしていただきたかったのですが(そうでなかったら、私のことだと誤解してしまってすいません>米田さん)。
すいませんね、私は軍事ものは全然ダメなんですよ。観てても何が起こってるのかもうさっぱりで。だいたい、落ちた2機目のヘリが救助ヘリだったってことにしても、米田さんの日記を読んで初めて知りました。1機目にはブラックホークって名前がついてるのに、2機目は名前がついてないんでおかしーなー、とか思ってたくらいで。
しかし、たぶんソマリアの人も私と同じで、戦闘ヘリと救助ヘリの区別なんかつかないんじゃないかなあ。だとしたら、ソマリアの女性が、救助ヘリを見て、また増援がやってきやがった、と思って手榴弾を投げ込んでも不思議はないんじゃないかと。
また、現場は大変なんだ、ということはわかるんだけど、現場が大変だということと彼らの行為が批判されるべきかどうかは、また別だと思います。医療ミスを起こす現場だって、政治の現場だって、それなりに大変なわけです。
それに、私は別に軍事や政治について語っているわけじゃなく(語りたくとも語る才はないし)、映画作品としてどうか、ということについて語っていたのですが。米田さんは『ブラックホーク・ダウン』がノンフィクションだと主張していますが、いくらドキュメンタリーのように撮ってはあっても、あれはどう考えてもノンフィクションじゃないでしょう。「米軍の見込みの甘さとそれでも戦った米軍人の現場のプロフェッショナリズムは別に論じるべき」(私はそうは思わないが)かもしれないけれど、軍人のプロフェッショナリズムと映画の評価もまた、別に論じるべきなのでは。
▼BBC onlineによると、
オーストラリアの科学者が、磁気によって人間の創造力を刺激する「シンキング・キャップ」なるものを発明した のだそうだ。この帽子をかぶった17人の被験者は、絵を描く能力が長くて15分の間高まったのだとか。……なぜ15分。
発明者のアラン・スナイダー教授が所属する
オーストラリアの"Center for the Mind"のサイト 。なんか、ものすごく怪しげなトップページなんですけど。おまけに、写真の丸眼鏡のピエロみたいな人がスナイダー教授だそうです。オーストラリアじゃ有名人らしい。
▼ 田口ランディ
『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』 (幻冬舎文庫)読了。このごろ話題の田口ランディなるものを読んでみようと思って手にとった1冊。あっという間に読めた。
この人のエッセイの書き方には共通点がありますね。まず、マスコミをにぎわせた事件や社会問題について語る。それから自分の体験、あるいは知人との会話について語り、そして社会問題を自分の体験の側に引きずりこみ、ある種強引なまでの結論を導く。
なかなか紆余曲折した人生を送ってきた人らしく、自身の体験の部分はとてもおもしろいし、実際、体験だけを書いたようなエッセイには引き込まれるものを感じる(ただし、どのエッセイでも自分についてしか語っていないような押しつけがましさを感じるのも確かだ)。しかし、残念ながら考察と結論の部分はかなり飛躍が多くずさんである。しかも、著者の主観に貫かれた文体で綴られているので、論旨が掴みづらいきらいがある。だいたい、すべての事件を自分の経験や感性を通して理解しようとするのは無理があるのではないか。いかにさまざまな体験をしていようが、一人の人間の経験や感性には限界があるのだから。
そのいい例が冒頭の「ゴミを愛する人々」というエッセイである。このエッセイではまず著者が偶然知り合ったゴミを捨てられないホステスについて描写し、それからニュース番組で見た「ゴミを拾い集める老婆」について述べる。そして再びホステスの描写に戻り、「もう消費すら彼女にとっては快楽じゃないのだ」と結ぶのである。
私には、おそらく精神分裂病であろうゴミを拾い集める老婆と、ゴミを捨てられないホステスにとってのゴミの意味は明らかに違うように思えるし、この二つのエピソードから、降って湧いたかのように「もう消費すら彼女にとっては快楽じゃないのだ」という結語が導かれる筋道がよく理解できないのである。
▼竹山哲
『現代日本文学「盗作疑惑」の研究』 (PHP研究所)(→
【bk1】 )、恩田陸
『劫尽童女』 (光文社)(→
【bk1】 )、乙一
『暗いところで待ち合わせ』 (幻冬舎文庫)(→
【bk1】 )購入。
▼なんだか最近、今さらながらに「アポロは月に行かなかった」の話が流行っているようなのだけれど、もとはといえば、2001年2月15日にFOXテレビで放映された"Conspiracy Theory: Did We Land on the Moon?"という番組が原因らしい。司会はX-Filesのスキナー副長官役の人だったとか。日本のテレビで放映されたもののも、この番組が元でしょう。
さて、
BAD ASTRONOMY というサイト(英語)の
このページ では、番組の嘘がひとつひとつ解説されてます(そして、そのページをもとにしてNASDAが作った日本語版が
「人類は月に行っていない?」 )。"BAD ASTRONOMY"のサイトには、ほかにも『アルマゲドン』から『トゥーム・レイダー』まで
映画に出てくる天文学の嘘 のページもあったり、「月の裏側」を"The dark side of the moon"と呼ぶのは間違いだから"far side"と呼べ、とか言ってたり(そういえば恩田陸の『月の裏側』にも"the dark side..."と書いてあったな)、いろいろと小うるさいイチャモンをつけまくっていて、私はとても気に入りました。
▼ 青沼陽一郎
『池袋通り魔との往復書簡』 (小学館文庫)(→
【bk1】 )読了。1999年9月8日、白昼の池袋で包丁と金槌を手に突如通行人に襲いかかり、2人の女性の命を奪った通り魔殺人犯、造田博と著者との奇妙な手紙のやりとりを綴ったノンフィクション。
造田博は手紙の中でこう書くのである。
「造田博教を作りました」
「造田博教には入りたい気持ちが少しでもあれば入れます」
「私は造田博教ではトイレを自由にするのがいいと思っています。あと小便や大便をもらしてもふれないようにするのがいいと思っています」
「私は造田博教では地方都市があってもあまり意味がないと思うので全部の土地を首都にするのがいいと思っています」
「私は他の人に危害を加えるのと加えないのとではすごく違うと思っています。他の人に危害を加えるのがだめな方で、危害を加えないのがいい方です。間違えると困るのでもう1回書きます。他の人に危害を加えるのが×で、危害を加えないのが○です」
正直言って、真剣に受け取るのがバカバカしくなるような内容なのだけれど、著者はこれに真正面からつきあっていくのですね。造田博教に入信するにはどうすればいいのですか、とか、アメリカのテロ事件への報復についてはどう思いますか、とか、自分のしたことをどのように受け止めているのか、とか。
まあ、造田博の手紙それ自体は非常に奇妙で興味深いのだけれど、こういう人物に対しては、著者のような真正面からのアプローチは意味がないように思えるし、実際、犯人からは実のある解答は何一つ得られていない。
しかも、後半での著者の考察は、「自己愛の肥大」という紋切り型に落ち着いてしまっていて、独自性が全然感じられない。著者は、下関通り魔事件の上部康明、音羽幼女殺害事件の山田みつ子、宅間守、そして麻原彰晃にまで「自己愛の肥大」という共通点を見出す。確かに「自己愛」という観点だけから見れば共通する点はあるにせよ、私には、麻原と山田みつ子と造田博が同じ病理の持ち主とはとても思えない。「自己愛の肥大」「自己愛性人格障害」などという言葉は、そう言っておきさえすれば最近のたいがいの事件に当てはまってしまうので、事件の分析としてはあんまり意味がないと思うのですね。
「自己愛」などという紋切り型じゃなく、むしろ、造田博の手紙を一読すれば誰にでも感じられる奇妙さの謎に迫ってほしかった。
しかし、私がこの本でもっとも呆れたのは、造田博の責任能力について述べた判決文(精神分裂病の辺縁群の疾患ではあったが完全責任能力あり、と認定している)を受けて書かれた次の文章。
程度の問題は別としても、「疾患」であったことは明言していることにかわりはない。しかも、そういう人間が「それなりの社会生活を営んでいる」ことは、例えば電車内において席を譲り合い隣り合わせになった人間や、ランチタイムに相席となった人物などの中にも、「疾患」である人間は存在して、計画的に“通り魔”となるような人物が潜んでいることを意味している。
なんと、今どき珍しいほどナイーヴな「野放し」論! こういう文章を平然と書いてしまう、著者のジャーナリストとしての見識を疑います。
▼新宿ロフト・プラスワンでのスタートレック・イベントに行ってきました。司会は岸川靖さん、ゲストは声優の沢海陽子さん(セブン・オブ・ナイン役)、大川透さん(ガラック役)、そしてDS9監修の丹羽正之さん。会場はほぼ満員の盛況。
パトリック・スチュワートがゲスト出演したサタデー・ナイト・ライブ(「ラブボート・ネクストジェネレーション」なるスタトレ・パロディなのである)、アメリカのスタトレ・コンベンションの紹介ビデオ、新シリーズ「エンタープライズ」のサワリなどなど盛りだくさんの内容だったのだけれど、なんといっても素晴らしかったのは、大川さんと丹羽さんでのDS9名場面再現。
再現したのは、「消された偽造計画」のラストでのシスコとガラックのやりとり。見てない人には全然わからないと思うけれど、ガラックというキャラクターの凄みが存分に発揮された、名場面中の名場面なのです。いやあ、まさかあの名場面が生で聴けるとは思わなかった。役に入ったときのテンションの高さといい、声の張りといい、やっぱりプロの声優はすごいですね。これを聴けただけでも、来た価値はあったというもの。
あとは、某シリーズのパイロット版が今年中に日本でも放送されるらしい、とか、"MAKE IT SO"という、ピカード艦長を題材にしたビジネス書が邦訳されて、なんとダイヤモンド社から出る話とか……。課長島耕作のビジネス書みたいなもんですか。
いや、楽しい時間をすごさせていただきました。
▼
湯川光之さん が、
ローカス・オンライン の、
ヘンリー・スレッサー死んだかもしれない記事 にリンクしていますが、私としては、
その下の記事 のティプトリー賞受賞者のHiromi Gotoという人が気になります。
ここ には経歴と写真が載ってますが、千葉県生まれの日本人だそうな。おお、ついに日本人がアメリカのSF賞を受賞ですか。次はヒューゴー賞だ!(古沢さんも
掲示板 で書いてましたね)。
▼
世界図書館猫マップ 。図書館猫とは、文字通り図書館にいる猫のこと。こんなにいるんですか、図書館に猫が。
トリクシー とか、
ジャスパー とか、いい感じです。
▼おすぎは5000円出してもいいといい、井筒監督はマイナス5つ星をつけた映画
『ブラックホーク・ダウン』 を観ました。
えー、私戦争映画はどうもダメなようです。まず、みんな同じ格好なので誰が誰だかまったくわからない。主役のジョシュ・ハートネットはなんとかわかるのだけれど、あとはさっぱりである。妻は、「魚釣りに行って戻ってこない映画に出てた人が出てた」と言っていたのだけど、誰のことでしょうか。そもそも「魚釣りに行って戻ってこない映画」って?(あとで訊いたら『パーフェクト・ストーム』だそうだ。いや、あれは「魚釣り」じゃないと思うぞ)。
固体識別ができないから、どこに誰がいて何をしているかもよくわからないし、そもそも何が目的の任務だったのかもよくわからない。見ていても状況がさっぱりつかめないのですね。
しかも、ストーリーもメッセージもなく、延々とひたすら市街戦が続くという展開なので、退屈なことこの上ない。監督としては「これが戦争というものだ」というつもりなのだろうけれど、映画なんだから少なくともストーリーくらいは必要だと思うのだけれど。
それでも、なぜかアメリカ兵が死んだり負傷したりする場面は妙に劇的に描かれているので(妻子の写真を眺めたりして)、そんなに大量の犠牲が出たのか、と思っていたら、最後に出てくるキャプションによれば「アメリカ兵19人と、ソマリア人1000人以上が死んだ」のだそうだ。で、その19人の名前がだーっと列挙される。なるほど、ソマリア人1000人以上の方はどうでもいい、ということらしい。
これほど悲惨な戦いだったというのに、最後の方で負傷した若い兵士が「また必ず戻ってきます」とか言うのを見て、やれやれ、アメリカ人度し難し、と私は思ったのだけれど、アメリカ人はそうは思わんのでしょうかね(★★)。
▼私は、米軍のソマリア介入については全然知らなかったのだけれど、田中宇氏による
ソマリアの和平を壊す米軍の「戦場探し」 なんかを読むと、映画があまりにも一方的に思えてきます。
▼ 栗本薫
『劫火』 (ハヤカワ文庫JA)読了。作者が芝居を書いているせいか、長台詞、独白がやたらと多いのだけれど、小説としてはやはりこれは不自然である。リギアは、いつのまにこんなに頭が悪くなってしまったのだろう。昔は颯爽としていたのに。
▼きのうは、有名人の自傷者のページから、「自傷文化」について考えてみたのだけれども、今日は、きのう書いたこととどこか通底するニュースを見つけました。
アメリカの、聴覚障害者でありレズビアンでもあるカップルの話 。
自分たちの聾を確実に子どもにも受け継がせたい、と思った二人は、精子提供者として友人の聾の男性を選び、念願の聾の赤ちゃんを産んだのだそうだ。「おそらく世界初のデザイナー障害児だろう」と記事は書いている。
生まれた女の子の最初の聴覚検査のあと、彼女らは母子手帳(?)にうれしそうにこう書いているそうだ。
「1996年10月11日 95デシベルに反応なし。DEAF!」
二人は、ワシントン・ポスト紙のインタビューでこう答えている。「聾は治療すべき医学的な疾患ではなく、アイデンティティです」 彼女たちは二人とも聾者の中でも急進派に属していて、聾は文化的アイデンティティであり、障害ではないと考えているのである。
その後、二人は、同じ方法で男の子をもうける。男の子は片方の耳には部分的な聴力があるものの、もう一方の耳は完全に聴力ゼロ。しかし、二人は、彼に補聴器を与えないことにしたのだという。「聾はアイデンティティ」だからだ。「もう少し大きくなったら本人の決断に任せる」のだとか。
「耳の聞こえる赤ちゃんはありがたいけれど、耳の聞こえない赤ちゃんだったらもっとありがたいですね」と、彼女たちは語っている(註・2002年4月17日誤訳を訂正)。
もちろん、二人の行いは多くの批判を浴びているようで、子どもの権利擁護グループは「故意に子どもに障害を与える彼らの行為は信じられないほど利己的」と語っているそうだし、アメリカ聾協会の有力メンバーでさえ「なぜ障害のある子供を生みたいか理解できない」と語っているようだ。
このニュースを、私は
コリー・ドクトロウ というカナダのSF作家兼ライター(2000年ジョン・W・キャンベル賞受賞者です)が開設している
Boing Boing というweblogで知りました。ドクトロウはSF作家らしく、ジョン・ヴァーリイの「残像」を連想しているけど、私としてはジェフリー・ディーヴァーの『静寂の叫び』で描かれている「デフ・ナショナリズム」を思い出しましたね。
なんでも、デフ・ナショナリズム(聾者の民族主義)とは、アメリカの聴覚障害者の世界を席巻している思想だそうで、
文学にみる障害者像 というページから引用すれば、
耳の聞こえない人間を「耳の聞こえない人間一般」を意味するdeaf(聴覚障害者)と「固有の言語(=手話)、固有の文化、固有の共同体を共有する聴覚障害者」を意味するDeaf(聾者)に分け、Deafを言語的少数民族と捉える見方
なのだそうである。
さらに、同ページからの孫引きになってしまうけれど、『静寂の叫び』にはこんな一節がある。
聴覚障害者の世界では、同じ障害をもつ両親から生まれ、言語能力を一切もたない人が一番高いステイタスを得るの。健常者の両親から、正常な聴覚をもって生まれ、しゃべることや唇を読むことができると、同じステイタスは与えられないわ。そして障害者でありながら、正常な聴覚をもつ人たちに受け入れられようとする人は、さらにステイタスがさがる。
最初のレズビアン・カップルの選択は、こういう考え方の当然の帰結として理解することができます。最近じゃ、日本でも『五体不満足』のおかげで「障害者は不幸ではない」というメッセージが広まっているけれど、その考え方を過激に押し進めたのが、この思想といえますね。
ただ、まあ論理的に理解はできるにせよ、そのブラック・ナショナリズムにも似た過激さは、私にはどうしても不健全に感じられてしまうのだけど。
さらに、私は精神科医なので、こういう思想が精神障害の分野にまで広まってきたらどうなるだろう、と考えてしまいます。
たとえば、精神分裂病者同士の結婚の相談を受けた場合、私たち精神科医はだいたい遺伝のリスクや出産・育児の苦労を持ち出して説明します(もちろん、本人たちがそれでも結婚する、子どもを作る、というのなら無理に止めはしません)。しかし、彼らが「分裂病文化」継承のため、あくまで分裂病の子どもを生みたいのだ、と主張したらどうすればいいだろう。
まあ、実際は現在のところ「分裂病文化」といえるようなものはないし、おそらく今後もそうした文化が誕生することはないと思うのだけれど、「自傷文化」や「ひきこもり文化」といったものは、インターネットの影響もあって出現しつつあるように思えるのですね。きのう書いたような独自の「自傷文化」を持った自傷コミュニティは、今でも充分、固有の文化を持ったマイノリティとみなすことができるんじゃないか。
もちろん、多くの人たちはそれほど「急進的」ではなく、自傷から脱出し、普通に生きていくことを望んでいるのだけれど、たとえばリストカット写真を公開しているようなサイトには、「自傷ナショナリズム」の萌芽が見られるような気もします。
▼掲示板で湯川さんが紹介してくれたエリザベス・ワーツェル
『私は「うつ依存症」の女』 (講談社)(→
【bk1】 )と、スティーヴン・ブラウン
『心と幸福の科学』 (原書房)(→
【bk1】 )(原題は"The Science of Happiness"。さすがに直訳はまずかったらしいけど、邦題も誤解されやすいタイトルかも)購入。
▼
著名な自傷者のページ (アメリカの自傷者の個人サイトのコンテンツらしい。自傷に関する情報がまとまった、なかなかいいサイトです)。ジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリー、クリスティーナ・リッチ、ダイアナ妃などの名前が挙げられている(ミュージシャンもいるけど、私は詳しくないんでどういう人なんだかよくわかりません)。なるほど、確かに彼らにはどこか共通点があるように思える。ドリュー・バリモアがいないのはどうしてだろう、と思ったら、なぜか
ほぼ同じページ がもうひとつあり、そちらにはドリュー・バリモアの項目もありました(実際、自傷者には彼らにシンパシーを感じる人は多いようで、自傷系の掲示板で、「クリスティーナ・リッチとドリュー・バリモアが好き。男優ではジョニー・デップ」などという書き込みを見かけたことがある)。
こういうのを見ていると、同性愛が今ではすっかり文化として認められているように、いずれ自傷もひとつの文化として認知されるようになるのかもしれない、とも思えてきますね。よかれあしかれ。現に、今も「ゴス」みたいに、「自傷文化」あるいは「ボーダーライン文化」とでもいうべきものは確実にあるようだし(もちろんゴスと自傷はイコールではないけれど)。
▼日下三蔵編
『怪奇探偵小説名作選3 水谷準集』 (ちくま文庫)(→
【bk1】 )、日下三蔵編
『本格ミステリコレクション4 鮎川哲也名作選』 (河出文庫)(→
【bk1】 )購入。日下三蔵大活躍。
春日武彦
『私たちはなぜ狂わずにいるのか』 (新潮OH!文庫)(→
【bk1】 )も購入。『私はなぜ狂わずにいるのか』を微妙に改題文庫化した本である。表紙の著者の肩書きは「精神科医」。さすがに「オレたちの精神科医」はやめたらしい(『ロマンティックな狂気は存在するか』のときはそういう肩書きだったのだ)。親本は持っているのに文庫を買ったわけは、あとがきのテンションが異様に高くて春日節全開だったから。電気ショックの新聞記事に対して、「これを書いた奴は馬鹿じゃないのか?」とか言いたい放題。春日先生、どんどん偏屈度を増してきているようです。いいぞ、もっとやれ(笑)。