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7月10日(月)

 スティーヴ・ブシェミの出ているプロバイダZEROのCMが妙にツボにはまる。
「お前に金を使わせるヤツは、大統領だって敵と思え!」っての。
 わざわざブシェミを起用するあたり渋いよなあ。同じ隕石映画に出ている俳優を使いながら、まったく芸のない缶コーヒーのCMとは大違いである。

 抱えている原稿のうち3つまではだいたい完成。あとの1つはまだ手つかず。明日の当直中にやらねば。

 栗本薫『地上最大の魔道師』(ハヤカワ文庫JA)、ディーン・クーンツ『デモン・シード[完全版]』(創元SF文庫)、ピーター・ディキンスン『魔術師マーリンの夢』(原書房)購入。あとがきの、ディキンスンは「今まで日本では二、三のミステリ作品が翻訳されたばかりで……それ以外のジャンルの作品となると、今まで翻訳されたものは皆無」ってのはいくらなんでも言いすぎだと思うんだけど。

 そろそろ開店のbk1。塩澤編集長のコラムがなかなか読ませます。私もブック・ナビゲーターとやらになってSF評をやってるので、よかったら見てね。
7月9日()

 岩本隆雄『星虫』(ソノラマ文庫)読了。新潮文庫で出たときには、タイトルからロマンチックなだけの甘ったるい物語を想像して敬遠していたのだが、意外や意外、確かに基本路線はロマンチックな青春ファンタジーではあるものの、作者の描写はかなりシビアである。星虫という生物は、かわいらしい名前に反してかなりグロテスクな寄生体だし、決して人間に優しいだけの生物ではないのだ。
 感心したのは、ただただ情に訴えるだけのエコロジー系ファンタジーになってしまいがちなところを、うまく抑制しているところ。星虫に寄生されると「地球の叫び」なんてものが聞けたり、星虫に入れ上げた主人公が地球と人間と星虫の関係を直感で把握してしまったりと、大甘な話に流れても不思議はないポイントはいくつもあるのだが、そんなところでも、作者は決して感情に流されることなく、必ず主人公の意見に対する冷静な反論を用意している。そう、夢を叶えるためには情熱や理想だけではだめなのですね。理想を追求するためには、ときに冷徹なリアリストであることも必要なのである。
 自然との交感と科学技術のどちらかを描いた物語は多いが、両方を過不足なく描いた小説は少ない。自然のすばらしさを描いた物語は科学を悪者にしがちだし、科学を描いた物語は、自然の声などという非科学的なものは無視しがちである。この作品が、両者の融合に必ずしも成功しているとは思わないが(例えば宇宙開発の推進と地球環境保護の関係が今一つはっきりしないし、「百兆円」の財源も今一つ不明瞭だ)、この作者のバランス感覚には共感したい。
 とにかく、この手の物語にありがちな「人間は地球の癌」などという結論を明確に否定しているだけでもうれしいじゃないですか。
7月8日(土)

 世の中には奇特な方がいらっしゃるもので、南野輝さんという方が、きのう書いた『危いことなら銭になる』に登場する黄色い車の画像を送ってくださった。
 きのう「チキンラーメン」と書かれた宣伝カー、というところを読んで、どういう車なんだろう、と不思議に思った方もいらっしゃるかもしれないが、こういう車である。ほら、「チキンラーメン」って書いてあるでしょ。確かに形は救急車に似ている。当時は実際にこういう宣伝カーが走ってたのだろうなあ。しかし、映画の中で精神病院の車扱いをされて、日清は文句を言わなかったのだろうか。
 南野さん、どうもありがとうございました。

 DHCのCMの設定がさっぱりわからない今日この頃。最近のCMでは山川恵理佳は藤崎奈々子に「藤崎さん」と呼びかけているではないか。以前は「お姉ちゃん」と呼んでいたのに、いつの間に他人になったのだろうか。
7月7日(金)

 七夕なのに台風が来ていて大雨。
 さてきのう観てきた中平康監督『危(やば)いことなら銭になる』(1962)の感想を。いや、60年代の日本映画にこんな傑作があるとは思わなかった。強奪された紙幣用のスカシ入りみつまた紙と、偽札作りの名人である老人(左卜全)をめぐって、悪党たちが争奪戦を繰り広げるピカレスク・コメディなのだが、とにかく展開がスピーディで洒落た映画である。
 主役の宍戸錠はもちろんのこと、脇役までキャラクターが見事に立っているのもすばらしい。長門裕之は“計算尺”という仇名で、すべてを計算尺で導き出した確率で判断する男(たいがい裏目に出るのだが)、浅丘ルリ子はボーイッシュな美少女でなぜか柔道の達人(これがかわいいんだ)などなど。彼らが交わす早口で歯切れのいい台詞の応酬の気持ちいいこと。私はうっとりとして聞きほれてしまった(ところどころ聞き取れないこともあったけど)。
 原作は都筑道夫の『紙の罠』。脚本には池田一朗と山崎忠昭の名前がクレジットされているが、池田一朗はもちろんのちの隆慶一郎、山崎忠昭はのちにルパン三世の第一シリーズにも参加した脚本家である。そういえばこの作品もどことなくルパン三世のタッチを思わせるところがある。
 最後に主人公たちが大殺戮をするところはちょっとどうかと思ったが、当時としては別に問題とは思われなかったのだろうね(★★★★☆)。

 さて問題の「黄色い救急車」だが、長門裕之が左卜全(とその妻)をギャング組織に引き渡して金を受け取ろうとする場面に登場する。長門裕之が指定した引き渡し場所はなんと警視庁内のホール。これを妨害しようとする宍戸錠が、「日清チキンラーメン」と書かれた宣伝カー(スピーカーつきのバンで、黄色というよりは辛子色)を警視庁の前に止め、「こちらは東京精神病院です。先ほど凶暴な患者が病院から脱走しました。この人物の特徴は……。付近の皆様は十分注意してください」と録音してあったテープを流すのである。人物の特徴の部分には左卜全と妻の特徴が入っていたので、彼らの回りに警察官が集まってきて結局引き渡しは失敗する、という展開である。
 果たして、これが「黄色い救急車」の噂の元なのだろうか。映画を観た印象では、私にはどうもそうではないように思える。宣伝カーはどう見ても救急車ではないし(だって横に「チキンラーメン」と大きく書かれているのだ)、その車に「患者」が乗せられるという描写もない。それに、このシーンは映画の中ではそれほど重要ではない短いエピソードにすぎず、この映画が元で全国に「黄色い救急車」の噂が広まったとはとても思えないのである。かといって当時すでに「黄色い救急車」の話が知られており、それを意識して黄色い車を使ったようにも思えない(それなら「チキンラーメン」ではなくもっと精神病院らしく見える車を使うだろう)。
 結局、この映画は「黄色い救急車」とは無関係なのではないか、と思うのだけど。
7月6日(木)

 しかし、FOCUSの見出しには驚いた。
「岡山金属バット少年八十八ヶ所逆回りで死者復活の儀式」
 って、そりゃ『死国』のネタでは。
 ……などと思っていたら、なんと秋田で発見されたとか。とすると、香川で目撃されたのは誰だったんでしょう。

 わけあって、ヴァン・ヴォクトの『スラン』をネタに原稿を書かなきゃならなくなった。
 『スラン』ならどこかにあったはずだよなあ、と夕べ本棚を探してみたが、どこにも見つからない。そうか、あれはまだ高校の頃に読んだ本だから、こちらには持ってきてないのだった。実家に戻れば見つかるはずだが、『スラン』1冊のために鎌倉まで帰るというのも面倒だし電車代もかかる。
 『スラン』1冊くらいなら買ってしまうか、と今日の仕事帰りに池袋の大型書店に寄ってハヤカワの棚を探したのだが……ない。2軒の書店を回ったが、どちらにも見当たらない。もしや、と解説目録をめくってみると、なんと目録落ち。これほどの名作が手に入らないのか!
 仕方ない。こうなったら古本屋を当たるしかないか。ちょうど中野に行く用事があったので、ついでに新大久保で降りて新宿古書センターへ。ここは3階建ての巨大古本屋で、ハヤカワ文庫の品揃えもかなりのもの。ここならあるはず、と文庫コーナーに向かったのだが……ない。
 もちろん早稲田あたりの古本屋を一軒一軒当たれば見つかるのだろうが、そんなことをしているヒマはない。締め切りは来週に迫っているのだ。
 結局、メーリングリストで助けを求め、借りられることになったのだが、『スラン』を入手するだけのことに、こんなに苦労するとは思わなかった。

 中野では、「黄色い救急車」の元ネタか、という指摘があった『危いことなら銭になる』をついにこの目で観てきたのだけど、感想は明日。
7月5日(水)

 ケーブル・テレビで「スタートレック・ヴォイジャー」を見る。
 ヴォイジャー、ついに地球に帰還! ただし、1996年の。29世紀から来たタイム・パトロールに追われたヴォイジャーが、20世紀の地球に戻ってビル・ゲイツと戦う(半分嘘)、という前後編。
 しかし、ついにスタートレック世界にタイム・パトロールが出現しましたか。そんなのがいるんだったら、以前のシリーズや映画であんなことやこんなことをしたときになぜ出現しなかったんだろ。
 このタイム・パトロール、最後には23世紀に帰してくれるのだが、「あの……もとの場所に戻すんじゃなくて、場所は地球のままで時間だけ戻してもらえませんか」という艦長の当然の要望に対し、「気の毒だが、時間法に反する。自力で帰ってくれ」
 ま、タイム・パラドックスを回避するにはそれしかないんだろうけど、そりゃないよなあ。

 コンビニなどに百円で売っている、れん乳入りのかき氷が好きである。
 しかしこれ、どの商品もたいがい「れん乳」という表記なのはなぜなのか。なぜひらがななのだろう。「練乳」と書けばいいのになあ。
 と思って辞書を引いてみると、「練乳」は新しい表記で、正しくは「煉乳」だそうな。「煉乳」の煉は煉瓦の煉。煉炭の煉。煉獄の煉。あんまりかき氷向きの字ではないね。確かにこれはひらがなで書きたくなるかも。

 このところずっと気になっていた『モンティ・パイソン・コレクターズBOX』をついに買ってしまう。これでスパムが、スペイン宗教裁判が、自転車修理マンが、魚のダンスが、死んだオウムが、いつでも見られるぞ。

 ついにかかえている締め切りが4つに。しかも今月後半には旅行の予定が。うああ。
7月4日(火)

 夕方から突然ものすごい雷雨。
 午前中は雨など降ってなかったので、当然傘なんて持ってきていない。
 テレビでは、電車が止まっているとか道路が冠水したとか、なんとも穏やかではないニュースが流れている。
 7時近くまで待ってもいっこうに雨が止まないので、同僚の先生たちは業を煮やしてずぶぬれ覚悟で帰って行く。ご苦労なことである。
 でも、私はぜんぜん平気。
 だって、今日は当直。
 今日は帰らなくていいんだもん。
 ふだんは疎ましい当直だけど、こんな日はちょっとハッピー。
 それに、こんな雷雨の夜なら時間外に来る患者さんも少ないだろうし(結局、予想を裏切って夜中に一人訪れたのだけれど)。
 私ってイヤなヤツですか。

 「着てはもらえぬセーターを寒さこらえてアルベマス」(意味なし)というわけで、アルベマスもちょっとだけ出てくるフィリップ・K・ディック『シビュラの目』(ハヤカワ文庫SF)読了。前に出た『マイノリティ・レポート』は落ち穂広い短篇集ながらなかなかおもしろかったが、さすがに質のよい作品はもう残り少ないのか、こちらはディック最良の短篇に比べればかなり劣る作品ばかり。中篇「宇宙の死者」は死者の声が宇宙の彼方から聞こえてくる、という強烈なオープニングから、いかにもディックらしいサスペンスあふれる展開になるのだが、急速に失速してしまう結末が残念。もっとも長い「カンタータ一四〇番」も次々と繰り出されるガジェットの山は楽しいのだが、あまりにもごちゃごちゃしすぎていてテーマがぼやけてしまっている。
 まあ、政治的テーマを扱った作品が多いところなど、ディックの知られざる側面を知ることができる作品集ではあるのだが、破綻しているところが魅力、と言いきれるほどディックへの愛が深くない人間にとっては、そんなに楽しめる本ではない。
7月3日(月)

 週刊新潮の7月6日号に「バスジャック少年帰宅、正当なら精神科医役立たず」という記事が載ってまして、記事の中には「17歳のバスジャック犯の野に放った」なる言葉まで出てくる。出ると思った「野放し論」。これって、35年前から何度となく繰り返されているパターンそのものではないか。
 そもそも、精神障害者による犯罪の問題が大きくマスコミに取り上げられるようになった最初の事件は、1964年に起きている。この年、ライシャワー駐日大使が19歳の精神分裂病患者に刺されるという事件が起きたのである。ことはアメリカとの外交問題である。このとき巻き起こった騒動ときたら、とうてい今回の比ではない。即座に国家公安委員長の首が飛び、マスコミも大騒ぎ。さらにまずいことに、ライシャワー氏は輸血が原因でC型肝炎に感染してしまい、輸血用血液の質の悪さが社会問題になる始末(当時は輸血用血液を売血でまかなっていたのだ)。ということは、ライシャワー氏は現在の献血制度の生みの親でもあるのだけど、これはまた別の話。
 さて、このとき盛んにマスコミに登場して「精神病患者の野放しを許すな」とぶちあげたのが大脳生理学者の林髞教授。マスコミ御用学者の元祖みたいなものですね。今回でいえば町澤静夫みたいなポジションかも。この林髞教授が推理作家木々高太郎だったり「頭脳パン」の生みの親だったりすることはここに書いたとおり。
 で、精神障害者を取り締まって病院に収容してしまえ、という論調が高まって、翌年には精神衛生法が改正されたりするのだけど、これも長くは続かないのですね。看護人の暴力で患者が死んでしまったり、という精神病院内の悲惨な現実が報道されるようになると、だんだんと野放し論は影を潜めてきて、今度は「障害者を解放しよう」という運動が力を持ってくることになる。そんなわけで1970年ごろからは精神病院の開放化が進められることになったのだが、ここにも書いたとおり、1972年の学会で旧来の「精神病質(サイコパス)」という病名は必要、と主張して左翼系開放主義の医師たちから厳しい非難を浴びているのが、今の小田晋先生なのですね(当時、反社会的な人物が「精神病質」という病名で入院させられ、ロボトミーだのなんだのとひどい目に遭わされたという例がいくつもあったのである)。
 その後は事件が起きるたびにどちらかに振れるものの、まあだいたいのところは開放化の流れで今に至っている。
 で、今回の事件で、少年を帰宅させた病院や学会を非難する形で論陣を張っているのが町澤静夫先生と小田晋先生。こうして見てくると、なんか30年前からあんまり進歩してないような気が。小田先生にとっては30年前の雪辱戦なんでしょうかね。
7月2日()

 SFマガジン8月号の「唐沢俊一の妄想通」に、明治時代のベストセラー『男女交合得失問答』という本に載っている「少女と成女を識別するの奇法」なるものが紹介されている。これがなかなか意表を突く方法なのだが、唐沢氏も「有名だったのか」と驚いているくらいなのでたぶん聞いたことがなかったのだろうし、私ももちろん初耳。
 おもしろいので、妻に話してみた。
「明治時代の処女と非処女の鑑別法ってのがあってね、鼻の頭を押して……」
「真ん中にくぼみができれば処女じゃないっていうんでしょ」
「……なぜそれを」
「常識でしょ、常識」
 妻は別に私より先にSFマガジンを読んだというわけではなく、この方法のことは以前から知っていたとか。
 妻の底知れぬ知識に慄然とする私である。
 明治生まれですか、あなたは。
7月1日(土)

 『ミッション・インポッシブル2(M:I-2)』の先行オールナイトを観に行く。監督がジョン・ウーってことでかなり期待は大きかったのだが、これは残念ながら期待外れ。
 ジョン・ウーはいったいどうしてしまったのだろう。男と男の意地のぶつかりあい、熱くたぎる男の血といった、いつものジョン・ウーらしさがこの映画には全然ないのだ。敵役は小粒だし人物像の掘り下げが足りないから、クライマックスでトム・クルーズと一騎討ちになってもまったく緊迫感が感じられない。トム・クルーズの2人の部下にしても、キャラが全然立っておらずあまりにもおざなりな扱いである。結局、少しでもキャラクターが描きこまれているのはトムとヒロインのみ。あとはみんな背景。こんな状況では葛藤など生まれようがない。
 もちろんそこはジョン・ウーだけあって、お約束の二丁拳銃は出てくるし、「なぜこんなところに鳩が?」というところで鳩が飛んだりするのだが、それもカッコよくて効果的というよりはむしろセルフ・パロディみたいで笑えてしまう。
 アクションは確かに迫力があるが、心理的な葛藤がまったくない場面でばかり使われているので効果半減。結局のところ、ひたすら最初から最後までトム・クルーズが暴れまわるだけの、トム・クルーズ鑑賞映画になってしまっている。大丈夫か、トム。ケヴィン・コスナーにはなるなよ。
 そうそう、某大物俳優がノー・クレジットで出ていたのには驚きました(★★★)。
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