▼相田翔子が出ているエーザイのザーネクリームのCMがあるのだけれど、これを見るたびに私はなんとも釈然としない思いにとらわれる(CMの動画は
ここで見られます)。
相田翔子が、夫とおぼしき男性のネクタイを直し、にこにこしながら手をつないで歩いていく、という、いかにも幸せいっぱいの若夫婦、というイメージの映像なのだけれど、バックに流れているのが、「あなたが私にくれたもの〜」という、ジッタリン・ジンの「プレゼント」の1フレーズなのだ。CMでは、「あなたが私にくれたもの〜」を2回繰り返し、「元気出して行きましょう。エーザイ」というナレーションで終わるのだけど、この曲を知っている人なら、CMが終わったあと、どうしても歌詞の続きを口ずさまずにはいられないだろう。
大好きだったけど〜 彼女がいた〜なんて〜
幸せいっぱいに見える夫婦だが、家庭崩壊の危機は迫っているのである。
BYE BYE MY SWEET DARLIN
さよならしてあげるわ
▼案外知らない人が多いことなのだけれども、精神科には、通院医療費公費負担制度(通称・32条)というシステムがあります。これは精神科に継続的に通院している精神障害者の通院医療費の95%を公費で負担しますよ、という制度で、つまり患者さん本人が負担するのは医療費の5%だけですむ。おまけに、東京都の場合は自己負担部分に助成を行っているので、自己負担はゼロ。東京都で精神科に通院する場合、お金を払わなくても医療が受けられる、ということになっているのですね(訂正・2000年9月から、東京都では自己負担分5%になりました。石原め。ただし、老人医療受給者を除いた国保に入っている人、生活保護を受けている人、住民税が非課税の人は従来通り無料)。精神保健福祉法の第32条に規定された制度なので、通称「32条」と呼ばれてます。
対象となる疾患は、法律によれば「精神分裂病、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者」となっているのだけれど、まあ、精神分裂病、うつ病、神経症、人格障害などなど、精神科で扱う病気なら全部この制度を利用できると思っていいです。
国や都道府県はこの制度を積極的に宣伝したりはしていないし(ま、宣伝すればそれだけ医療費がかさむわけだしね)、制度の利用はあくまで本人または家族の申請によるので、知らないまま通院している人も多いんじゃないかと思います。利用したい、という人は病院に聞いてみましょう(長いこと通院してるのにこの制度のことを教えてくれない精神科医はダメ医者だと思いますね)。中には「精神障害者」の烙印を押されるみたいでいやだとか、公費負担を受けていることが勤務先にバレたら困るとかいって、知っていてもこの制度の適用を拒否する患者さんもいますが、別に勤務先に情報が漏れる心配はないのでご安心を。
ただし、このところの不況の影響がこの制度にも及んできてまして、これまでは精神科の医師が出した薬であれば、風邪薬だろうがシップだろうが32条が適用されて公費負担になってたんですが、今年の10月1日から突然運用規定が変わって、「精神障害とは関連の乏しい疾患については適用されない」ということになってしまいました。まあ、考えてみれば風邪薬まで公費負担になるのは変なので無理もないとは思うのですが、当の患者さんにとっては、今まではただだったものが、突然、お金を払わなきゃならなくなってしまったわけです。経済的に余裕のない人の多い精神科の患者さんにとっては大打撃ですよ。こういう重要な規定をなぜ通知一枚で突然変更するかな。
ただ、精神科薬の副作用としての低血圧や便秘とか、精神病に合併しやすい糖尿病や高脂血症(統合失調症の患者はひきこもりがちになり肥満することが多いのですね)の薬については、精神障害と関連があるとみなされて、今まで通り公費負担の範疇になるようですが。
実を言うと、この32条の適用範囲縮小、あるいは廃止の噂は、このところ常に囁かれています。そんなことをしようものなら、ただでさえ経済的に厳しい人の多い精神科の患者さんは、誰も病院に通わなくなってしまい、症状を悪化させて強制入院、医療費はさらにかさむ……というまったくの逆効果になりかねないので、噂は噂にすぎないと信じたいのですが……。どうやら現在は、弱い立場の人間にさらに厳しい時代になってきているようです。
▼ここ数日の私の意見に対して、さらにいくつかのご意見がよせられました。
まず、拉致被害者とその家族の生の声なんていうのは、マスコミを通じてしか聞くことができないのだから、家族については判断しようがない、という意見。私もそれは正論だと思いますが、いささか極端にすぎるように思えます。結局のところ、私たちは直接見聞きしたこと以外、社会の情報のすべてをマスコミを通して知るしかないわけで、そうすると私たちには社会の出来事を批判することはできず、できるのはマスコミ批判だけ、ということになってしまいませんか。マスコミによる偏向がある可能性を承知した上で、あえて社会について語る蛮勇も必要なんじゃないでしょうか。
さらに、「マスコミの感傷的報道も、それに対して感傷的に反発する意見も、「拉致被害者の立場になって」という金科玉条を掲げているだけで本質的には変わりない」という意見。私も「被害者の立場になる」というのはウソ臭いと思うので、これまで拉致被害者がいったい何を考え、何を感じているのかについては言及を避けてきました。外野の我々には拉致被害者の立場はわからない。勝手な共感は大間違いの可能性がある。これは肝に銘じておくべきでしょう。彼らが北朝鮮でどんな生活を送ってきたのか。北朝鮮の思想に染まっているのかそうでないのか。今本当は何を感じているのか。これらはすべて現時点では我々にはわかりようがないことです(
このへんの記事をみるかぎり、ただ政府や家族の方針に従うばかりではなく自らの意見を言えるようになってきているようですが)。だから、私に想像できる範囲の、家族やマスコミなど周囲のことだけを語ってきたつもりです(お前に本当に家族の気持ちが想像できるか、と問われればこれまた心もとないのですが)。
政府の無策に抗して20数年間声を上げつづけてきた家族の努力は、私にはとても真似できないと思います(私はもっと利己的な人間なので)。また、家族の行動が政府を動かし、ついに北朝鮮に拉致を認めさせることにつながったこと。そのことには疑いを差し挟むつもりはありません。20数年の努力は認めた上で、ここ数週間の家族と当人の関係、家族とマスコミの関係がちょっとおかしくなっているのでは、と言いたかったのです。川の流れの片隅で長い間流れに抗して来た人々が、流れが変わって思いがけず流れの真ん中に来たら、逆に流されてしまっていたんじゃないか、ということ。それについて語ったまでのことです。しかし、確かに20数年の流れを無視して、それだけを語ったのはいささか近視眼的にすぎたかもしれません。
また、多くの方が、半人前扱いが解消されるには時間が必要だと指摘していますが、私もそれに賛成します。私は今現在の報道から感じた「おかしさ」について指摘したわけですが、それも結局は時間が解決する問題で、別にあえて「おかしいぞ」と声を挙げるまでもない問題だったのかもしれません。熱しやすく冷めやすいのが世論の常なので。例えば去年話題になったハンセン病の元患者たちについて今なお関心を持っている人がどれだけいるでしょう。
私は北朝鮮についてはほとんど何も知らないも同然だし、拉致問題についても掘り下げの甘さがあることは承知してます。むしろ、だからこそ現在の報道にみられるおかしさについて自分の意見を述べてみた、というほうが正確ですね。私には、帰国した拉致被害者への反応が、社会の中に入り込んできた異物に対する日本の典型的な反応に思えたので。すなわち「何をするかわからない危険な存在」もしくは「一人前でないので保護しなきゃいけない存在」。たぶん、温泉に行ったとかキャッチボールをしたとか、益体もない報道ばかりが繰り返されるのは、彼らは異物ではないですよー、仲間なんですよー、ということを視聴者に示すためもあるんでしょう。
私は、別に一貫した論陣を張ることに興味はありませんし、自分の意見に対する執着もありません(おそらく、今日の記述もこれまでの記述と比べてみれば矛盾点が見つかると思います)。寄せられた反論が自分の意見より優れていると思えば、そっちを採用します。まあ、つまりは定見がないということなのですが、でも、そうじゃなきゃ何のためにウェブに意見を発表しているのかわからないですしね。
今後とも、礼節を守った反論なら歓迎しますので、よろしくお願いします(失礼な口調や人格攻撃はごめんこうむりたいところですが)。意見を寄せてくださったすべての方々に感謝します。
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手塚ワールド建設断念。ちょうど瀬名秀明『あしたのロボット』を読み終えたところなので、なんともせつないものがあります(この作品の最終章は、手塚ワールドが舞台になっているのです)。
▼『開運!だれでも鑑定団』というのはどうか。スタジオに精神科医がずらりと並び、ゲストが連れてきた人を精神鑑定してくれる番組。まあ、最近のワイドショーでは何か事件が起こるたびに似たようなことをやっているが。
▼きのうの記述にはもっと反論が来るかと思っていたのだけれど、そうでもなくて意外というかほっとしたというか(この人は反発するだろうなー、と思った人が案の定日記で反発してたのには微苦笑を誘われましたが)。ただ、われながらきのうの記述はいささか混乱していたので(マスコミの問題と家族の問題がごっちゃになっているところとか)、もういちど、私が感じた拉致関係の報道のキモチワルサを箇条書きでまとめてみます。
1.あまりにも情に流された報道(帰国した拉致被害者が温泉に旅行に行ったからってそれが何だっていうんだ?)
2.当人たちが帰国しているのに、いまだに家族がスポークスマン役を務めていること(リンコさんがいうように、家族と当人の利害が一致しない場合だってあるはず)
3.当人たちの意向をよそに勝手に受け入れ態勢を進めていることへの違和感(「早稲田大学が拉致被害者の子どもたちの受け入れを検討」って、まだ彼らが日本に来るかどうかすらわからないし、両親が日本人だってことを告げてさえいないんだよ?)
それから、saitouさんが紹介してくださった
asahi.comのコラムには非常に共感するものがありました。なんだか、被害者たちのことを「自分で自分のことが決められない人たち」(日本に慣れていないからor洗脳されているから)としてコドモ扱いしているような気がするんですよね、家族もマスコミも日本国民も。
▼このところのテレビや新聞には、拉致被害者とその家族が出ずっぱり。毎日彼らの顔を見ない日はないくらいなのだけれど、あれを見るたびに私はなんともいわくいいがたい居心地の悪さを感じてしまうのですね。何か毒を吐きたいんだけど、被害者の救出、家族の努力という圧倒的な正義の前には何も言えなくなってしまう不快感といえばいいか。
たぶん、私の感じているのは、「家族」なるものの気持ちの悪さだと思うのですね。拉致被害者と救出に努力した家族、そして被害者と北朝鮮に残してきたその家族。この問題でキーワードになっているのはいつも「家族」なんだけれど、報道する側も当事者も、誰もが「家族の絆」に何の疑問を感じていないこと、家族を独立した個人の集まりではなくて、べったりとした連続体として扱って何の疑問も感じていないように見えるのが、どうも気持ち悪くてならないのです。
確かに、被害者の帰国が実現した背景に、家族の力があったことは疑いのない事実ですよ。家族の粘り強い努力には私も素直に頭が下がります。でも、今となっては逆にその努力が帰国した被害者を縛っている、という側面もあるんじゃないだろうか。お前たちを救出するために並々ならぬ努力をしてきたんだ、という家族の愛は、彼ら被害者たちにとってとてもありがたいと同時に、ものすごい重荷でもあるんじゃないだろうか。
さらには、地元の熱烈な歓迎ぶりや、日本国民全体の同情。そういった善意もまた、彼らをがんじがらめに縛っているように思える。人を縛るのは洗脳だけじゃない。善意だって人を縛るのだ。斎藤学や信田さよ子らがいうように、愛とは支配につながるのである。
もちろん当人たちにそのつもりはないだろうし、そんなことを言えば当人は怒るかもしれないけれど、救出のために努力を重ねてきたという事実によって家族は被害者たちを支配しているし、マスコミや「世論」なるものも、その善意と同情で彼らを支配しているわけだ(そして、彼らもまたその子どもたちを愛によって支配しようとするだろう)。
もちろんこの見方が偏っていることはわかっているのだけれど、被害者とその家族に対して、表立っては批判めいたことが何一ついえない現在の雰囲気も、どうかと思うのですよ。
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私家版・精神医学用語辞典に
行為障害を追加。ずっと前に書いたのだけれど、ついアップロードするのを忘れてたのだ。