▼いよいよ今週末はSF大会。私は、一足先に明日から山陰に出かけ、出雲あたりをぶらぶらしてきます。神社好きの妻がいろいろと案内してくれることでしょう。
ちなみに、SF大会後には特急で3時間半かけて山口に向かい、妻の実家に泊まる予定。というわけで、次回更新は早くとも来週の火曜日になります。それまでごきげんよろしう。
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日本医師会キッズクラブ。なんですかこの「にっちー」という趣味の悪いマスコットは。
医師会ってなに?のコーナーの、
「いろんな病気をなおしてくれるお医者さん。たより○なるね。」
「きみたちだけじゃない。お医者さんは家族みんなの健康を守ってくれるよ。か○こいいね。」
「みんなの命を守るために、お医者さんはいつも勉強してるんだよ。い○ばんのがんばりや。」
「きみたちが困ったときにはいつでも助けてくれるよ。だ○いすき。」
ってのも、あんまりといえばあんまり。誰が考えたんだ、こんな文章。
▼白鳥賢司
『模型夜想曲』(アーティストハウス)読了。巽孝之さんのゼミの教え子の作品らしい。
ううむ、これは何と感想を書けばいいのか、正直言って困惑。実は私のもっとも苦手とするタイプの作品かもしれない。SFでもファンタジーでもなく、まぎれもなく幻想文学。全編が、現実の論理とは異なった幻想の論理で貫かれた作品なのだけれど……それがいったいどういう論理なのか、今ひとつわからないのがもどかしい。
殺人事件の容疑者をプラネタリウムの中に追い詰めた刑事。しかし、衆人環視のプラネタリウムの中で容疑者は消失、同時に何トンもあろうかという巨大な投影機まで消えていた……と始まるこの物語は、しかし本格ミステリではないので、謎に合理的な解決がつくことはない。
なぜか探偵事務所にアタナシウス・キルヒャーの『シナ図説』があって、それを参考にしてギャル文字の暗号を解読する場面は、果たして笑うべきなのかどうか。そのほかにも、どうとらえていいのか判断に苦しむ場面が多くて、なんとも居心地の悪い気分にとらわれる作品である。
ただ、幻想的な雰囲気に満ちたこの作品の中で、分裂病のことを「統合失調症」と出来たてほやほやの用語で表記するのはふさわしくないように思います。ここでは分裂病という現実の病気が描かれているわけのではなく、分裂病の持つ幻想的イメージを利用しているのだから、「スキゾフレニア」あるいは(わざと間違った用語を使って)「分裂症」がいいと思うんだけれど。
▼東雅夫編
『芥川龍之介 妖怪文学館』(学研M文庫)、東野司
『展翅 繚乱――昭和七六年、春』(学研M文庫)購入。遊佐未森
『檸檬』、元ちとせ
『ハイヌミカゼ』、pal@pop
『空想X』購入。
▼ラムゼイ・キャンベル
『無名恐怖』(アーティストハウス)読了。ラムゼイ・キャンベルといえば『母親を喰った人形』のひとですね。モダンホラー界じゃけっこう人気作家なのだけれど、日本ではほとんど訳されていないという不遇の作家であります。
なんで訳されないのかなあ、と思っていたのだけれど、読んでわかりました。地味なのだ。9年前に死んだはずの娘を探す母親の話で、娘はどうやらカルト教団に囚われているらしい、という展開になるのだけれど、最後の最後までカルト教団はほとんど登場しないし、クーンツみたいな派手なアクションもない。一応スーパーナチュラルなホラーではあるのだけれど、幻想的な要素は極限まで控えめに描かれていて、物語の大半は、ひたすら娘を探す母親の、パラノイアックな探索行の描写が続くのですね。しかも背景は陰鬱なイギリス南部やスコットランドの風景とくる。
確かに抑制の効いた筆致は実にうまいし、この地味な展開があるからこそ最後のシーンが効いてくるのだけれど、やっぱりこれは一般受けはしそうにない。通のためのホラー、といったところかな。私はこの陰鬱さ、けっこう好きなんだけどね。
▼全然知らなかったのだけれど、どうやら今、時代はじゃんけんらしい。
海外では
国際じゃんけんプログラムコンテストが行われているし(なぜか日本チームは出ていない)、
世界じゃんけん協会のページもあります。
紋章と
ステッカーは、なかなかいい味出してます。そのサイトによれば、世界じゃんけん協会は1842年ロンドンで創立され、
THINK THREEなる雑誌を出したり
さまざまなポスターを作ったりしているとか。しかも、
歴史上の
さまざまな
場面でじゃんけんは活躍してきた……と、ここまで見て、ようやく冗談だと気づきましたよ。
ただ、じゃんけんのプログラムコンテストが行われているのは本当。
▼『スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』を観てきました。
物語的にも映像的にもなかなか盛りだくさんで楽しめる映画でした。旧三部作につながる伏線も山ほど出てくるし、少なくとも『エピソード1』よりははるかに面白い映画になってます。当然のように物語は全然終わってないのだけれど、それは予想通り。
ストーリーはというと、これは偉大なる凡庸。物語上の深みとか意外性はまったくないのだけれど、まあ『スター・ウォーズ』ってのは一種の神話なんでそれでいいのか。暗殺者を捕まえて黒幕の名前を吐かせようとしたとたん、どこからか毒矢が飛んできて暗殺者死亡、とか、恋人たちが抱き合って草原をごろごろ転がる、とかそういうベタなシーンはいまどきどうか、とも思うのだけれど、これもわざとクラシックで原型的な作りにしてるのかもしれない。
ただ、アナキンがダークサイドに落ちていく過程が描かれるはずなのに、冒頭から師匠に不満は言うわ、アミダラと再開した瞬間から興奮してるわと、最初からダークサイドに落ちているとしか思えないのはどうかと思うのだけどなあ。
ヨーダの動きに驚く人は多いだろうけれど、それ以上に私がびっくりしたのは、アミダラがジャージャーを代議員に選んだこと。いくらなんでも、あのジャージャーを自分の代理に選びますか普通。私なら選ばないね。
▼久しぶりに読んだ本の感想を。
まずは鯨統一郎
『文章魔界道』(祥伝社文庫)。この作者の作品は読むたびに脱力して、あーもう次はもう買うのやめよう、と思うのだけれど、新刊が出るとなぜか買ってしまっている罠。作者お得意の文豪ネタ+言葉遊び+ダジャレ小説なのだけれど、ギャグはすべりまくっていて、私にはどこがおもしろいのかさっぱりわかりません。いきなり同音異義語で勝負とかいわれてもなあ。
ただ、作中に登場する、作家名を織り込んだ回文は、よくもまあこれだけ作ったものだと感心します。
なかでも、
「予知能力より宇野千代」
「きさま実は辻真先」
「燃えろ火が好き菅浩江も」
なんかは秀逸(「行け、伊井圭」はあんまりだと思うが)。
なんと、
森下一仁回文もありまして、
「重い病問ひつ、肩、尻も痛い森下一仁、今やイモを」
だそうな。意味わからんよ。
▼続いて折原一
『樹海伝説』(祥伝社文庫)。マイクル・ビショップの同名作品とはまったく無関係。折原一といえば複雑な叙述トリックなのだけれど、さすがにこの長さでは不発。特に驚きもないままに終わってしまい、ごく平凡なミステリになってしまっているのが残念。
▼森下一仁
『魔術師大全』(双葉社)、乙一
『GOTH』(角川書店)、柾悟郎
『シャドウ・オーキッド』(コアマガジン)、西垣通
『1492年のマリア』(講談社)購入。
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きのうのから読んでね。
さらに、ボーダーライン系のサイトの記述を見ていて思うのは、彼らにとっての医師の存在の小ささである。
端的に言って、医師は彼らに信頼されていない。多くの人が精神科に通院していることを日記などに書いているものの、医師や診察についての記述はごくわずか。書かれていたとしても「医者は何もわかってくれない」「全然自分の気持ちに気づいていない」と諦めにも似た感情が短く叩きつけられているだけ。なんだか哀しくなってくるような事実だけれど、どうやら彼らと精神科医は、薬を介してつながっているにすぎないようだ。彼らが信頼しているのは、医師ではなく、むしろ薬なのである。
精神科医は通常、病院を訪れた患者のことしか知らない。あたりまえのことだが。
精神科医が境界例について書いた本を読むと、当然ながら、治療者を試すための自傷行為や感情の爆発といった、患者と精神科医という二者関係の中での彼らの振るまいについて多くのページが割かれているし、彼らと相対したときの精神科医の心の動き(境界例の治療では、彼らと向き合った精神科医自身が何を感じるか、ということが非常に重要なのである)についても詳しく書いてある。それはつまり、境界例患者を本気で治療しようとすれば、医師も患者も自分の感情を客観的に捉えなおす必要があるし、医師は患者の感情を引きうけ、振りまわされ、疲労困憊する覚悟が必要だ、ということである。これは、とても、しんどい。
しかし、それはあくまで医師と患者の間にそれなりの関係が成立している場合の話だ。
精神科医は当然(医者から見て)「治療関係」が成立したケースについて詳しく書きたがるが、おそらく実際はそうではないケースの方が多いのだろう。なんせ境界例は「安定した治療関係を保つのが非常に難しい」のだ。まあこれは医者の側から見た言いぐさであって、逆に患者からみれば「精神科医には絶望することが多い」ということになるのだろう。数としては、そもそも医者を信頼していないので精神科になど通おうと思わない人、1、2回通院しただけでやめてしまった人、医師は信頼していないが薬をもらうだけのために病院に通っている人などの方が多いに違いない。
実際、境界例の治療に長けた精神科医を探すのは難しいし、患者が自分と合う医者を見つけるのはもっと難しい。互いの感情の問題にまでは立ち入らず、患者はただ病院に通い、医者は対症的に薬を出すだけ、という関係を続ける方が、精神科医にも患者にも楽であることは確かだ。もちろんそれでは患者は何一つ変化せず、治療は進展しない。患者は空虚感を抱えたまま生きていくことになる。
しかし、境界例の患者というものは、だいたい中年期になれば安定するものらしいから(アメリカの追跡調査によれば、全体の2/3がほとんど臨床症状なしにそれなりに適応していたとか)、淡々と静かに患者が中年になるまで待つ、ということなのかもしれない。実に消極的な治療方針ではあるものの、まあそれもひとつの手である。治療的な介入によってむしろ状態が悪化する患者もいるのだから、いちがいにそれが悪いとはいえないのだ。
でも、じっと待つ、という治療方針ではたぶん医者は信頼されないだろう。彼らは今の生きにくさをなんとかしてほしいのだから。では、積極的な介入をすべきか、というと、それがうまくいくとは限らない。症状が増幅されたり関係が壊れてしまうこともある。それでもやはり、失敗覚悟で何らかの介入をしなきゃ、精神科医はどんどん信頼されなくなってしまうんじゃないかなあ、と医師のはしくれとしては思うのである。
今回は、
境界例とインターネットの続きである。
さて、あまたあるメンタル系のサイトを見ていると、どうみても境界例的心性の持ち主なのに、自分を境界例とは書いておらず、「うつ病」と自己規定しているサイトオーナーがけっこういることに気づく。これはなぜだろう。
もちろん、自分が「境界例」にあてはまることを知らない人もいるだろうけれど、そうじゃなく、故意に「境界例」と書くのを避けているんじゃないか、と思われる例もあったりする。たとえば、自らもリストカットの経験があるロブ@大月というライターが『リストカット・シンドローム』(ワニブックス)という本を書いているが、この本に紹介されている人たちは私から見ると境界例以外の何者でもないにも関わらず、この本には「境界例」という文字は一ヶ所も出てこない。実は、当事者の間では「境界例」という診断は、いたって評判が悪いのである。
また、「境界例」の診断は、精神科医が患者を差別するための用語である、と言いきっている人もいる。医師から医師への紹介状に「BPD(境界性人格障害)」と診断が書いてあった場合、それは、医者が自分の未熟さゆえに治療がうまくいかなかったことを隠そうとし、患者の側に問題があるのだという先入観を植えつけようとしているのだ、などと厳しい主張をする人さえいる。
では、「境界例」の診断が精神科医に人気があるかといえば、まったくそんなことはないのですね。いわゆる「境界例」の患者を担当する医者はさんざん振りまわされて精神的に消耗することになるので、できれば「境界例」の患者は診たくない、と思っている精神科医はいくらでもいるだろう。中には「境界例」なんていう診断名はなくした方がいい、そんな診断をつけて患者を「病人」に仕立て上げるのは患者を甘やかすだけであり、百害あって一利なしだ、という医者もいる。
ということで、「境界例」というのは、患者側にも医師側にも不人気、という不幸な診断名なのである。しかし、ここが不思議なところなのだが、医者と患者の双方ともが「境界例」という診断に違和感を持っているにも関わらず、医者も患者も「境界例」という診断名にとらわれ、治療関係の中で、治療者を試すための自傷行為だの感情の爆発だのという「境界例」的な特徴を増幅してしまっているのですね。一種、精神科医と患者の間で共犯関係が成立してしまっているのである。
たとえば、関東医療少年院の奥村雄介は次のように述べている。
いわゆる境界例については興味深い体験があります。私は矯正施設で患者さんを診ていますが、そこには外部の病院でボーダーラインという診断のついた人がわりとたくさんいます。ところが、彼らは矯正施設の中ではボーダーライン病像を呈さないんです。私の体験からいえることは、人為法則が物理法則と同じくらい強固に守られているところでは、ボーダーラインというのは機能しないというか、顕在化しないのではないかということです。そういった意味では、ボーダーラインの多くは医原性ということができるでしょう。
つまり、絶対的な規律に支配されている医療少年院の中では、手首を切ったり拒食をしたりする人はあんまりいない、と。それが本当なら、境界例の人は精神科医にかかるより軍隊に入った方がいいのかもしれないし、戸塚ヨットスクールに一定の効果があったのもそういう理由によるのかもしれない。
ただ、境界例が医原性である、という指摘は確かに一理あるものの、正確ではないと思うのですね。ボーダーライン系のページ制作者の中には、精神科にかかっていない人もいるにも関わらず、その性格や生きづらさの原因は、以前紹介したような境界例の特徴にあてはまる。「境界例」というのは人間関係に問題を抱えている人のことなのだから、精神科医が存在しないところでも、人間関係さえあれば成り立つわけである。だから、「境界例」が医原性であるとか、医者の側の勝手なレッテル貼りだ、という批判はあたらないように思えるのだ。もちろん医者が患者の「境界例」性を増幅する、ということは充分ありうると思うけど。
▼高山宏
『高山宏椀飯振舞I エクスタシー』(松柏社)購入。高いし分厚い。高山宏の文章は嫌いではないのだけれども、妙に大仰で嫌味な文体がやや鼻につくところはありますね。読む人をはっきり選ぶ文章といっていいかも。どこか巽孝之文体と似たところがあるかもしれない。
しかし、このあとがきの冗舌な自讃ぶりはどうしたことか。『アリス狩り』とか出してた頃は、もっとクールな人だと思ってたんだけどなあ。栗本薫のグイン・サーガと同じく、あとがきだけでも読む価値あり。
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アルバムに60秒の静寂を収録した作曲家が、ジョン・ケージの代理人から「著作権を侵害している」という手紙を受け取ったとか。もちろん、ケージの代表作「4分33秒」のことね。マイク・バットというこの作曲家は母親に「あんたがパクったっていうのは、静寂のどの部分なんだい」といわれたとか。でもこの作曲家、アルバムのクレジットには冗談で「ケージ/バット」と書いていたらしいし、おまけに「私の静寂はオリジナルの静寂だよ。ケージの静寂からの引用なんかじゃない」なんて言ってるのはどうかと思います。オリジナルの静寂といわれてもなあ。
▼斎藤環さんから
『「ひきこもり」救出マニュアル』(PHP研究所)をいただきました。どうもありがとうございます。あと、梅村崇
『輪舞曲都市』(EXノベルス)を購入。
▼薬の名前というのは、どういうわけだか「ン」か「ル」で終わるものが多い。ベゲタミンとかプレドニンとかニューレプチルとかね(「ン」で終わる場合は、その前の音は「イの段」の音であることが多いようです)。中でも多いのが「○○○ール」というパターンで、私の専門の精神科分野の薬だけでも、リスパダール、デプロメール、ミラドール、バルネチール、テグレトール、セディールなどなど、枚挙に暇がないくらい。
だいたい、「○○○ール」とか「○○○ミン」とかいう名前を持ち出せば、なんとなく薬っぽくなってしまうものである。「カザノール」とか「カザノミン」とか、何か効きそうじゃないですか(何にだ)。
そのほか、ケルナック、ケナログ、オーラップなど「ウの段」の音で終わる薬(いや、クラリシッド、クラビットなども含めて、子音で終わる、と言ったほうがいいかな)も含めれば、大部分の薬のネーミングはカバーできてしまう。
ただし、最近じゃちょっと変わった名前の薬も出てきていて、たとえば有名な「バイアグラ」、それから、新しい統合失調症治療薬「ジプレキサ」など、a音で終わるものも少数ながらあるし、高血圧治療薬「アーチスト」(綴りはそのまんまArtist)ってのも、なんとも理解に苦しむ名前である。なぜ高血圧にアーチスト(まあ、パターンとしては「子音で終わる」という例に当てはまるのだけれど)。
というように、いろいろな名前の薬が出てきている昨今のこと、たいがいの名前には驚かないつもりでいたのだけれど、さすがの私も度肝を抜かれたのが、このネーミング。
「ガチフロ」
薬の名前が「ガチフロ」である。なんだか意味はよくわからないがものすごく効きそうである。どんな効果なのかはさっぱりわからないのだが。まあ、一般名「ガチフロキサシン」からとった名前らしいのだけれど、普通そういう略し方はしないだろう。並たいていの人間が思いつくネーミングではない。
このガチフロ、広範囲の菌に効果のある抗生物質で、海外ではかなり売れている薬らしい(ちなみに、海外では「テクイン」という何の変哲もない販売名である)。製造・発売元は社運を賭けてこの薬を日本に投入したらしいのだけれど、確かにこのネーミングからも製薬会社の力の入り具合がわかるというものである。