境界例とインターネット Borderline Case and Internet

1.うつ系サイトについてちょっと考えてみる

 えー、今回はちょっと微妙な話。というか、当事者が見ているかもしれないところで書くのはどうも気が引けるし、まったく見当外れなことを書いてしまうリスクもあるので書いていいものかどうか迷ったのだけれど、一応私なりの理解、ということで書いてみます。
 なんだかまどろっこしい書き方になってしまったのだけれど、何の話かというと、ネット上にあまた存在する「精神系」とか「鬱系」とかいわれるサイトのことである。彼ら(明らかに女性が多いので、「彼女ら」としてもいいか)は一様に抗うつ薬や睡眠薬など薬の名前に詳しく、毎日の虚しさや、自傷行為や大量服薬を繰り返す日々について詳しく記した日記を書いている。中には、ショッキングなリストカットの写真を載せている人もいたりする。
 なぜ、こうしたサイトがこんなに多く存在するのだろう、というのが私が感じた疑問である。なぜ、彼らはサイトを作るのだろう。そして、ときには鋭敏な感受性を示す文章をしたためながら、なぜその一方で、多くの人が嫌悪感を抱くであろうリストカット写真を載せたりできるのだろうか。さらに、なぜあれほど薬の名や細かい作用に関心を持ちながら、自らの病理についてはあまり関心を持っていないように見えるのだろうか。私には、それがとても不思議に思えるのである。それは彼らのかかえる病の性質となんらかの関係があるのだろうか。
 もちろん「精神系」でありながらこうした類型にあてはまらないサイトも数多く存在することは重々承知している。病気や薬についての情報を発信しているサイトもあれば、自助グループみたいな交流の場として利用されているサイトもある。ただ、前のような特徴を持つサイトがどうも目につくのは確かなのである。
 こういうサイトを鬱陶しいと思う人もいるだろうし、嫌悪感を持つ人もいるだろう。正直言って、私も精神系サイトのよい読者ではない。死と戯れているかのような彼らの文章はあまり読みたいとは思わないし、リストカットの写真に至ってはあまりに悪趣味だと思う。しかし、そうしたサイトが数多く存在し、そして互いにコミュニケーションが行われているということは、そうしたサイトを切実に必要としている人もいる、ということなのだろう。
 てなわけで、こうしたサイトについてちょっと考察してみようかな……と思うのだけど、こういう非共感的で分析的(「精神分析的」という意味ではない)なアプローチは、当事者たる彼らの最も嫌うところかもしれない。気に障ったらすまないなあ、とも思うのだが、彼らの感性と共通点のほとんどない私にとっては、彼らを理解するにはこういう方法しかないのだ。

2.境界例とは何か

 まず、こうしたサイトは「鬱系」などと呼ばれているし、サイトのオーナーも自分を「鬱」だと規定している人が多いようなのだが、一見したところ、彼らは「うつ病」ではないようだ(精神科では一般に「鬱」の漢字は使わずひらがなで表記する)。抑うつ症状に苦しんでいることは確かなのだが、いわゆる古典的な「うつ病」のカテゴリーにはあてはまらないのである。
 古典的なうつ病というのは、勤勉で几帳面な仕事人間型の人がなりやすい、と言われていて、そういう人はサイトを作ったり、ましてや自分の抑うつ気分について毎日書き綴ったりはしないものである。もちろん安易に診断をつけることはできないけれど、「鬱系」サイトのオーナーたちの性格は、「うつ病」のそれよりも、むしろ「境界例」(ボーダーライン)に近いものが多いようだ。
 境界例ってのが何なのか、という話になると長くなるのだけど、『精神医学ハンドブック』(創元社)の小此木啓吾の記述をもとに、特徴をいくつか簡単に紹介してみよう。
 まずは、慢性的な空虚感。そして感情の不安定さ。ふだんは空虚感に悩まされているものの、何かささいなことをきっかけに、2、3時間にわたる強烈な怒り、パニック、絶望などを感じることがある。
 それから、見捨てられることを避けようとする異常なほどの努力。一人でいることに耐えられなかったり、他の人に一緒にいてもらいたいという欲求が非常に強く、ときには自傷行為や自殺企図のような衝動行為になって現れることもある。
 不安定で激しい対人関係。自分の面倒を見てくれたり愛してくれそうな人を理想化して依存的にふるまうが、その人が自分の面倒を充分に見てくれないと感じると、即座に変化して相手をこきおろすようになる。その一方で、敏感に周囲の人の心の動きを察知し、一種独特の感受性の鋭さ、やさしさを見せることもある。
 自己像や自我感情の不安定さ。目標、価値観、志望する職業などについての考えや計画が突然変化する。目標が実現しそうになる瞬間に、それを台なしにしてしまうこともある(卒業直前に退学するとか、よい関係が続くことがわかったとたん関係を壊してしまうとか)。彼らは通常、自己像を悪いものとしてとらえており、ときには自分がまったく存在しないと感じていることもある。
 自分を傷つける衝動性。賭博、浪費、むちゃ食い、物質乱用や安全でない性行為、無謀な運転などである。自殺の試みやそぶりは非常に多く、繰り返される自殺企図は彼らが救いを求めるためのものであることが多い。リストカットや火傷、大量服薬などを繰り返すことも多いのだけれど、これは死にたいから、というよりは、人に一緒にいてもらいたいためだったり、自分が実感できないためだったりする。これはほとんど嗜癖に近いですね。自傷は、自分の感情が再認識されたり、自分が悪いという感覚から抜け出せたりしたときにおさまることが多い。
 ほかにもいろいろあるが、主な特徴はまあこんなところである。治療する立場から言えば、境界例の人は、安定した治療関係を保つのが非常に難しい人が多いですね。たとえば夜中に病院に電話をしてきて「これから自殺する」といって薬を大量に飲んだりするのがこのタイプの人である。そして少しでもこちらが邪険に扱うようなそぶりを見せると、とたんに自殺を図ったり、極端な攻撃性に転じたりする。私もこれまでこういう人を何人か治療してきたが、いまだにうまく治療できたという実感が持てないでいる。
 ともあれ、インターネットに「鬱系」サイトを開いている人というのは、どうもこういった境界例的心性の持ち主が多く、境界例の理論を使えばその心性が理解しやすいように思えるのである。まあ、これは別に目新しい話でもなんでもなくって、自らの診断を「境界例」「ボーダーライン」と記しているサイトはたくさんあるのだけど。

3.境界例のスキーマ

 さて、認知療法的な観点から見ると、境界例の人の対人関係の困難さ、いわゆる「生きづらさ」の原因として、いくつかの「信念」(スキーマ)があるという。
 プレッツァーによれば、境界例の中心的な信念として、次の3つがあるという。
「この世界は危険で悪意に満ちている」
「私は無力で傷つきやすい」
「私は生まれつき人に好かれない」
 この3つの非適応的な信念から、さまざまな感情や行動が生じるというのですね。
 たとえば、「世界は危険で悪意に満ちている」から他人に弱みを見せるわけにはいかず、常に緊張と不安を強いられるし、緊張すればするほど危険の兆候に気づきやすくなるため、「世界は危険で悪意に満ちている」という信念が強化されてしまう。さらに世界を警戒するあまり、人間関係には慎重になり、困難に直面しても問題の解決を避けようとするので、「私は無力で傷つきやすい」という信念も弱まることなく存続してしまう。おまけに、「生まれつき人に好かれない」から、人が本当の自分を知れば見捨てられると思ってしまうため、他人にうまく依存することもできない。
 3つじゃちょっと少なすぎる、という人のためにはヤングの早期不適応的スキーマってのを紹介しておこう。
1.私はずっとひとりぼっちだろう。誰も私のためにはいっしょにいてくれない。
2.私のことを本当によく知れば、誰も私を愛したり、私と親しくなりたいとは思わないだろう。
3.私は自分の力でやっていくことができない。私には誰か頼りになる人が必要だ。
4.私は自分の望みを他人の要求に従属させなければならない。そうしなければ、私は見捨てられたり攻撃されるだろう。
5.人は私を傷つけ、攻撃し、利用するだろう。私は自分を守らなければならない。
6.私には自分を抑制したり律することは不可能だ。
7.私は自分の感情を制御しなければならない。さもなければ、何かひどいことが起こってしまうだろう。
8.私は悪い人間だ。罰せられて当然だ。
9.私の要求に応え、私を守り、私の面倒を見てくれる人など、誰もいない。
 うーん、ちょっと重なりあう項目が多くて冗長かな。
 それから、上のスキーマにはないけれど、境界例に特徴的な認知の歪みとしては「二分法的思考」が有名。これは、ものごとを100か0かで判断してしまい、中間がない、というもの。
 たとえば、他人にしても完璧に信頼できるかまったく受け入れられないかどっちか。信頼できるかのように見えた人物が実はそうでもないことがわかると、たちまちまったく信用できない悪の権化ということになってしまい、突然敵対者に変貌した人物に対しての強烈な怒りが生まれる。客観的に見れば別にその人物は全然変化していないのだけれど、境界例の人にはそうは思えないのですね。自分自身についてもそうで、ちょっとした欠点や短所が取り返しのつかない全面的な欠陥のように思えてしまい、いきなり深い抑うつと不安に襲われる。なんにせよ、「ほどほど」「中間」といった評価を考えられないのである。
 ま、物事を単純に「善」と「悪」、「正しい」と「正しくない」に分けてしまいがちだというこの「二分法的思考」は、人間誰しもある程度は持っている欠点だし、最近特にそういう人が増えてきたようにも思うのだけど、境界例の人はそれが極端なのだ。
 「鬱系」のサイトを見ても彼らが何を考えているのかさっぱりわからない、という人は、こうした信念や認知の歪みを頭に入れた上で読めば、彼らの心理がある程度理解できるはずである。
 また、逆にいえば、境界例的心性を持つ人は、こういう信念を自分が持っていることを認識し、できるだけ修正していった方が生きやすくなる、というわけですね。もちろん小さい頃から育んできた信念はすぐには変えることはできないわけで、それには長い時間が必要なのだけれど。

4.インターネットとコムニタス

 さて、以上の前置きを経て、ようやく最初の疑問について考えることができる。なぜ、ネット上には境界例的心性を持った人たちが数多くサイトを開いているのか、ということについてである。
 この疑問に対しては、「コムニタス」という概念が役に立つように思える。
 「コムニタス」というのは、文化人類学者のヴィクター・ターナーが考えた概念で、通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。コムニタスとは、「身分序列、地位、財産さらには男女の性別や階級組織の次元、すなわち、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である」のだそうだ。
 通過儀礼を受ける人は、まず社会から分離され、コムニタス的な関係を経て、また社会へと戻って行く。で、ターナーは一般に社会というと社会構造と同一視されるが、社会には構造とコムニタスの両面が必要で、社会とは「構造とコムニタスという継起する段階をともなう弁証法的過程」である、と述べている。なんだかややこししいけど、ついてきてますか?
 さて、この「コムニタス」の概念と境界例を結びつけたのが河合隼雄である(「境界例とリミナリティ」という論文)。境界例のコムニタスへの希求はきわめて強い、と河合隼雄はいう。つまり、境界例の人は、親子関係であるとか偽善的な決まりごとであるとか、そういう社会の序列や構造が極端に苦手(あるいは嫌い)で、身分も地位もない生身の関係を強烈に求めている、というのですね。また、精神科医の鈴木茂も、境界例には「構造的なものに対する徹底的な脆弱さとコムニタス的関係様式への絶対的帰依」があると書いてます。
 ただし、「コムニタス」には社会的身分も役割もないので、「常に生身がさらされる、きわめて緊張をはらんだ、互いに傷つきやすい関係であり、長くそこにとどまることは苦痛である」。ターナーも、コムニタス状況は長期に渡って維持されることはない、と書いている。たとえばサークルや宗教団体など、当初はコムニタス的だった集団があったとしても、そこにはやがて「構造」が生じ、自由な関係はいつのまにか「社会的人格の間の規範=支配型の諸関係に変化してしまうのである」。
 しかし、それはあくまでリアルな人間関係での話。
 考えてみれば、ネット空間というのはまさにこの「コムニタス」なのではないだろうか。そして、リアルな人間関係では不可能であっても、ヴァーチャルな空間であれば、そこに長くとどまることだって可能なわけだ。つまり、インターネットはきわめて境界例と親和性が高く、彼らにとって非常に居心地のいい空間だということになる。そしてこれこそが、「ボーダー系」(今まで述べたとおり彼らはうつ病ではなく、境界例的心性の持ち主なのだから、「鬱系」ではなくこう呼ぶべきだろう)のサイトがネット上に数多く出現している理由に違いない。
 河合隼雄は、心理療法の場というのも一種の通過儀礼であり、「治す」とか「クライアントのために力をつくす」とかいう構造的なモデルに従うのではなく、彼らの求めるコムニタス状況を提供することが必要だ、と書いている。コムニタスが治療効果をもたらす、というわけだ。ただ、彼らの求めるコムニタス的な空間であるインターネットが、彼らにとって治療的な効果をもたらしているのかどうか、私には判断のしようがない。ネット世界で安定している例もあるように見えるが、自傷行為を繰り返している例もあるし、自殺に至った例もいくつか聞いたことがあるから、必ずしもネットが治療的とはいえないのかもしれない。
 あるいは、ネット上のみにとどまっていれば安定しているのだけれど、個人的なメールのやりとりやオフ会を重ねるなどしてリアルな対人関係を持つようになると、知らずとそこに「構造」が生じ、安定が崩れてしまうのかもしれない。
 少なくともただひとつだけ確かなのは、インターネットといえども決して純粋なコムニタスそのものではない、ということである。一見コムニタスのように見えても、人間社会の一部である以上、そこには必ず「構造」がしのびこんでいる。だとすれば、いかにネットに治療的な部分があったにしろ、ネット上も彼らにとっての安住の地にはなりえないのではないか、と思うのだが……。

5.なぜ自傷写真を公開するのか

 次に、「なぜ彼らは自傷の写真を公開するのか」という問題について考えてみよう。
 精神科医の成田善弘は、『青年期境界例』という本の中でこう書いている。
自殺企図、自傷行為が一見些細なことをきっかけに生じるのが境界例の特徴である。たとえば、外出先から家に電話をしたところ母親が不在であったとか、愛玩動物が死んだとか……こういう出来事が彼らにとっては自己と不可分の共生的対象の喪失を意味する。彼らの行動化には、自分を見捨て共生的関係から離れていこうとする対象を処罰しようとする欲求が含まれる。……この意味で、彼らの自殺企図や自傷行為は自己のなかの出来事のように見えて、実は対象との関係のなかの出来事である(強調引用者)
 ここに、彼らがなぜ自傷行為について記し、またその写真を載せるかのヒントがあるんじゃないかな。彼らの自傷行為は、自分の中の問題じゃなくて、他者との関係の中の出来事なのだ。
 重症うつ病や分裂病など、自殺が起こりやすい精神科の病気はいくつもあるけれど、彼らの自殺や自傷は、だいたい自分の中にある理由によるものである。しかし、境界例の自傷や自殺はそれとは違い、彼らのコミュニケーションの一つの形であり、メッセージなのだ。だとすれば、彼らがウェブ日記にリストカットの話を書き、リストカット写真を公開するのも、何らかのメッセージであると考えられる。
 境界例の人ってのは、「私のことを本当によく知れば、誰も私を愛したり、私と親しくなりたいとは思わないだろう」という信念を持っている。だから、ナマの自分をさらすのは、彼らにとっては非常に難しいことなのだけれど、ウェブでは事情が違ってくる。「コムニタス」という用語と、インターネットが一種の「コムニタス」と考えられることについては、前の項で書きましたね。インターネットというのは、肩書きも素性も知られることがなく、安心してナマの自分をさらすことができる空間なのである。彼らにとってインターネットとは、現実世界で常に感じている「見捨てられる不安」に怯えなくてもいい空間なのかもしれない。
 ホームページや掲示板では、参加者はもともときわめてゆるいつながりしかなく、誰もが名前のない他者にすぎない。だからこそ、そこでは「本当の自分」をさらけ出しても、見捨てられる心配はない(一対一のメールだと、いきなりさらけ出したら返事が来なくなる心配があるが)。だから、彼らは日記や写真で「本当の自分」を公開するのだろう(もちろん、それが本当に「本当の自分」なのかどうか、そもそも「本当の自分」なんてものがあるのかどうかはまた別の問題である)。
 しかし、境界例的心性の特質として、彼らは自分が見捨てられないことを確かめずにはいられない。
 彼らのページを見ていると、リストカット写真のある手前のページに「血が嫌いな方、自傷に偏見のある方は見ないで下さい」などと書いてあることがある。そんなに他者に配慮することができるのならそもそも公開しなきゃいいのに、と思うのだが、彼らは自分が見捨てられないことを、とことんまで確かめずにはいられないのだろう。こんなに「悪い自分」をインターネットが受け止めてくれることを確かめるために、次々と過激なリストカットの写真をアップする。彼らは自傷行為で母や恋人を試すように、リストカット写真を公開することによって、インターネットという共同体自体を試しているのかもしれない。
 だとすると、彼らのメッセージとは、当然「自分を見捨てないでほしい」「自分をかまってほしい」というものだろう。
 前の項では、ネットが治療的な効果をもたらしている可能性について書いたし、自分をさらけ出しても見捨てられない、という体験をすることは確かに彼らにとって有用だとは思う。でも、ネットは見捨てないかわりに、かまったり抱きしめたりもしてくれない。
 彼らはネットで「自分が受け入れられた」という感覚を持てているのだろうか。その答えは人によってまちまちだろうが、リストカット写真を公開しているような人の場合、逆にネットの存在が彼らの行為に拍車をかけている可能性も、決して否定できないと思うのである。

6.「境界例」という病名はなぜきらわれるのか

 あまたあるメンタル系のサイトを見ていると、どうみても境界例的心性の持ち主なのに、自分を境界例とは書いておらず、「うつ病」と自己規定しているサイトオーナーがけっこういることに気づく。これはなぜだろう。
 もちろん、自分が「境界例」にあてはまることを知らない人もいるだろうけれど、そうじゃなく、故意に「境界例」と書くのを避けているんじゃないか、と思われる例もあったりする。たとえば、自らもリストカットの経験があるロブ@大月というライターが『リストカット・シンドローム』(ワニブックス)という本を書いているが、この本に紹介されている人たちは私から見ると境界例以外の何者でもないにも関わらず、この本には「境界例」という文字は一ヶ所も出てこない。実は、当事者の間では「境界例」という診断は、いたって評判が悪いのである。
 また、「境界例」の診断は、精神科医が患者を差別するための用語である、と言いきっている人もいる。医師から医師への紹介状に「BPD(境界性人格障害)」と診断が書いてあった場合、それは、医者が自分の未熟さゆえに治療がうまくいかなかったことを隠そうとし、患者の側に問題があるのだという先入観を植えつけようとしているのだ、などと厳しい主張をする人さえいる。
 では、「境界例」の診断が精神科医に人気があるかといえば、まったくそんなことはないのですね。いわゆる「境界例」の患者を担当する医者はさんざん振りまわされて精神的に消耗することになるので、できれば「境界例」の患者は診たくない、と思っている精神科医はいくらでもいるだろう。中には「境界例」なんていう診断名はなくした方がいい、そんな診断をつけて患者を「病人」に仕立て上げるのは患者を甘やかすだけであり、百害あって一利なしだ、という医者もいる。
 ということで、「境界例」というのは、患者側にも医師側にも不人気、という不幸な診断名なのである。しかし、ここが不思議なところなのだが、医者と患者の双方ともが「境界例」という診断に違和感を持っているにも関わらず、医者も患者も「境界例」という診断名にとらわれ、治療関係の中で、治療者を試すための自傷行為だの感情の爆発だのという「境界例」的な特徴を増幅してしまっているのですね。一種、精神科医と患者の間で共犯関係が成立してしまっているのである。
 たとえば、関東医療少年院の奥村雄介は次のように述べている。
 いわゆる境界例については興味深い体験があります。私は矯正施設で患者さんを診ていますが、そこには外部の病院でボーダーラインという診断のついた人がわりとたくさんいます。ところが、彼らは矯正施設の中ではボーダーライン病像を呈さないんです。私の体験からいえることは、人為法則が物理法則と同じくらい強固に守られているところでは、ボーダーラインというのは機能しないというか、顕在化しないのではないかということです。そういった意味では、ボーダーラインの多くは医原性ということができるでしょう。
 つまり、絶対的な規律に支配されている医療少年院の中では、手首を切ったり拒食をしたりする人はあんまりいない、と。それが本当なら、境界例の人は精神科医にかかるより軍隊に入った方がいいのかもしれないし、戸塚ヨットスクールに一定の効果があったのもそういう理由によるのかもしれない。
 ただ、境界例が医原性である、という指摘は確かに一理あるものの、正確ではないと思うのですね。ボーダーライン系のページ制作者の中には、精神科にかかっていない人もいるにも関わらず、その性格や生きづらさの原因は、以前紹介したような境界例の特徴にあてはまる。「境界例」というのは人間関係に問題を抱えている人のことなのだから、精神科医が存在しないところでも、人間関係さえあれば成り立つわけである。だから、「境界例」が医原性であるとか、医者の側の勝手なレッテル貼りだ、という批判はあたらないように思えるのだ。もちろん医者が患者の「境界例」性を増幅する、ということは充分ありうると思うけど。

7.信頼されていない精神科医

 さらに、ボーダーライン系のサイトの記述を見ていて思うのは、彼らにとっての医師の存在の小ささである。
 端的に言って、医師は彼らに信頼されていない。多くの人が精神科に通院していることを日記などに書いているものの、医師や診察についての記述はごくわずか。書かれていたとしても「医者は何もわかってくれない」「全然自分の気持ちに気づいていない」と諦めにも似た感情が短く叩きつけられているだけ。なんだか哀しくなってくるような事実だけれど、どうやら彼らと精神科医は、薬を介してつながっているにすぎないようだ。彼らが信頼しているのは、医師ではなく、むしろ薬なのである。
 精神科医は通常、病院を訪れた患者のことしか知らない。あたりまえのことだが。
 精神科医が境界例について書いた本を読むと、当然ながら、治療者を試すための自傷行為や感情の爆発といった、患者と精神科医という二者関係の中での彼らの振るまいについて多くのページが割かれているし、彼らと相対したときの精神科医の心の動き(境界例の治療では、彼らと向き合った精神科医自身が何を感じるか、ということが非常に重要なのである)についても詳しく書いてある。それはつまり、境界例患者を本気で治療しようとすれば、医師も患者も自分の感情を客観的に捉えなおす必要があるし、医師は患者の感情を引きうけ、振りまわされ、疲労困憊する覚悟が必要だ、ということである。これは、とても、しんどい。
 しかし、それはあくまで医師と患者の間にそれなりの関係が成立している場合の話だ。
 精神科医は当然(医者から見て)「治療関係」が成立したケースについて詳しく書きたがるが、おそらく実際はそうではないケースの方が多いのだろう。なんせ境界例は「安定した治療関係を保つのが非常に難しい」のだ。まあこれは医者の側から見た言いぐさであって、逆に患者からみれば「精神科医には絶望することが多い」ということになるのだろう。数としては、そもそも医者を信頼していないので精神科になど通おうと思わない人、1、2回通院しただけでやめてしまった人、医師は信頼していないが薬をもらうだけのために病院に通っている人などの方が多いに違いない。
 実際、境界例の治療に長けた精神科医を探すのは難しいし、患者が自分と合う医者を見つけるのはもっと難しい。互いの感情の問題にまでは立ち入らず、患者はただ病院に通い、医者は対症的に薬を出すだけ、という関係を続ける方が、精神科医にも患者にも楽であることは確かだ。もちろんそれでは患者は何一つ変化せず、治療は進展しない。患者は空虚感を抱えたまま生きていくことになる。
 しかし、境界例の患者というものは、だいたい中年期になれば安定するものらしいから(アメリカの追跡調査によれば、全体の2/3がほとんど臨床症状なしにそれなりに適応していたとか)、淡々と静かに患者が中年になるまで待つ、ということなのかもしれない。実に消極的な治療方針ではあるものの、まあそれもひとつの手である。治療的な介入によってむしろ状態が悪化する患者もいるのだから、いちがいにそれが悪いとはいえないのだ。
 でも、じっと待つ、という治療方針ではたぶん医者は信頼されないだろう。彼らは今の生きにくさをなんとかしてほしいのだから。では、積極的な介入をすべきか、というと、それがうまくいくとは限らない。症状が増幅されたり関係が壊れてしまうこともある。それでもやはり、失敗覚悟で何らかの介入をしなきゃ、精神科医はどんどん信頼されなくなってしまうんじゃないかなあ、と医師のはしくれとしては思うのである。
(last update 03/05/10)

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