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6月20日(木)

▼きのうの「アニメファンはアニメの夢を見るのだろうか」の疑問には、掲示板、メール、ウェブサイト(谷田貝さん、ありがとうございます)で、多くの方が答えてくれました。結論からいえば、「見る」ということでいいみたいですね。一人称の場合も三人称の場合もあり、自分がアニメキャラとからむこともあるけれど、自分は別にアニメ絵にはなっていない。風景は実写(?)の場合もあればアニメの背景のこともある。そして、日常生活の中にアニメキャラがいることは、まったく不自然とは意識されない、と。
 なるほど、「不自然とは意識されない」というところがおもしろいですね。『ロジャー・ラビット』など、アニメと実写を合成した映像は、あからさまに不自然さがわかるんですが、夢はそうではない。ということは、夢の体験というのは、映像を見ているようでいて実はそうではない、ということかも。

イノミスで、キャプテン翼OP「燃えてヒーロー」が話題である。
 「あれみなヒーロー」の「あれみな」とは何か、そして「アイツの噂でチャンバも走る」の「チャンバ」とはいったい何なのか。「あれみな」はどうやら「あれ見な」のことだったらしいのだけれど、謎なのが「チャンバ」。
 どうやら「チャンバ=婆ちゃんの業界用語」説が有力らしいのだけれど、「チャンバ=ポルトガル語で新聞記者」という説もあったりして、真相はいまだに闇に包まれているという。
 さて、ここで私もチャンバの謎を考察してみたいのだが、それに当たっては、まずこの歌の作詞者である吉岡治の人となりを知るのが有意義かもしれない。ちょっと検索してみてわかったのは次のようなことだ。1934年山口県生まれの作詞家。サトウハチロー門下で、都はるみ「惚れちゃったんだョ」、大川栄策「さざんかの宿」、瀬川瑛子「命くれない」、石川さゆり「天城越え」、美空ひばり「真っ赤な太陽」などなどヒット曲多数。童謡も書いていて、野坂昭如作詞の「おもちゃのチャチャチャ」の補作詞をしたのもこの人。アニメ曲としては「悟空の大冒険マーチ」がある。
 演歌界の大御所といっていいだろう。アニメ『キャプテン翼』が放送されたのは1983年。吉岡治49歳のときである。これは偏見かもしれないが、吉岡治は「キャプテン翼」についてよく知っていたとはとても思えないし、それどころか詞を読むかぎり、サッカーについても知っているとは思えない。なんせ、出てくるのはキックとダッシュとシュート、それに蝶々サンバとかジグザグサンバとかいう意味不明の名称だけ。パスとかドリブルとかはまったく出てこないのだ。
 そんな彼が、「ポルトガル語で新聞記者」などという単語を歌詞に使うだろうか?
 念のため"chamba"で検索してみたのだけれど、出てくるのはインド北西部の都市が圧倒的で、「ポルトガル語で新聞記者」らしい単語はどこにも出てこない。
 唯一、ちょっと近いかも、と思ったのが中米ホンジュラスの新聞記事
Not knowing a language well leads to embarrassing and sometimes funny situations. Once a person came to my factory and asked if we had chamba (a job) for him. Not recognizing the slang, I told him we didn't sell chamba. Meanwhile, I'm learning those typical Honduran words like pulperia or trucha (a small store), cipote (child), guineos (a kind of banana) and others.
 つまり、この書き手の人の経営する工場に、あるとき男がやってきて「チャンバはないか」と訊いたのだそうだ。そのスラングがわからなかった書き手は、彼に「ここではチャンバなんて売ってない」と答えたのだけれど、実は「チャンバ」とはホンジュラスのスラングで仕事を意味していたのだとか。
 というわけで、中米ホンジュラスでは、「チャンバ」とは仕事のことであるらしい。でも、「アイツの噂で仕事も走る」ではまったく意味が通じない。
 ということで、「チャンバ=ポルトガル語で新聞記者」説は間違いだと思うのだけれど、さりとて「チャンバ=婆ちゃんの業界用語」説を積極的に推す理由も見当たらない(童謡も書いている作詞家が、子供向け番組のオープニングに業界用語なんて使うか?)。行き詰まってしまったところで見つけたのがこのページ。Chamba。おお、これならアイツの噂で走ってもおかしくないぞ(笑)。

森林伐採用の昆虫型歩行機械。動画も見られます。

菊地寛『真珠夫人』、新潮社からオンデマンド版で復刊。うーん、普通に復刊しても買う人いると思うんだけどなあ。

6月19日(水)

おとといの読書傾向と夢の話で、鈴木力さんが掲示板で、日ごろSFを読んでいるのにSF的な夢を見ることがあんまりない、と書いていたのだけれど、そういえば私もSF的な夢をみることはあんまりない。いや、現実離れした夢ならよく見るのだけれど、壮大華麗な宇宙SFの夢など見たためしがなく、見たとしてもジュヴナイルSFや超能力SFみたいに、現実の中でSF的な現象が起こる夢ばかりである。想像力に欠けているのかね。
 そういえば、これはアニメファンにぜひ訊いてみたいところなのだけれど、アニメファンはアニメの夢を見るのだろうか。もし見るとしたら、自分はどこにいるのだろうか。自分自身もアニメの世界の中に入ってしまっているのだろうか、それとも普通にアニメを見ているときのように視聴者として眺めているのだろうか。
 私の場合、自分は見ているだけという映画みたいな夢をよく見るし、全編一人称視点のアニメというのはあまり想像がつかないので、アニメファンの場合も後者の方だと思うのだけれど、中にはアニメキャラと自分がからむ夢を見ている人もいるのかもしれない。しかしその場合、自分自身もまたアニメ絵なのだろうか?

▼牧眞司さんからの情報によりますと、『オブザーバーの鏡』で知られるエドガー・パングボーンの『デイヴィー』が扶桑社から出るそうな(もともとサンリオから出る予定だった作品だとか)。体裁はソフトカバーで『パヴァーヌ』と同じだそうです。
 『デイヴィー』という作品、私は寡聞にして知らなかったのだけれどここによれば、パングボーンの代表作といわれる近未来SFだそうな。

6月18日(火)

▼私が電車に乗るたびに楽しみにしているのが、日能研という学習塾の車内広告。日能研の広告には、毎月毎月中学受験の問題が載っているのだ。今月の問題はこんなの
 ある事件について、現場にいたA,B,C,D,Eの5人から次のような証言を得ました。現場の状況から見て犯人は、この5人の中の1人です。犯人以外はうそをついていないものとすると、犯人は  です。
A「私はずっとCといっしょにいましたから、私もCも犯人ではありません」
B「犯人は、A,C,Dの中にいるはずです」
C「Eは犯人ではありません」
D「私から見えるところにA,C,Eはずっといたので犯人ではありません」
E「A,Bのどちらかが犯人です」
 ふつうに考えれば答えは簡単で、Bということになるのだけれど、しかし本当にそうだろうか?
 問題文には「犯人以外はうそをついていない」と書いてある。しかし、故意にうそをついていなくとも、誤認、もしくは犯人のトリックによって誤認させられている、ということはありうるのではないだろうか。
 たとえばDの「私から見えるところにA,C,Eはずっといた」なんていう証言はそこはかとなくトリックの香りがするし、Aの「私はずっとCといっしょにいました」なんていう証言もあやしい。Cがなんらかのトリックを使い、Aと一緒にいたように見せかけていたのではないか。そういえばCの「Eは犯人ではありません」という証言にもひっかかるものがある。なぜ一緒にいたはずのAではなくEをかばう? どうやらここにはAとCとEとの間の複雑な人間関係が横たわっていそうである。
 そのEはなぜAとBのどちらかが犯人だと言い切れるのだろうか。AはCとずっと一緒にいたはずではないか。一緒にいたふたりのうち一方だけのアリバイを証言するというのはどういうことなのだろうか。
 などと、いったいどんな状況なのか考えれば考えるほどわからなくなってしまうのである。こういう問題を解くには、不可解なところはそういうものとして割り切る能力が必要ですね。

そういえば栗本薫『蜃気楼の彼方』(ハヤカワ文庫JA)を読了したのだった。内容については特に言うこともないのだけれど、あとがきにはさすがに呆れました。栗本薫は、読者には罵倒する者と信奉する者の二通りしかいないと思っているのだろうか。批判しつつも読み続ける私のような読者は念頭にないらしい。このところずいぶん持ち直してきたとはいえ、一時期のグイン・サーガが内容的にも文章的にも荒れていたのは確かだと思うのだけれど。

6月17日(月)

▼ウェールズ大学で行われた読書傾向と夢に関する調査結果によれば、

・フィクションを読む人は、読まない人に比べて奇妙な夢(現実には不可能だったりありそうもないことが起こる夢)や感情的に激しい夢を見る傾向が強い。
・ロマンス小説を読む人は、自分の夢をほかの人に語る傾向が強い。
・自己啓発書を読む人と読まない人では、夢を思い出す傾向に差はなかった。
・犯罪小説やスリラーを読むことと悪夢を見ることの間に関連性はなかった。しかし、ファンタジーを読む人は悪夢を見る傾向が強かった。
・本をよく読む人ほど自分の夢をほかの人に語らない。
・女性は男性より多くの夢を思い出すし、男性より不快な夢を見る(あるいは不快な夢を見たということを認める)傾向が強い。
・9時間以上眠る人と、7時間以内しか眠らない人では、夢を見る頻度に変わりはないが、長時間眠る人ほどほかの人に自分の夢を語る。
・長時間眠る人は、短時間睡眠者よりも図書館へ行く傾向が強い。

のだとか。
 いや、だから何と言われても困るのだけれど。

シリアル・キラーのアクション・フィギュア。ジェフリー・ダーマー、エド・ゲイン、テッド・バンディ、ジョン・ウェイン・ゲーシー(ピエロ姿)などの人形が買えます。

6月16日()

▼現在一時帰国中のMZTさんを囲んで飲み会。話題はカナダのオタクとかエピソード2とかやっぱり古本とか古本とか古本とか。

▼おとといの続き。まず「肥満」と「競争から降りる」の関係なのだけど、因果関係としては、確かに「肥満→降りる」というのも「降りる→肥満」というのもありますが、どっちが先かはあんまり重要でない気がします。悪循環になってしまいかねないところが問題かと。

 あと、私としては、おとといの引用文に書かれていた「女性性の回避」もまた、「コニー」を考える上での重要なキーワードであるように思えるのですよ。
 だいたい、「女性性の回避」といえば、2,30年くらい前には拒食症が代表例だったのだ。性的存在としての女性を拒否し、少年のような体型を維持するために拒食する女性が多かった。化粧っ気がなく、地味な服を着て、やせ細った彼女たちのストイックな姿は一種の苦行僧のようにすら見えたのだけれど、最近じゃそういう古典的な例はほとんど姿を消してしまった。その代わりに登場してきたのが、食の快楽を享受しつつ女性性を回避する「コニー」たちなのかもしれない(この変化はまた、70年代あたりの少年愛ものから現在のボーイズラブへという変化にも対応しているのかもしれないけれど、私はやおいジャンルには全然詳しくないので深入りしないでおく)。
 彼女たちが好んで身に着けるピンクハウス系の服は、一見過度に「女性性」を強調した服装のようにも見えるのだけれど、あの服の「かわいさ」というのは、ぬいぐるみや赤ん坊のような愛玩物としての「かわいさ」であり、生々しい異性関係やセックスをも含む女性性とは対極に位置する。それは、アニメキャラの着る服であり、アイドルの着ている服だ。それはあくまでファンタジーの領域であり、現実的な女性性とははるかに遠い。もちろん、アニメキャラやアイドルはオタク男性にとっては性的欲望の対象なのだけれど、彼女たちがそうした他人の視線を意識しているとは思われない。彼女たちはあくまで「かわいい」からそれを着るのである。
 さらに、彼女たちに、濃厚なやおいを好む例がしばしば見られることは、別に「女性性の回避」とは矛盾しない。きわめて性的ではあっても女性の登場しないやおいの世界は、自分は常に傍観者でいられるファンタジーの世界であり、女性性と直面させられることはないのだから。
 自らが中性的な「少年」になることを目指していたかつてのストイックな拒食症者たちとは違って、現代の「コニー」たちは、衝動的なくらい自らの欲望に忠実である(この衝動性は境界例や過食症など、似通った病理を持つ疾患とも共通するところ)。彼女たちはストイシズムとは無縁である。彼女たちには性的欲望そのものに対する拒否感はまったくないわけだから、女性性から切り離された性的欲望がやおいに向かったところで別に不思議はないのではないかと。

 ということで、「押しかけ厨」考補遺・コニー編はおしまい。もう書くことがないので、「押しかけ厨」考はこれで本当に完結です(実際の例を見る機会を得たとかそういうことがあればまた別だけど)。そのうちまとめのページの方にも、この内容を追加します。

▼あと、たまたま今日、中村淳彦『名前のない女たち 企画AV女優20人の人生』(宝島社)という本を買ったのだけれど、この本に出ている「オタク女」の例は、どこか「押しかけ厨」のメンタリティに近いものを感じました。

サシミカー。それサシミと違います。

6月15日(土)

『ブレイド2』を観てきました。
 前作『ブレイド』が大傑作だったので期待していたのだけれど、うーん、これは期待はずれ。前作のウェズリー・スナイプスは実にカッコよく撮られていたのだけれど、今回は、単なる「俺ってカッコいいだろう、と思っている人」にしか見えません(この違いは実に微妙なところなのだけれど)。
 監督は『クロノス』『ミミック』のギレルモ・デル・トロ。デル・トロ監督というのは、とにかく暗くてじめじめした地下とかグロテスクな美とかが大好きな人で、古典的なゴシック・ホラー風の描写が得意な監督なのですね。それに対して、『ブレイド』は吸血鬼ものとはいっても、ナンシー・A・コリンズの「ソーニャ・ブルー」シリーズみたいなスタイリッシュなアクション。監督の得意分野とは全然違うのだ。実際この映画でも古い洋館とか暗い下水道のシーンはうまいのだけれど、アクションの見せ方は今ひとつ。アクション監修はベテランのドニー・イェン(出演もしていて、なんだか缶コーヒーのCMの布袋寅泰みたいな格好で出ています)なのだけれど、どういうわけかカンフーというよりむしろプロレスみたいなアクションで、あんまり美しくありません。
 敵役があまりにちんけで印象が薄いのもどうかと思うし(ボス敵でもなんでもないロン・パールマンの印象が強すぎます)、ストーリーもあまりにも雑。ヒロインの描写なんておざなりもいいところだし、途中からは吸血鬼親子の葛藤の話になってしまって、主役のはずのブレイドは完全にカヤの外だもんなあ。これじゃブレイドの復活→最後の対決という流れも盛り上がりようがない。
 こりゃもう、ただ単につまらない映画というしかない。同じB級アクション映画なら、突っ込みどころが多いだけ『ザ・ワン』の方がましです(★☆)。

6月14日(金)

▼さて次に、女性にとってコニーであるということはいったいどういう意味を持っているかを考えてみる。
 だいたい現代という時代は、スリムな女性を美しいとみなす価値観に支配された時代である。テレビや雑誌に登場するのはスリムな女優やモデルばかり。本屋にはダイエット本が山のように並んでいて、エステのコマーシャルが毎日流れている。こうして、メディアは人々の肥満恐怖をあおっているわけだ。
 この傾向は男性よりも女性により顕著で、スリムな体型であるということは、多くの若い女性にとって理想であり、目標なわけである。それは別に異性にモテたいとかそういうこととは関係なく、同性の視線を意識した上での競争なのですね。だから、拒食症の患者は強迫的に体重を減らしたがり、過食症の患者は衝動的にどか食いをしたあとで喉に指を突っ込んでまで嘔吐する。
 いい悪いは別として、現代というのはそういう時代である。こうした時代において、女性が「コニー」体型であることは何を意味しているか、といえば、それは「競争から降りた」ということなんじゃないだろうか。それは一方で、「勝つことを諦めた」ということでもあるのだろうし、「競争から自由になった」ということでもある(だから、太ったタレントは、競争に疲れた私たちに安心感と癒しを与えるのである)。さらにまたそれは、「一般人たちの競争からは降りて別の価値観に生きる」という宣言でもある(これは「厨」に限らずオタク一般に肥満が多い理由でもあるだろう)。
 そしてまた、これを別の視点からみればこうなる。吾妻ゆかりらによる「単純性肥満症患者のパーソナリティ特性と臨床的特徴」(臨床精神医学20巻8号,1991年)から引用してみる。
 たとえば、内向的な症例では、肥満することでいっそう家に閉じこもりがちとなり、人とあまりかかわらずに済んでいた。(中略)自己評価が著しく低い女性の症例では、肥満することで女性性を回避し、異性との交際、性的関係、結婚、出産などを遠ざけていた。家族に問題を抱えた症例も非常に多かったが、食べることで、患者が愛情飢餓を満たし、肥満することで自分の怒りや不満を辛うじて表現していた。患者は、「肥満しているから就職できないんです」「もし肥満していなければ、結婚していたと思います」と肥満をその原因にして、人生のさまざまな課題、人間関係から自らを遠ざけ、やせることができなかった。
 競争から降りる、というのは、すなわち人との関わりを避け、人生の課題から遠ざかる、ということだ。つまりは、肥満もまた、前世と同じく、彼らが自己愛の傷つきを避ける手段ということになる(もちろん本人は意識していないが)。
 「押しかけ厨」たちの万能的自己像は、現実では決して満たされることのないものである。彼女らは万能的自己像を現実とは関わりのないファンタジーの領域に置き、現実の自己を直視することを避けている。だから、彼女らは他人の視線など気にせず、現実の肉体が肥満することには無頓着なわけだ。そして肥満することにより、さらに自らを現実から遠ざけてしまう。悪循環である(「他人の視線を気にしない」という点は、「道端でやおい話を大声でする」という「押しかけ厨」の特徴にもつながってくる)。

▼鯨統一郎『文章魔界道』(祥伝社文庫)、折原一『樹海伝説』(祥伝社文庫)、D.O.ウッドベリー『パロマーの巨人望遠鏡 上』(岩波文庫)、堺屋太一『平成三十年』(朝日新聞社)購入。
 今月は日本SF新人賞受賞作やら『妻の帝国』やら国内SFの話題作が多いけれど、私にとっての最大の目玉はなんといっても『平成三十年』だ! 連載当時からコンピュータ描写のあまりの時代錯誤ぶりがネットワーカーの失笑を買っていたトンデモ未来小説が、4年の歳月を経てついに単行本化!

6月13日(木)

▼忘れたころに、「押しかけ厨」の話の続きである。続きというより、補遺といった方がいいかも。
 実は、こないだの「押しかけ厨」の話ではひとつ心残りがあったのだ。それは冒頭で「太め率28%」とまで書いておきながら、本文中ではなぜ押しかけ厨に「コニー」が多いのか、ということについての考察ができなかったこと。
 というわけで、今回は押しかけ厨と肥満との関係について考えてみる。

 あなたがフロイトを信じるというのなら、話は簡単。幼児の自己愛段階というのは「口唇期−肛門期−男根期」というフロイトの古典的な発達段階理論では「口唇期」にあたるので、自己愛段階に固着している人は、食べること、飲むこと、アルコール中毒、薬物嗜癖などの行動化を起こしやすい傾向がある、というのだ。以上。

 とはいっても、この説明で納得できる、という人は少ないでしょう。私自身、「口唇期」とか「肛門期」とかいうフロイトの区分は嘘くさいなあ、と思っているので、これだけじゃとうてい納得できません。
 そこで登場するのが、コフートと並ぶ自己愛研究の第一人者であるカーンバーグが提唱する「境界性人格構造」(BPO)という概念。BPOというのは何かというと、いわゆる境界性人格障害ばかりじゃなくて、拒食症、過食症、自己愛性人格障害をも含む幅広い概念である。そして、カーンバーグは心因的な肥満の背景にも、このBPOの存在がある、というのだ。
 BPOの特徴としてよく知られているのが、「スプリッティング」という防衛機制である。「スプリッティング」というのは、自己と他者に対するイメージがall goodとall badに分割されてしまい、統合されていないこと。たとえば自分についてのイメージにしても誇大的な自己像と空虚な自己像が統合されないまま同居しているし、他者に対しても過度な理想化をしてみたかと思えばこき下ろしてしたりするわけである。もちろんこの「スプリッティング」、自己愛段階に特徴的なパターンでもある。
 石井雄吉らによる「単純肥満についての心理学的考察」(精神医学36巻8号,1994年)という論文によれば、女性17例の肥満群と女性15例の健常群のロールシャッハ・テストを比較したところ、肥満群のうち41%(7例)に「スプリッティング」がみられ、健常群では17%(1例)だったという。
 とまあこのように、肥満と自己愛は共通の背景を持っているのである。
 念のため書いておくのだけれど、過食症と肥満はまったく違うものだ。境界例的な過食症の場合、激しいむちゃ食いを繰り返す一方で、肥満することに強い恐怖を覚え、自ら嘔吐したり下剤を使ったりしているのに対し、「押しかけ厨」のような自己愛的な肥満の場合は、たとえ太っていることに劣等感を感じていたとしても、食べることには罪悪感を抱かないし、肥満の原因にもまったく無頓着である。

6月12日(水)

▼掲示板で教えていただいたワールドカップサッカーになぜイギリスから4チームが出ているのか、のページ。連邦制をとってる国はほかにもあるだろうに、なぜイギリスだけ特例扱いなの? と思っていたのだけれど、なるほど、これで疑問氷解。要は、イギリスはサッカー発祥の地であり、イギリスの4つのサッカー協会はFIFA創立以前から存在していたから、ということのようですね。
 しかし、オリンピックはどうしてるんだ、あれは国対抗ではないのか、と思ったら、ページの最後に書いてある
もしイギリス4チームが五輪の欧州予選(U-23選手権も兼ねている)を突破しても、五輪には出場出来ません。代わりに、出場枠に入ったイギリス4チームの分だけ、繰上げで他国が出場出来ることになります。つまりイギリス代表の五輪チームは、存在しないのです。
 という記述にびっくり。そうだったのか。統一チームなんて真っ平ごめんだ、統一チームじゃなきゃオリンピックに出られないというのなら、出場権なんていらねえや、というわけなのか。これはこれで徹底した態度だといえなくもないのだけれど、でも、オリンピックではサッカー以外の種目はイギリス統一チームで出てるわけですよね。たとえばカーリングはサッカーと同じくイギリス(というか、スコットランド)が発祥の地なのに、サッカーとは違ってちゃんとイギリスチームでオリンピックに出ている。やっぱりイギリス人にとって、サッカーだけは特別ということなのか。

ナンシー関39歳で急死。彼女のエッセイはあんまり読んだことがないので何ともいえないのだけれど、消しゴム版画は好きでした。ご冥福をお祈りいたします。
 とはいっても、やっぱり私が気になるのは彼女の死と肥満との関係の方ですね。これはひとごとではない、と恐れおののいた人はSF界には少なくないのではないか。私は、数年前にやはり38歳で亡くなったハワイの歌手イズラエル・カマカウィウォオレのことを思い出してしまいましたよ。
 しかし、最初のリンク先の「歩くのが嫌いで、100メートル歩いただけで、ゼーゼー言って立ち止まったことがあった」「ウオツカが好きで、ロックで10杯以上飲んでも、絶対酔わなかった」「相変わらず100キロを超えてた」「蒸したヤキソバが好き」というのは、モロに心筋梗塞の危険因子に当てはまってますね。該当する方は厳重に注意しましょう。

6月11日(火)

シャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』と並ぶ七五調お城小説(嘘)、スーザン・ヒル『ぼくはお城の王様だ』(講談社)読了。
 スーザン・ヒルは、ジャンル読者にはハヤカワ文庫NVのモダンホラー・セレクションから出ていた『黒衣の女』でおなじみ(というほどでもないか)だけれど、本来は純文学作家。この作品もホラーではなく、スーパーナチュラルな要素はまったくないのだけれど、ある意味でホラー以上に恐ろしく、救いのない話である。
 舞台はイギリスの片田舎にあるウェアリングズ館。そこには少年フーパーが父親と二人で暮らしている。そこに家政婦として雇われたヘレナ・キングショーとその息子チャールズが越してくる。車から降りたキングショー少年の足元に、フーパーは2階の窓から粘土に巻きつけた紙切れを落とす。キングショーが紙切れを開くと、そこに書いてある文字は〈お前たちなんかに来てほしくなかった〉。そしてその日から、フーパーのキングショーへの陰湿ないじめの日々が始まるのだった……。
 ホラーに登場する子どもといえば、早熟なアンファン・テリブル型がすぐに思い浮かぶのだけれど、この作品に登場するフーパーは決して早熟ではないのですね。フーパーは確かに悪意の塊のような少年だし、ずるがしこいところもあるのだけれど、雷を怖がり、口先だけで何もできない子どもなのだ。むしろキングショーの方が、繊細で早熟な少年である。ホラーを読みなれた身には、この性格設定が新鮮でした。
 繊細で感性の鋭い少年が、赤ん坊のように自分勝手で鈍感な少年に苛まれ、追い詰められていく。さらに、キングショーの母親も、フーパーの父親も、善意という形をとった鈍感さでキングショーを追い詰める。そこが怖い。
 物語は悲劇的な結末を迎えるのだけれど、キングショーはいったいどうすれば袋小路から抜け出すことができたのか。考えるヒントは物語のあちこちにちりばめられている。恐ろしいと同時に、重く、考えさせられる小説です。

 ところで、「少年の邪悪な魂、それをもあなたは愛してしまう」という帯の文句は意味不明なんですが。「あなた」って誰のことなんだろう(フィールディングか?)。あと、訳者あとがきの文体は気取りすぎです。

アイルランドに3-0で負けたサウジアラビア監督の言葉
グループ最下位で1点も取れなかったのは、世界王者のフランスと同じ。いい仲間というわけだ。
 仲間扱いされたフランスは悔しいなんてもんじゃないでしょうなー。


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