▼さてきのうは「押しかけ厨」たちの持つ万能感について触れたのだけれど、少なからぬ「厨」たち(179例中29例)が「前世」について語る理由も、その「万能の核」にあるんじゃないかと。前世において、彼らは勇者であったり魔術師であったり陰陽師であったりと、何かにつけ特権的な存在です。平凡な農民の前世を主張する「厨」はいない。「前世」の世界は、彼らにとって現世における空虚感が解消され、万能感が満たされる場所なのですね。
さらに、前世を語る「厨」29例のうち、実に20例までが複数例なのは、決して偶然ではないでしょう。未熟な自己愛を持ち、自己愛の傷つきに耐性のない彼らは、万能的自己像が傷つくのをおそれて他人からひきこもります。でも、彼らはやはり「なかま」を、他者との関わりを求めているわけです。
普通だと、他者と関われば現実原則にさらされるわけで、万能的な自己像は傷つかずにはいられません。しかし、「前世」という、この世とは関わりのない場所に万能的自己像を保持しておけば、自己愛の傷つきを怖れることなく関わりを持つことができます。他の自己愛者も、同じ前世を共有しさえすれば、傷つくことなく関わりに参加することができます。
「あなたは前世では魔術師だったのよ!」とか言われても、現実に適応している人なら「はぁ?」と引くだけでしょう。でも、未熟な自己愛を抱えたまま、圧倒的な空虚感を感じて日々をすごしている人であれば、心の片隅ではありえないと思いつつも、「そうだったのか!」と思ってしまうのではないでしょうか。それはまさに“奇跡”です。きのうの「艦長からのメッセージ」ですね。かくして、「前世」のネットワークは広がっていく、と。
つまり、「前世」とは、万能感を維持したまま他者と関わる彼らなりの方法なんじゃないでしょうか。この点で、「前世」は、きわめて個人的な分裂病の妄想とはまったく違います。前世とは、万能感を満たす場所であり、さらに彼らのコミュニケーション手段でもあるのです。これが、「前世厨」に複数例が多い理由なんじゃないかと。
▼きのう紹介した
American Antigravityなんですが、どうも「イオノクラフト」というものである可能性が高いみたいですね。いろもの物理学者こと前野昌弘さんもすでに
日記(5/15,16)で言及されているし、
野尻ボードにも書き込みが。ちゃんと過去ログはチェックしとかなきゃだめですな。
▼
蔓葉さんの日記(5/27)に「精神分析」についての言及がありますが、精神医学に、「精神分析」という科目は別にないんです。精神分析医になるためには、まず精神科医になったあと、先輩精神分析医に弟子入りし、スーパーバイズを受けながら何例かの精神分析を行い(これが精神分析のトレーニング)、自らも精神分析を受ける(これが教育分析)必要があります。要は徒弟制度です。
あと、小此木啓吾は精神科医で専門がフロイト派の精神分析(たぶん精神分析医でもある)、河合隼雄はユングを専門とする心理学者で非医師、木村敏は精神科医で専門が精神病理学、中井紀夫はSF作家で非医師ですね(すいません、誤記と知りつつわざとツッコミを入れてしまいました。ちなみに、中井久夫は精神科医で専門は精神病理学であります)。
あと、斎藤環の言う「私は精神科の臨床医であることよりほかに、みずから主張する立場を持たない」というのは私もそうだなあ、と。でも、そんなこといいつつも、斎藤環にはラカンという拠って立つものがあるじゃないか、と思ってみたり。私には何もないよ。
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ElfPanties.Com。サイト管理者のReverend Jen嬢はニューヨーク在住のエルフだそうです。いや、本人がそう主張してるんだから仕方がない。で、自分のはいたパンティをインターネットで売る、と。それって要するにブルセラショップでは。エルフも落ちたものですな。『ロード・オブ・ザ・リング』ではあんなに気高かったのに。
しかし、「からもかいみみいん!」とはどういう意味なんでしょうか。エルフ語ですか?
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少女探偵ナンシー・ドルーの原作者ミルドレッド・ベンソン死去。96歳。
ナンシー・ドルーは日本ではあまり知られていないけれど、1930年から現在にいたるまで(!)キャロリン・キーンという統一ハウスネームで書き継がれている少女向け探偵小説。アメリカ一有名な少女探偵なのだ。ベンソンは、オリジナルのナンシー・ドルーもの30冊のうち23冊を書いたとか。
▼さて、続いて連載と化してきた「押しかけ厨」話。
「押しかけ厨」の中には、ひきこもりと重なる一群が存在するようです。
179例の「押しかけ厨」のうち、「ヒッキー」もしくは「ヒッキー一歩手前」だと書かれているのが15例。率としてはそれほど高くはないのだけれど、「厨」のプロファイルが書かれたレポートは少ないので、実際にはもっと多いものと推測されます。
では、なぜ「厨」はひきこもるのか。
大きく肥大した未熟な自己愛。しかも、彼らは自己愛の傷つきに耐性がない。そんな彼らが傷つきを避けるためには、「名誉ある撤退」を選択するほかありません。すなわち、ひきこもりです。
衣笠隆幸は「自己愛とひきこもり」(精神療法26巻6号,2000)という論文の中で、
「自己愛型ひきこもり」という分類を提唱していますが、これがまさにこのタイプです。
一般に多いといわれているスキゾイドタイプのひきこもりが、他者に対する漠然とした不安感や自信欠乏、陰性の自己像などの理由でひきこもるのに対し、「自己愛型ひきこもり」は、万能的な自己像を傷つける場面を避けるためにひきこもります。そして、幼児的で自己中心的な満足を得るために、家族などにパラサイト的な依存を求めます。
性格はというと、児童期までは真面目で成績もよかったものの、思春期青年期の時期にそうした能力が挫折して、もはや以前のようには発揮できなくなった体験を持っているものが多い、とのこと。また、一部には、自分は特別な能力を持っていて、世間がそれを認めてくれない、といった極端に万能的・空想的な自己像を持っている患者もいるといいます(ただし、これらは男性例から抽出された特徴ですが)。
さらに、「自己愛型ひきこもり」の特徴として、自分の趣味を楽しんでいて外出も積極的に行っている例がみられることがあるとか。
これは、普段は自宅にひきこもっていながらイベントには顔を出す「厨」たちの肖像に似ているんじゃないでしょうか。
一方、中塚尚子(香山リカ)は、「『借り』を返したい――「ひきこもり」のささやかな治療論」(こころの臨床ア・ラ・カルト20巻2号,2001年)という文章の中で、ひきこもりの人々にある「万能の核」について書いています。これはつまり、上に述べた「自己愛型ひきこもり」にみられる「万能感」のことだといっていいでしょう。
続けて、中塚は映画『ギャラクシー・クエスト』を持ち出します。
筆者にとって最も印象的だったのは、これまで現実世界では活躍の場がなく、物語世界に閉じこもりがちな生活を送っていたマニアたちが、宇宙船艦長役の俳優から「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ」と言われた瞬間、「わかりました、艦長!」と一気に活気づくシーンであった。名声やお金が与えられるわけではないが、彼らの「万能の核」が満たされる奇跡が起きたのである。
(中略)
持てる知識をすべて使って彼らの手助けをするマニアたちは、この「借り」を返すときがやってきたからこそ、あれほど歓喜に満ちた表情をしているのではないだろうか。「ひきこもり」たちが望むものもまた、「この世ならぬ場所で『借り』を返したい、返せる相手がほしい」ということにほかならないのではないか、という気がする。となると、彼らを部屋から引き出すのは、名声でもお金でもなく“小さな奇跡”ということになろうか。
レポートの中で、「厨」が対象者をターゲットにしたきっかけとしてしばしば書かれていたのは、対象者がホームページに書いた「誰か手伝って」とか「アシがほしい!」といった、何気ない一言でした。「厨」たちは、対象者が冗談半分で書いたその言葉を真に受けて自宅に押しかけ、拒絶されると逆上する。そんな例がいくつか見られます。
多くの人が「厨」の思考に困惑したと思われるのだけれど、ホームページで目にした憧れの作家さんの「手伝いがほしい」という一言は、彼らにとって、艦長の「キミたちの知識が必要だ!」のひとことと同じなのかもしれません。憧れの作家を自分の力で助けることができる! それは空虚感に満たされた彼らにとって“小さな奇跡”であり、自分の「万能の核」が満たされ、「借り」を返すことのできる輝かしい瞬間なのです。だからこそ、彼らは同人誌の奥付を頼りに押しかけるのです。自分が歓迎されると信じて。
それは確かに彼らを部屋から引き出す奇跡です。とはいっても、中塚がいうほど希望に満ちたものではなく、迷惑きわまりない奇跡ではあるのですが。
というわけで、次回は前世について。
▼私が考察を書いている間に、
(=゚ω゚)ノぃょぅさんのサイトが閉鎖されてしまったようです。確かに毎日チェックして更新するのは並大抵の苦労ではなかったはず。ネットの常とはいえ、有意義なサイトだったので残念です。ぃょぅさん、ご苦労様でした。
▼今日の考察は、「押しかけ厨」たちの激しい怒りと暴力について。
彼らはドアをぼこぼこにし、ガラスを割り、老人を突き飛ばし、重い鞄で殴りかかり、警官に取り押さえられても暴れつづける。
なんでまたここまで激烈な怒りにかられて暴力を振るうのか、というと、実はこれもまた自己愛の大きな特徴なのですね。
だいたい、あらゆる怒りの中で、自分がないがしろにされたときの恨みほど強烈なものはないでしょう。ましてや、自己愛者の場合は、それがごく些細なことであっても、強烈な怒りとなって表れます。
彼らにとって、自分の思い通りにならないもの、自己に属しないものはすなわち敵、ということはこないだ書きました。そして自己に属しないものに対する極めて強烈な怒り、これをメラニー・クラインは
「口愛羨望」と呼びました。
「口愛羨望」というのは、自己愛段階(クラインの理論だと「妄想的・分裂的ポジション」)の赤ん坊が母親の乳房に対して向ける怒りのこと。自分が欲している対象から、その欲しているものを得られないときに、その対象に向かう怒りのことです。赤ん坊にとっては快不快はall or nothing、天国か地獄のどちらかしかなく中間はないのです。そして赤ん坊は、飢えたり自分が無視されていると感じると、母親の乳房が自分を拒否している、と感じるのですね。そして自分の攻撃性を対象に投影して、自分が迫害されている、と感じる。だから、怒りはきわめて激烈なものになります。
一方、同じ怒りをコフートは
「自己愛憤怒」と呼びました。これまで述べてきたように、コフートは自己愛は決して乗り越えられるべきものじゃなく、誰もが一生持ち続けるものだと考えていたので、自己愛憤怒も誰にでもあるものだと考えています(だいたい、コフートが自己愛憤怒の例として挙げているのは日本人の「恥」だし)。ただし、きのう書いたように健全な自己愛が発達していない人の場合、この自己愛憤怒はきわめて激しいものになります。
自己愛憤怒の特徴は、容赦がなく、残忍で、いかなる方法でも復讐しないと気がすまない、というところ。他の怒りであれば噴出すればすかっとするのだけれど、この「自己愛憤怒」の場合、コフートの言葉を借りれば「性交時の男性の精液のように放出されはしない」のです。
だから、対象者が拒絶するかぎり、厨は何度でも襲撃を繰り返す。襲撃が収まるとしたら、それは物理的に不可能になったか、自己愛を向ける別の対象者が見つかったかのどちらかでしょう。
まだ続く。
▼
American Antigravity。どういう仕掛けなんだかよくわからないんだけど、三角形の物体が宙に浮くのですよ。Videoのところから、浮いているところの動画がいくつもダウンロードできます。物理に詳しい方の検証をお願いしたいところ。
▼
ドラゴンキューブで、
スタートレック・スターシップコレクション発売(PDF)。1/7000スケールで、ラインナップはエンタープライズD(通常版・蓄光版)、バード・オブ・プレイ(通常版・透明偽装版)、U.S.S.ファラガット、エンタープライズ(ワープVer.)だそうな。
この企画の難点は、スケールを統一してあるところですね。カーク船長のエンタープライズは、形は同じでもエンタープライズDの半分以下の大きさという設定だし、ヴォイジャーも半分程度。あと、ディープスペース9やボーグキューブもでかすぎて無理。必然的にモデル化できる宇宙船は限られてきてしまう。
で、ファラガットって聞いたことないんだけど、何に出てきたんだっけ。
▼
ヘクサゴン。なかなか手ごわいゲームです。
▼さて、きのうの自己愛者の他者への執着を精神分析っぽい用語でいうと、「他者への自己愛的リビドーの投入」ってことになります。フロイトは、こうした執着を、健全な対象愛とは区別して「ほれこみ」Verliebtheitと呼びました。
「ほれこみ」ってのはつまり、他者を自己愛の対象にすること。まず、(1)相手を過大評価・理想化して、(2)次にその相手を自分がこうありたいと思っている理想自我と同一視し、(3)自己愛的なリビドーを大量投入する、これが「ほれこみ」です。つまり、「ほれこみ」の対象は理想自我の代役であって、対象自身を愛しているわけでは全然ないのですね。
たとえば、熱烈なファンだといって襲来する「押しかけ厨」のケースなどは、これにあたります。
で、この「ほれこみ」をもっと詳しく研究したのがコフート。コフートは、自己愛者が他人に対して示す感情を「自己愛転移」と呼び、3つに分類してます。
(1)鏡転移(「おかーさん、ほめてほめてー」)
(2)理想化転移(「おとーさんって、すっごーい」)
(3)双子転移(「わたしたちっておんなじー、なかまー」)
コフートによれば、自己愛者というのは、幼児期に親が反応してくれなかった、などの理由でこれらのいずれかの健全な発達が阻まれたのだ、というのですね。そして、治療者にとって必要なのは、これらの感情をきちんと受け止めて、自己愛の健全な発達をうながしてあげることだと。
だいたい「厨」が対象者に求めているものも、この3つのうちのどれかなんじゃないだろうか(もちろん対象者は治療者じゃないので受け止めてあげる必要はないけど)。
誤解してもらっては困るのだけれど、これら3つの感情を持っていたからといって、その人が未熟であり「厨」だというわけじゃない。こういう感情くらい、みんな持ってます。誰だってほめてほしいし、仲間がほしいでしょ。誰だってみんな、自己愛を満たしてもらいたいのだ。
要するに、「厨」の持っている感情は、私たちみんなが持っている感情なのです。「厨」は、決して理解不能な存在ではないのです。ただ、「厨」の場合、未熟な自己愛がはた迷惑なまでに肥大してしまっているのだけど……。なぜそうなったかといえば、成長過程でこれら3つの感情がチャージされなかった(満たされなかった)から、というのがコフートの考えです。
そしてまた、そう考えると、「厨の親も厨」であることが多い理由もわかってきますね。いくつかのレポートで描写されているように、親が自己中心的だった場合、子どもが幼い頃にこれらの反応(特に鏡転移)をちゃんと返してあげていないことが多いのです。だから、「厨」の子が「厨」になる可能性が高いんじゃないだろうか。もっともこれは、親がちゃんと反応してくれなくても、別のところで補償される可能性はあるし、個人差もかなりあるので絶対とはいえないのだけれど。
ということで、次号は彼らの怒りと暴力について。
▼
スズムシ:鳴き声でPTSD治療に効果 岩手大が研究、という記事があったのだけれど、実験の被験者が「ホラー映画を見た学生約70人」ってのはどうかと思います。ホラー映画を見ることが
PTSDの定義にあてはまるとはとても思えないんだけど。
だったらホラー映画ファンはみんなPTSDかい。
こんなのより、
EMDRの方がよっぽど効果があると思うんですが。
でも、学生たちが何の映画を見せられたのかはちょっと気になります。
▼おお、これは大発見。
火星の地下わずか1メートルのところに、莫大な量の氷が見つかったそうだ。氷塊は南緯60度のところにあり、この氷が溶けると、惑星全体に水深500メートルの海ができるほどだとか!
500メートルっていうとものすごい量なんですけど、本当だとしたら、これはかつて火星に生物が存在した有力な証拠になるかも。
NASAからの詳しい発表は木曜日だそうな。
▼さて、「押しかけ厨」の話を続けます。
「押しかけ厨」は、心の発達が幼児的な自己愛の段階に留まっているんじゃないか、というのが前回までのお話。でも、自己しか愛さないのなら、なぜ彼らは他人に執着し、求めるんだろうか。自己愛者が、ギリシア神話のナルキッソスのように自分だけ見てれば満足できるんなら、彼らも、我々も、みんな幸せに生きていける。でも、そうじゃないからややこしくなってくる。
自己愛段階の幼児にとって、価値判断はといえば快か不快か。快なものは自分に属していて、不快なものは自分以外、そして自分以外のもの=敵。赤ん坊にとって、お母さんのおっぱいが自分のものなのと同じですね。彼らにとっては「自分に快を与えるものは自分のもの」なわけだ。もうこれは無敵ですよ。だって、好きなものは全部自分に属することになるわけだから。彼らの誇大的な全能感はここから来てます。すなわち、彼らにとって、自分に快を与えてくれた同人誌の書き手=自分のもの、ということになる。
相手は自己の延長だから、別にその人のものを自分のものにしたって当然だし、夜中にも泊めてくれて当然。断られることなんて想像の外。怒るなんてどうかしている、ということになるわけです。これが、彼らが宿泊を求め、モノを盗む理由でしょう。
例えば、彼らのこうした台詞。
「あたしの方が(○○というキャラを)愛してるのに、そっちが持ってるのはおかしい」
「私が一緒に住むというのがどうして迷惑なの? Aさんの考えてることの方が分からない。私と住めるのよ、喜んでくれて当然でしょ?」
自分はこんなに愛しているのだから、それに答えてくれないのはおかしい、という発想ですね。自分が愛しているからといって、相手が愛し返してくれるとはかぎらない、というのが成熟した大人の発想なのだけれど、自己愛段階の幼児はそうは思わない。自分が愛しているものは自分のものなのです。
そして対象者があくまで拒絶すると、それは自己の延長じゃなくなる。
「失礼なのはAさんの方。私に対してあんな態度をとって。信じられない。あなたは自分の立場をよく分かってないんでしょう?」
さっきまで快を与えてくれていたことなんて関係ない。自分の思い通りにはならないもの、自己に属しないものはすなわち彼らにとっては憎むべき敵なわけです。
ということで、以下次号。
▼萩尾望都先生が来られたパーティに出席した妻に訊いてみたところ、
スズキトモユさんに羽生生純の話をしたのは妻らしい。なんか意外なところで意外な人とのつながりが。次回はチェックシートを持参するよう言っておきます(次回って?)。
▼さていよいよ「押しかけ厨」の心理の考察に入るのだけど、その前にまずひとこと。どうやら「押しかけ厨」は、エロトマニアでもなければ精神病でもなくって、パーソナリティの問題のようである(少なくとも中核群は)。となると、これは精神分析の考え方を利用するほかない(パーソナリティについて深く突っ込んだ考察をしたのは、精神分析の人たちだから)。しかし、私は精神分析があんまり好きじゃないのだ。私は精神分析医じゃないし、はっきりいって、精神分析はちょいとうさんくさいと思ってます。以下は、そういう人間による自己流精神分析的考察だと思って読んでください。
というわけで、考察を始めます。
「押しかけ厨」の大きな特徴とは何だろうか。
太っていること、ピンクハウス系の服が好きなこと、蛍光ペンを好むことも確かに特徴だけれど、やっぱりいちばんの特徴はといえば、その馴れ馴れしさ、押しつけがましさということになるだろう。彼らはちょっとイベントで話しただけですぐに「友達」関係になったと思い込むし、また、ペンネームを大声で呼ぶ、路上で萌え話をするなど一般常識にも欠けている点がある。
要するに社会的常識の欠如と自己中心性が彼らの大きな特徴である。フロイトっぽい言い方をすれば、超自我の形成不全と自己愛段階での固着、ということになりますか。これまでも多くの人に指摘されてきたとおり、それは「自己愛」の問題なのですね。
しかし、
「自己愛」(ナルシシズム)ってのはいったい何か。
それは、フロイトによれば心の発達の一段階です。フロイトは、心の発達を自体愛→自己愛→対象愛と進んで行くものと考えたのです。まず最初の「自体愛」というのはまだ自我が形成されておらず、自分の体の一部に性的愛着を持っている段階。指しゃぶりとか性器いじりとか、そういうのですね。
それに対して、「自己愛」というのは自我が存在するレベルまで心が発達しているのだけれども、愛情は自分自身に向かっている段階。そして「対象愛」というのは、愛情が他者に向かい、他者との関係がきちんと持てるようになる段階、というわけ。フロイトは、ざっとこういうモデルを考えたわけである。
ただし、その後自己愛性人格障害を深く研究したコフートはこれに異論を唱えてまして、自己愛は決して対象愛にとってかわられるものではなく、自己愛と対象愛は別のラインだと考えた。成長するに従って、対象愛も発達してくるけれど、自己愛の方も、未熟な自己愛から健全な自己愛へと発展するもの。コフートはそう考えた。コフートによれば、純粋な対象愛なんてものは存在しなくって、どんな愛情もある程度の自己愛を含んでいるものなわけです。私としては、フロイトの単純な直線的モデルより、こっちの方が妥当性があるような気がします。
まあ、どっちの考えを採用するにしろ、「押しかけ厨」は、心の発達が未熟な自己愛の段階に留まっている(あるいは退行している)ということになりますね。
ということで、続きは次号。
▼さて今回は、「押しかけ厨」の分類を試みる。
レポートの中には、「こりゃ押しかけとはちょっと違うだろ」という例もあるし(何人かの友人で泊まったとき金品を盗んでいった例とか、自分の作品をパクったと抗議してきた例とか)、「確かに押しかけては来ているんだけど、いわゆる『押しかけ厨』とは違うなあ」という例も(サークル解消の恨みから会社や自宅に押しかけて暴れた例とか)あったりする。
そこで、まずこれからの考察で扱う「押しかけ厨」の範囲をはっきりさせておこう。
まず、「押しかけ厨」を、大きく「定型例」と「非定型例」に分けてみる。定型例については後述するとして、非定型例に入るのはたとえばこういうタイプだ。
(1)性愛タイプ
恋愛もしくは性的な目的で押しかける。従来のストーカーとほぼ同じ。男→女のパターンが多い。
(2)自傷タイプ
部屋の前であてつけるようにリストカットするなど。境界例の色彩が濃い。
逆に、典型的な「押しかけ厨」には、自傷、自己像の不安定さなど境界例の特徴はほとんど見られない。人の家のドアやガラスは壊しても、自分を傷つけることはしないのが「厨」である。そして彼らは不自然なほどに自信に満ちているように見える。
(3)怨恨タイプ
対象者への恨みからつきまとう。
これらが、明らかに一般的な「押しかけ厨」とは違うということは納得してもらえるだろう。そこで、これらを除いた定型例の方を「狭義の押しかけ厨」ということにして、今後の考察の対象にすることにする。
さらに、狭義の押しかけ厨を、主として彼らの目的からいくつかに分類する。
「厨」の目的は、
厨タイサン!のページで(1)宿(2)お宝(3)本人、と簡潔に大別されているのだけれど、実際は目的がひとつであることはむしろ少なく、泊まりに来て萌え話がしたい、といってやってきてお宝を鞄に入れたり、弟子入りしたい、といいつつも実際はそんなに熱意があるわけではなく住居目的だったり、というパターンも数多い。
以下の分類も、便宜上のものであって、必ずしもどれかひとつに分類できるわけではないことは言うまでもない。
(1)対象者本人に対する執着がほとんど、あるいはまったくないもの
イベント前日の宿泊が目的のことが多い。泊めてくれることはもちろん、お菓子、食事などさまざまな身勝手な要求が通って当然と考えている。また、コレクションや金品を盗むこともある。部屋に入れると知らないうちに鞄の中に同人誌などを大量に詰め込んでいたりする。
男→男の例はほとんどすべてここに入る。
(2)対象者本人に対する執着がある程度はあるが、それほど強くはないもの
(2-a)友達タイプ
イベント前日ではないのに宿泊を希望し、友達になりたい、夜通し萌え話がしたい、あるいは同居したい、という。これも、別に対象者本人への愛情があるわけではなく、あくまで自分のジャンルのカプ話、萌え話がしたい(えーと、私には萌え話だけで一晩中語り明かせる、というのがどうもぴんとこないのですが、そういうもんなんですか)という欲望を基調としている。
(2-b)手伝いタイプ
頼んでもいないのに「手伝ってあげる」といって押しかける。
(2-c)前世タイプ
いわゆる前世厨。複数で訪れることが多い(29例中20例が複数)。これを(3)ではなくて(2)に入れることに疑問もあるだろうけれど、結局のところ彼らが固執しているのは対象者本人ではなくあくまで設定とキャラであり、対象はいくらでも交換可能なのでここに入れた。
(3)対象者に対する執着が非常に強いもの
(3-a)ファンタイプ
対象者の熱烈なファン。憧れの書き手と仲良くなりたい、弟子入りしたい、といって押しかける。
ただし、「押しかけ厨」の最大の特徴は「結局のところ自分しか愛していない」というところにあるので、純粋に(3)に当てはまるものは少ないようである。彼らは、相手に執着しているようでも、それは理想の自分を相手に投影しているにすぎないのである(だから、対象者の方が「厨」よりも年長の場合が多いのだ)。
有名な「太公望」さんの報告している例などは、熱烈なファンに該当すると思うのだけれど、内気だけれど深く思いつめるその性格やふるまいは、典型的な「押しかけ厨」とはかなり異なっているようである。とりあえず定型例の方に入れておくが、これも非定型例の方に入れたほうがいいのかもしれない。
さて、これらを「押しかけ厨」の中核群とみなし、考察を進める(なかなか本題に入らなくて申し訳ないのだけれど、一応必要な手続きと思って我慢してください)。
▼『古畑任三郎』『王様のレストラン』など三谷ドラマの常連だった俳優の
伊藤俊人さんが
急死。まだ40歳。残念です。
▼SFマガジン7月号届く。巻末の近況欄を見て初めて、自分が近況を送り忘れたことに気づく。しまった。
▼ようやく、
(=゚ω゚)ノぃょぅさんのサイトの押しかけ厨レポートを全部読み終える(きつかったよ、量的にも精神的にも)。
以前、レポートをあんまり読んでない段階では、思いつきで
「このところネットで話題になっている「押しかけ厨」も、このエロトマニアに分類できるものが何割かあるように思える」なぁんて書いてしまったんだけど、全部読んでみると、どうもエロトマニアの概念は「押しかけ厨」には当てはまらないことが多いようだ。
全レポートのうち、なんとかエロトマニアと呼んでもいいかな〜、と思える例が2、3例あるくらいのもの。エロトマニアとは「対象者から愛されている」と思いこむ「愛の病」であるわけなのだけれど、「押しかけ厨」の多くの例では、対象者への愛がまったく感じられないし、愛の感じられるものも、「相手から一方的に愛されている」(これがエロトマニアの特徴である)と信じているものは少なく、むしろ「自分はこんなに愛しているんだから愛し返されて当然。愛し返さないあなたはどうかしている」という信念であるようなのですね。
どうやら、エロトマニアの考え方では「押しかけ厨」は理解できないようだ。というわけで、以前の推論は撤回させていただきます。
そこで、今度は改めて「押しかけ厨」について、実証的に考察してみることにする。
大量のレポートの中には、当然ネタも含まれてはいるんだろうけれど、それを確かめることは不可能。さらにすべてがネタとも思えない以上、それらのレポートはある程度まで事実を反映しているものと考え、一切選別することなく、すべてのレポートを検討してみることにした(あんまり新しいものは決着がついていないものが多いので、検討対象にしたのは合宿所69まで。あと、プチネタ集は対象外とした)。
そうすると、検討対象のレポートは全部で178本。そのうち「69-63 勘違い」は自分が押しかけ厨に間違えられた体験談なので除く。また、「53-543 107枚厨」と「29-414 ゴルァ!!」には2例ずつの押しかけが紹介されているのでそれぞれをカウントすると、全部で179例ということになる。
では、レポートの分析を始めます。
まず、「押しかけ厨」の性別でわけてみると、女性が圧倒的に多く141例、男性20例、男性+女性6例、不明12例。
逆にターゲットとなった対象者の性別でわけてみると、女性133例、男性26例、男女1例、不明19例(書き手の性別の手がかりがなかったので不明としたが、ほとんどが女性だと思われる)。こちらも女性が多いのだけれど、これは「同人板」という性質上当然のことと思われる。
「厨」の人数は1人の場合が104例と最も多いが、複数例も65例。もっとも大人数の例は18人であった(47-97 18人の厨)。
「厨」の年齢は未成年と思われるもの82例、成人と思われるもの26例、不明64例(残りは複数例で未成年から成人までまたがっているもの)。やはり未成年が多い。
それに対し、対象者の年齢は不明の場合が多いが、未成年16例、成人56例と成人が多いのが特徴である。
「厨」の体型については、「コニー」(KONISIKI のごとく太っている同人女のこと・
2典より)が多いというのが定説になっているようだけれど、メールのみでの接触など本人の姿を見ていない18例を除けば、1人でも「コニー」「プチコニー」など太めの人物を含む例は45例、「普通」「やせている」といった例は14例、体型についての記述がないのが102例。太め率は約28パーセント。これが、同人女性の平均より多いのか少ないのかは私には判断がつきかねる。
家族については、いわゆる「親厨」が25例あったが、普通の親であったという例も32例(残りは親との接触なし)。確かに「厨の親も厨」である率は高いといえるが(44パーセント)、必ずしもそうともいいきれないようである。
あと、いわゆる「前世厨」は29例だった。
ということで、今回は基本的なデータのみ。「押しかけ厨」の分類、心理などさらなる分析は明日以降にしたいのだけれど、私は女子同人界については全然知らないので、見当はずれなところがあったらご教示ください。
▼野田昌宏
『図説異星人』(河出書房新社)購入。お約束の「美女とベム」が満載。ところで、
Frank R.Paulという画家の名前は「フランク・R・パウル」と呼び習わされているけれど、Paul McCartneyは「ポール・マッカートニー」、Paul Austerは「ポール・オースター」なのだから、英語読みでは「フランク・R・ポール」になるはずじゃないのかなあ。なぜ「パウル」なんだろうか。
▼
精神分析医ってのは自称です。そういう職種があるわけでも、資格があるわけでもありません。ただ、誰でも精神分析医を名乗れるというわけでもなく、普通は、精神分析のトレーニングを受け、教育分析を受けた精神科医のことを指すのですが、斎藤環氏は教育分析を受けていないので精神分析医じゃありません。
アメリカ映画なんかじゃ寝椅子に寝そべって……という精神分析の光景をよく目にしますが、ああいう本格的な精神分析治療を行っている医師は、日本にはほとんどいないでしょう。「精神分析的な考え方を取り入れた治療を行っている医師」ならいっぱいいますが。
あと、斎藤環氏のわかりにくい文章ですが、ラカン派の書く文章はみんなこんなもんです。(1)数学用語を変な使い方で使う(黄金比とか)、(2)「大文字の他者」とか「父の名」とかの用語を説明なしに持ち出す、(3)ラカンの文章をまるで聖典のように引用する(でも、その引用文だけでは意味がわからない)、この3項目が当てはまればその著者はラカン派です。
▼私の同業者が
ナイフ2本を振り回して暴れ、警官に両足を撃たれたそうな。やれやれだ。
この医師、酒に酔い、飼い犬に腕をかまれて逆上、逃げた犬を探してうろついていたのだそうだ(ナイフを2本持って)。
ちなみに、この医師の経営するクリニックは、
ドッグ・セラピーで知られていたらしい。
××院長は、ドッグ・セラピーの効果として、メンバーの表情の変化に加え、イヌの世話をしたり、イヌの体調を心配したり、さらに高齢者のメンバーに席を譲ったりと、イヌに対しても人に対しても思いやる気持ちが芽生えたことを強調していました。
▼
ちはらさん、
のむのむさん、尾山ノルマさんと、日暮里のペルシャ料理店「ザクロ」へ。この店には
1年前にも来たことがあるのだけれど、店の雰囲気はそのときとはだいぶ変わってました。前回はテーブルと椅子のある普通の店だったのだけれど、今回は絨毯の上に靴を脱いで上がるスタイルに。しかもちゃぶ台があるわけでもなく、料理は床とほぼ同じ高さの台に置かれるのである。
その上、1年前とは比べものにならないほどの混雑ぶり(ちょうど28人もの団体客と同席になってしまった不運もあったけれど)。1年前には「これぞ東京の穴場。あんまり人に知られたくない名店である」に書いたけれど、どうやら、穴場というには人に知られすぎてしまったようである。
しかしながら、コストパフォーマンスのよさはいまだ健在。私たちが頼んだのは、ひとり3000円の、その名も「食べきれない飲みきれないコース」。自慢じゃないが我々は全員欠食児童。我々に食べきれないコースなどない、と半ばたかをくくっていたのだけれど、本当に、これでもかといわんばかりに、台の上がいっぱいになるほど料理が運ばれてくる。ナンはいくらでもおかわりが来るし、イラン独特のソフトドリンクまで頼みもしないのに次々と出てくる。おまけにビール、ザクロサワーは飲み放題。しゃべるヒマなどありません。もう、ひたすら食べるのみ。
もう食べきれない、と思っていたら、最後には「本当はこれはコースには入らないんだけど、スタッフのまかない飯です」という煮物まで登場。もちろん、ベリーダンスも見られる。
しかし、恐ろしいことに、それで終わりではないのである。料理のあとは水タバコ(気分は清朝末期の阿片窟)を体験させてくれるし、ナッツ類、ナツメヤシ、クッキー、かき氷などなど10種類以上のデザート。いや、これはもう本当に食べきれないです。たかが3000円と見くびっていた私がバカでした、ごめんなさい、と思わず謝りたくなってしまうほどの量なのである。
食べ終わったあともしばらく腹がいっぱいで動けず、団体客が帰ってしまいがらんとした店内でだらっとしていると、イラン人の店長がふう、とため息をついて隣に座る。思わず「お疲れ様でした」と声をかける我々。唯一日本語がしゃべれる店長は接客に追われ、戦場のような忙しさだったのである。前回来たときも、彼は「忙しくて休む暇もない」とぼやいていたけれど、1年たって、ますます忙しさに拍車がかかっているような……。
店長からはいろいろと貴重なお話をうかがうことができたのだけれど、聞いているうちにわかったのは、最後にまかない飯まで出たのは、「『食べきれないコース』なのに全部食べていたから、コースにない料理まで出した」とのこと。
勝負だったのですか。
それより、そんなことで客に勝負を挑んでどうしますか。
正直言って、それほど混んでいなかった1年前の方が料理の質はよかったし、居心地がよかったのは確かなのだけれど、それでも私この店が大好きです(特に店長のキャラクターが最高)。
▼E・E・スミス
『グレー・レンズマン』(創元SF文庫)、ニール・スティーヴンスン
『クリプトノミコン2』(ハヤカワ文庫SF)、ピーター・ストラウブ
『ミスターX』(創元推理文庫)、武田泰淳
『十三妹』(中公文庫)(→
【bk1】)、マーティン・ミラー
『ミルクから逃げろ!』(青山出版社)(→
【bk1】)購入。
『ミルクから逃げろ!』は、牛乳アレルギーの青年が牛乳販売会社に雇われた女殺し屋に命を狙われるというスラップスティック・コメディ。著者マーティン・ミラーは『魔術探偵スラクサス』のマーティン・スコットの別名なので、『スラクサス』が気に入った方はお見逃しのないよう。
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たかはしさんの「臨床的事実」について。
東浩紀『郵便的不安たち#』はまだ読んでないので、斎藤環氏の解説を読んだだけの印象で書くのだけれど、たかはしさんが言及しているのは、解説の中のp.431〜432あたりのところだと思います。
斎藤氏は、「なぜそのように言いうるか。一つは臨床的根拠からだ」(「一つは」と書いているわりには、その後ろのどこを読んでも、そのほかの根拠が見つからないのが不思議なのだけれど)と書き、それから分裂病についていろいろと語っているわけですが、分裂病の二重見当識については、精神科の教科書を読めばたいがい載っていることなので、別に分析医の特権的体験がなくても語れることだと思います(だいたい、斎藤環氏は精神分析医じゃないし)。
ただ、やっぱり実際に診ている人間ならではの説得力というものはありますね。寿司の握り方について私が言うのとその道30年の寿司職人が言うのとでは違うように。「特権的体験」というのは確かにあるにしろ、別に分析医にかぎらずどんな職業、どんな人間にでもあるものだと思うんですが。
でも、ここで(東浩紀氏を含め、多くの人にとって馴染みのないであろう)分裂病を持ち出す(しかも「過度に理念的なモデルとしてのそれ(分裂病)」などというよくわからないものを)のは、私もちょっとズルイと思いますね。
斎藤環氏の現代思想的・ラカン的タームを駆使した文章は、正直言ってコムズカシクてよくわからんことも多いのですが、なんとか解読して論理の流れをみてみると、東氏のAという命題(A=複数の超越論性)を否定するために、斎藤氏はAならば必ずBになり、BならばCになってしまう、そしてAとCは矛盾する、ということを論証しようとしているようです(B=複数の超越性、C=解の単一性)。そして、その根拠として持ち出すのが、「分裂病の場合Bであり、そしてCである」という「臨床的根拠」なわけです。
なんとなく説得されてしまいそうになるんだけど、よく考えると、これは根拠になってないような。Bであるのは分裂病の場合だけなの? それに分裂病の場合でも「BならばC」と常に言えるの? そもそも「過度に理念的なモデルとしてのそれ」なのに「臨床的」とはこれいかに? という反論はアリでしょう。
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世界を図書館にするプロジェクトBookCrossing.com。合言葉はリード&リリース。参加者は、読んだ本に
ラベルを貼って公園のベンチや喫茶店にわざと置き忘れたり、バザーに出したり友人に譲ったりして、BookCrossingのサイトに報告。たまたまそれを拾った人がラベルに書かれたURLにアクセスしてプロジェクトを広めていくらしい。現在、3000冊以上の本が世界のどこかにリリースされているそうな(そのほとんどはアメリカだけど)。
日本にも、千葉のホテルのロビーと、サンフランシスコ発大阪着の飛行機のシートに1冊ずつあるらしい。
たぶん実際は、何も知らない人が回収するか捨ててしまうケースが多いと思うのだけれど、「世界を図書館に」というイメージには心惹かれます。
▼別に私が書くまでもないニュースだけれど、
推理作家協会賞長編賞に古川日出男『アラビアの夜の種族』と山田正紀『ミステリ・オペラ』。どちらも傑作なので順当なところだと思いますが、最近何年かこの賞は2作同時受賞ばかりなのはどういうわけだろうか。
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また米田さんが私について言及していて困惑。
患者のプライバシーについては、医者として当然配慮しなきゃならない問題だし、医師法にも定められてることですから、もちろん気を遣ってますよ。紹介している症例は公刊された論文に書かれているものを使い(書店で誰でも買えます)、自験例についてはなるべく書かないようにしているし、自分の体験を書く場合にはディテールはぼかすか適当に創作を加えています。このくらいは当然でしょう。
私は不愉快に思っているのだが、それは私の考えであり、表明すべきかどうかは分からない。
こういうのは「表明している」とは言わないのでしょうか。別に私は米田さんについて含むところはないし、議論をする熱意もこれっぽっちもないのですが、「私はあなたを不愉快に思っているけれど言うべきかどうかわからない」とか言われたら、そりゃ私の方だって不愉快になります。
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スティーヴン・ジェイ・グールドが死んでしまった。60歳は若すぎるよ。わかりやすくおもしろい科学エッセイを書ける科学者は少ないので残念でなりません。