▼妻が
「ゆずこしょう」なるものを買ってきた。なんでも、九州名産のスパイスなのだそうだけれど、関東出身の私は聞いたこともない。
箱を開けてみると、ビンに入っていたのは緑色のどろりとしたペースト。なんとなくタバスコみたいだ。粉末じゃないのか。原材料の欄には「ゆず、唐辛子」とある。なんと、胡椒は入ってないのである。ゆずこしょうなのに。なんでも
「九州地方では唐辛子のことをこしょうといいます」なのだそうだ。本当ですか、それは。
このゆずこしょうは「青」で、青唐辛子で作ってあるのだけれど、赤唐辛子で作られた「赤」もあるそうだ。ますますタバスコである。
鶏肉につけて食べてみたのだけれど、味もなんだかゆず風味のタバスコ。でも、辛いもの好きの私はとても気に入りました。
ちなみに、このゆずこしょうを作っている竹下商店のサイトは、その名も
www.yuzukosyou.com。
▼
爆弾地点つなぎ「にっこりマーク」 米容疑者が動機供述。マンガや映画にはこういうことをする人がよく出てくるけれど、実際にやってしまうとは。何か、現実世界で密室殺人に出くわしたかのような、ある種の感動を覚えます。しかし、「にっこりマーク」という言い方はないんじゃないか>asahi.com。
この手の映画でいちばん記憶に残っているのは、ハンブルクの街で会社や邸宅に侵入し、金庫の金を燃やしては四十七士の名前を書き残すという事件が相次ぎ、地図上でその場所を結んでいくと巨大な「大石」という文字が出現する、という『ベルリン忠臣蔵』ですね。犯人は、自分は大石内蔵助だと主張するドイツ人で、実は浦島太郎。意味不明だと思うけれど、実際そういう話なのだ。そういえば、舞台はハンブルクなのに、邦題は『ベルリン忠臣蔵』。なぜだ。
▼
ハッブル宇宙望遠鏡チェーンメールなんてものがあるらしい。ハッブル宇宙望遠鏡の設計図を5万ドルでつかまされた書き手が、自家製ハッブル望遠鏡の作り方を紹介する……というジョークメール。
▼きのうのへなへな教は反応が全然なくてがっかり。やっぱりみんな知らないの、へなへな教?
▼なんか拍子抜け。
なんとなくわかってきたのだけれど、米田さんは「残酷」という単語に、辞書的な意味を超える個人的意味を込めているのではあるまいか。米田さんの言う「残酷」の意味がとりにくいことが多かったのでそう思った。
▼昔、
「へなへな教」というサイトがあったのだけど、覚えている人はいるでしょうか。
確かサブタイトルが「摂氏25度の楽園」。私のお気に入りのサイトだったのだけれど、今ではもうなくなってしまい、どこにも見当たらない。
「へなへな教」というのは、へなへなした人が、へなへなしたままに生きていくことを肯定する宗教。無理をせず、困難に立ち向かわず、楽に幸せになるための宗教。
その後話題になった「だめ連」の発想にちょっと似ているけれど、「へなへな教」は、だめ連のようにより集まったりイベントを企画したりするんじゃなく、ただ己の心の中で実践するだけ。「へなへな教」は、あくまでへなへなと、ネットの片隅にひっそりと存在していた。そのつつましさが、とても好ましかった。
作者も教義を自ら実践してへなへなしていたからか、サイトは全然アップデートされていなかったのだけれど、それでもよかった。私は、ときどき、思い出したようにそれを見にいってはなごんでいたものだ。しばらくぶりに見たいな、と検索してみて、消滅したことを知ったときにはショックを受けましたよ。
ただ、どうやらへなへな教が忘れられない人は私だけではないらしく、
へなへな教のテキスト部分だけを再現したページがあります。ああ、でも私の記憶では、このほかにもへなへな教の歌とかいろいろあったはずなんだけどなあ。
インターネット・アーカイヴにならあるかな、とも思ったのだけれど、残念ながら存在しなかった。へなへな教は、この世から喪われてしまったんだろうか。
あと、好きだったサイトつながりでいうと、へなへな教とは全然方向性の違うサイトだけれど、ピクルス・スピン(略称ピクスピ)というサイトも好きでした。文体とデザインに凝りまくったサイトで、その後のテキストサイトに大きな影響を与えたんじゃないかなあ。今じゃもっとナチュラルで肩肘張らないスタイルがテキストサイト界の主流になってますけどね。ああ、あの文章がもう一度読んでみたい。
▼山田風太郎
『怪談部屋』(光文社文庫)、日下三蔵編
『佐藤春夫集』(ちくま文庫)、ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ
『嘲笑う闇夜』(文春文庫)購入。今月もまた、我が同級生日下三蔵の活躍ぶりには頭が下がります。
▼ううむ、こんなことを言うとまた絶望されてしまうのかもしれないけれど、やっぱり私には
米田さんのおっしゃることはよくわかりません。
「あのソマリアを舞台に『ストーリーがあってメッセージがある映画』を作る残酷さには思い至らなかったのでしょうか」の「残酷さ」がどういう意味だかよくわからないし、私の書いたことのどこが
「消極的なユニラテラリズムに対する伏線」になるのかもよくわからない。
「映画好きを自称するのだったら映画の背景情報ぐらい見ておかないといかんのでは?」という点については、「映画を存分に楽しむためになるべく余計な情報は入れないようにする」というまったく逆の立場もあるでしょう。
それに、やはり米田さんが語っているのはソマリアでの戦争についてのように思えます。私は別に国際情勢を語っているわけじゃなくって、リドリー・スコットが撮った一本の映画について語っているんですが。
確かにソマリアの戦争には膨大な背景があるわけで、そのすべてを描くことはできません。何も背景を描かないことで兵士の体験している戦場の混沌を表現しているのだ、という評もあるのだけれど、私はそうは思いません。背景を描かないのではなく、膨大な背景の中のどこをどう切り取って一本の作品にするかが、監督の力量というものでしょう(たとえば『アポロ13』はうまく切り取ってますよね)。
あの映画だと、ソマリアのことを全然知らない私のような客は完全においてけぼりになってしまいます。でも、そういう客にも理解できるように描くのが監督の仕事なのでは。そして、私としては、予備知識がなければ状況すら理解できないような映画には、高い評価は与えられないのです(きのう「あの映画は私には評価できません」と書いたのは「高い評価はしない」という意味です)。
たとえば『Xメン』とか『スパイダーマン』みたいな映画の場合だと、原作になっているアメコミには何十年にも及ぶ膨大なストーリーの蓄積があるわけです。でも、決して、原作を読んでなきゃわからない映画にはなっていない。そしてまた、原作を読んでいればいたで、ああ、このキャラはこのあとこうなるんだよ、とか、さらに深い楽しみ方があるようにできてます。『ブラックホーク・ダウン』も、ソマリアになじみのない観客にも一本の映画として完結していて、しかも現代史の知識があればさらに深い理解が得られる、という作品ならよかったのに、と私は思います。
確かに物語をかく上で「どこまで描くか」というのは難しい問題です。説明の省略が絶妙であればスタイリッシュでかっこいいという評価が下され、下手であればなんだかわからない、という評価が下されます。説明しすぎれば野暮といわれます。でも、無責任なようですが、それはもう書き手の側が自分で試行錯誤のうちに距離感をつかむしかないのでは(『エスコート・エンジェル』だけを読んだ上での感想ですが、私としては米田さんの作品は説明過多な部分と、逆に説明の少なすぎる部分のバランスがとれていないように感じました)。
それから、米田さんは、背景説明と映画の解釈をごっちゃにしているのではないでしょうか。
「一番の要点は『火星に人を送り込める国が、あの街路の一ブロックを渡ることが出来なかった』という絶望であり、それもまた説明せねばならなかったのでしょうか」という部分は、米田さんが映画を観た上での解釈であり、それは背景説明の問題とは別でしょう。米田さんがそれを要点だと感じたのならそれはひとつの解釈だし、別に人に押しつけるようなものではないのではないかと。
また、
「これを見ていると、娯楽性だなんてもんじゃなくて、明らかにアメリカ人に対して『無用に戦争するとこうなるぞ』というメッセージでしょう。娯楽映画ではないことがナゼ分からないのか」とか
「劇場のサウンドとスクリーンでアメリカ人に対して警告したのだ」とかいうのもやはり、米田さんの解釈であり、決して万人が納得するものではないでしょう。私としては、『ブラックホーク・ダウン』には、戦場疑似体験アトラクションという娯楽映画としての要素がかなりあると思ってます。
さらに、
「『強襲部隊』というノンフィクションをもとにしているのだから、映画もノンフィクション再現映画である」というのも無理があります。『ビューティフル・マインド』やら『パーフェクト・ストーム』やら『ゾンビ伝説』やら、ノンフィクションを原作としたフィクション映画はいくらでもあります。むしろ、どうあってもフィクションにしかなりようがない(だって監督が演出して俳優が演じているんだから)映画をノンフィクションだと誤認することの方が危険なのではないでしょうか。
小説でも映画でも、送り手の意図がそのまま受け手に伝わるものでもないし、だからこそ解釈、批評の余地が生まれてくるのではないのですか。むしろさまざまな解釈がありうるからこそ、小説や映画というのはおもしろいのだと思うのですが。米田さんの
「文脈をつかむ>想像し類推して描かれなかったことを補完する」という言い方でいえば、送り手の思いもよらなかったような文脈と結びつけて読むのが、受け手の側の楽しみであり特権だと思うのです。
▼井上章一の本格的パンチラ論
『パンツが見える。』(朝日選書)(→
【bk1】)購入。これはおもしろそう。
▼なんだか今ごろになってまた『ブラックホーク・ダウン』の感想が
米田さんからリンクされていて戸惑っているのだけれど、私の意見としては前にも書いたとおり「映画としての評価と、事実の評価はわけて考える」に尽きます。兵士がいかに絶望的な状況で戦っていたからといって、そんなことは映画の評価とは全然関係ない。私が評価しているのは、あくまで映画であって戦争ではないのです。
そして、日本人にとってソマリアでの戦争はまったく馴染みのないものである以上、あまりにも背景説明が足りないあの映画は私には評価できません。少なくともあの映画を観ただけでは、その背景はさっぱりわからない。アメリカ人にはあれでいいのかもしれないけれど、世界に配給される映画としては説明不足としかいいようがない。
それに、私が「映画通」だというのは過剰評価にすぎますね。私は単なる映画好き(しかもかなり偏った)にすぎないのですけれど。
あと、現在のロボトミーへの評価が後知恵であることくらい承知してますよ(ただし、ロボトミーについては、当時から反対意見も強かったのですが)。よかれと思って患者にロボトミー術を施行した医者もいるでしょう。現場の人間は必死だったかもしれません。私は別にそういう人をバカにしたりさげすんだりはしていません。一生懸命だったんだろうなあ、とは思います。でも、当事者が一生懸命であったからといって、その人のしたことが正当化されるわけではないでしょう。
もしかしたら、電気ショックが今また再評価されているように、ロボトミーへの評価もいつの日かくつがえされるかもしれません。でも、今の時点で過去の出来事を評価(批評)しておくのは意味のあることなのではないでしょうか。もちろん、あくまで今の時点での評価だということを承知した上でですが。そして、評価(批評)するということは、決して単純に善悪で切るということではありません。米田さんは、「評価(批評)」と「善悪二分法で切る」ということを混同しているのではあるまいか。
「不思議なのが患者に接しているはずなのに、患者がどのように苦しんでいるのか、あまりご存じでないような記述が時折見られるのがいつも不思議である」ということについては、そのように受け取られたのであれば、私にも反省すべき点は多分にあると思います。
念のため言っておけば、私は新天地に移りパートナーを得た米田さんの病が癒えることを、心からお祈りしています。ただ、それと米田さんの書く作品の評価は、まったくの別問題です。米田さんが深く苦しんでいることには精神科医として、いやひとりの人間として痛ましい思いを感じますが、(この文章の最初の段落の文を繰り返すなら)作者がいかに絶望的な状況で戦っていたからといって、そんなことは作品の評価とは全然関係ない。私が評価するのは、あくまで作品であって作者個人ではないのです。この点に関しては、私はいくらでも非情になります。
それにしても、どうして朝日新聞の記事が私への批判に結びつくのか、私には理解しがたいのですが……。
▼
以前紹介した、
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の続編『二つの塔』は9.11.テロを思い出させるから改題しろと
テロとは全然関係ないんだから改題するなの二つの署名運動、4月30日の段階では、951人対178人だったのだけれど、その後逆転して1167人対1954人になってます。善哉。『ロード・オブ・ザ・リング』については
こんな署名運動も。
▼
「武力攻撃のおそれ」では武力行使できないのに、「再犯のおそれ」で人を強制入院させることができる、ってのはどう考えてもおかしいと思う。
▼一日、原稿書き。
▼山岸真編
『90年代SF傑作選』(ハヤカワ文庫SF)(上→
【bk1】、下→
【bk1】)読了。さすがに傑作選だけあって、レベルが高い作品ばかり。いつものように◎○△×で評価をつけると◎と○ばかりになってしまいそうなのでやめておきますが、印象に残った作品を挙げるならばショーン・ウィリアムス「バーナス鉱山全景図」、テッド・チャン「理解」(牧野修の『MOUSE』にも似た言語バトルのスタイリッシュな描写が素晴らしい!)、イアン・マクドナルド「フローティング・ドッグズ」、グレッグ・イーガン「ルミナス」、ロバート・リード「棺」といったところ。総じて下巻の方が秀作が多かったような。
しかし、海外SFには、東浩紀さんがSFセミナーで語っていたようなポリティカルなテーマを扱った作品がけっこう多いですね。こうした問題に取り組んだ作品が少ない、というのは確かに日本SFの弱点であるような気がします。
▼確かマーティン・ガードナーの本だったと思うのだけれど、こんなマジックが載っていたのを覚えている。うろ覚えなので細部は私が適当に補完したものである。
2人組のマジシャンがいる。1人はステージに立っており、もう1人はステージにはいない。まず、ステージに立っている1人が、客席から2人のお客さんを選び、ステージに上がってもらう。お客さんの1人には1組のトランプの中から5枚のカードを選んでもらい、もう1人にはさらにその5枚の中から1枚を選んでもらう。
マジシャンはその1枚を観客に示し、覚えてもらう(ステージのマジシャンもそのカードを見ていい)。
さて、ステージ上のマジシャンは残った4枚のカードを重ね、封筒に入れて封をする(もちろん封筒にはカードのほかには何も入っていないことを観客に確かめさせてある)。そしてホテルのボーイを呼んで封筒を渡し、ホテルの部屋番号を告げる。相方はその部屋にいるのである(たぶん、このショーはホテル内にあるホールで行われているのだろう)。ボーイは部屋をノックし、ドアの下の隙間から封筒を入れる。そうすると、やがて別の封筒が隙間から差し出される。
ボーイはそれを持ってステージまで戻る。ステージ上のマジシャンが封筒を開けると、中には1枚の紙が入っており、そこには確かに観客の選んだカードのマークと数字が書かれているのである。
このマジック、やたらと手間がかかるわりに見栄えがしないし(実際にカードを当てるマジシャンがステージ上にいない、というのは致命的である)、今じゃ携帯電話など外部と連絡を取る方法はいくらでもあるので、実際に演じるのは難しいと思うのだけれど、カードを当てる方法がなかなか数学的でおもしろい。
ホテルの部屋にいたマジシャンは、4枚のカードという情報だけから、残る1枚のカードを当てるのである。
仕掛けは、カードの並び順にある。スペード>ハート>ダイヤ>クラブといった序列を決めておけば、任意のカードの大小を定義することができる。そうすれば、その並び順によって情報を伝えることができるわけだ。ステージ上のマジシャンは、カードを封筒に入れるときに並べ替えていたのである。伝えられる情報量は、4!=24通り。しかし、これでは1組のトランプの中からカードを特定するには至らない。
実は、相方のいた部屋は2部屋続きのスイートルームになっており、ボーイに伝えた部屋番号が最後の情報になっていたのである。これで24*2=48通り、カードの枚数は52枚-情報伝達に使われた4枚で48枚だから、その中の1枚を特定できるわけだ。
これをはじめて読んだときには、任意に選んだわずか4枚のカードでこれだけの情報が送れる、ということに驚いたものである。
しかし、よく考えればスイートルームなど使わなくても、封筒にカードを入れる方法(表を上にするか裏を上にするか)で2通りの情報を伝えられると思うのだが……。このへんがどうなっていたのかはうろ覚えなのでわからない。また、もし裏の模様が上下非対象なカードであれば、さらに2^4=16通り、合計にして48*16=768通りの情報が伝えられることになる。また、カードごとに表にするか裏にするかを決めれば(これは封筒に入れるときの動作が明らかに不自然になってしまうが)6144通りである。
そういえば、棒1本だけあれば無限の情報が伝えられる、という記述も読んだ覚えがあるぞ。発信者は棒1本を厳密な長さで切断するのである。受け取ったほうはその長さを測る。0.5812593845859403....メートルならば、5812593845859403....がメッセージなのである。もちろん摂氏20度のとき、などと条件は厳密に決めておかなければならないけれど。
このアイディアが出てきたのは、確か何かのSFだと思うんだけど、なんという小説だったっけなあ。
▼夜まで寝てからごそごそと起き出し、
『スパイダーマン』を観に行く。
いやあ、おもしろかった。とにかく、糸を飛ばしてビルの谷間を高速ですり抜けていく爽快感が最高。
それに、「悩めるヒーロー」としてのスパイダーマンも十二分に表現されていたのがすばらしい。正義のために戦っても誰も理解してくれず、かえって愛する者を次々と失っていかなければならない悲しみ(堺三保さんなら原作との違いとかいろいろと語れるのだろうけれど、私は読んでないのでなんともいえないのだけど。原作とどこが同じでどこが違うかは、
このへんを読めばわかるかも)。
サム・ライミ映画としては、『死霊のはらわた』とか『ダークマン』とかのハチャメチャさは影をひそめ、大予算ならではの端正な映画に仕上がっているのだけれど、これはこれでオリジナルへの敬意にあふれたオタク監督ライミらしい映画である。同じサム・ライミ監督で続編の製作も決まっているそうだけれど、これは『バットマン』以来のアメコミ原作ものの傑作シリーズになるかもしれない(そういえば、音楽は『バットマン』と同じダニー・エルフマンなのでなんだか似た印象があるなあ)。
ヒロインのキルスティン・ダンストは、私には最後までかわいいとは思えなかったのだけれど(なんでもまだ10代らしいのだけれど、私には30代くらいに見えたよ)、まあ、たまたま隣に住んでる幼馴染みの女の子を好きになってしまった純情青年の話なので、別に客観的にみてかわいい必要はないのかも。あと、メガネくん映画としては、主人公が早い段階でクモの力で視力が改善してしまい、それ以降メガネをかけなくなってしまうところがマイナスかも。
そうそう、ライミ映画の常連ブルース・キャンベル(顎が目印)は、今回もまたどこかに出ているので探してみよう。
妻はこの映画を大絶賛(平井和正ファンの妻は、当然スパイダーマンにも思い入れがあるのだ)、『ロード・オブ・ザ・リング』を抜いて今年観た映画のトップだ! とまでのたまっておりました。そこまでとはいわないものの、私も見て損はない映画だと思いますね(★★★★☆)。
▼アメコミつながりで、
THE HULKの予告編。ライミと違い、アン・リー監督にはアメコミの素養がないと思われるので、いささか心配。
▼SFセミナー!
私は裏方なので特にレポートは書きませんが、北野さんの落研で鍛えられた話芸、奥泉光さんの明晰な話術には感嘆。私は、奥泉さんはもっと訥々としゃべる人だと思っていたよ。いや、勝手な思い込みだけど。
夜企画では、なんといっても東浩紀さんの「オタク第3世代は、本当に動物化しているのか?」。これはもう、聞き手のはずの大森望さんを遥か遠くに引き離しての東さんの一人舞台。あまたの反論をばったばったとなぎ倒す東さんの話術、というかディベート力には関心するのだけれど、肝心の「本当に動物化しているのか?」という問いには明確な答えがでなかったのが残念。激論は空の白み始めるまで行きつ戻りつしながらも延々と続き、聞いているほうも朦朧としはじめてきたのだけれど、東さんのテンションはまったく落ちず。やっぱりすごいわ、この人は。
ちなみに、東さんがもっとも激しく反論していたのは、小川びいさんが「○○年のSPAで、東さんはセーラームーンのことをチャイルドアニメだと書いてました。それ以来私はあなたのことは信用してません」と述べたときだったり。東さん曰く「それは編集者が勝手に書いたものです。オレがそんなこと書くはずがない! だって、オレはセーラームーンは全部見てるんだから!」
こういう話芸にすぐれた人たちの語りを聞いていると、私も話術を磨かなきゃならんな、と思うことしきり。
▼アメリカの
国立科学財団(National Science Foundation)のサイトに、
Science and Engineering Indicatorsという調査結果が掲載されている。
中でも興味深いのが、
SFと疑似科学についてのページ。回答者の41パーセントが「占星術はある程度科学的だ」と答えた、とか、疑似科学関係の記述もおもしろいのだけれど、私としては、それよりもおもしろかったのはSF関係の記述ですね。
まず、いきなり「SFに関心を持つことは、人々が科学について考え、科学に親しむのに役立つだろう。SFへの関心は、職業としての科学に興味を持つための重要なファクターなのかもしれない」とくるのだ。おお、国家機関の報告書でSFが推奨されるなんて。
科学者は、自分が科学の道を選んだきっかけとして、子供の頃からSFが大好きだったことを挙げることがよくあるし、ある研究によれば、SF小説を好むことと宇宙開発を支持することには、強い関連性があったのだそうだ。
ということで、SFについての調査報告に入るわけですね。
なんでも、アンケート回答者のうち30パーセントがSFの本や雑誌を読む、と答え、また、SFを読むことと教育レベル、科学技術への関心の間には正の関連性があったそうな。さらに、SF読者には男性が多い、という思い込みに反し、男性の31パーセント、女性の28パーセントがSFを読むと答え、男女差はほとんどなかったそうだ(
表:要エクセル)。
また、男性の35パーセントが「スター・トレック」のシリーズのうちいずれかをいつも(12パーセント)またはときどき(23パーセント)見ていて、女性は28パーセント(いつも10パーセント、ときどき18パーセント)。スタトレを見ることと教育レベルの間には関連はなかったとか(笑)。あと、「Xファイル」は、高い教育を受けた人はあんまり見ない傾向があったとか(
表:要エクセル)。
日本でもこういう調査をやってくれないかなあ。でも、日本SFに、科学に親しむきっかけになるような作品があるかというと……『太陽の簒奪者』くらいしか思い浮かばないのが寂しいところ。
▼東京新聞最終面の「TOKYO発」というコーナーにある「東京解剖図鑑 顔」というコラムがおもしろい。
このコラム、もともとは東京に住むいろんな人たちを顔写真入りで紹介するという趣旨だったのだけれど、今じゃもう東京以外でも何でもあり。このあいだはイリアンジャヤで探検をしている
シンガーソングライター峠恵子さんが紹介されていたし、今日取り上げられていたのはイスラエルはエルサレムにいる中野裕治さん(28)という人。
この名前、見覚えがありませんか。そう、戦下のベツレヘムにふらふらと迷い込んでいるところをマスコミに保護されて世界的ニュースになった、あのカップルの一人なのですね。
話題の人の単独インタビュー! なのだけれど、記者は別に肩肘張ることもなく、自分の意見を押し出すでもなく、下町の魚屋や渋谷の女子高生を紹介する通常のコラムの枠内で、実に淡々と彼の言葉を伝えてます。そこがいい。見出しは「立ち寄り先のイスラエルで戦車に驚く」。
1週間前にイスラエルに来た。日本人の観光客はほとんど見かけない。ベツレヘムに行ったら、市内は戦車の地響きと大砲の音がした。無人の街で初めて人を見つけたらメディア関係だった。
インタビューされ、彼女と座っていたら、いろんなメディアが撮っていった。地元の人はあきれていた。イスラエル兵がぼくたちを見つけて「プレスカードとパスポートを出せ」と言ったので、「観光に来た」と答えたら、「もう1回来たら警察に連行する。帰れ!」。素直に帰ったけど、彼女は怖がっていた。
彼は名古屋生まれ。父は弁護士で、裕福な家庭に育ったそうだ。立正大を出て、都内でコンピュータ関係の会社に就職、会社を辞めて稼いだ金で旅に出たという。半年前に日本を出て、タイ、インド、エジプト、ヨルダンからイスラエルに入ったとか。
同行している彼女とは、インドで合流したとのこと。インドで肺炎になったときに心配して来てくれて、それ以来二人で旅を続けているのだそうだ。「入院先には、母親がいきなり現れた。自分のホームページの日記を見て来たらしい。でもびっくりした。うちの親は子離れしてないから、ぼくは親から離れたかった」とか。
この彼に対しては言いたいことはいくらもあるのだけれど、抑えた筆致に徹した記者に敬意を表して、私も批判がましいことは何も言わず、彼の言葉を紹介するだけにしておきます。
東京は住みやすいけど、帰るか決めていない。あと半年は旅を続ける。ヨーロッパから南米に回る予定。
ちなみに、この記事を書いたのは(写真も)飯田勇という記者。この人自身、
かつて新聞をにぎわした人ですね。同姓同名の別人でなければ。
▼筒井康隆
『自薦短篇集1 ドタバタ篇 近所迷惑』(徳間文庫)購入。
▼テレビのチャンネルを適当に変えていたら、スターチャンネルで妙な映画をやっていた。ダクトみたいなものにはまって抜けられなくなった貧相な女が、髭の男に捕まってわめき叫んでいる。手こぎボートに乗って逃げる彼らを追って泳いでくるのは、コーンパイプを水上に潜望鏡のように突き出した謎の人。謎の人が水上に出てみれば、ゆがんだ顔に不自然なほどの筋肉。こ、これは、
実写版『ポパイ』ではないですか。
私が見始めたのはもう終わり間近のクライマックス・シーンからだったのだけれど、もう目を覆うばかりのテンポの悪さ。オリーヴはただただ「ポパーイ」と叫び、ポパイとプルートは水中でへろへろな殴り合いを演じ、あからさまにちゃちな作り物のタコが触手を伸ばす。ポパイはほうれん草を食べてブルートとタコをぶっとばし、「ほうれん草の力だ〜」などと歌い踊る。まるでエド・ウッドが監督したかと思うくらいのダメっぷりです。
ポパイを演じるのは、これが映画デビュー作だというロビン・ウィリアムズ(そうか、菊池桃子が一生『パンツの穴』でデビュー、と言われるように、ロビンは一生『ポパイ』でデビュー、という十字架がついてまわるのね)。変な特殊メイクでアニメそっくりの顔になってます。オリーブは『シャイニング』のシェリー・デュバル。アニメをそのまま実写化すると悲惨なことになる、ということを身をもって示したかのような映画です。監督はかのロバート・アルトマンだというのでまた驚き。
▼
THE CHIBI PROJECT。ちびうさ耐久テストのサイト。
氷とか
電子レンジとか
火とか
電気ノコギリとか
車とか
ロケットとか。
▼
日本映画「カオス」、デ・ニーロがリメイク。すごい人気だなあ、中田秀夫監督。でも、この映画の原作って歌野晶午『さらわれたい女』だったはずだから、新本格作家初! 歌野晶午作品ハリウッド映画化、ということか。すげー。
ちなみに、トム・ハンクス、ジュード・ロウ、ポール・ニューマン共演で近日公開の映画"Road to Perdition"は、マックス・アラン・コリンズのグラフィック・ノベルが原作なのだけれど、この原作は日本の劇画「子連れ狼」へのオマージュなのだそうだ。ということは、これも間接的には「子連れ狼」ハリウッド映画化? そう言われてみれば、
公式ページは子連れ狼っぽいような。