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9月20日(金)

コニー・ウィリス『航路』(ソニー・マガジンズ)読了。いやあ、一気に読まされました。さすがはSF界きってのストーリーテラーたるコニー・ウィリスだけあって、これだけの大長編なのにだれることなくすらすら読めてしまう。翻訳小説とは思えないほどのリーダビリティの高さである。もちろん訳者の努力もあるのだろうけど。
 臨死体験を扱った小説、といえばトンデモ系、あるいは宗教系か、それとも科学性にこだわった敷居の高い小説かのどれかになりがちだけれど、この作品は違う。トンデモ的な立場は徹底的にバカにされるし、宗教的な話題は注意深く排除されている。かといってゴリゴリの科学一辺倒で押すというわけでもなく、死の尊厳性、不可知性にも限りない敬意をはらっている。このあたりが、ウィリスの絶妙なバランス感覚なんだろう。
 さらに、キャラクターはあくまで明朗でわかりやすいし、必要以上に複雑な科学的ディテールは書かれない。このへんも読みやすさの秘訣ね。普通はキャラクターが単純だと単純な話になってしまうし、科学的ディテールがあいまいだとダメSFになってしまうのだけれど、この作品ではそれを補って余りあるのが圧倒的なストーリーテリングの力。この作品は、よくあるSFのようにガジェットや設定の新奇性に頼るんじゃなく(いや、そういうSFも好きだけどさ)、純粋に物語の力で読ませる小説なのだ。だから、SFファンに限らず、小説が好きなすべての人にお薦めします。
 あ、あとこの本は彼女をSFファンにするのに最適かも(むちゃくちゃ分厚いので、もともと読書の習慣のある彼女じゃないとダメだけど)。『アルジャーノン』だと、そのあと『ビリー・ミリガン』とかそっちの方向へ進みかねないしね。『航路』がおもしろかったら、そのあと『わが愛しき娘たちよ』を薦めればこれでもう彼女はSFファンに(笑)。

9月19日(木)

▼日記更新が長いこと滞ってしまいました。現在リハビリ中。

倉阪鬼一郎『内宇宙への旅』(徳間デュアル文庫)読了。ホラー界の折原一というか泡坂妻夫というか、作中作に仕掛けをこらしたSFホラー。しかも主人公は倉阪鬼一郎氏本人で、虚実ないまぜ(もちろん虚の方がはるかに多いんだろうけど)の世界が展開する。「文字」への強いこだわりのある倉阪氏らしい作品である。倉阪鬼一郎入門には最適かもしれない。しかし、こういったトリック趣味がありながら、ミステリでもSFでもなく、あくまでホラーにこだわっているというのは、考えてみれば不思議な作風である。
 なにかあるに違いないと思いつつ読んでいたので、「仕掛け」の部分は早々にわかってしまったのだけれど、最後まで明かされないもうひとつの「呪文」が私にはどうしても読み解けなかった。わかった方はヒントだけでもいただけないでしょうか。
 あと、表紙に髪の長い黒服の美青年が描かれてるんですが、こんなキャラ出てきたっけ。……えーと、もしかして、これって倉阪氏本人ですか?

9月18日(水)

▼若い頃の写真というのは、誰でも間が抜けて見えるものである。かっこいい写真を残せる特権を持っているのは、ごく一部の写され方を心得た連中だけで、それ以外の人間はどう撮っても馬鹿みたいにしか見えない。真剣な表情を作れば取り澄ましているようにしかみえないし、笑みを浮かべれば白痴のようにしかみえない。表情に重みというものがないのだ。そのくせ流行に追随したがるのも若者の常で、昔撮った写真ともなると、今どき誰もしないような大きなメガネをかけていたり、今から見れば珍妙としか形容できないヘアスタイルをしていたりするので、ますます脳天気にみえる。芸能人の素人時代の写真というのがときどきテレビや雑誌に出てくるが、誰の写真をみても、現在の姿が想像すらできないくらい間抜けな顔をしているではないか。
 北朝鮮に拉致された方々の写真とその家族を見ていて、なんだか不思議だな、と思ったのは、会見をしている親たちは子どもどころか孫がいてもおかしくないほどの老人だし、兄や弟とキャプションのついた人たちは、頭は禿げかかり疲れた顔をした中年男たちなのに対し、写真に写る人々は何やら70年代の生き残りみたいな髪型と服装(実際彼らは70年代人なのだが)の若者だということ。いや、別に奇妙なことなど何もなく、つまりは彼らからはそれだけの長い年月が奪われたということなのだけれど、写真に写る若者たちの脳天気なほどの明るさと、会見をする家族たちのしわの刻まれた顔のギャップになんともいえぬ不思議さを覚えたのである。
 おそらく近い将来、北朝鮮で生存している被害者が私たちの前に登場したとき、私たちはさらに衝撃を受けるのだろう。異国で生き延びた20年以上の日々は、脳天気そうだった顔をどう変えているのか。それを見るのが、なんだか怖い気もするのである。

9月17日(火)

▼しかし、これがアメリカであれば、自国民がこんな非道なことをされていることがわかったら、いや疑惑が持ちあがった段階ですでに大規模空爆間違いなしである。拉致されたのがアメリカ人だったとすれば、アメリカは金正日政権を完膚なきまでに叩きのめし、新しい親米政権を誕生させていたはずだ(そしてあまりにも強引だと、またも世界から嫌われていたはずだけれど)。
 私は決して空爆に賛成するものではないし、タカ派とはかけ離れた人間なのだけれど、なんとも持って回った日本の外交をみていると、そんなアメリカ式のマッチョで単純な正義が少しだけうらやましく感じられてしまうのも事実なのである。

9月16日(月)

山田正紀『僧正の積木歌』(文藝春秋)読了。うーん若い。作者名を伏せて読まされたら、たぶん本格一筋の若手作家が書いた作品かと思ったんじゃないだろうか。アメリカに滞在中の金田一耕助が挑むのは「僧正殺人事件2」。もちろんファイロ・ヴァンスも登場するし、ハメットやクイーン警視、丹下左膳を思わせる人物まで出てくる。今までの山田ミステリの特徴といえば、ミステリとしての解決を超えたところにある強烈な幻視性であり過剰性なのだけれど、この作品では、一見いつもの山田節は陰をひそめ、かつての古きよき本格ミステリへのオマージュに徹しているように見える。このあたりのいかにもミステリファンらしい遊び心といい、笠井潔理論の影響がうかがえる、戦争での大量死をからめた展開といい、なんとも若々しく感じられるのですね。
 ただし、トリックや真犯人はさほど印象に残らないし重要でもないのはいつもの山田ミステリの特徴どおり。あのペダンティックな『僧正殺人事件』の世界に、日系人への差別や、両大戦間という時代性をむすびつけ、「本格ミステリ」そのものを問いなおす手さばきは流石。

9月15日()

赤川次郎・鯨統一郎・近藤史恵・西澤保彦・はやみねかおる『殺意の時間割』(角川スニーカー文庫)読了。スニーカー文庫のミステリ・アンソロジー第4弾。今回のテーマはアリバイ……なのだけれど、作品の出来はかなり低調。
×赤川次郎「命の恩人」 何のひっかかりもなくすいすい読めるのだけれど1時間たてば忘れてしまうような作品。
×鯨統一郎「Bは爆弾のB」 つまらない。安楽椅子が探偵役で、これがホントの安楽椅子探偵、という下らないネタをやりたかっただけでは。
△近藤史恵「水仙の季節」 本格としては何の新味もないのだけれど、文章は確かだし雰囲気づくりはうまい。
○西澤保彦「アリバイ・ジ・アンビバレンス」 ディスカッションによる推理合戦に、最後にたどりつく真相の暗さと、相変わらずの西澤印の完成度の高い短篇。珍姓趣味もあいかわらずだけど、いくらなんでも谷谷谷谷(たにかべやつや)まり江はないだろ(さすがにメインの登場人物ではないけれど)。
△はやみねかおる「天狗と宿題、幼なじみ」 これもミステリ的な仕掛けはたいしたことがないのだけれど、近藤作品と同じく、雰囲気づくりやキャラクターはうまい。

9月14日(土)

▼M・ナイト・シャマラン監督の新作『サイン』の先行レイトショーを観てきました。以下、ネタバレはしないつもりではあるけれど、この映画について一切の前知識を入れたくないという人は読まないように。

▼前作『アンブレイカブル』も、アメコミが題材だけに日本人にはちょっとわかりにくい話だったのだけれど、今回もまた別の意味で日本人が苦手とする話。要するにこれは、信仰と神についての物語なのである。『シックス・センス』みたいなサプライズを求めて観に行く人は失望するんじゃないかな。
 ミステリーサークル、UFOの来襲、といえばいかにもB級SF的なテーマなのだけれど、この映画では別に異星人との戦いが『インデペンデンス・デイ』みたいに大上段に描かれるわけではなく、登場するのはほとんどメル・ギブソンのとこの家族だけ。ミステリーサークルも異星人もあくまで主人公を襲う不条理の象徴であり、扱われているのはきわめて個人的な信仰の問題なのである。ただ、監督の意図はよくわかるのだけれど、この映画、いかにもなB級SFのフォーマットを借りているし、中盤まではミステリーサークルとUFOの謎でひっぱるような作りになっているのですね。それが途中からどうでもよくなってしまい(異星人が地球に来た目的なんて、きわめておざなり)、あくまで個人的物語として終わる後半のねじれにはいささか釈然としないものがあります。まあ、この映画自体が「人知を超えたもの」を無条件に信じることができるかどうかの試金石になっているのかもしれないのだけれど……。
 しかし、シャマラン監督、作品ごとに自分の出番を増やしてないか?(★★★)

9月13日(金)

石黒耀『死都日本』(講談社)読了。メフィスト賞受賞作、ときくと新本格ミステリか、と誤解されかねないけれど、これは霧島火山の有史以来最大規模の噴火を描いたクライシスノベル。ブリュージュとか東京とか都市が死ぬからこそ死都なのであって、別に都市でもなんでもない日本国全体が滅亡に瀕する話なのに死都とはこれいかに、と難癖をつけたくなるタイトルの小説である。
 だいたいこの手のクライシスノベルというのは、破局が起きるまでがだらだらと長いものと相場が決まっているのだけれど、その点この作品は違う。いきなり地震が起きて、いきなり噴火である。噴火したあとはもう一直線、ストーリーもキャラクターも、そんなものは火砕流のごとくに押し流し、著者は執拗なまでにひたすら火山を描きつづける。  登場人物はあまり生き生きしているとはいいがたいし、ストーリー的にも、いくらなんでも噴火前からこんなにきっちりと対策が立てられているというのは非現実的だと思うのだけれど(日本だけが破滅するのはイヤだから、いざとなったらイギリスあたりを攻撃して道連れにしよう、と極秘で衛星まで打ち上げられているのだ!)、そんなものはどうでもいい。著者が描きたいのは、あくまで火山なのだ。火山への愛に満ちた、というか、火山に憑かれているとしか思えない、一種異形の熱気に満ちた小説である。
 しかし、これほどまでに偏愛に満ちた火山小説を書いてしまった著者に、いったい第2作を書く題材があるのだろうか、と心配になってきてしまうのだけれど……。余計なお世話ですか。

9月12日(木)

▼東京新聞を読んでいると、ときどき記事の後ろに「村松権主麿」という署名が入っていることがある。これを何と読むのかが前々からの謎だった。
 たぶん「村松」で切るのだろう。「村松権」が苗字という可能性もないではないが、そうすると今度は「主麿」をどう読むか、という難題にぶち当たる。やはりここはオーソドックスに苗字は「むらまつ」と考えるべきだろう。そこまではいい。問題は「権主麿」である。これはどう読めばいいのか。
 けんしゅまろ? ごんしゅまろ? ごすまろ? いろいろと考えてはみたのだけれど、どれも人の名前らしくない。
 長いことこれが謎だったのだけれど、ついこのあいだの新聞に、村松権主麿記者本人が自分の名前について書いたコラムが載っていて、私の予想を遥かに上回る驚愕の真実が明らかになった。
(さて「権主麿」と書いて何と読むのでしょう。読者のみなさんも少し考えてみてください)
 考えましたか?
 では正解を発表します(下に透明色で書いてあります)。
カリスマ
 なんでも、両親がキリスト教徒で、通っていた教会の伝道師が「神のたまもの」という意味をこめてつけてくれたのだという。「悪魔ちゃん」の問題のときには上司に何か書けと言われたが拒否したそうだし、12月25日に娘が生まれたので「マリア」待望論がわき起こったが却下したとか。権主麿氏、けっこう気難しい人物なのかもしれない。
 さらに、こんな名前だと体が名に追いつくのは難しい、「悪魔」になるほうがよっぽど楽だ、と思ったそうである。なるほど。
 ともあれ、悪魔にしろ権主麿にしろ、あまりにも意味の強すぎる名前というのは、扱いが難しいものである。「悪魔」という名前が不適切なのは、別に「悪魔」という言葉が否定的なイメージを持っているからではないだろう。その言葉があまりにも強烈すぎるイメージを持っていると、子どもは一生その名前の磁場にとらわれなければならないのである。権主麿氏の場合は、うまく自分の名前と距離を保てているようだけれど。

9月11日(水)

▼書店に、「図書カード」というもののポスターが貼ってあった。
 ポスターの上では、上野樹里という美少女が毅然とした表情でこちらを見つめており、その横にこんなコピーが記されていた。
彼氏イラナイ 本ガホシイ
 おお、本がほしいのか、それなら買ってあげよう、と思わず言いたくなってしまったのだけれど(←オヤジ)、よく考えてみればこれは美少女でなければ口にできない台詞である。
 たとえば私がこう言ったとしたらどうだろう。
彼女イラナイ 本ガホシイ
 何を当たり前のことを言っているのだ。そのようにしか思われず、当然私に本を買い与えてくれる人など誰もいない。
 当たり前だと思われるのならまだいい。それどころか、この台詞にはなんとなく負け惜しみじみたみじめさまで感じられはしないか。彼女デキナイくせに、イラナイなんて虚勢を張っているよ、そんなささやき声が今にも耳元で聞こえてきそうである。
 それならば、男なら本音で勝負をしよう、と
彼女ホシイ 本モホシイ
 と口にしてみたところで、どう考えてもこちらの方が「彼女イラナイ」よりさらにみじめである。あれもこれもほしいという子どもじみた態度はいかがなものか、と識者にたしなめられそうである。やはり、たとえ虚勢ではあったとしても、毅然とした態度で言いたいものである。
彼女イラナイ 本ガホシイ
 しかし、そう口にした先から、イラナイとわざわざ宣言しなくっても、そんなに本をほしがっていれば、そのうち蔵書量に呆れて彼女は離れていってしまうよ、という声がどこからか聞こえてくるのだが……。
 やはり、この台詞は美少女にしか似合わない。


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