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8月20日(火)

16日に書いた「精神科医だと思ったら患者」の話で、掲示板で教えてもらったポオの小説を読んでみた。タイトルは、「タール博士とフェザー教授の療法」。1845年に書かれた短篇で、創元推理文庫から出ている『ポオ小説全集4』に収録されている(佐伯彰一訳)。
 フランス南部を旅していたアメリカ人の主人公が、近くにある「メゾン・ド・サンテ」すなわち私立の精神病院を見学してみようと思い立つ。たまたま院長のメーヤール氏は知人の知り合いだったので、主人公はこの知人の紹介で病院を見学できることになる。
 メーヤール氏の病院は、「処罰は一切避け、監禁もほとんど用いず、患者には普通の服装をさせて室内構内を自由に歩き回らせる」という「鎮静療法」で有名だったのけれど、それについて尋ねた主人公に、メーヤール氏は「鎮静療法を永久に放棄してから数週間になります」と答える。やはり狂人には監禁が必要だ、というのである。
 やがてメーヤール氏主宰の晩餐会が始まるのだけれど、楽師たちは楽器で調子外れの騒音を奏で、同席した人々はエキセントリックな話ばかりする。だんだんと主人公が不安になりはじめたとき、病棟の方から叫び声が聞こえたかと思うと、全身を真っ黒に塗りたくられた男たちが窓を破って食堂に侵入、主人公たちに襲いかかる……。
 結局、「鎮静療法」で自由にすごしていた患者たちが反乱を起こし、看守たちを地下室に閉じ込めてしまっていたのだ、というオチ。メーヤール氏は確かに元院長だったのだけれど、ずいぶん前に発狂して今では患者になっていたのである(知人はそれを知らなかったのだ)。彼は、他の患者を煽動し、みごとに自らの地位を奪い返していたのであった。そして、「患者」たちにタールを塗りたくり鳥の羽根を与える、というのが彼の「治療」だったのである。
 というわけで、まさにこれは「精神科医だと思ったら実は患者」というパターンそのもの。19世紀中ごろに書かれたこの作品こそが、その後多くの作品に取り入れられたステレオタイプの原型にあたるのかもしれない。さらに、「鎮静療法」のくだりは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に登場する「狂人の開放治療」を思わせるし、患者たちが病院を占拠して擬似楽園を作るあたりは『まぼろしの市街戦』を連想させる。そう考えると、このポオの作品は、精神病院をロマンティックに描いたその後の多くの作品の祖といえるのかもしれない。

 また、それだけではなく、この小説、19世紀中ごろの精神病院観、狂気観がすけてみえてなかなかおもしろいのですね。
 たとえば晩餐会に同席した人々の語る狂気のバリエーションなのだけれど、これがなんともワンパターンなことに、「自分を○○だと思い込んでいる」というパターンばっかりなのである。自分をひよこだと思っている患者、驢馬だと思い込んでいる患者、茶瓶だと思っている患者(なんでも「フランス中、どこの精神病院をとって見ても、人間茶瓶のない所は、まず見当たりませんね」だそうである)、自分をコルドバ・チーズだと思い込んでいて、ナイフを手に自分のふくらはぎを切れとすすめる患者……。さらに、シャンパンの瓶、蛙、嗅ぎ煙草、南瓜、こま、牡鶏と続く。そんな患者いないって。
 パターンが違うのはふたりだけで、頭がふたつあると思い込んだ男、それから美人で内気なのに、普通の衣服は下品だと考えて脱ぐことで身なりを整えようとした女性、といったところ。
 どうもポオの狂気観は今ひとつのような気がするのだが……。

8月19日(月)

「世界最大の恐竜博」という催し物が幕張メッセで行われているのだけれど、この場合、「世界最大」は「恐竜」にかかるのか、それとも「博」にかかるんだろうか。
 素直に読めば「世界最大」の「恐竜博」なのだけれど、今のところ最大といわれている恐竜セイスモサウルスの復元骨格が展示してあるところをみると、「世界最大の恐竜」博のようにも思われる。英語表記をみても"The Greatest Dinosaur Expo"で、どちらにもとれるようにうまくごまかしてある。どっちなんだいったい。
 もしかすると、「世界最大じゃないぞ。もっと大規模な恐竜展は何年にどこそこで開かれている」と抗議が来ても、「ハァ? うちでやってるのは『世界最大の恐竜』展ですが何か」と開き直れるようにするため、こういう題名にしたのかも。やるな朝日新聞社。

8月18日()

▼湯島の有名なカレー屋「デリー」へ昼食を食べに行く。10数人も入ればいっぱいになってしまうほど小さな店なのだけれど、昭和31年オープンの老舗の本格カレー店で、カレー好きの必読書『東京カレー番長の神様カレー』でも冒頭に特集が組まれているほどの名店。この店を訪れるのは初めてなので、とりあえず、この店の看板メニューである激辛のカシミールカレーをいただいてみる。
 なるほど、辛さの中にも微妙なスパイスの味が効いていて美味。ただ、確かに普通に美味ではあるものの、期待が大きすぎたのか、その味の虜になってどっぷりとハマる人が続出するほどきわだってうまいとは思えなかったのだけれど……。

▼続いて千代田線で二駅先の千駄木に向かい、谷中の全生庵というお寺へ。ここでは、毎年8月いっぱい、三遊亭円朝が収集した幽霊画が展示されているのである。その後の幽霊画のパターンの基本形となったという、円山応挙の描いた有名な絵も展示してあったのだけれど、落款もない上に掛け軸もなんだかおざなり。本当に本物なんだろうか。
 そのほか、「姑獲鳥」や「海坊主」の絵もありました。でも、これは幽霊じゃなく妖怪だと思うのだが。

8月17日(土)

恩田陸『月の裏側』(幻冬舎文庫)読了。いちおうSFホラーという体裁はとっているものの、ジャンルとは関係なく恩田陸作品としかいいようのない作風はあいかわらず。恩田キャラは本当によくいろいろなことを思い出す。この作品、何かを思い出したり連想したりするシーンが実に多いのですね。ホラーとしての本筋よりもむしろ、さまざまな断片的な記憶をたどる物語であるようにも思えるほど。ホラーらしい描写も要所要所には出てくるのだけれど、恐怖をあおるいかにもなホラーとは微妙にずれた描き方がされている。
 さらには柳川という街の雰囲気が物語の大きな要素を占めていたり、文学作品への言及があったり、平然と『盗まれた街』を読むシーンが出てきたりと、読者の記憶をさえ利用して物語をつむいでいるのがなんともしたたか。この作風、私としてはいささか鼻につかないでもないのだけれど(たとえば『六番目の小夜子』では、物語の雰囲気についていけず置いてけぼりにされたような気分を味わいましたよ!)、この作品では成功しているように思える。
 うーん、恩田陸については語るのが実に難しい。恩田陸は、私にとってなんか気になるのだけれど、いまだに完全には理解できない作家なのだ。

8月16日(金)

▼ご存じの通り、「黄色い救急車」の都市伝説は私の研究テーマでして、当サイトで調査をした上、それをネタに雑誌にエッセイまで書いてしまった。ただ、アンケートの回答はいまだにぽつぽつと集まっているのだけれど、申し訳ないことに、ここ1年くらい集計の方は滞ってしまっている。正直言って、特に目新しい展開もないのでちょっと飽きてきてしまったのだ。
 それならちょっと目先を変えて、同じような精神病院にまつわる都市伝説はほかにないか探してみるか、とつらつら考えているうちに、都市伝説といっていいのかどうかわからないが、精神病院にまつわるステレオタイプな話がもうひとつあることを思い出した。
 ある精神病院の外来を訪れた某氏、診察室に入ると、白衣姿の医者が入ってきていろいろと質問を始める。医者はちょっとエキセントリックで奇妙な質問ばかりを繰り返す。精神科の医者というものはこんなものなのかなあ、と某氏が思っていると、診察室に入ってきた看護婦さんが、驚いた顔で医者を見て「○○さんダメじゃないの、また病棟を抜け出して白衣なんか着て……」。
 この話、誰しもどこかで一度は必ず聞いたことがあるはず。要するに、精神科医と精神病患者は紙一重、狂気と正気の境目はいったいどこにあるのだろうか……という話なのだろう。なんとも陳腐で、きわめてステレオタイプな精神病観だと思うのだけれど、どうもこの話に魅力を感じる作家は多いようで、白衣を着た患者、という話をモチーフにした小説やマンガはけっこう多い。今思いつくだけでも、須藤真澄のマンガにもあったし、最近は福澤徹三が短篇で使っていた。いちばん古い例は夢野久作あたりだろうか?
 それなら実際はどうかというと、白衣を着た患者の話はさすがに聞いたことがないが(病棟を抜け出した患者が診察室に座っていたりしたら、いくらなんでも誰か気づく)、精神科では白衣を着ないことをポリシーにしている医者もいたりするので、病棟などでは誰が患者かよくわからない、ということはありうる。R.D.レインあたりの影響を受けた世代だと、医者と患者の区別をつけない共同生活こそが精神医療の理想だといまだに思っている精神科医もいるのだ。ジーンズによれよれのシャツを着たベテランの医者を、新人看護婦が患者と間違えた、という話は、この業界じゃ毎年の新人シーズンの風物詩ともいえるほどよくあることである。
 ただ、やっぱり実際によくあるジーンズの医者の話より、実際にはありえない白衣を着た患者の話の方がインパクトがあるのは確かである。それは、白衣を着ているというだけの理由で私たちは目の前の人物を医者だと信じてしまう、ということになんともいえぬ不気味さが感じられるからだろう。人は、いとも簡単に見かけに騙されてしまう。たとえば青い白衣にマスクをして今私の歯を削っている歯科医は本当に歯科医なのか? 制服を着て違反キップを切った警察官は本当に警察官なのか? セーラー服を着て裏ビデオに出ている女子高生は本当に女子高生なのか……(これはちょっと違うな)。
 実際にはありえないにもかかわらず、多くの作家がこの話に魅力を感じて繰り返し語りなおす理由は、そんなところにあるんじゃないだろうか。

8月15日(木)

デイヴィッド・ホロビン『天才と分裂病の進化論』(新潮社)読了。基礎知識のおさらいが延々と続く前半は退屈なのだけれど、分裂病、人類の進化、脳の生化学を鮮やかに結びつけて壮大な仮説を提唱してみせる後半はなかなかのもの。
 著者によれば、なんと人類が世界中に広がり人種が分岐する前から存在していた分裂病の遺伝子こそが、創造性や象徴機能といった人間らしさの源泉だというのである。それまで同じようなハンドアックスばっかり10万年も作りつづけていた人類は、分裂病の遺伝子によって初めて創造性のある人間になった、とそういうのだ。しかも、宗教も芸術も、みんな分裂病の遺伝子によって生まれた、というのだ。
 さらに、分裂病とはリン脂質の代謝異常が原因であり、魚に含まれる飽和脂肪酸(エイコサペンタエン酸、ドコサヘキサエン酸)の摂取量と分裂病の重症度は反比例する、と著者はいうのだけれど……これが正しければ、さかなを食べれば頭がよくなるばかりじゃなく、分裂病もよくなる、ということになるのかもしれない。本当かなあ。
 著者の主張は現在の精神医学界では異端の部類に属する(トンデモということではなく、真剣に考える価値のある異端である)のだけれど、仮説としてはなかなか独創的でおもしろい。残念ながらいまのところまだ証拠は不十分だけれども、充分検証可能な仮説だと思うので、追試が行われれば著者の説が正しいのかどうかはっきりするでしょう。今後の展開を楽しみにしたい。

8月14日(水)

▼ケーブルテレビかスカパーに加入している人しか見られないのだけれど、海外ドラマ専門放送局スーパーチャンネルに「池田憲章の海外ドラマ検証ファイル」という番組がある。ドラマとドラマの間に放映される3分ほどのミニ番組で、いつもはタイトル通り海外ドラマの情報を池田憲章が語っているのだけれど、今日放送された回はいつもと違っていて、その名も「池田憲章 in SF大会」。まず「SF大会とは何か?」から始まって、昨年の幕張メッセでの「SF2001」の紹介、今年の「ゆ〜こん」の紹介ときて、開会式での実行委員長の挨拶と池田憲章の海外ドラマ企画の様子が放映されてました。
 企画の様子、とはいっても、畳部屋に20人ほどが座っているだけ、という寂しいものなので、画面の下には「人気企画のトンデモ本大賞と重なったにもかかわらず……」とか言い訳のテロップが。
 スーパーチャンネルが見られる環境のSF者はぜひご覧下さい(観客としてうちの妻もちょこっとだけ映ってました)。

8月13日(火)

SF作家のチャールズ・シェフィールドが、悪性の脳腫瘍のため8月14日に手術を受けるそうです。腫瘍は言語中枢を圧迫していて、軽い言語障害が出ている……と、本人のコラムでは、いかにも科学者らしい冷静さで自らの病について記してます。
 手術の成功を心からお祈りしております。

▼以前、シリアル・キラーのアクションフィギュアを紹介したことがあったけれど、ついにこんなものまで。普通の人のアクションフィギュア。 誰ですかこれ。買って楽しいのか。

8月12日(月)

西澤保彦『人形幻戯』(講談社ノベルス)読了。あいかわらず安定した出来の短篇集。基本的には「9マイルは遠すぎる」みたいなアームチェア・ディテクティヴものなのだけれど、犯人はすべて超能力者だというところがミソ。ただ、もちろん無制限に超能力が使えては本格にならないので、超能力を探知する機械がある(ただし誰が使ったかはわからない)という設定で枠をはめているのが巧い。ただ、この機械の精度はけっこうご都合主義なのだけれど、ここはあくまで数学でいえば公理にあたる部分なので、その一篇の中で矛盾がなければ問題なし。
 と、それだけならガチガチの本格ミステリ(SF風味)なのだけれど、そこに、人の心の昏い部分から発するやたらとドロドロとした動機、それに神麻嗣子ちゃんをはじめとする萌えキャラ、とどう考えても水と油としか思えない要素を投げ込んで、きっちりとまとめあげている力量はさすが(まあ、タックのシリーズも同じようなものなのだけれど)。初期作品だと、ペシミスティックな部分だけが浮いているように感じられたんだけど、最近の作品ではうまく溶け合って、独特の世界を作ってますね。

8月11日()

▼ときどき思うのだけれど、「最後の明治人」は、いったい誰だろうか。
 いや別に私は、明治人の気骨がどうとかといって明治時代を持ち上げたいわけじゃない。だいたい、明治時代に活躍した人々はほとんどが江戸時代生まれ。明治生まれの人々が起こしたのが、太平洋戦争じゃないですか。
 そうではなく、私が言いたいのはもっと即物的な話である。現在平成14年。明治最後の年である明治45年に生まれた人は、今年90歳。そして、現在の長寿日本一の記録は113歳。長寿日本一が将来もだいたいこのくらいだとすると、あと23年もすれば最後の明治人がこの世から消えることになる。つまりは今90歳以上のお年寄りの中に必ず、最後の明治人になる人物がいる、というわけである。そして、最後の19世紀人がいなくなるのはもっと早くて約11年後だ。
 明治という時代の空気を吸った人間は、あと20年ほどで完全にこの世から消え去ってしまう。そしてあと50年もすれば戦前という時代を知る人が消え、やがては最後の昭和人さえもが消えていく。もちろんそのときに私はこの世にはいない。
 それが時の流れというものだと言われればそれまでなのだけれど、ひとつの時代を記憶する人が消えてしまうというのはやはりどこか哀しいものだ。明治が完全に歴史になる前に、明治を語れる人がまだ存命のうちに、何かしておかなければならないことはないか?


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