DASACON4に行ってきました。
私はといえば、旅館に着いた頃から、持病の鼻炎がひどくなって始終洟をすすり上げている状態。なんだかぼーっとしていたので企画についてもあんまり覚えてません。すまんこってす。今回はわりと出版流通とかジャンル分けについてとか、小説というよりは出版を考える企画が多かったですね。これも編集者とか書店員とかの参加者の多いDASACONならでは、ということなんでしょうか。私としては、今まであまり意識していないような話が聞けて新鮮でした。
オークションにはちょっとだけ参加してジョーン・D・ヴィンジ『琥珀のひとみ』(創元推理文庫)とロバート・シルヴァーバーグ『我ら死者とともに生まれる』(早川書房)をゲット。そのあとは、なんだかつらくなってきたので夜も早々に寝てしまいました。ふだんから無口なのだけど、鼻炎のせいでそれに輪をかけて今回はほかの方々とあまり話せなかったのが残念でした。
ロバート・シルヴァーバーグ編『遥かなる地平』(ハヤカワ文庫SF)読了。いやあ、こってりしたラーメンを3杯くらい連続で食べたような気分。おなかいっぱいです。なんせ、ブリン、ベンフォード、ベアのハードSFの3Bに加えてシモンズの作品まである。特にベアとベンフォードの作品なんて、情景をイメージしにくいのなんの。
ほかにもル・グインやらカードやら当代人気作家が揃い踏みでシリーズの番外編を書いていて豪華絢爛なのだけど、いったいこれだけのシリーズをすべてフォローしていて、しかもちゃんとストーリーを覚えている読者がどれだけいるんだろうか。私など、『永劫』『久遠』のディテールなんてすっかり忘れていたのでついていくのがたいへんでした。おまけにブリンの知性化シリーズは未訳の"Infinity's Shore"の続編だし、ル・グインも未訳の"Four Ways for Forgiveness"の惑星を舞台にした作品、ベアも未訳の"Legacy"と大いに関連のある話だし、ナンシー・クレスなんて〈無眠人〉シリーズ自体1冊も訳されていない、と日本版独特のわかりにくさもある。
それぞれの作品の出来については……ううむ、困った。実を言うと、独立した中篇として読むにはきつい作品ばかりで、あまりおもしろくなかったのだ。でも、まあ、シリーズのファン向けのボーナス・トラックと割り切れば、悪くないんじゃないでしょうか。
純粋に作品として楽しめるのはクレス、マキャフリイあたりかなあ。特に、ナンシー・クレスの〈無眠人〉シリーズはおもしろそうなので早く訳して下さい。
ふと、書店の店頭で見かけた中野正貴写真集『TOKYO NOBODY』(リトル・モア)から目が離せなくなってしまったので衝動買い。私としては、写真集の衝動買いは珍しい、というより写真集を買うこと自体珍しい(特に女性が写ってない写真集は(笑))。
写真に写っているのは、銀座、新宿、渋谷など見慣れた東京の街の風景。しかし、そこには人がひとりもいない。動いている車もない。カラスもいない。カメラは、まったく無人の街と化した東京を淡々と写している。
人類は滅亡したのだろうか。あるいはすでに地球を捨てたのだろうか。それとも、もしかするとギャオスが東京タワーにでも巣を作り、住民が全員退避したあとの風景なのだろうか。アニメや特撮ではよく見かける風景だが、本物の写真が延々と連なっていると異様な迫力がある。人間がいないというただそれだけのことで、見なれた風景がなんと異化されることか。まるで帝都東京への鎮魂歌のような、不思議な喪失感と寂寥感を感じさせる写真集である。
ページをめくっていくとやがて無人の東京に雪が降り積もり、ほとんど最後のページになって、雪に埋もれた街の風景の中に小さく、ある物が写っているのがわかる。今までひとつとして生きて動くもののなかった東京に、ただふたつだけの生命。たったそれだけのことで、今までの緊張した画面の連続になんとなくほっとした安らぎを与えている構成がうまい。地球を継ぐ者はこの生物なのかも、とかいろいろと物語を想像させてくれる結末である。
実際のところは、この写真は正月やゴールデンウィークなど人の少ない時期の早朝に撮ったようで、なんとこの1冊に10年以上の歳月をかけたという労作。
別に特別なものが写っているというわけでもないのだが、強烈にSFを感じる写真集である。
あとで調べてみたら、この中野正貴さんという写真家、広末涼子、吉野紗香などの写真にCGを組み合わせた『惑星ノ少女』を撮った方だったのですね(CG担当は別の人)。巻末の略歴に載ってないのは何故だ(わかるような気もするが(笑))。
シンクロの日本チームは、あの超辛口解説者田中ウルヴェ京すら涙ぐむほどの名演技。観客にも大ウケ。やっぱり本場の空手はロシアのニセ空手とは違うね。
松下さんの本の虫から富山県立大門高等学校の学校図書館データベースへ。生徒がそれぞれ図書館の本を1冊ずつ紹介しているのだけど、概要、書評、単語の説明を書き、外部リンクを張らなきゃいけない、必ず図も1枚描かなきゃいけない、と形式まで厳しく決められているようだ。うーん、こんなふうに読後に詳しい紹介を書かなきゃいけないというんじゃ、本好きになってくれる子は少ないだろうなあ。
それでも、素直な感想ありいいかげんな紹介ありと文章に個性があるし、すさまじくも微笑ましい図もあったりと、眺めているだけでけっこう楽しい(ほとんどの生徒が「出典」を「出展」と誤記しているのは、たぶん先生が間違えたんだろうね)。たとえば、『ノストラダムス戦慄の啓示』(なんでこんな本が学校図書館にあるんだ)の世界地図とか、『人はなぜ老化するのか』の細胞なんか、なんともいえぬ味があります。『ミラクル』のミラクルっぽい絵もなかなか。なかでも私がいちばん気に入ったのは、『かべにプリンをうちつけろ』の書評に添えられた画像。本自体は環境問題を扱った小説で、タイトルは「不可能なことをする」といった意味らしいのだが、紹介者はあくまでタイトルにこだわり、ついにはプリンを壁に釘打ちする方法を考案し図解してしまうのだ! なかなか見所のある高校生である(私としてはプリンを凍らせる手法の方がスマートで成功率が高いと思いますが)。
SF関係の本としては『エイリアン』、『ウォーゲーム』、『SFを科学する』、『きまぐれロボット』など。ふうん、普通の高校生のSFの読み方はこんなふうなのか。
ちなみに、これが大門高等学校の校歌。周辺の地理を読み込んだ七五調のオーソドックスな歌詞ですね(いつから私は校歌評論家になったんだ)。
ロバート・シルヴァーバーグ編『遥かなる地平』(1)(2)(ハヤカワ文庫SF)、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』(岩波書店)購入。
「こ、これは私のことでは」と、妻は『片づけられない女たち』という本を買ってきて読んでいる(あとになって気づいたのだが、掲示板に何度か書き込んでくださったリンコさんが訳された本らしい)。ADD(注意欠陥障害)という病気について書かれた本なのだけど、妻はどうみてもADDじゃありません。「片づけられない」のではなく、ただ「片づけない」だけなのでは>妻。ちなみに私も「片づけない」人なので、家には人を呼べません。
と書いたら、妻からクレームが来た。
「わたしは片づけようとしているのに、あなたがすぐに散らかすからいつまでたっても家が片づかないのだ」
なるほど。
ああ、ソフトボール惜しいっ。
あっけない幕切れに気が抜けたあと、ぼけーっと見ていたシンクロナイズド・スイミングなのだが、意外にもこれが奇天烈な世界で楽しめました。胸に「空手」と漢字で書かれた水着を着て、和太鼓の音楽にのって演技するロシアペア。なぜに空手。
解説の女の人(田中ウルヴェ京さんという人らしい)の冷静かつ厳格なコメントもたまらない。日本ペアの演技で「あ、今ずれましたね」「ん、ちょっと足がぶつかりましたねえ」とか言ってるので全然ダメなのかと思ったら技術点オール9.9。おまけにオール10点のロシアペアの演技にさえ「ちょっと角度が違いますね」といちいちダメを出すという驚くべき理想の高さ。厳しすぎです。きっと彼女は、人間にはとうてい到達しえない究極の演技を夢見ているに違いない。その後のさんまの番組でもロシアペアの演技を見ながら「10点出すほどの演技じゃないです」「立ち泳ぎが死ぬほど低いです」「今のは最悪です」など飛ばしまくり。いいです、この人。
その解説の田中さんすら「なぜだかわかりませんねえ」と兜を脱いでいたのが、フランスペアの片方。この女性、全選手の中でただ一人ノーズクリップもしていないのになぜか鼻に水が入らないという謎の女なのである。シンクロの権化とでもいうべきこの解説者すらわからないのでは本当に謎なのだろう。なぜだ。
杉本蓮『KI.DO.U』(徳間デュアル文庫)読了。アマネを好きになれるかどうかがすべてなんだろうなあ、この小説は。私はダメだったし、深優姫の感情の動きもあまりにも幼く思えてまったくついていけませんでした。アンドロイドのヤンキー口調も最初は新鮮だけど、しばらく読んでいるとだんだん単調で読みにくく思えてしまうし、前半の「手掛かり発見→戦闘→次の場所へ」が何度となく繰り返される、まるで一本道RPGのような展開もどうかと思う。それに、深優姫たちを殺すことは襲撃者側にとっても不都合なはずなのに、なぜあんなに派手に襲撃するんだろうか。なぜアマネを女装させる必要があったのかもわからない。設定にもよくわからないところが多すぎる。
解説で大原まり子が「『KI.DO.U』に登場するキャラって、ぜんぶ作者の分身という感じがします」と書いているが、まさに作者の脳内の会話だけで物語が進行していき、読者ははるか彼方に置いていかれてしまっている感じ。私は全然楽しめなかったのだけど、解説の大原まり子・小谷真理にあんなにウケているところをみると、女性読者はまた違う読み方をするのかなあ。
こんな否定的な感想を書いてしまってなんだけど、著者のページにリンクしときます。日記がアマネの口調そのまんまなのに苦笑。
それにしても『M.G.H.』『KI.DO.U』『イミューン』とSF新人賞関係のタイトルを並べてみても全然読みたいという気分にならないのが困ったもの。なんでまたこんなにイメージ喚起力がないタイトルばっかりなんだろうか。その点うまいのは上遠野浩平ですね。『ブギーポップは笑わない』とか『ぼくらは虚空に夜を視る』なんか絶妙。新人作家はもっとタイトルに気をつかってほしいものである。
昨日の「ゆんゆん」があまりにインパクトがあったので、ほかにもすばらしい校歌がないものかと、全国の校歌を検索してみた。今まで知らなかったが、校歌の世界というのもけっこう奥が深いようだ。
というわけで、今日は「すばらしき校歌の世界」をお送りいたします。
まず、神奈川県立神奈川総合高等学校の校歌は「時を我が手に」。タイトルもかっこいいが、歌詞もなかなかかっこいい。
「明日を願う心のあれば/地球が我等のフィールドとなる/果てしない言葉(ロゴス)の海に/新たな知恵を求める日々よ」。言葉と書いてロゴスと読みますか。
「砕け迷蒙 さやけき思考/自由の守り わが城にあり/いざや探らん 世界のありかを/いざや探らん 無限の法則を」という、松本歯科大学校歌もなかなか勇ましい。「砕け迷蒙」だもんなあ。
長野県の中野西高校の校歌は、その名も「イヌワシの歌」。
作詞は芥川賞作家の丸山健二、作曲の藤澤守は久石譲の本名と、豪華な布陣である。甲子園にも出場した広島県の如水館高等学校校歌も作曲は久石譲で、作詞が大林宣彦。これはけっこう有名かな。
五島列島の長崎県立奈留高校の愛唱歌「瞳を閉じて」は荒井由美作詞作曲。私たちの高校に校歌を作ってほしいという一通の投書から生まれた歌だそうだが、なんで校歌じゃなくて愛唱歌扱いなんだろうか。
須磨学園高等学校校歌は、阿久悠作詞、都倉俊一作曲というピンクレディーコンビである。それなら秋元康作詞、後藤次利作曲のおニャン子コンビの校歌なんてのもあるのでは、と思って探してみたが、残念ながら見つからず。
羽後中学校校歌は井上靖作詞、芥川也寸志作曲。格調高いです。
さらに、このページによれば、どこのだかわからないが、小学校の校歌にはこんなのもあるそうだ。「けんかをしたってともだちだ/あだなをつけてもせんせいだ/やっほーやっほー/しょうがくせいだしゅっぱつだ/おとなにむかってあしたにむかって/やっほー」。むう、時代は変わったものである。でも、この校歌、小一のときはいいけど、小六だとちょっと子供っぽすぎるのでは。
いろんな校歌があるものだが、やはりきのうのゆんゆんにまさるものはありませんね。あなどりがたし、福島県立清陵情報高等学校。
岸本佐知子『気になる部分』(白水社)読了。いいです、この人のエッセイ。
この方の訳したニコルソン・ベイカーの『中二階』は、とあるビジネスマンがエスカレータに乗って降りるまでにめぐらしたどうでもいいような考察の数々を詳細に描いた小説で(しかも、これがむちゃくちゃおもしろいのだ)、こんな小説もありなのか、と感動したものだが、翻訳者もまた、細かいところにこだわりまくる人だったようだ。
たとえば、「“アタッシェケース”を“アタッシュケース”と発音する人が多いのはなぜか」(その理由がすばらしい)とか、「“夕焼け小焼け”の“小焼け”とは何か」とか、「『一週間』の歌で“月曜日にお風呂をたいて、火曜日はお風呂に入り”というのはどうかしているのではないか」とか。ひたすら大局を見ずに部分にこだわる楽しさをひねくれた文体で語っている。私が日記で書いているのと同じようなことばっかりではないか。なんか親近感が湧くなあ。
男性だと宮本章夫みたいに、こういうエッセイを書く人は何人かいるけど、女性では珍しい。この方の書くものや訳す本は今後も要チェックである。とりあえずニコルソン・ベイカーの身の回り極微観察小説の新作『室温』(もちろん岸本佐知子訳)でも読むか。
メビウスひみつきちからここへ。確かにものすごい校歌である。「発信 ゆんゆん 発信 ゆんゆん 発信 ゆんゆん 光と光」って……。校歌に「ゆんゆん」はないだろう。パラダイスですか。作詞・宗左近、作曲・三善晃って超大物コンビだからダメ出しできなかったのかなあ。
『X-メン』の先々行オールナイトを観てきました。
「敵は強大、味方はわずか」っていうコピーだけど、これは嘘。敵はたった4人しかいないのに、味方は6人もいてしかも続々育成中。しかも敵で強そうなのはボスのマグニートーくらいのもので、あとはカエル男とか獣人とかあんまり役に立ちそうなのがいません。「味方はわずか」どころか、数に物を言わせて敵をぼこぼこにしているように見えてしまう。
複雑な『X-メン』ワールドの映画化としてはうまくまとめてあると思うけど、単体の映画としては今一つ。映像もアクションも『マトリックス』ほどの鮮烈さは感じられないし、『X-メン』にそれほど馴染みのない日本ではあまり受けないんじゃないかな。客の入りも今一つだったし(★★★☆)。
青木和『イミューン』(徳間デュアル文庫)読了。SF風味の青春小説、といったところかなあ。でも、青春ものとしてもSFとしても新味はないですね。青春ものとしては、心に迫る切実さや痛みが今一つ感じられないし(「ぼく」とフユルギの親友関係がなんだか絵に描いたものみたいで現実感がないのだ)、SFとしてのディテールはかなり物足りない(〈敵〉の正体や主人公たちの防衛システムの詳細についてもっと書き込んでほしかった)。それに、ちょっと詳しい人ならタイトルを見ただけでだいたいのネタはわかってしまうはずじゃないかな。アイディアの単純さに比べて物語が長すぎるのも難点。SFの名を冠した賞なんだから、あくまでSFとしてどうかを基準に作品を選んでほしいものである。
緒方剛志のイラストにも問題あり。明らかに本文の描写と矛盾しているのだ。「ナイロン製のデイパック」を持っているとちゃんと書いてあるのにイラストでは普通の学生鞄になってたり、「パーカーのフード」をかぶっている、とあるのにイラストではTシャツ姿だったり。ここは編集者がちゃんとチェックすべきところでしょう。
篠原選手のあれはやっぱり誤審じゃないかなあ。有働アナも涙ぐんでつっかえながら原稿を読んでいたが気持ちはわかる。あれで有働アナはだいぶ株を上げたかも。
森首相の所信表明演説はITITと何とかの一つ覚えのよう。「日本再生の最も重要な柱はIT戦略、E−ジャパン」なのだそうな。E-ジャパン。なんじゃそりゃ。馬鹿としかいいようがない語感である。そもそもITという言葉自体がへなへなだということになぜ気づかないんだろうか。ニューメディア、マルチメディアとこの手の中身のない言葉が何年かおきに出てくるのはいったいどういうわけか。
「5年後には、わが国を世界の情報通信の最先端国家に仕上げて行く」という大言壮語、これは弱小野球部にやってきた新監督が必ず言う「3年後には優勝の狙えるチームにしてみせる」というやつでは。さすが体育会系首相。一度は言ってみたかったんだろうなあ、この手の台詞を。そういえば、そういう新監督がまず始めるのは決まって猛特訓。だからIT受講券で全国民にITの特訓という発想になってしまうのかも。
私も次に転勤するときには、「俺が来たからには、この病院を3年で日本一の精神病院にしてみせる」とか言ってみたいものである。でも日本一の精神病院って何。
柔道井上康生金メダル。母の遺影を抱いて表彰台に上るなんてのは、いかにも日本人が好きそうな泣かせのドラマだよなあ。「母に捧げる金メダル」とかいって、明日の新聞の一面にでかでかと写真が載るんだろうなあ。ああいやだいやだ。そう思いつつも、不覚にもちょっぴり涙ぐんでしまった私である。
岩本隆雄『鵺姫真話』(ソノラマ文庫)読了。『星虫』の続編は、なんと時間SF。ヤングアダルトというよりは、完全にジュヴナイルSFの再来ですね、これは。ここまで錯綜した本格時間SFは、ソノラマでは『猫の尻尾も借りてきて』以来かも。この手の時間ロジックものは私の大好物なので、もう無条件に絶賛してしまう。
意外性を重視しているため展開にはちょっと苦しいところもあるのだけれど、かなりのはなれわざを見事に決めているのには脱帽。読後の爽快感やテーマ性では『星虫』の方が上だけれど、プロットの複雑さ壮大さはこちらに軍配が上がる。あくまでプロットを楽しむ作品なので、小説はやっぱりキャラクターに感情移入できなくちゃ、と思っている人には向かないかも。
でも、わざわざ『星虫』の続編にする必要はなかったように思えるのだけど。
社長が亡くなった徳間デュアル文庫の新刊からは杉本蓮『KI.DO.U』と青木和『イミューン』の日本SF新人賞佳作の2点と、イラスト目当てで梶尾真治『おもいでエマノン』を購入。日本SF新人賞関係の作品は、『海底密室』が山田正紀、『イミューン』が神林長平、『KI.DO.U』が大まり小まりと解説がやたらと豪華である。しかし、デュアル文庫のこの分厚さはなんとかならないものか。こんな昔のソノラマ文庫みたいな紙じゃなくて、もっと薄い紙使ってくれよ。
あと、天藤真『わが師はサタン』(創元推理文庫)と、ニコルソン・ベイカーとかミルハウザーとかを訳している翻訳家岸本佐知子のエッセイ集『気になる部分』(白水社)も買いました。
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