2010-09-28 [Tue]
▼ 行ってみたい世界の精神病院さらに10選+1
好評だったので第2弾。見応えのある精神病院建築はまだまだあります。
そして今回はちょっと精神医療の暗部に関わるエピソードも。
11. ベルビュー精神病院(アメリカ)
ニューヨークにある、1736年設立のアメリカ最古の公立病院。精神科部門がもっとも有名で、ニューヨークでは「ベルビュー」といえば精神病院を指すほど(東京人にとっての「松沢」みたいなものか)。サックス奏者のチャーリー・パーカー、女優のイーディ・セジウィック、作家のノーマン・メイラー、ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンなど、ここに入院した有名人も多い。
12. ビーチワース・アサイラム(オーストラリア)
アサイラムはイギリス、アメリカに多いが、オーストラリアやニュージーランドなど、イギリスの植民地だった地域でも盛んに建設された。ビーチワース・アサイラムは、1867年、ヴィクトリア州ビーチワースに建てられたアサイラム。200エーカー(東京ドーム17個分)の広大な敷地に57の建物が建てられ、ピーク時には1200人の患者が入院していた。1995年に閉鎖された後は民間の会社が購入。現在は毎晩幽霊ツアーが行われている。
13.ギスラン精神病院(ベルギー)
ベルギーの古都ゲントにある精神病院。ギスランは19世紀の精神科医でベルギーで初めて精神医学の教科書を書いた人物。この病院はギスラン自らが設計して、1857年に建設されたもので、ベルギー初の近代的精神病院だった。建物の一部は今も精神病院として使用されているが、一部はギスラン博士博物館として公開されている。
14.ファーガス・フォールズ州立病院(アメリカ)
カークブライドのプランに基づいて全米に建てられたアサイラムのひとつで、Warren Dunnelの設計により1888年に建設が始まり1906年に完成した。ミネソタ州に作られた3つめのカークブライドスタイルの病院である(あとの2つは現存しない)。農作業や運動に使える広大な敷地と、中央に築かれた高い塔、そして大きく翼を広げたような左右対称の設計がカークブライド形式の特徴。1937年には2000人以上の患者が入院していた。
現在は地域医療センターとして使われていて、薬物依存などの治療が行われている。
アメリカのカークブライド形式のアサイラムについては日本ではあまり知られていないが、本国にはKirkbride Buildingsというファンサイトがあり、現存する建築物の美しい写真を見ることができる。
15.ハイロイズ病院(イギリス)
ヨークシャー州メンストンという人口5000人弱の小さな村に1888年に建設された病院で、当初は"West Riding Pauper Lunatic Asylum"と呼ばれていた。病院の中には図書館や診療所(内科の、ということだろう)、薬局のほか、肉屋、牛乳屋、パン屋、菓子屋、靴の修理屋、ダンスホールまであり、さらに近くの駅との間に線路まで引かれているなど、ひとつの街といっていいほどだったが、世界的な精神医療の脱施設化の流れに伴い患者は少なくなっていき。2003年に閉鎖。
パトリック・マグラア原作の2005年のイギリス映画『アサイラム/閉鎖病棟』はこの病院で撮影された。また、カサビアンというロックバンドの"West Ryder Pauper Lunatic Asylum"というアルバムは、この病院の名前からとったもの。
現在は公開されていないが、不動産屋が「ハイロイズ・ヴィレッジ」という名前の集合住宅として売り出そうとしているようである。
イギリスのアサイラムについては、TheTimeChamberとCounty Asylumsというサイトが写真も多くよくまとまっている。特に前者のサイトの空撮写真は圧巻。
16.カール・ボンヘッファー神経科クリニック(ドイツ)
ベルリン北部に17世紀からあった病院だが、現在の建物は1880年に完成したもの。精神障害者を治療するためではなく隔離するための施設で、18世紀には500人の精神障害者を収容していた。Dalldorf病院、Wittenauerクリニックなど何度も改名して現在に至っている。
ヒトラー政権下では、病院スタッフはナチスのT4作戦(精神障害者安楽死計画)を忠実に実行し、1938年から1945年の間に4607人の患者が死亡した。ほとんどの患者は入院から20日以内に亡くなっている。
1957年には戦時中の悪いイメージを払拭するためか、カール・ボンヘッファー神経科クリニックと改名(ベルリン市民がつけたあだ名はボニーズ・ランチ)。カール・ボンヘッファーはベルリン大学医学部教授でドイツ精神医学の重鎮なのだが、ナチス支配下で精神障害者の断種に積極的に関わったことが後に判明したことから(ちなみに息子のディートリッヒ・ボンヘッファーは神父で、ヒトラー暗殺計画に荷担してナチスに処刑された)、90年代にはまたもや改名の機運が盛り上がった。1998年には前年に亡くなった有名人の名を取ってレディ・ダイアナ・クリニックと改名する動きがあったが、定着はしなかったよう。だって、どう考えてもダイアナと関係ないし。
17. ピティエ・サルペトリエール病院(フランス)
精神医学を少しでも学んだ人でサルペトリエール病院を知らない人はモグリと断言していいほど有名な病院。設計は17世紀の建築家リベラル・ブリュアンで、もともとルイ13世の火薬庫だった建物を転用して作られた(サルペトルとは火薬の原料である硝酸カリウムのこと)。フランス革命前には10000人の精神障害者と300人の囚人、そして多数の娼婦を収容していた。
19世紀にはヨーロッパの精神医学の中心地となり、神経学の父シャルコーの臨床講義を聞くため、外国からも聴講生が集まった。若き日のフロイトもそのうちの一人。
現在はヨーロッパ有数の総合病院になっていて、アラン・ドロン、ミハエル・シューマッハ、シラク元大統領など多くの有名人がここで治療を受けた。ダイアナ妃が搬送されて亡くなったのもこの病院。
18.チェリイ・ノウル病院(イギリス)
これもヴィクトリア朝に建てられたイギリスのアサイラムの一つ。イングランド東北部にあるサンダーランド市郊外のライオープという小さな村にある病院である。1895年に建築家ジョージ・トマス・ハインの設計で建てられた。病院内にはチャペル、プール、体育館があり、中央棟を挟んで男子病棟と女子病棟が左右対称に建てられていた。
現在では画像の通り、創建時の古い建物は廃墟と化しているが、驚いたことに、一部の建物は今なお精神病院として使用されている。2007年2月には、この病院に長期入院していたグレアム・バートンという患者が、もし病院での会議にケアワーカーが出席したら殺す、と医師に語ったあと帰宅を許可され、その2日後にケアワーカーをめった刺しにして逮捕されるという事件が起きている(ケアワーカーの女性は5リットルの血を失ったがかろうじて命を取り留めたという)。
写真は廃墟となっている中央棟で、病院のほんの一部。航空写真を見れば、この病院がいかに巨大に広がっているかがわかるだろう。
19.グレイストーン・パーク精神病院(アメリカ)
1876年にニュージャージュー州2つめの精神病院として作られた病院。サミュエル・スローン設計の建物は第二帝政様式で、62,589平方メートルの広さ。当初は292名の患者が入院していたが、1914人には2412名、1953年には7674名に達した。ここまで患者が増えたのは、第二次大戦から帰還した兵士がPTSD治療のため大量に入院したためとのこと。2000年には病院の閉鎖が決まったが、そのときにもまだ500名の患者が入院していた。患者の転院計画は予定よりかなり遅れ、最後の患者が他の施設に移ったのは2008年のことである。一部の建物はすでに取り壊されており、その他の建物もこの先どうなるかは不透明とのこと。
こうした千人規模の入院患者を抱える巨大な公立アサイラムは19世紀のアメリカ、イギリスで多く建設されたが、土地の狭い日本では建てられることはなかった。その代わりに小規模の私立精神病院が乱立したのが、70年代以降の世界的な精神病院縮小の流れから日本だけ取り残された原因の一つ。
20. マクリーン病院(アメリカ)
マクリーン病院はマサチューセッツ州にある精神病院で、もともとは1811年にチャールズタウンという街にアサイラムとして作られたもの。1895年に同じ州のベルモントに移転し、マクリーン・アサイラムからマクリーン病院へと改名。写真の建物も1895年にコロニアル・リバイバル様式で建てられたもの。
マクリーン病院は、現在ではハーバード大学の付属病院となり、アメリカでも有数の精神科病院として知られている。写真の建物は統合失調症、双極性障害の患者の入院病棟で、一見古そうに見える建物だけど内部はこんな様子。日本の精神病院とのあまりの違いにはびっくり。もちろんお金のある患者さんしか入れないのだろうけれど。
マクリーン病院で治療を受けた患者には、ノーベル賞を受賞した数学者のジョン・ナッシュ(映画『ビューティフル・マインド』で有名)、レイ・チャールズ、マリアンヌ・フェイスフル、シルヴィア・プラスなどがいる。映画『17歳のカルテ』も、原作者のこの病院での体験をもとにしたもの。
番外 ヘルシンゲル精神病院(デンマーク)
最後に新しい精神病院建築をひとつ。
シェイクスピアの「ハムレット」の舞台になったクロンボー城のある港町ヘルシンゲルに2006年に建てられた、斬新なデザインの精神病院。設計したのは、1974年生まれのBjarke Ingelsのグループ。ガラスが多くて一見明るそうに見えるが、放射状の構造はベンサムのパノプティコンの現代版なのかも。
世界の精神病院をいろいろ調べていて驚いたのは、19世紀にイギリス、アメリカで建てられたアサイラム建築の美しさと、精神医学史用語かと思っていた「アサイラム」が、ほんのつい最近まで現役の病院として使われていたということ(中には現在も使われている病院もある)。
すでに閉鎖されているアサイラムも多いが、街外れの巨大な建物(しかもイメージの悪い精神病院だし)は再利用しにくいのか、廃墟と化している病院も多く、廃墟ファンにはたまらない物件になっているようだ。ただし廃墟を放置しておくと治安の悪化を招くため、結局取り壊されてしまった建物も多く、きちんと保存されている建物は少ないのが残念。
19世紀のアサイラムについてのまとまった本は、日本ではまったく出ていないので(過去の暗い歴史みたいに触れた精神医学史の本は何冊かあるけど)、洋書を何冊か買ってみた。
Asylum: Inside the Closed World of State Mental Hospitals
The MIT Press
¥ 3,510
アメリカの現存するアサイラムの外観や、廃墟となった内部を撮った写真集。これはお薦め。写真が美しくて見応えあり。オリヴァー・サックスが序文を書いている。
The Architecture of Madness: Insane Asylums in the United States (Architecture, Landscape and Amer Culture)
Univ of Minnesota Pr
¥ 2,909
アメリカのアサイラム建築についての本。モノクロの古い図版多数。これから読む(かも)。
The Victorian Asylum (Shire Library)
Shire
¥ 658
イギリスのアサイラムについて書かれた本。まだ届いてない。
2010-09-25 [Sat]
▼ 行ってみたい世界の精神病院10選
前回紹介したリトアニアの精神病院の写真を見て思いついた企画である。
日本の病院はどんどん建て替えられて味気ない建物になってしまっているが、海外にはまだまだ古くて魅力的な精神病院建築が残っている。今回は、その中からいつか機会があれば実際に見てみたい精神病院を、独断で10個選んでみた。歴史的、学問的な価値より建物としてのインパクトとか見応えを重視。
1. バッファロー州立病院(アメリカ)
ニューヨーク州バッファローにある旧州立精神病院。トマス・カークブライドという19世紀の精神科医の基本デザインによって全米に建てられたアサイラムのひとつで、1870年、建築家H.H.リチャードソンの設計で建築された。
カークブライドの理念は19世紀に流行したモラル・セラピーというもので、おだやかでリラックスできる環境におけば患者の混乱は自ずと改善するというもの。つまり広大な敷地と重厚でシンメトリックな建物自体も治療の一環なわけだが、今見ると威圧的で不気味に見えてしまうのは皮肉な話。しかしはやくも19世紀末になるとこの理想は挫折。患者数は予想を遙かに超え、想定した定員の何倍もの患者を収容することになり、おだやかな治療の場になるはずのアサイラムは単なる収容所と化してしまった。
1990年代までは精神病院として治療が行われていたが、現在は国定歴史建造物として修復保存が行われている。
カークブライドのデザインによる重厚壮大な精神病院は、19世紀後半に全米に数多く 設されたが、今も残っている建物は残念ながら少なく、残っている建物も廃墟と化しているところが多い。さらに、元精神病院の建物は再利用しにくいからか、残っていた病院も最近になって急速に消滅しつつある。
映画『カッコーの巣の上で』のロケ地になったオレゴン州立病院は2008年にほぼ解体されたし、ホラー映画『セッション9』のロケ地であるダンヴァース州立病院も2006年に一部を残し解体された。
2. サン・クレメンテ島(イタリア)
ヴェネツィアの本土から船で10分ほどのところにある小さな島。もともとここには15世紀に修道院として建てられた建物があったが、1844年からほぼ150年の間、建物は精神病院として使われ、この島は精神障害者をまさに物理的に隔離する「狂人の島」として知られていた。しかし1978年になるとイタリアで精神病院を廃止する法律が可決されたことからこの病院も閉鎖。その後、建物はしばらく放置され、島は猫の楽園と化していたそうなのだが、2003年には内部がすっかり改装されて、五つ星ホテルSan Clemente Palace Hotel & Resortとしてオープン。今では精神病院だった頃の面影はほとんどないとか。
近くにあるサン・セルヴォロ島も、18世紀から250年間「狂人の島」だったが、同じく1978年に病院は閉鎖、建物は大学のキャンパスや精神医療博物館として使われている。
3. ナーレントゥルム(愚者の塔)(オーストリア)
まるで要塞か何かのようなこの建物は、1784年、皇帝ヨーゼフ2世の治世にウィーンに建てられた、ヨーロッパで最も古い精神障害者収容施設。ドーナツ型の5階建ての建物で、各階に28の鍵のかかる部屋があり、139の部屋に200人から250人もの患者が押し込められていた。1866年に閉鎖されてからは倉庫や宿舎として使われていたが、1974年からは病理学・解剖学博物館となっている。
4. ストレンチ精神病院(ラトヴィア)
1907年にラトヴィア北部の小さな町ストレンチに建てられた精神病院。開院時の患者数は180名。高さ35メートルの巨大な給水塔がかなり目立つ。リーガの国立劇場やラトヴィア銀行ビルなどを設計した高名な建築家Augusts Reinbergsが設計した、当時としてはかなり斬新な建物。現在も病院として使用中。
5. ビセートル病院(フランス)
パリの中心から南に4.5キロ離れたル・クルムラン=ビセートルという街にある精神病院。最初は孤児院として1634年に建設が始まったが、やがて刑務所と精神病院を兼ねる収容施設になっていき、精神障害者、犯罪者のほか浮浪児や売春婦も収容していた。1793年にこの病院の医長になったフィリップ・ピネルが、鎖につながれていた精神障害者を解放したという逸話で有名。マルキ・ド・サドも3年間ここにいた。現在も、パリ第11大学医学部の付属病院として使われている。
6. デンビー・アサイラム(北ウェールズ病院)(イギリス)
1844年〜1848年にかけて北ウェールズのデンビーに建設された精神障害者収容施設。設計はトマス・フルジェイムズで、19世紀の間に何度も増築されて現在の姿になった。重厚で巨大な建築は見事。1991年から2002年にかけて段階的に閉鎖され、現在は廃墟となっている。2008年にはMost Hauntedというテレビ番組のリアリティ・ショーがここで撮影された。
7. ウェストン州立病院(アメリカ)
1858年から建設が始まり、1864年に開院したウェストヴァージニア州にあるカークブライド形式の病院。もともと250名の患者を収容する計画だったが、患者はどんどん増え続け、ピーク時の1950年代には2400人もの患者が入院していたという。1990年に閉鎖されてからは廃墟となり、一時は解体の話も出ていたが、2007年に州の健康局が建物を競売にかけたところ、とある実業家が購入。この実業家は病院を修復すると、創立当時の名前"Trans-Allegheny Lunatic Asylum"に戻し、観光客向けの幽霊ツアーを始めたり、心霊ものテレビ番組の撮影用に使わせたりとうまく活用しているよう。
8. ヴァルケンバーグ精神病院(南アフリカ)
ケープタウンに1891年、白人専用の病院としてオープン。もともとは古い農場の建物を利用していたが、その後スコットランドの建築家シドニー・ミッチェル設計により重厚な建物が建てられた。現在もその多くが残っており、いまも精神病院として使用されている。古い閉鎖病棟も100年以上ほとんど改築なしで使われているとか。2006年公開の『落下の王国』(ターセム・シン監督)のロケ地で、映画の中では1920年代のカリフォルニアの病院として使われている。南アフリカの人は建物の写真をネットにアップする習慣がないのかよっぽどこのあたりの治安が悪いのか、ネットにはこの病院の画像がほとんど見あたらない。
9. ペレ・マタ精神病院(スペイン)
バルセロナから少し離れたカタルーニャ地方のレウスという町にある。バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院(どちらも世界遺産)を手がけたリュイス・ドメネク・イ・モンタネールが設計し、1897年から1912年にかけて建てられたもの。さすがはガウディのライバルと言われた建築家の作品だけあって、内装も絢爛豪華。現在も精神病院として使われていて、公開されているのは一部だけ。
10.キングズパーク精神医療センター(アメリカ)
ニューヨーク州のロングアイランドにある病院。1885年に、農作業を通じて精神障害者の治療を行う施設としてつくられたが、20世紀に入ると患者数が激増。1930年代には方針を転換して13階建てのビル(Building 93)を建てることになった。設計はWilliam E. Haugaard。1954年には患者数は9303人に達したが、その後は減少。1996年には最後の患者が別の病院に移り、現在は巨大な廃墟と化している。
2010-09-19 [Sun]
▼ 各国の旧KGB本部
リトアニア、ラトヴィア、エストニアはいずれも旧ソ連の国なので、20年前に独立するまではどの国にもKGBがあり国民を監視していました。
タリンのヴィル・ホテルやリーガのレヴァル・ホテル・ラトヴィアなど、ソ連時代に外国人の宿泊のために建てられた高層ホテルでは、かつては全室が当局により盗聴されていたとのこと(もちろん現在ではそんなことはありません)。
そしてヴィリニュス、リーガ、タリンとどの首都にも、かつてKGB本部として使われていた建物が今も残されています。
エストニアの首都タリンの旧KGB本部は旧市街の中にあってけっこう趣きのある建物(右側の建物)ですが、扉は今なお閉ざされたまま。レストランや土産物屋の多い華やかな旧市街の中でも静かな一角です。ここが旧KGB本部であることを示すのは目立たない銘板だけ。おそらく記念館として公開するには、まだソ連時代の記憶が生々しすぎるのでしょう。
ラトヴィアの首都リーガでは、新市街にあるユーゲントシュティール様式の通称「角の家」がKGB本部として使われていました。バスの中から見ただけで写真は撮れなかったので、frickrで見つけた写真を一枚。入り口の脇には銘板がありますが、建物は修復もされずぼろぼろのまま。ここも公開はされていません。
唯一、内部まで公開されているのはリトアニアの首都ヴィリニュスにある旧KGB本部。旧市街の少し外側、ゲディミノ大通りに面した建物です。
銘板には各国語でこの場所の説明が書かれ、外壁にはここで命を落とした人々の名前が彫られています。
入り口の前にある慰霊碑。
建物の内部は、現在は「虐殺犠牲者博物館」として公開されています。通称KGB博物館。
ソ連占領下では「人民の敵」とされた数十万人のリトアニア人がシベリアに強制連行され、1940年から51年までの間にリトアニアは人口の約3分の1を失ったとのこと。
博物館の地下では実際に政治犯を収容していた牢獄や、床に冷たい水を張り狭い台の上に囚人を立たせたという拷問室、壁にくっきりと弾痕の穿たれた処刑室(ここで千人以上が処刑されたという)などを見学できます。
ここは撮影禁止だったので写真はなし。以前は撮影できたらしく、ネット上には内部の写真もありますが、こればかりは実際にその場を訪れないと、ぞっとするような地下室の暗さやかび臭いにおい、淀んだ空気は体験できません。リトアニアを訪れるなら絶対訪れてほしいのがここ。ただし月曜と火曜は休館なのでスケジュールには気をつけること(私は水曜の朝出発の予定を遅らせてここを見に来ました)。
地下室から中庭に出ると明るさにほっとするのだけれど、そこにはソ連時代の苦難を今の子供たちが描いた絵がたくさん展示されていて、なんというか憎しみの再生産にちょっと暗澹たる気分になったり。
というわけで、今回回った三都市すべてで旧KGB本部を見たのだけれど、リトアニアでは博物館として整備されており、ラトヴィアでは新市街の中心部にあるにも関わらず朽ちるに任され、エストニアでも銘板をつけただけで放置。
国内にはロシア人も数多く住んでいるし、ある年齢以上の人にとってはソ連時代の記憶はまだ生々しい。ラトヴィア、エストニアではKGB本部を観光化するにはまだ抵抗が強いということなんでしょうか。ソ連時代の負の遺産に対する距離の取り方は三国それぞれです。
2010-09-18 [Sat]
▼ リトアニアの十字架の丘
リトアニアの首都ヴィリニュスから車で3時間、シャウレイという町の郊外約12キロというたいへん交通の不便な場所に、奇妙な名所があります。
周囲は人家も何もないまったくの平原。そこにほんのちょっと突き出た丘というか塚のような場所に、無数の十字架が立てられているのです。
駐車場の方から見た風景。
その数は少なくとも10万以上。1990年には推定5万5千本だったそうなので、その後20年でほぼ倍に増えたことになります。
なぜこんな不便な場所にあるのか。なぜここじゃなきゃいけないのか。まったくわからない。思えばたいへん奇妙な場所なのだけれど、この丘は、ロシア、ポーランド、ナチスドイツ、ソ連と、常に周辺の大国に翻弄され多くの犠牲者を出してきたリトアニア人の聖地であり祈りの場所なのだそうです。
ソ連時代にはここの十字架は少なくとも3回にわたってブルドーザーでなぎ倒され、焼き払われたとのことですが、その都度リトアニア国民は新たな十字架が立ててきたのだといいます。手前に見える十字架に刻まれた日付はどれも最近のものだったので、この丘の十字架は今でも増え続けているようです。
10万の十字架があるということは、少なくとも10万の人間の思いの込められているわけで、実際にこの場所に行ってみて感じるのは、「聖地」の崇高さではなく、むしろ神社の大量の絵馬とか恐山の風車の群れにも似たおどろおどろしさというか、息が詰まるような圧迫感です。
この場所はリトアニア人のカトリック信仰の深さを示すもの……などと言われることもありますが、教会でも何でもないただの丘に十字架を立てて祈るというのは、考えてみれば全然キリスト教的ではありません。単なる丘におびただしい十字架が無秩序に積み重なっているという混沌も、ヨーロッパというよりはむしろアジア的な光景です。
1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々のために最初の十字架が立てられた――と、ガイドブックなどには書いてあるのですが、私はあえてその説には異議を唱えたいと思います。その説では、なぜこの場所じゃなきゃいけないのか、という疑問に答えられていないからです。
フェリックス・ギラン『ロシアの神話』(青土社)は、原書刊行が1935年と古い本ながら、リトアニアの神話を扱った日本ではほぼ唯一の本。この本には、1935年以前の段階ですでに100以上の十字架に覆われた丘の写真が載っています。
ギランによれば、この丘は、もともと異教の神にいけにえを捧げる聖地であり、丘を一面に覆い尽くした十字架は、そうした古い神(キリスト教から見れば、つまり悪魔だ)を祓うために、周囲の農民たちが立てたものだそうです。リトアニアにはこうした土墳がいくつもあり、十字架を立てることで「悪魔祓い」が行われた土墳もほかにもあるとのこと。
つまりそもそもここに十字架が立てられたのはもともとリトアニアにあった古い信仰をキリスト教で上書きするためだというのです。そうしたもともとの意味がいつしか忘れ去られ、苦難の歴史とともにキリスト教の祈りの聖地へと変わっていったのでしょう。リトアニアは、1387年にヨーロッパでもっとも遅くキリスト教化された国ながら、今は敬虔なカトリック信者が多い国。そう考えるとこの説はなかなか説得力があります。
2010-09-14 [Tue]
▼ エストニアの萌え寿司バー
エストニアの首都タリンで行ってみたかった場所がひとつ。まずは下の動画を見てください。
これは何かというと、タリンにある寿司バーSUSHI CATの宣伝動画なのです。何か日本文化を勘違いしているような気もするけれども、日本からはるかに遠い、わずか人口130万人のエストニアにこんな寿司屋があるのは驚きです。
公式サイトの、何か間違っていつつも妙に凝った作り込みも見逃せない。なぜ「鬼の居ぬ間に洗濯」。そしてSCHOOL CATっていったい何。
SUSHI CATさんの動画はYouTubeにいくつかあるんですが、そのなかでも力作が下の動画。中世そのままの美しいタリンの旧市街を、メイド服のSUSHI CAT店員が練り歩き、ハレ晴レダンスを踊るというもの(ほかにも、ロッテのFit'sダンスを店員が踊るという動画も)。
というわけで、エストニアをいろいろ検索しているうちにたまたまこの店を見つけて以来、タリンに行ったら必ずここを訪れようと思っていたわけです。
旧市街を南に出て自由広場を通り、地下のショッピングモールを抜け、あんまり観光客の訪れないRoosikrantsi通りを5分ほど歩いたところにSUSHI CATはあります。小さな店なので見逃さないように。
入り口の扉ではメイド服の二次元美少女がお出迎え。
さっそく店に入ろうとしたんですが、狭い店内はすでに地元のお客さんで満員。驚くべきことに、この店は地元では人気店だったみたいで、残念ながら、SUSHI CATの寿司を食べることはできませんでした。
店内の壁には微妙にクオリティの低いうさみみ少女。テレビではアニメを流してます。
ビルの全景。同じビルの隣のテナントはフェレ、向かいはヴェルサーチと、ブランドショップが並んでいます。
SUSHI CATのオーナーは、Evelyn Mikomagiという女性です。この女性は実は、ミス・アース2001で準決勝まで残ったこともある、エストニアを代表するファッションモデル。ブランドショップに囲まれた立地といい、オーナーの素性といい、日本の感覚とは違い、このSUSHI CATはエストニアではオシャレな店という位置づけなのかも。
2010-09-13 [Mon]
▼ スターリンのバースデーケーキ
ラトヴィアの首都リーガという街は、中世を思わせる旧市街やアールヌーヴォー建築で有名だけど、ソヴィエト時代の残滓もあちこちに残っています。その中の一つが、旧市街から駅を挟んで反対側にひときわ高くそびえ立っていて、街のどこからでも見える高層ビル、ラトヴィア科学アカデミー。戦後の1953〜56年に建てられた高さ108メートルのビルで、2004年まではラトヴィアで最も高いビルだったとのこと。
なんとも威圧感のあるこのビルは、スターリン・クラシック様式といって、共産主義を賛美することを目的にひときわ重厚に作られたもの。モスクワには建築家レフ・ルドネフが設計した同じ様式の高層建築がモスクワ大学本館、ホテル・ウクライナなど7棟あって「セブン・シスターズ」と呼ばれております。
リーガの科学アカデミーも、設計者は同じレフ・ルドネフで、いわばセブン・シスターズの従姉妹のような存在です。「ソヴィエトの労働者や農民からラトヴィアの人々への贈り物」という名目で建てられたもので、地元の人はこれを「スターリンのバースデーケーキ」あるいは「クレムリン」というあだ名で呼んでいるとか。
現在もビルの中はオフィスとして使われているのですが、17階のバルコニーが展望台になっていて上ることができます。がらんとしたエントランスホールの左側に受付があるので、観光客はそこで入場料を払いエレベータで上ります。
エントランスの照明は、電気代節約のためかひとつしかついていない。
威圧的な外観に反して、中は意外に質素。階段を上り、この扉の向こうが展望台なのだけど、吹きさらしで風も強いし寒いのなんの(リーガでは9月上旬でも10度以下まで下がります)。
カマボコ型の建物は、ツェッペリン型飛行船の格納庫を移築して作られた巨大な中央市場。駅と線路を挟んで、その向こうの尖塔がある場所が旧市街。左を流れるのがダウガヴァ川。
川のこちら側には廃墟と化したソ連時代の建物。そして川向こうには韓国企業LGの高層ビル。なぜ廃墟が多いかというと、ソ連から独立したときに、国有化されていた不動産を元の持ち主に返還したのだけど、返されても改装費用が出せなかったり、そもそも所有者が見つからず宙に浮いている建物が多かったりするからとのこと。
川の向こうにそびえるのはヨーロッパで3番目に高いテレビ塔。これもソ連時代に建設されたもの。
泊まったホテルもソヴィエト時代の1956年建築。外観は立派だけど。
中は薄暗くて怖いよ。
2010-09-12 [Sun]
▼ リーガのアールヌーヴォー建築群
旅行に行ってきました。行き先は旧ソ連のバルト三国。
特にラトヴィアの首都リーガの、20世紀初頭に建てられたアールヌーヴォー(ユーゲントシュティールとも)建築がすごかったので、撮ってきた写真をちょっと紹介してみます。
こうしたきれいに修復されたアールヌーヴォー建築は、特にアルベルタ通り、エリザベテス通り周辺に多いんですが、こうした建築自体は特にその周辺に限られているわけじゃなく、街を歩いていれば普通に出くわします。なんでも街中心の建物のほぼ4割がアールヌーヴォー建築だとか。
これらの建物の多くを設計したのは、ミハイル・エイゼンシュテインという建築家で、『戦艦ポチョムキン』で有名な映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインの父親にあたります。
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