身の回りにいるさまざまな人物が、すべてある特定の人物の変装である、という妄想のことを
「フレゴリの錯覚」(なぜか歴史的に「錯覚」という名前がついているが、実際は「妄想」である)と呼ぶ。1927年にP.CourbonとG.Failが最初に報告したものだ。
最初の例は27歳の独身女性の分裂病患者で、貧しい労働者の娘だったが、男たちの下品さを毛嫌いし、女性の精神の高潔さを誇りにしていたという。彼女は大の芝居好きで、劇場に通ううち、サラ・ベルナール(
ミュシャのポスターでも有名な当時の大女優である)とロベーヌ(こっちは無名の女優)というふたりの女優と不思議な愛の交流を行うようになる。彼女たちが通行人や近所の人など、さまざまな人物に変装して自分を追いかけ、自分の考えをさしおさえて別な行動(たとえば自慰)をとらせる、というのである。患者自身の言葉によれば、「女優というものは、自分を簡単にフレゴリのようにすることができるし、他の人をフレゴリ化することもできるのだ」とのこと。ちなみに、フレゴリというのはイタリア生まれの実在の俳優で、歌手、踊り手、物真似、パントマイム、手品師などをこなし、自らシナリオを書き、男役も女役もこなし、1人で計60役を演じることができたという。彼は変装道具をトランクいっぱいに詰め込んで世界各国を巡っていたという。まるで手塚治虫の七色いんこみたいな俳優である。それにしても、俳優の名前がついた症状名というのも珍しい。
兼本浩祐「フレゴリーの錯覚」という論文には、68歳男性の次のような例が載っている。
「オウム真理教の事務総長がいて、それが背後で全てを操っている。看護婦も多くはそのオウム真理教に入信していてその手先になって例えば自分の食べ物だけを粗末にするなど自分に意地悪をしている。オウム真理教の事務総長はいろいろな姿に変装して自分の前に現れる。先日も子どもに姿を変えて私のところにやってきてエロ本を売りたいとほのめかした。私はそれが事務総長の変装だと見破ったので断ることができた」(実際は、この子どもは隣の患者にたまたまお見舞いに来た小学生)
さて、1986年、Christodoulouは、
カプグラ症候群、フレゴリの錯覚のふたつに、さらに相互変身症候群、自己分身症候群というふたつの症候群を加えて、「妄想性人物誤認症候群」と呼ぶことを提唱した。
相互変身症候群は「他者が心理的かつ身体的に別の他者に変容することができると信じること」。これまたフレゴリの錯覚と同じくフランスのCourbonらが最初に報告していて、症例は49歳の女性。まず近所の人が夫に変身し、夫は他の人に変身し、その人そっくりになった。また近所の誰かが息子に変身し、ついには患者を除く街のすべての人が変身する術を持ち、自由自在に姿を変えられるようになったという。女は男に、若者は老人へと変身し、身の回りの品物や動物までもが変容していったという。
「スター・トレック・ディープスペース・ナイン」や「ターミネーター2」など、SFには自在に姿を変えられるシェイプシフターが登場するが、彼女の場合、自分以外のすべてがシェイプシフターということになる。なんとも異様かつ陶酔的な妄想というほかはないが、こんな症例はめったにないに違いない(実際、相互変身症候群の症例は過去4例しか報告されてないそうな)。
自己分身症候群は「自分自身とは離れて独立に行動できる分身が存在すると信じること」。つまりこれは、
ドッペルゲンガーのことである。ここに、
カプグラ症候群、フレゴリの錯覚、
ドッペルゲンガーという、今まで別物と思われてきた症状が統一されたのである。
Christodoulouの4分類に加え、さらにカテゴリーを増やしたのがSignerという人。Signerは、「自分自身がにせものである」と確信している例を「リバース自己分身症候群」(
カプグラ症候群の項の最初に書いたディック的不安の2番目の方はこれにあたりますね)、「自分が変装しているので、他人が見ても自分とはわからない」という例を「リバース・フレゴリ症候群」と呼ぶことを提唱している。なんだか、この調子でやっていくと際限なく分類が増えそうで困ったものなのですが。だいたいなにがリバースなんだかさっぱりわかりません。
(last update 02/10/30)
参考文献
岩瀬利郎他:自己の妄想性誤認. 精神医学42:363-371,2000
兼本浩祐:フレゴリーの錯覚. 精神科治療学12:243-249,1997
加藤敏:Fregoliの錯覚. 臨床精神医学14:535-538,1985
小泉明:Fregoliの錯覚. 臨床精神医学増刊号:150-158,1994