カプグラ症候群 Capgras' Syndrome

 あなたの両親や恋人は、実は何者かに送り込まれた本物そっくりなにせものかもしれない。
 さらには、あなた自身さえもが、自分でも気づかないうちににせものにすりかえられているのかもしれない。

 フィリップ・K・ディックなどのSFを読んでいる人にはおなじみのテーマですね。私たちのアイデンティティにまつわる根源的な不安をかきたてるテーマだと思うのだけれど、実はこうしたシチュエーションというのは、ディックの小説の中だけの話ではない。現実に、こうした不安の中に生きている人は存在するのである。精神科では、その症状を「カプグラ症候群」(あるいは、「ソジーの錯覚」)という名前で呼んでいる。
 この症状が最初に報告されたのは1923年。フランスのJ.CapgrasとJ.Reboul-Lachauxのふたり(症状名は、カプグラ医師の名前をとったわけだ)が記載した最初の症例は、次のようなものだったという。
 患者は53歳の女性M夫人(自称ド・リオブランコ夫人)。自分は高貴な家の出身であり、乳児期に死んだ子どもたちは、実は替え玉で、本物は悪の結社(!)によって地下に幽閉されているのだという。さらに夫も外見がそっくりな替え玉だという。彼女は結社の存在を警察庁長官に告発するが、当然ながら相手にされず、長官もまた替え玉になっていると信じ込む。また、入院した精神病院の医師や看護婦や患者もみな替え玉。彼女によれば、替え玉はひとりにつき数人から数千人はいるのだとか。さらには、パリ市民もすべて替え玉になっており、本物はパリの地下に幽閉されているのだというのである。
 なんとも壮大な妄想であり、鉄仮面の伝説とか『レ・ミゼラブル』で描かれたパリの地下空間を連想させてなかなか趣き深いものがある。つまりはこの症例から、「家族、恋人、親友などがいつのまにか瓜二つの替え玉に置き換わっている」という妄想を「カプグラ症候群」と呼ぶようになったのである。
 ちなみに、「にせもの」になっていると思い込む対象は人物ばかりじゃなく、動物や無生物の例もあって、犬、ビル、空、時計、じゅうたん、テープレコーダー、道路標識という例もあるのだそうだ。確か西丸四方のエッセイだったか、自分の住んでいる松本市が、実は日本海側のどこかに本物そっくりに作られたにせものだ、と信じている患者の例も読んだ覚えがある。これなど、都市まるごとを対象としたカプグラ症候群、といえるだろう。なんだか本格ミステリの奇想にも似た妄想である。
 このカプグラ症候群、かつてはまれな症状と言われてきたが、今ではそれほど珍しいものではないことがわかっている。また、「症候群」と名前がついているが、別に独立した疾患ではない。統合失調症でみられることが多いが、躁うつ病や老年痴呆、脳腫瘍や頭部外傷などの器質性疾患でもみられるものである。
 では、実際の症例を紹介してみよう。赤崎安昭他「Capgras症候群を呈した精神分裂病者の1鑑定例」には、まさにディック的な不安の中にいる患者の例が載っている。
 34歳の男性。父親松男(仮名)に対して、「あんたはイワオでしょう」と問いただした。しかし父親は何の返事もせずAの顔面をいきなりこぶしで殴打した。これに激昂したAは父親の顔面を打ち返すとともに、殺害を意図して金槌で頭部を数回殴打し傷害を負わせた。犯行の動機については「イワオは父親ではない。父親の松男と見た目は同じだが、松男になりすまして家に入ってきている赤の他人だ。イワオがけんかをしかけてきたから殺される前に殺してやろうと思った」と述べ、「イワオとは何者か?」という質問に対しては「政治家」「ヤクザ」「ゲリラ」「透明人間」「地球外生物」「人間外生物」「悪魔」「忍者」などと質問をするたびに異なった返答をしたという。
 また、岩瀬利郎他「自己の妄想性誤認」という論文には、次のような症例が報告されている。
 患者は46歳の女性である。あるとき、夫が肺癌であることが判明し、手術を受けた。このことは彼女にたいへんなショックを与えたようだが、他の家族には努めて明るくふるまっていた。翌年になると夫の癌が再発し、入院。彼女は当初献身的に尽くしていたが、だんだんと兄や子どもに「あんたたちは誰。私の本当の兄や子どもではない」と言い出し、夫の看病を完全に放棄して家に引きこもってしまう。
 4ヶ月後、夫は死亡。しかし彼女はそのときも立ち会わず、兄からの連絡を受けると、車で家を出て行方不明になってしまった。1週間後に警察に発見されて入院。「パパは死んでないのに死んだと周りの人がいうので、あそこは自分の家ではない。もう自分の居場所はない。この病院も本当の病院ではない。みんなにせものだ。あなたも医者と称しているだけなんでしょう」と彼女は言った。
 入院後は、「神様の話だと、本当のパパと子どもたちはこの私のいる四次元世界ではなく人間界にいるということだ。ここにいて病気だったパパや子どもたちは分身である。兄も本当の兄ではない」と主張。主治医が「分身の方のご主人はどうなりましたか」と訊いてみると、「何かお葬式をしたそうですよ」と他人事のように答えた。
 また、彼女は主治医にこう語った。「1999年に中国を中心に隕石が降ってくるのだが、それを下にいて受け止めて世界の終末を救うために私の夫と子どもが今人間界で待機している。私だけがこの四次元に取り残されているが、もう少しだと神は言っている。つまり私がアマテラスになるのだ。そうすればパパのいる世界に行ける」
 やがて妄想は持続していたものの、家族の強い希望により退院。その後2回ほど外来に来たが、翌年には神やにせものなどの発言も見られず、夫の思い出話をしたり、墓前に線香をあげたりするようになったという。
 これもまた一種のカプグラ症候群といえるのだけれど、心理的に非常によく理解できる話である。妄想は多くの場合患者にとってつらく苦しいものだが、ときにはやさしく守ってくれる妄想もあるのである。

 つづいて、千丈雅徳他「自他の人称関係の破綻をきたした分裂病の1症例」という論文に報告されている統合失調症の17歳の高校生の例。
 15歳のときの修学旅行をきっかけに、「自分の仕草や行動がすべて読まれているような気がする」「自分の体から発する臭いが気になる」ようになる。高校2年の秋、修学旅行から帰ってから「誰かに狙われている、世間の全員に見られている。部屋にいても見られている」と怯えるようになる。
 12月に父の若い頃の写真を見て、現在の父とちっとも似ていないことから、父を「にせもの」と確信。またある夜、電気を消すと父と母の目が光っているので猫だと確信した。怖くなって、どこにも自分の居場所がない、と思った。本当の父と母、姉は別の所にいて、まったく同じ姿をした別人が自分の前にいる、と思った。
 ここまでは典型的なカプグラ症候群なのだけれど、このあと彼は意外な行動を取り始める。父と母とを猫だと確信した彼は、なんと自らも猫になってしまうのだ! 12月9日、彼は母親のところにやってくると、突然猫そっくりに両手を挙げて上目づかいになったり後ろへ後ずさりしたりしたという。これを論文の著者は「猫変身」と名づけているのだけれど、これももしかすると前の例と同じく、両親が猫になってしまったという不安に対処するための症状といえるのかもしれない。

フレゴリの錯覚に続く)

(last update 02/10/30)


参考文献
立花光雄他:ソジーの錯覚(カプグラ症候群). 精神科治療学12:233-242,1997
千丈雅徳他:自他の人称関係の破綻をきたした分裂病の1症例. 臨床精神医学22:1747-1755,1993
赤崎安昭他:Capgras症候群を呈した精神分裂病者の1鑑定例. 臨床精神医学28:323-329,1999

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