「ドッペルゲンガー」という言葉を知っている人は多いだろう。
ドッペルゲンガーはドイツ語で、英語でいえばdouble、要するに自分そっくりの分身のことである。ドイツの伝説では、ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、といわれているのだそうだ。しかも、このドッペルゲンガー、作家たちの創作意欲をいたく刺激する題材らしく、ポー「ウィリアム・ウィルソン」、エーヴェルス「プラーグの大学生」、ドストエフスキー「二重人格」(このタイトルは誤訳で、正しくは「二重身」とすべきである)などなど、錚々たる作家たちがドッペルゲンガーを扱った小説を書いている。
西洋だけの伝承かといえばさにあらず、中国にも「離魂病」の伝承があり、「捜神後記」にはこんな話が載っている。外出した夫が、もう一人の自分がまだ床に寝ているという妻からの知らせを受け、帰ってみると確かに自分が寝ている。その姿をそろそろとさすっていると、だんだん朦朧となって、ついに消えてしまった。それ以来、夫はわけのわからない病気にかかって死んでしまった、という。
さらに日本の江戸時代の「奥州波奈志」という本には、奥州の実話として「影の病」という話が載っている。
北勇治という男が、帰宅して自分の部屋の戸を開けると、机に向かっている男の後姿が見えた。着衣から髪の結い方まで自分そっくりなので怪しんで近づくと、相手は細く開いていた障子を抜けて縁先に走り出た。追いかけて障子を開いたときには、もう姿はなかった。家の者にそのことを語ると、母は何も言わずただ眉をひそめた。それから北は病に臥し、その年の内に亡くなった。実は、北家ではこれまで三代に渡り当主が己の姿を見て病を発し、亡くなっていたのである。北の母や長く勤める家来は皆これを知っていたがあまりに忌まわしいことのため誰も語らず、当代主人である北とその妻は一切知らなかった(以上の話は江戸川乱歩『幻影城』からとった)。
このドッペルゲンガー、伝承とか小説の中の出来事と思われがちだが、実はこれ、精神医学界でも古くから話題になっている現象なのである。実際に、こういう症状を訴える患者が確かにいて、昔から多くのの論文が書かれているのだ。もっとも、純粋に学術的な興味というより、いくぶんロマン主義的な関心(興味本位ともいう)であることは否定できないのだけれど(多重人格もついこの間まではそうだった)。最近では、精神科医の春日武彦さんが『顔面考』という本でドッペルゲンガーについて大きく取り上げていますね。
藤縄昭「自己像幻視とドッペルゲンガー」(臨床精神医学76年12月号)という総説によれば、典型的なドッペルゲンガーは、
・目の前数十センチないし数メートルのところ、あるいは側方に、はっきりとした自己自身の像が見える。
・多くは動かないが、ときには歩行、身振りに合わせて動作する。
・全身像は少ない。顔、頭部、上半身などの部分像が多い。
・一般に、黒、灰色、白などモノトーンであることが多い。
・平面的で立体感を欠き、薄いという場合もあれば、ときにはゼラチン様ないしガラス様に透明な姿で見えることもある。
・自己像は自己自身の姿とかならずしも似ておらず、表情が異なったり、衣服が異なったり、さらには若かったり甚だしく老けて見えたりすることもある。
のだそうだ。
そして、重要なのは
どのような姿をとって現れても、その人物像が自己自身の像であると直感的に確信して疑わないのがこの現象の特徴だということ。
さてドッペルゲンガーの実例だけど、須江洋成らによる「多彩な自己像幻視を呈した非定型精神病(満田)の1症例」(臨床精神医学98年1月号)という文献には、まさにタイトル通り驚くほど多彩な例が報告されているので紹介しておこう。
患者は26歳の女性。あるとき「就寝して間もなく壁際に黒い洋服を着ている人物が見えた」。「その人物はまるで影のようで、顔は見えなかったが、それは自分であるとすぐに確信した。自分を見つめているように思えた。夫に伝えようと視線をそらしたところ、その影は自分の視界に入ろうとするかのように移動した」という。これはごくオーソドックスなドッペルゲンガーといえる。
18歳のとき最初に見たドッペルゲンガーは、「夜間に突然、向こうに歩いていく裸の人物が見え、『誰?』と声をかけて振り返った姿が自分であった」というものだったという。
その後、「電車の中からホームを見ていて階段を降りていく自分が見えた」「ショーウィンドウに映る自分を見ながら髪を整えていたとき、隣で同じことをしている自分が映っており、何か話しかけてきたが間もなく消えた」「出前を取り、お金を払おうとしたところ、先に払おうとするかのように玄関に向かう自分の姿が見えた」など、さまざまなドッペルゲンガーを体験。
「歩いていたとき自転車に跨るようにして壁に寄りかかりながら自分を見ている幼い頃の自分が見えて、近寄ろうとしてつまづき顔を上げたときには消えていた」という年齢の違う自己を見た体験もある。
さらに、隣の部屋から様子をうかがっているなど、近くにいるもうひとりの自分の気配を感じることもあるという。
最後の二つの例からもわかるように、分身というのは、別に自分にそっくりだから分身であるというわけではないのだ。たとえ幼い姿であろうと、気配だけであろうと、それが自分であると「直感的に確信して疑わない」のである。
最後の例などかなり怖いと思うのだが、この患者によると、はじめはひどい恐怖を覚えたが、次第に誰にでもあると思うようになって、なんとも思わなくなったという。こう何度もドッペルゲンガーを体験していれば、そんなものなのかもしれない。
さらに彼女はこのほかにも、極めて珍しい体験を報告している。幼い頃、衣服は異なるが薪を取りに行く母親と薪をくべている母親が同時に見えて、「どっちがお母さん?」と聞いてきた、という体験を鮮明に覚えているのだそうだ。
他人における二重身、とでもいうのだろうか。これは強烈な経験だったろうなあ。この体験については、論文の著者も正直言って考察に苦しんでいる様子。私にもよくわかりません。
(last update 02/10/30)