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読冊日記アイルランド編(2000年7月22日〜31日)
7月22日(土)

 さて、そもそもなぜアイルランドに行くことにしたのか、ということについて説明しなきゃいけないのかな。アイルランドってのは、日本ではそれほどメジャーな観光地ではなく、ガイドブックにしたって「地球の歩き方」くらいしか出ていないし、その「地球の歩き方」にしたって他の国に比べてかなり薄手。しかも、現地へ行くとこれがあんまり役に立たないのですね(英語版のガイドブックにはけっこう分厚いのがあって、途中で買った"Lonely Planet"というシリーズのガイドブックはかなり重宝しました)。
 もちろん、「ある種の人々」にとってはアイルランドに行きたい、という私の気持ちは説明不要なのだろうけど、多くの人にとっては、アイルランドと言われても漠然としたイメージしかないようだ。実際、私が「アイルランドへ行く」というと、たいがいの人は「危ないんじゃないの?」と聞き返してきた。IRAからの連想なのだろうけど、アイルランドを統一しようとしている団体が、自分とこの国でテロ活動してどうする。そういう意味ではむしろ危ないといえるのはロンドンや北アイルランドである。
 そうそう、なぜアイルランドか、という話だった。ひとことで言ってしまえば、アンリアル系な小説を愛する者にとって、アイルランドといえば憧れの地であり、心の故郷なのである。ケルトの装飾美術、謎の巨石文明、妖精、幻想文学、アイリッシュ・ミュージック、そしてのどかな田園風景。アイルランドは数多くの幻視者を生んだ土地だ。怪奇小説の祖レ・ファニュも、ブラム・ストーカーもアイルランド人だし、ダンセイニだってコナン・ドイルだってアイルランド系である(ドイルの生まれはスコットランドだが)。もちろん、W・B・イェイツ、ジェイムズ・ジョイス、フラン・オブライエンの名前も忘れちゃいけない。現代作家だと、イアン・マクドナルドがアイルランド在住である(北アイルランドだけど)。
 そういうわけだ。
 おわかりいただけただろうか。
 わからん、という人もいるだろうがとりあえず先に進む。

 まずは成田発10時25分のKLM機で12時間、アムステルダムのスキポール空港に飛ぶ。日本からアイルランドまでは直行便が出ていないのでどこかで乗り継がなきゃならないのだけど、旅行会社に勧められたのがこのオランダ経由。イギリス経由より安いという。ただし、この日は土曜日だったせいもありどうも接続が悪く、アムステルダムでの待ち時間が4時間以上。退屈である。空港には最短2時間半から行けるアムステルダム・ツアーなんて広告が出ていたので、こりゃちょうどいい、とばかりにその会社のカウンターに行ってみるが、どうもバスが出払っているらしくて"Not Available"だと言われる。思えばこれがこの旅第一のがっかりであった。。
 結局、空港でだらだらと時間を過ごし、1時間遅れで出発したエア・リンガス機に乗ってダブリンへ。ダブリン空港に着いたのは午後9時。とはいっても、7月のダブリンはまだかなり明るい。まだ5時くらいとしか思えない明るさである。この季節、アイルランドでは暗くなるのは夜の10時を過ぎてから。そりゃ夜遊びもしたくなるよね。しかし気温は日本に比べてかなり肌寒く、日本でいえば10月くらいの寒さである。街の人もこういう季節にはどんな服装をすればいいのか確固とした統一見解はないようで、その後街を歩いても、Tシャツ1枚の人もいれば、温かそうな革ジャンを着た人もいるという、季節感がさっぱり湧かない状態だった。
 ちょうど空港の前に止まっていたバスに乗り、運転手さんにホテルの名前を告げると、やたらと人通りの多い、オコンネル通りという繁華街で降ろされた。川沿いをしばらく歩けば着く、というのだが、これがいくら歩いてもたどりつかない。スーツケースを転がしながらとぼとぼと歩く私たちの左手に流れているのは、まるでドブ川のように真っ黒なリフィ川。これがかの『フィネガンズ・ウェイク』に登場するリフィ川ですか。もっときれいな川だとばかり思っていたよ。街角にはホームレスや物乞いがところどころにいるし、道にはゲロや排泄物すら落ちている。
 ダブリンっていうのはこんな街だったのか。初日からいきなり幻滅である(第二がっかり)。
 しばらく迷ったあげくようやくたどりついたのが(なんと旅行会社からもらった地図が間違っていたのだ!)、今夜の宿であるオーモンド・キー・ホテル。しかし、疲れきって部屋のベッドに横になった私たちに休む間も与えず、体を揺るがすようなずんずんという重低音が響く。なんということか、このホテルの1階にはディスコがあるらしい。ホテルにそんなもん作るなよ。まさか、アイルランド初日から耳栓をして寝るはめになるとは思わなかった。
 結局、2時半までディスコは終わらず、しかもその後しばらくは店の前にたむろする客の声ががやがやと聞こえてきた。
 最悪(第三がっかり)。
7月23日()

 結局ほとんど疲れの取れないまま7時半に起き、地下の食堂で朝食。初めてのアイリッシュ・ブレックファストである。
 ここアイルランドは、イギリスとともに、一日の食事の中で朝食がいちばんうまい、といわれる国。私も朝食にはけっこう期待していた。なんでもフル・アイリッシュ・ブレックファストになると食べるのに1時間はかかる壮大な朝食らしいのだが、ホテルでは当然そんなものは出ず簡略版。朝食のプレートに載っているのは、ベーコンとソーセージ、目玉焼きにブラック&ホワイト・プディング。プディングとはいっても日本のプリンとは全然違ってソーセージみたいなものである。何種類かのパンやシリアルは自由に食べられる。そしてジュースともちろん紅茶。
 ベーコンとソーセージは私の好みからするとかなり塩辛いのだけど、それ以外はとても美味。しかし、これだけボリュームのある朝食をとって、昼食夕食もきちんと食べていたらかなり高カロリーの食事になってしまう。実際、アイルランド人は昼食と夕食は軽めで済ませることが多いようだ。

 今日は古代遺跡ニューグレンジへのバスツアーに行ってみようと思っていたのだが、バスセンターに行ってみると今日は日曜日なのでツアーはなし。それなら、と初期キリスト教会のあるグレンダーロッホへのツアーを申しこんでみたが、これもすでにいっぱい。ハイ・シーズンを甘く見ていたか。仕方ないので、今日は急遽ダブリン市内観光ということになってしまった。実は、バスセンターではなくツーリスト・センターに行けば他の会社のツアーもたくさんあったのだが、その時点では知らなかったのである。第四のがっかりである。

 さて、何も考えずにまず歩いて向かったのが、バス・センターからもそんなに遠くないトリニティ・カレッジ。ここの旧図書館にはアイルランドの至宝といわれる「ケルズの書」があるのだ。
 お金を払って入場し、まず最初の部屋には装飾文字の書き方や色づけの方法などについて説明したパネルが並んでいる。これを一通り見てから「ケルズの書」のある部屋に入るのだが、これが混んでいてなかなか入れない。ようやく入れた部屋の中央のガラスケースの中で開かれているのが「ケルズの書」。装飾の論理がすべてに優先しているかのようなその本はまさにケルトの精神そのもので、確かにこの上もなく美しいのだが……これだけ? まあ本なんだから全ページを見せることはできないのだろうけど、さんざん並ばせておいてこれだけというのは、なんとも拍子抜けのような気がする。
 「ケルズの書」を見たあとは、順路は2階の図書室へ。ここはその名も「ロング・ルーム」。65メートルもあるという長い部屋にドミノ倒しのドミノのように書棚が並び、床から天井までびっしりと万巻の書が収められている。本好きにとっては垂涎の空間である。しかし、書棚に並べた本が百年以上もそのまま落ちないなんて、地震のない国はいいな。

 それからみやげ物屋をのぞいたり(ダブリンは観光都市、そこら中にみやげ物屋があるのだ)、教会を改造したツーリスト・センターで一休みしたりと、ダブリンの街をゆくあてもなく歩いているうちに昼が近くなってきたので、昼食でもとるか、と思ったのだが、周辺にあるのは高いレストランばかり。どこで食べようか、と迷っているうちに発見したのが"YAMAMORI noodle"という怪しい看板。日本語にすれば「山盛りヌードル」か。どうも日本風のラーメンや寿司を出す店らしい。これは話のタネに入ってみるしかあるまい。
 メニューを見て、妻は山盛りラーメン、私はチキンラーメンを注文。どんなものが来るかとわくわくしながら待っていたのだが、出てきた代物は想像を超えていた。スープはいちおう醤油味なのだが、麺は固まっていて、腰がないのでほどこうとすると切れてしまう。上に乗っているのはニンジンとキュウリ。ラーメンの具にキュウリはないだろ。奇怪としかいいようがない代物なのだが、「ラーメンという概念の枠を広げた食べ物」といえなくもない。当然ながら、きわめてまずい(トッピングのチキンだけはうまかったが)。これがダブリンで今、大人気の店だというのだから、アイルランド人の味覚というものはよくわからない。隣のテーブルでは、アイルランド人らしい客が、まさに山盛りの天ぷらを、器用に箸を操って食べていた。

 それから観光を再開したのだけれど、その後回ったところはどこも今一つぱっとしない。まずは少し歩いてダブリン城へ。城とはいっても古い建物はほとんど残っておらず、今では市庁舎として使われている建物である。ツアーに参加すると、けっこうゴージャスな内装や、地下にある中世の街壁跡も見せてくれる。外から見ただけでは想像がつかないような内部が見られるのだが、いかんせん地味。特に見るべきところでもありません。私ももうどんなだったか忘れかけてます。
 次に聖パトリック大聖堂。カトリック国アイルランドでいちばん大きな教会であり、しかもアイルランドの守護聖人である聖パトリックの名前を冠しているというのに、ここはアングリカンという英国国教会のアイルランド版みたいな宗派の教会である。ダブリンにはもうひとつクライスト・チャーチ大聖堂という大きな教会があるのだが、こちらもアングリカン。実はもともとどちらの聖堂もカトリックだったのだけど、その後プロテスタントに取りあげられてしまったのだ。このあたり、カトリック国アイルランドとプロテスタントの国イギリスの複雑な関係を象徴している。どっちかひとつくらいカトリックに返してあげればいいのに。聖パトリック大聖堂は、『ガリバー旅行記』の作者スウィフトが首席司祭を務めていた教会で、彼とその恋人ステラの墓があるのだが、イギリスの壮麗な大聖堂に比べると明らかにみすぼらしく、それ以外特に見所のあるようなところでもない。

 一日中歩きまわり、いくらなんでも疲れたのでいったんホテルに戻って休憩したあと、重い腰を上げて若者でにぎわうテンプル・バーへ夕食を食べに行く。テンプル・バーは、日本でいえば渋谷のセンター街のようなところであり、私としてはあまり心落ち着くような場所ではないね。
 私たちが目指したのは、このテンプル・バーの一角にある、フィッツサイモンズ・バーという、トラディショナル・ミュージックとダンスで有名な店。まずは2階のレストランでアイルランド料理をいただく。妻はアイリッシュ・シチュー、私はビーフ・アンド・ギネス・パイ。どちらもアイルランドの代表的な料理である。家庭的な料理だがこれはわりといけます。つけあわせにライスがあったので頼んでみたが、予想通りぱさぱさしていてあまりうまくはない。ただ、シチューにまぜて食べるとこれがそれなりにいけるのですね。どうやらこちらではライスをそれだけで食べるという発想はなく、シチューにからめて食べることが前提のようだ。
 夕食後は下のパブに降りて、キルケニーというエールを飲みながらアイリッシュ・ダンスを見る。どうやら、ステージの上では4人の女性ダンサーが華麗なステップを踏んで踊っているらしい。なぜ推定でしか物が言えないのかといえば、ステージの周辺はお客さんでいっぱいで立錐の余地もないほど。おまけにみんな背が高い(アイルランド人は概して背が低いので、背が高いのはたいがい観光客だ)ので、私たちからはよく見えないのだ。アイリッシュ・ダンスで肝心なのは足なのだが、私たちからの位置からは、ぴょこぴょこと頭が上下しているのが見えるだけ。疲れきっていた私たちは早々に引き上げてくるほかなかった。

 私の偏見かもしれないが、ダブリンという街はあまり魅力のある都市ではないように思えた。夜遅くまでの喧騒。淀んだ川。ゴミと嘔吐物の匂いのする街角。渋滞する道路。ホームレス。観光客の群れ。要するにここは東京と同じような都会にすぎない。私の思い描いていたアイルランドはここにはない。だが、もちろん私の方が勝手な理想を押しつけているだけで、これもまたアイルランドのひとつの顔なのかもしれないが。
 この日は日曜だったからかディスコは営業していないようで、昨夜のような重低音が聞こえずぐっすりと休めたのが唯一の慰めか。
7月24日(月)

 今日こそはバスツアーに行ってやるぞ、ということで、実はきのう、早々と今日のグレンダーロッホへの1日ツアーを申し込んであったのだが、今日になってやっぱりニューグレンジに行きたくなってきた。
 グレンダーロッホは山あいのきれいなところらしいのだが、そこにあるのは初期キリスト教会の遺跡。それに対してニューグレンジはキリスト教よりはるか以前の古代遺跡。SF者としては、やっぱり素性の明らかなキリスト教遺跡よりは謎の古代遺跡に行きたいじゃないですか、ねえ。
 てなわけで、ちょっともったいない気もしたが、グレンダーロッホツアーの方はばっくれて、改めて別の会社がやっているニューグレンジへの半日ツアーの方を申し込む。今日はツアーのあとアイルランドを横断して西海岸の町ゴールウェイに向かう予定なのだが、半日ツアーならゴールウェイ入りもそんなに遅い時間にならずにすむ。

 ツーリストセンターの前から乗り込んだニューグレンジ行きのバスは、なぜか日本のふそう製の中古の観光バス。ドアには大きく「自動扉」の白い文字。車内には「非常コック」の文字も見える。遠い異国の文字で彩られた車を、アイルランド人は何だと思っているんだろうか。
 さて、そのふそう製のバスでダブリンから北へ1時間、一路ニューグレンジへ。バスの車窓から見えてきたのは巨大な緑の古墳。日本の円墳にちょっと似ているが、側面は白い石組みで覆われている。これがアイルランドの誇る古代遺跡ニューグレンジである。
 「ニューグレンジ」という名前だけだと、なんだか新しいホテルか何かのように聞こえるが、これは実は5000年も前に作られた古墳である。「エジプトのピラミッドより確実に古い」と、ビジターセンターには自慢げに書いてありました。この周辺はゲール語でBrú na Bóinneといわれる地域で、周辺にはほかにもナウス(Knowth)、ダウス(Dowth)という巨大遺跡があり、その他ストーンサークルや塚など大小の古代遺跡が点在しているのである。ニューグレンジの中からは人骨が発掘されているのでおそらく墳墓だったのだろうが、誰が誰を埋葬したのかは一切不明。
 バスは遺跡のそばを通ったのだが、直接遺跡に行くことはできず、まずはビジターセンターへ。観光客の人数は厳重に制限されており、ビジターセンターを通らずに遺跡だけを見ることはできないのだ。ここで展示や映像で基本的な知識を仕入れてから、そこからは専用の青い小型バスに乗って遺跡に向かうことになる。勝手に遺跡の中に入ることはできない。ま、遺跡保護のためには当然のことでしょう。
 近くに行くと古墳は思ったよりも遥かに巨大である。高さは13メートル、直径は80メートルくらいあるとか。外壁は純白の石英の石組みで覆われていて、きちんと修復されているので一見そんなに古そうには見えず、なんだかドーム球場のようにも見える。入り口のところには、うずまき模様が一面に刻まれた謎の岩が置かれている。そういえば昔『ムー』っぽい雑誌でこの岩の写真を見たことがあるような。そのちょうど反対側、古墳の後部にも同じくらいの大きさの岩が置かれていて、こちらにはうずまきのほかひし形や楕円などの紋様が描かれ、いくつかの穴も穿たれている。
 レンジャーのおねえさん(美人)に連れられて、10数人のグループで石室の中に入る。入り口は狭く屈まないと入れないくらいだが、内部はけっこうな広さで、天井や壁の石にもうずまきや波形などの装飾が刻まれている。まさにここはオカルト伝奇SFの世界。
 「メディテーションをしてみましょう」とレンジャーのおねえさんが照明のスイッチを消すと、まさに息苦しいほどの完全な闇。10人以上の観光客が周りにいるはずなのだが、まるで闇の中でたったひとりになったかのようである。そして、おねえさんの説明に合わせ、冬至の朝の光をシミュレートした一条の光が入り口から射し込む。この石室は、冬至の前後数日間の朝にだけ太陽の光が射し込むように設計されているのだとか。淡い光の中、周囲にぼんやりと浮かび上がるうずまきや波形の紋様。
 古代、冬至の日には死と再生の儀式が行われたという話はよく聞くけれど、おそらくこの感動はこの場所に立たなければ実感できまい。ここは大地の子宮であり、射し込む光は天空の陽根を意味するのかもしれない。一日がもっとも短く、もっとも死に近い日である冬至に、大地と天空の交わりによって復活の儀式は完了するのだろう。それが太陽の復活なのか、この墳墓に葬られた人物の復活なのかは不明だが。
 そしておそらく、遺跡を彩る謎のうずまきにも、何か呪術的な意味があったにちがいない。この遺跡を作った先住民族と数々の装飾美術を作ったケルト人はまったく別の民族だと言われているが、それでもうずまきや装飾を偏愛する感性には共通のものが感じられる。そして今も、アイルランドを旅していると、そこかしこにうずまきの模様を見かける。みやげもの屋にはうずまき模様のTシャツが並んでいるし、宝石店のジュエリーもうずまき模様。下水の蓋すらケルト風うずまき模様だったのには驚いた。
 アイルランドは、今もなお、うずまきの国なのだった。

 1時間ほどニューグレンジを見学したあと、再びバスに乗ってダブリンへ帰還。もうひとつの巨大遺跡ナウスを見学するコースもあるのだけど、このバスツアーには入っておらず残念。私と妻はこういう古代遺跡が大好きなのである。もし次に来る機会があるなら、ツアーに頼らず個人で来たいものである。
 ダブリンでは、ラム肉のごろごろ入ったアイリッシュ・シチューの昼食をとってから、インターシティという高速列車に乗って一路ゴールウェイへ。アイルランドの鉄道はいまだに電化されていないようで(そもそも電化するつもりもないのかも)、この列車もディーゼル機関車で引っ張っている。
 窓の外に広がるのは一面の緑の牧草地、ところどころに牛や羊の群れ。ぽつりぽつりと家。最初のころは美しい景色に見とれていたのだけれど、人間というのは贅沢なもので、行けども行けども同じ景色なのでだんだんと飽きてしまった。アイルランドはほとんどどこへ行ってもこんな景色ばっかりである。
 列車に揺られて3時間、ゴールウェイに到着。スーツケースは重いし、地図を見ると、今日から泊まるホテルは少し遠そうだ。立ち往生しているといきなりおじさんが話しかけてきた。「何か困ってるのか」「タクシーを拾いたいんです」妻がそういうと、「そうかそれならあっちへ行くといい」と公園の向こうを指さし、おじさんは去っていった。おかげで無事タクシーでホテルへ向かうことができました(実はタクシーを使うほどの距離でもなかったのだが)。
 今日から3日間の宿は、河口に近い橋のたもとにあるジュリーズ・イン。アイルランドやイギリスのあちこちにチェーン展開しているホテルである。立地も便利だしきれいでちゃんとバスタブもあるのだけど(ないホテルが多いのだ)、アイルランドらしい味には欠けるかも。
7月25日(火)

 さて今日は一日特に予定も立てず、ぶらぶらとゴールウェイ市内を周る。まずはツーリスト・センターで明日アラン島に渡るフェリーの予約をしてから、早速市内散策へ。
 港町ゴールウェイはアート・フェスティバルの真っ最中。カラフルなパブやレストランの並ぶ歩行者天国の通りには観光客があふれ、アコーディオン弾きやバグパイプ吹き、ギターの弾き語り、パントマイムなどなど、通りの至るところにストリートミュージシャンや大道芸人が立ち、見物人を集めている。体中を銀色に塗った「ブリキ人間」はふだんは微動だにしないが、目の前の缶にお金を入れると、突然音楽とともに踊り出して握手してくれる。火のついたトーチで黙々とジャグリングをしているジャグラーもいる。道路になんだかミイラみたいな不気味な絵を描いている二人組みもいる。ゴールウェイは、街中がお祭り気分である。
 通りをぶらぶらと歩いていたら、とあるショーウィンドウの前に人だかりができている。何だろう、と思ったら、ショーウィンドウの中には、真っ青に塗られたスキンヘッドのマネキンが4体、売り物のスーツに身を包んでいる。しかも、よく見ると1体だけが体を青く塗った人間で、ときどきにやりと笑ったり手を振ったりしているのであった。なるほどみんなこれを見ていたのか。
 その後何度かここを通ったのだが、このショーウィンドウの前にはいつでも人だかりができていた。しかし、いつの間にすりかわったのか、マネキン男はすでにおらず、4体とも人形。人形なら動かないからすぐわかるだろう、と思われるかもしれないが、これがご丁寧に人形には扇風機で風が送られていて、風に揺られて服や人形がかすかに動くようになっているのですね。じっと目を凝らしてみないと人形か人間かわからない。だから、マネキン男がいなくてもこの店は人を集めるというわけ。商売がうまいね。

 午後はコリブ川沿いを散策して聖ニコラス大聖堂へ。コリブ川はゴールウェイで大西洋に注ぎ込んでいるが、水はまるで上流のように澄みきっており、流れも速い清流である。リフィ川とはえらい違いだ。ドーム型の屋根が厳めしい聖ニコラス大聖堂はカトリックの教会だが、元々は刑務所があった土地に1965年に建てられた建物だそうだ。つい最近のことである。街の中心部にあって歴史も古い聖ニコラス教会(紛らわしい名前である)はもともとカトリックだったが現在はプロテスタント。やはりこの街でもカトリックは扱いが悪い。
 妻はここで堀にいる白鳥に餌をやりたかったそうなのだが、堀には白鳥の姿なし。朝にはいたのに、というのだが、そりゃ白鳥だって動くだろう。仕方ないので妻は鴨に向かってプリングルズを投げたが、鴨は見向きもしない。やはり鳥の餌といえばパンだろう。ポテトチップでは無理だと思うのだが。
 白鳥はここより河口の方にもっといたはずだ、と河口に戻ると、ゴールデンレトリバーを連れた老人が海沿いのベンチに座り、パンをちぎっては川に投げていた。水面にはカモメや白鳥がたくさん寄ってきていてパンをついばんでいる。老人の位置からは水面は見えないのだが、老人は気にする様子もなく、静かにパンを投げている。そして犬も静かに老人の横に座っている。
 妻はここでもまた川にプリングルズを投げ込んでいたが、当然ながら白鳥はまったく寄ってこない。だからポテトチップじゃ無理だって。妻よ、それはただの環境汚染だから、むきにならずやめたらどうか。
 橋を渡って海沿いの広い公園へ。この公園の名前はサウスパークというらしいが、別に太った子供やすぐ死ぬ子供はいない。広い芝生の上をしばらく歩き、ベンチで休んでいると、黒い犬(私たちはこの犬をブラッキーと呼称することにした)が私たちの方にとてとてと近づいてきた。
 この街にはひものついた犬はほとんどいない。街中でも海沿いの公園でも、誰に飼われているのかよくわからない犬がひとりで歩いているのをよく見かけた。首輪がついているところをみると、別に野良犬というわけでもないようだ。この街ではこういう犬の飼い方が普通らしい。この街の犬たちはみんな人懐っこく、よく慣れていて吠えたり咬んだりはしないのである。ただ、公園を歩くときには犬の糞を踏まないように注意しなければならないけれど。私たちは、ひものついた犬を「ひもいぬ」、ひものついていない自由な犬を「いぬ」と命名した(cf.日本にはひもいぬは多いがいぬはほとんどいない)。
 さて、ブラッキーは私たちの前で立ち止まると、ぶんと首を振り、口にくわえていた小さな石を私たちの足元にぽとりと落とし、そして何か訴えかけるような目で私たちを見上げた。はて何だろう、と思っていると、犬はまた石をくわえ、また同じように私たちの足元に石を投げ、私たちを見上げた。ブラッキーはこれを数回繰り返したのだが、驚いたことに、よく見ると彼の投げた石は毎回まったく同じ石なのだった。つまり、芝生にいくつも落ちている小石の中から彼はわざわざ同じ石を探し、それを私たちに投げてよこしていたのだ。いったいブラッキーは私たちに何を訴えたかったのだろうか。
 やがてブラッキーは私たちの理解力のなさに愛想をつかしたらしい。哀れむような目で私たちを見ると、また同じ石をくわえて、とてとてと歩み去っていった。どうやら私たちは見限られてしまったようだ。彼の目指す方向にはまた別の人々が。もしかしたら彼らにも同じことをしてみせるのかもしれない。
 彼らに、ブラッキーのメッセージは通じただろうか。

 ゴールウェイは、白鳥と、カモメと、犬の街だ。そして、これが重要なのだが、一日のんびり、だらだらすごすことのできる街である。
 またいつか、静かな時期に来てみたい街だな、と私たちは思った。

 そうそう、すっかり忘れていたが、この日はゴールウェイの二大名産品であるアランセーターとクラダリングを買ったのだった。アランセーターは妻と私に、クラダリングはもちろん妻にである。
 アランセーターは、本来はアラン諸島の漁師が着ていたもので、当然ながらアラン諸島の名産品なのだが、今では量産されてアイルランド全土で売られている。手織りのものは普通のセーターよりもずっしりと重くて丈夫。漁師が着ていただけあって防寒性も充分。値段は13000円くらい。
 クラダリングの方は、王冠のついたハートを両側から手で捧げ持っているというデザインの指輪。ハートが「愛」、両手が「友情」、王冠が「誠実」だそうで、なんだか少年ジャンプのようだ(「友情」しか合ってないぞ)。ゴールウェイ近くのクラダ村(今日行った公園のあたりにあったそうである)で古くから作られていたものだという。未婚者は王冠を下向きに、既婚者は上(指先の方)向きにつけるの正しいのだとか。ただし、アイルランドでは有名な指輪なのだけど、日本での知名度は今一つ。
 そういえば、手、王冠、心臓というと、ダリの宝飾にもよくあったモチーフである。もしダリがこの指輪をデザインしたとしたら、血のしたたるようなルビーの心臓を、鳥の足のように細い手が捧げ持っている指輪を作ったに違いない。うーん、不気味不気味(勝手に想像して気味悪がってどうする)。
7月26日(水)

 朝起きてぼんやりテレビを見ていたら、なんだか見たことのあるアニメをやっている。おお、これは日本製アニメ。それもポケモンではないか。まさかアイルランドまで来てポケモンを見ることになるとは思わなかった。
 ピカチュウはアイルランドでもピカチュウだが、サトシはアッシュという妙にかっこよさげな名前に変えられている。ポケモンはアイルランドでも大人気のようで、本屋に行けばポケモン絵本やポケモンクイズの本が売られているし、ピカチュウのぬいぐるみもそこかしこで見られた。空港の売店ではニンテンドウ64のマーク入りのヘッドホンステレオなぞというわけのわからないものまで売っている(別にパチモンではなくアメリカのニンテンドウが作ったものらしい)。今やポケモンは全世界を制覇しているようだ。
 ポケモンの次に始まったのは、アニメ版のゴジラ。デザインはUSAゴジラそのもので、今回はゴーストタウンと化した都市を探検隊が訪れ、そこでゴジラと巨大蜂との戦いに巻き込まれるというお話。これが意外にもけっこうおもしろくて、ついつい最後まで見入ってしまった。これはぜひ日本でも放映してほしいなあ。

 さて今日はアラン島(正確にはアラン諸島のうちのイニシュモア島)へ。9時発のバスでゴールウェイを発ち、西へ1時間ほど走る。窓の外は例によって一面の牧草地だが、このあたりでは柵代わりに無造作に石を積んで牧草地の区切りにしているところが目につく。地面にごつごつと岩が露出しているところも多い。なんだか寒々とした光景だが、これがアイルランド西部独特の風景のようだ。
 ロサヴィールという港でバスを降り、そこからフェリーに乗り込む。アラン諸島はアイルランドでも一二を争う観光地なので、フェリーは観光客でいっぱい。中には日本人の団体旅行客まで混じっている。それも関西弁の初老の夫婦ばっかり。こんなところまでやってくるとは、おそるべし日本人団体旅行。
 40分ほどフェリーに揺られ、ようやくイニシュモア島のキルロナン村に到着した。イニシュモア島の人口は約900人。かつては漁師くらいしかいなかったこの島だが、今では観光が島を支える重要な産業になっているようで、港では十数台ものミニバスが観光客を待ち構えている。
 ガイドブックによれば、この島の観光手段は3つ。ミニバスに乗ってすいすいと名所を回るか、観光用の馬車に乗るか、あるいは自転車を借りて自力で島を回るか。なんでも目当ての遺跡までは9キロ近くあるらしく、自転車で行くのはかなりきついらしいし、馬車というのも恥ずかしい。味気ないがまあバスに乗るのが無難だろう、と思っていたのだ、港についたその瞬間までは。
 キルロナン村の港に降りた瞬間である。いかにもアイルランドの田舎のおじさん、といった真っ赤な顔で背の低いおじさん(こんなに盛大に鼻毛が伸びているおじさんを見たのは初めてである)がすい、と近づいてきて、私たちに何か声をかけてきた。なまりがきつくてよく聞き取れないのだが、「キャリッジ、キャリッジ」と言っているらしい。あー、「キャリッジ」って何だっけ、と思っているうちに、あれよあれよという間に私たちは馬車に乗せられてしまった。そうか、キャリッジは馬車か。
 というわけで、おじさんの強引な客引きに引っかかり、思いがけず私たちは馬車に乗ることになってしまった。引っ張る馬はなんだか小柄だし、馬車も二輪の古ぼけたもの。もちろん屋根などはなく、御者を除けば無理をすればなんとか3人までは乗れるかな、といったところ。おじさんが"Go!"と馬に鞭を入れると、馬車はがたがたと動き出した。乗り心地は「すさまじい」の一言に尽きるのだが、よく晴れたこんな天気の日には、馬車に揺られてのんびりと海沿いを走るのも気持ちがいい。
 まわりに広がっているのは岩だらけのごつごつした風景。石灰岩の岩盤でできたこの島には、木というものがまったくないのですね。島の大地には、石の壁が網目のように張り巡らされており、その内側は緑の牧草地になっていて牛がのどかに寝そべっていたりする。一見何気ない風景なのだけど、この石の壁、そこらにある石をただ積んで作ったというわけではないのですね。この島にあるのは硬い岩盤だけで、石なんてないんだから。
 この島で石壁を築くには、まず石灰岩の岩盤をハンマーで砕いて石を作り、それから石を積み上げなければならない。東西に細長いイニシュモア島は、縦13キロ、横3キロほどの長さだけど、石壁の総延長はなんと1500キロ以上。つまり、一見何気ないこの風景は、実はこの島で生活してきた人々が、何世代もの年月をかけて作り上げた風景なのだ。アラン諸島には土がほとんどないから、かつては砕いた岩を敷いた上に海藻を敷き詰め、そこでじゃがいもを育てていたという。石の壁は単なる土地の境界線ではなく、土が飛ばされてなくなってしまわないようにという風除けの意味もあるそうだ。もちろん今見える牧草地も最初からあったものではなく、島の人々が長い年月をかけて作り上げたものなのだろう。なんとも気の遠くなるような話だ。
 おじさんは、"Go on, Go on!"と馬に声をかけながら鞭を入れ、いったい何の意味があるのかさっぱりわからないが、ときどき「クックックックッ」と口の中で声を出す。かと思ったら機嫌よさそうに歌を歌い出す。下手だけど。一見頼りなさそうな馬はときどき疲れたのか止まりそうになりながらも、黙々と馬車を引っ張っている。頑張れ馬。周囲の現実離れした風景ともあいまって、何だか異世界に迷い込んだような気分である。
 馬車に揺られて30分くらいで、目的地であるドン・エンガスのビジターセンターに到着。ドン・エンガスというのは、少なくとも3000年以上前に作られた石の砦である。ゲール語では"Dún Aonghasa"。この綴りでどうしてドン・エンガスと読むのか私にはさっぱりわからないのだけど。この島にはあと二つ、"Dún Eochla"と"Dún Dúchathair"という鉄器時代の巨大遺跡があるが、当然ながらこちらの読み方も私にはわからない。
 遺跡まではゆるやかな上り坂を15分くらい。遺跡へと向かう道の脇では、岩の上に老人が座ってアコーディオンを弾いていた。なんだかとても絵になる光景だ。思わずコインを投げると、「コンニチハ、ナニカヒキマショウカ」と日本語で声をかけてきたのには驚いた。この老人、実はドン・エンガスの名物らしい。
 さて、ドン・エンガスは大西洋を望む90メートルの断崖の上にある、石組みの半円形の砦である。砦は二重三重になっており、ちょうど直径の部分で崖に接している。ロープとか柵のたぐいはまったくない。しかも、大西洋からは強い海風が吹きつける。高所恐怖症の気味のある私には、恐るべき場所である。それでも他の観光客がしているように、腹ばいになっておそるおそる下をのぞき込むと、崖の下で波が打ち寄せているのが見える。海まで一直線。間違って落ちてしまう観光客もいるんじゃないか、とも思うのだが、実際落ちて死んだ人もいるそうな。
 いったい誰がなぜこんなところに砦を築いたのかはまったく不明。軍事的な目的なのか、宗教的な目的なのかも不明(こんな不毛な島に軍事的価値があるとはとても思えないのだが)。まさに謎だらけの遺跡である。もともとは完全な円形で、3000年の間に崖が波に削られて半円形になった、という説もあるらしい。そうすると、あと3000年もすればこの遺跡もなくなってしまうのかもしれない。そしてこの島も。

 30分くらいドン・エンガスからの風景を堪能したあと、再び馬車で同じ道を戻り、キルロナン村へ。降りてから代金を聞くと40ポンドだという。日本円にして5400円くらい。B&B1泊分ではないか。いくらなんでもそりゃ高すぎないか。しかも他にも名所はいくつもあるのにドン・エンガスしか見てないぞ。不満はあったが、仕方がないので払う。私としては、体力に余裕のある人には自転車を、お金に余裕がある人には馬車を、それ以外の人にはバスを勧めたい。
 村で一休みして軽食をとったが、帰りのフェリーの時間まではまだかなりある。せめてもう1箇所くらいは名所をまわりたい。そこで、私たちは自転車を借り、近そうな遺跡に行ってみることにした。目的地は"Dún Dúchathair"。別名「黒の砦」。地図を見ると村のすぐそばみたいだし、「地球の歩き方」にも「一見の価値がある」と書かれている。しかし、私たちはまだイニシュモア島の地形の凄まじさを理解していなかったのである。
 村の貸自転車屋で、自転車を借りて走り出す。海沿いの道を走ると、澄みきった空気が気持ちいい。と思ったのもつかの間。舗装道路はしばらく行くと砂利道になり、さらに行くと今度は単に砕いた石がばらまいてあるだけの道になる。実に痔に悪そうな道である。やがて道は急な上り坂になり、自転車で行くのは難儀になり、そこからは自転車を置いて歩くしかなかった。
 さらにしばらく歩いたところ、とうとう道はなくなり、前に広がっているのは一面灰色の石灰岩の大地。岩盤にはところどころまっすぐに亀裂が走り、亀裂の中わずかにたまった土の上には色とりどりの高山植物が花を咲かせている。
 いくらなんでも、まさか道がなくなるとは思わなかった。ビジター・センターまであったドン・エンガスの親切さとは大違い。思わず途方に暮れてしまったが、間違ったところに来てしまったのではない証拠に、道の終わりには"Black Fort"と書かれた標識が一つぽつんと立っており、漠然とななめ左の方向を指している。
 まあとりあえずそっちに行くしかあるまい。ただし、歩いているのは平たい石の上だが、いきなり亀裂が走っていたり、段差があったり石の壁にさえぎられていたりと、まっすぐ歩くのも容易ではない。こんな不毛な大地にまでちゃんと石の壁が築かれているとは驚くばかりである。
 ひたすら歩くこと十数分、遠くにようやく砦らしきものが見えてきた。砦があるのは大西洋に張り出した岬の突端、垂直、というより波に削られてえぐれた絶壁の上である。ドン・エンガスのあたりとは石の種類が違うのか、崖も砦も黒い石でできている。
 後ろからきた男性が私たちを追い抜きざま、感嘆したようにこう言った。
"Here is the End of the World!"
 まさに彼の言う通り。ここは「世界の果て」だ。
「君たちは日本から来たのかい」とその男性が話しかけてきた。
「そうです」
「そうすると、東の果てから西の果てまで来たんだね」
 そのとき、私は初めて実感した。私たちはユーラシア大陸の西の果てにいるのだ。
 厳密にはヨーロッパの西の果てはアラン島ではなく、2日後に行くことになるディングル半島の先に浮かぶブラスケット諸島のあたりだし、この島の西の果てもここではない。しかし、ここ以上に「世界の果て」という表現がふさわしい場所はないだろう。一本の木もない岩の地面と、突然大地が切り取られたかのような黒い断崖、そして岬の上に静かにそびえる石の要塞。
 Here is the End of the World!

 砦まではあと少し。珍しく草が生えている崖のそばを歩く。断崖はかなりオーバーハングしているので、私の歩いている地面の下はたぶん海だ。
 少し歩いてようやく砦に到着。ドン・エンガスに比べ、ここは観光客も格段に少ない。ドン・エンガスにあったような説明板も何もなく、ただ、黒い石を無造作に積んで作られた砦がそこにあるだけである。
 不思議なことに、この砦は3000年も前に作られたものだというのだが、一見周囲にある石の壁と区別がつかない。もちろん砦の方が石壁よりはるかに大規模なのだが、石を積んで作られているという点においてはまったく変わらないのだ。砦の方が原始的というわけでもないし、石の壁の方が進んだ技術が使われているというわけでもない。島中にある石の壁にしたって、紀元前に作られたものだといわれれば、そう信じてしまうだろう。
 ということはつまり、この島の人々は、3000年もの間、岩を割って石を作り、そしてその石を積むという行為を繰り返してきたのだ。なんと気の遠くなるような年月。

 さて砦の前までは来たものの、この砦の向こうに行くにはどうしたらいいのか。ここに向かう途中、砦の上に立っている人を見たから、どこかに登れるところがあるはずだ。見ると、右端のところに石が崩れて低くなった部分があるではないか。私は、石の上に足をかけ、ひょいと砦の上に登った。
 砦の上に立つと、目の前に広がる大西洋。まさに絶景。私は、3000年前、ここに砦を築いた人々のことを思った。おそらく現在この島に住む人々と同じように、岩を砕いて石を作り、何世代もの時間をかけてそれを積み上げてこの砦を作ったのだろう。しかしいったい何のためにこんなものを築いたのだろうか。ここが軍事的な砦だとしたら、これほどまずい場所もあるまい。だって、三方は絶壁。周囲は岩ばかりのやせた土地。兵糧攻めに遭ったら終わりだし、そもそも守る必要のある場所とも思えない。それよりは宗教的な意味のある場所という説の方がすんなり理解しやすいが。
 何にせよ、この"Dún Dúchathair"、ここまで来るのはたいへんだが、観光的に整備されたドン・エンガスよりはるかに荒々しく、遺跡好きなら来る価値のある場所だということは確かだ。

 砦の上でふと後ろを振り向くと、あとからなんとか登ってきた妻が、腰が抜けたように座りこんでいるではないか。なんでも、私は後ろも見ずに上ったので全然平気だったのだが、登ったときに振り向いてしまった妻は思わずぞっとしたそうだ。30センチ後ろは90メートルの絶壁。しかも地面はごろごろとした石でしっかりとした足場はない。風でも吹いたら一巻の終わり。登ったはいいが、もう同じところからは戻れない、と思い、ここで死ぬことを覚悟したとか。
 あとで気がついたのだが、本当は私たちが登ったところは道ではなくて、実は左側の方にちゃんとした道があったのである。なんでも昔は右側にも道があったのだが、19世紀に「落ちた」のだとか。そうか、右側で砦が崩れかけたようになっていたのも、石が海に落ちたせいだったのか。ぞっとしたのは日本に帰ってきたあとの話である。

 さてそろそろフェリーの時間も迫ってきたし、帰ろうかと歩き始めたとき、はたと困ってしまった。行けども行けども、ここで道に入ればいい、と思っていた目印の標識がまったく見当たらないのだ。行く手は一面の岩盤。目印なんてどこにもない。見通しのいい石の平原なんだから、ただ歩いていけばいいようなものだが、実際は石の壁に行く手を阻まれたり段差がきつくて進めなかったりと、まっすぐ進むことも楽ではない。まさかこんなところで道に迷うとは思わなかった。
 結局、後ろから来た人についていくことによってなんとか戻ることができたのだけど、道にたどりついたのは来たときとは全然違う地点。石の壁もちょっと崩してしまった。たぶん私有地をつっきってしまったんだろうなあ。申し訳ない。

 5時のフェリーで島を発ち、7時前にはゴールウェイへ。
 夜はゴールウェイの街外れにある小さなパブに行ってみる。どこのパブもそうだが、ここもものすごい混雑。奥のほうではアコーディオンやフィドルの音色が聞こえてくるのだが、入り口あたりからでは何も見えない。
 さてここで私はアイルランド名物ギネスビール(この旅初めてのギネスである)を注文したのだけど、この注ぎ方が独特なのですね。まずグラスの5分の4くらいまでビールを注ぎ、泡が落ちつくまで1、2分くらい待つ。それからグラスの口までゆっくりと注ぐ。あのクリーミーな泡はこの注ぎ方によって生まれるらしい。私は最初注いだ時点でグラスを取ろうとしてしまい、「まだまだ」とたしなめられてしまった。

 見た名所は少なかったけど、今日はかなり充実した一日だった。アラン島のあの荒涼とした風景は忘れることはないだろう。断崖で死にかけたことは忘れない、と妻も言っております。
7月27日(木)

 11時10分発の長距離バスに乗ってゴールウェイを発つ。今日でゴールウェイを離れるかと思うとなんだか名残惜しい気がする。ゴールウェイは小ぢんまりとしていながらも活気があって、しばらく滞在しても飽きない街だった。
 次の宿泊地はキラーニー。最初は、モハーの断崖など名所を回りつつキラーニーへ向かう夏季のみ運行のバスに乗ろうかと思っていたのだが、このバスだとなんとキラーニーまで8時間もかかってしまう。それに、断崖ならきのうのイニシュモア島で、文字通り死ぬほど堪能した。そこで、モハーの断崖に行くのはやめ、内陸を走るバスに乗ることにした。こちらのバスなら、途中リムリックで乗り換えがあるものの、4時間半程度でキラーニーまで行ける。
 さて、バスはひたすら南下し、キラーニーに着いたのは午後4時ごろ。まだ宿が決まっていないので、まずはツーリスト・センターに行って、今日と明日の宿を探してもらうことにする。これまでの宿はホテルばっかりだったので、ここではB&Bに泊まりたいと思ったのだ。
 窓口にいたのは若い女性で、その名もフィオナ・オコーナー嬢。なんとも、見事なまでにアイルランドらしい名前である。なるべく街に近いB&Bを探してほしい、というと、オコーナー嬢はB&Bガイドをめくりながら、いくつかのB&Bにてきぱきと電話をしてくれる。
 アイルランドの宿はその日に取っても大丈夫、と聞いていたのだけれど、さすがに7月はハイシーズンだけあって、何軒かのB&Bに電話してもなかなか空きがない様子。だんだん不安になってきたのだけど、なんとか5軒目の"ELYOD HOUSE"というB&Bに部屋がみつかった。
 センターからタクシーでほんの3分ほど。"ELYOD HOUSE"はキラーニー郊外の国立公園に向かう通り沿いにあった。明るく出迎えてくれたのは、奥さんのメアリー・ドイルさん。通されたのは、小ぢんまりとしてはいるけれど、きれいに整ったかわいらしい部屋である。いかにもアイルランドの普通の家、といった感じ(とはいえ日本の普通の家よりは遥かに広くて、庭もだだっぴろいんだけど)。はい、と渡されたのは部屋の鍵と家それ自体の鍵。夜遅く帰ってきて入り口が閉まっていても、これで開けて入ってね、ということらしい。"ELYOD HOUSE"というこのB&Bの名前の意味は、アイルランドにいる間謎のままだったが、日本に帰ってきてようやく気がついた。"ELYOD"を逆から読めばいいのだ。

 夕食を食べに街に出る。来るときはタクシーだったけれど、街までは歩いても10分くらい。ただし人通りの少ない寂しい道を歩かなくちゃいけないけど。中心部を一歩離れればそんなふうに寂しい通りが続いているのだけれど、街の中心部はもう観光客でいっぱい。6時にはたいがいの店が閉まってしまうアイルランドでは珍しく、みやげ物屋は夜中まで開いている。ここは観光客の町なのだ。まあ、ゴールウェイも確かに観光客が多かったけれど、この町よりはゴールウェイの方が落ち着きがあったような気がするなあ。

 レストランで肉料理(当然大量のポテトつき)を食べた後、そろそろアイリッシュづくしにも飽きてきたので、今夜はちょっと趣向を変えようと、街中にあるシネマコンプレックスに行ってみた。
 やっているのは、『M:I-2』とか『パトリオット』とか、日本でも上映中か近日上映の映画が多いのだが(『X-MEN』を観たかったのに残念ながら公開は8月)、ちょうど夜9時ごろから1回だけ上映していたのが、"Stir of Echoes"という映画。聞いたことのないタイトルだが、ポスターを見るとどうもケヴィン・ベーコン主演のホラー映画らしい。なんだかおもしろそうだ、という妻の強い要望でこの映画を観ることにする。
 "Stir"ってなんだったっけなあ、と思いつつ、ガラガラの映画館に入る。観客は、私たちのほかには数人だけである。まったく予備知識のない状態で観る映画なんて何年ぶりだろうか。わくわくしながら映画が始まるのを待つ。
 映画が始まる。俳優、脚本家などのクレジットが出ては消える。おお、今、「原作リチャード・マシスン」って出なかったか? そういえば"Echoes"っていうのは「こだま」だよなあ。とすると、これは『渦まく谺』か!(日本に帰ってきてから調べたが、確かに『渦まく谺』だった。知らない人のために説明しておくと、『渦まく谺』はリチャード・マシスンが1958年に書いた小説で、日本ではハヤカワSFシリーズで出たきり文庫にも落ちていない)。
 台詞の英語はよくわからなかったのだが、それでもストーリーの理解には全然支障なし。ケヴィン・ベーコン夫妻の心配の種は、いつも目に見えない友達と会話をしているひとり息子のこと。あるとき、パーティの余興で催眠術をかけられたことをきっかけに、ベーコンも見えないはずのものが見えるようになってしまう。抜け落ちる歯、防寒具、幽霊、そうした幻はいったい何を意味しているのか? 息子と自分は同じものを見ているのだろうか。そして、幻を通して、誰が何を訴えようとしているのだろうか。
 見えないものが見える子供、という『シックス・センス』によく似た設定の分だけ損をしているし、キャストも今一つ地味だけれど、これはなかなか完成度の高い作品である。物語にはそれほどの新しさはないが、サスペンスの盛り上げ方や恐怖の演出がうまい。たとえば催眠術の場面では、観客のいる映画館という空間そのものを利用した演出。これには驚きました。また、信号や車のテールランプの点滅から息子の危機を察知する場面とか。なぜ信号と息子の危機に関係があるのか。まったく説明はないのだが、主人公の焦燥感が伝わってくる名シーンである。
 物語は古くても、見せ方を工夫すれば充分おもしろい映画になるという好例ですね。日本公開されていないのが惜しい作品である(★★★★)。
7月28日(金)

 観光都市キラーニーは、森と湖の広がるキラーニー国立公園の入り口であると同時に、ディングル半島とリング・オブ・ケリーという二つの観光ルートへの出発地でもある。
 今日、私たちが参加することにしたのは、そのうちのひとつ、ディングル半島をまわるバスツアー。ディングル半島は、今なお残るゲールタハト(ゲール語使用地域)のひとつであり、数々の古代遺跡が点在する歴史のある土地である。
 キラーニーを出て1時間ほどで、バスはディングル半島へ。半島に入ると間もなく、車は次々と大きな馬車とすれ違った。アラン島で乗ったものよりも遥かに大きく本格的な馬車で、のんびりと歩く馬に引かれている。馬車は色あざやかで、とうてい荷役用とは思えないのだが、観光用にしてはいくらなんでもスピードが遅すぎる。あんなにのろのろ走っていては、何時間たっても目的地にはつくまい。
 ドライバー兼ガイドのおじさんによれば、あれはジプシーの馬車で、1週間くらいかけてディングル半島を回っているのだ、ということだが、こんなところにジプシーが? それに、半島を回っていったい何をしているのだろうか。謎。

 バスは、まずインチ・ビーチというところで停まり、ここで20分ほどの休憩。白い砂浜では、凧を揚げている子供がいたり、犬がぷらぷらと歩いていたり。ここは、映画『ライアンの娘』のロケが行われたところだそうだが、映画を観ていない私には、単なる普通の海岸にしか見えない。
 それから少し行ったところにある小さな町で、おじさんは再び車を止めてこう言った。
「左手に十字が彫られた岩が見えるだろう」
 確かに、町の中心の広場に、素朴な十字の形が彫られた岩が鎮座している。なんだかいわくありげな岩である。
「あの石の十字はいつごろ彫られたものだと思う?」
「500年前」「1000年前」などとバスの中から声が上がる。
「はずれ。あれは『ライアンの娘』の映画のために作られたものなんだ」
 そう言うや、おじさんはバスを発車させた。
 ううむ、そんなものをなぜ大切そうに広場に安置しますか。どうやらこの『ライアンの娘』という映画、このへんの住民にとってはたいへんな誇りのようだ。日本に帰ったらレンタルビデオを探してみるかな。
 その後もこのおじさん、「あれはクランベリーズの誰だかの家だ」とか「あれはU2の誰だかの別荘だ」とか「ここにはトム・クルーズとニコール・キッドマンがロケに来てなんたらかんたら」だとか、やたらと芸能ネタに詳しい。というか、芸能ネタしかないのか、ここには。
 だいたい、アイルランドというところは、ジョン・ウェインの『静かなる男』(1952)のロケ地、とかドキュメンタリー映画『アランの男』(1934)で有名、とか全体に映画ネタの観光地が多いところではある。確かに名画なのかもしれないが、そんな古い映画のことを言われても、どれひとつ観ていない私は困ってしまう。東北のどこだかの灯台に行って「ここで『喜びも哀しみも幾歳月』のロケが行われたんですよ」と胸を張って言われたときと同じように、はあそうですか、としか言いようがないではないか。

 そうこうしているうちに、バスはディングルの町に到着。港には色とりどりの漁船や帆船が停泊している。小ぢんまりとして美しい港町である。イルカ見物のクルーズなどもここから出ているらしいが、当然ながら今日は参加できない。のんびりと散策してみたい気持ちのよさそうな町なのに、残念である。
 通り沿いのパブで昼食。同じツアーに参加していたドイツ人の女性二人と、カナダ人の男性と一緒にテーブルを囲む。カナダ人の男性に「日本からアイルランドまではどれくらいかかる?」と訊かれたので、「14時間か、15時間くらいかなあ」と答えると、「そりゃ遠い……」と絶句される。なんでまたわざわざ日本からこんなところまで来たんだ、と思われたんだろうなあ。

 バスはディングルの町を出て、いよいよ半島の先端へ向かう。右手は急斜面の山。道路の左手も傾斜のきつい草地で、当然のようにここでも石の壁で区切られている。崖の下は海。草地では羊が草をはんでいたりするのだが、崖から落ちたりしないんだろうか。海の向こうには、ディングル湾をはさんで、リング・オブ・ケリーという周遊路のあるイベリア半島(Iveragh Peninsula. スペインのイベリア半島とは綴りも発音も違う)と、絶壁に囲まれたスケリッグ・マイケル島の島影が見える。スケリッグ・マイケルは、初期キリスト教の修道院があり、世界遺産にも登録されている島である。
「あれがダンベッグの砦
 ドライバーのおじさんが言ったような気がしたので慌てて外を見ると、なんだか石組みのようなものが窓の外を通り過ぎていった。こういうところでは止めてくれよ、おじさん! ダンベッグの砦は、アラン島のドン・エンガスと同じく、ケルト以前の鉄器時代の遺跡だと言われているのだ。
 やっとおじさんがバスを止めたのは、蜂の巣小屋と言われる石の遺跡が集まっているところ。バスを降りると、遺跡の前の民家に住んでいるらしい子どもが、1人1ポンドずつ集めて回る。たぶん遺跡があるのはこの家の私有地なんだろう。
 斜面にはおにぎりのような形をした石の小屋がいくつも点在しており、その間をのんびりと羊が歩きまわっている。この小屋は初期キリスト教時代に作られたものだそうで、かつては住居として使われていたという。石でできた竪穴式住居のようなものだ。しかし、この小屋、ドン・エンガスより1000年以上は後の遺跡だというのに、はるかに粗末に見えるのはどうしたわけか。

 蜂の巣小屋を後にしたバスは、いよいよ半島の先端スレー・ヘッドへ。ここには有名な純白のキリスト像があるのだが、おじさんはちょっとスピードをゆるめただけで車を止めてくれない。いや、確かに混んでて交通の邪魔だったけどさ、こういうとこで止めないでどうするよ。
 しばらく行ったところでようやくバスは停まった。バスを降りると、目の前に広がるのはまさに絶景。気持ちのいい青空の下、どこまでも青い海と、荒々しい断崖、そして半島の先に浮かぶグレート・ブラスケット島の鮮やかな緑。緑といえば草地ばかりで、木というものがまったくない光景は、日本とは明らかに異質なものである。
 その後も何度か絶景ポイントで車を停めてくれたのだが、そう何度も同じような景色のところで停められてもなあ。確かに絶景には違いないんだけど、人間というのは贅沢なもので、あまりに同じような刺激が続くとどうしても飽きてしまうのだ。もうちょっと停車ポイントを考えた方がいいと思うのだが。

 バスは海から離れて半島の内陸部へ。窓の外を、ゲール語だけで書かれた標識が通りすぎる。なるほど、ここはゲール語が今でも日常的に使われている土地なのだ。見たことのない赤い花の咲いた生け垣で囲まれた狭い道を走り、バスはガララス礼拝堂に到着。
 礼拝堂は小さな石造りの建物で、高さは約4メートルくらい、奥行きは5メートルくらいだろうか。三角柱を横倒しにしたような形をしており、前から見ると正三角形、というか左右に丸くふくらんだロータリーエンジンのような形がなかなかかわいい。正面には人一人がやっと通れるくらいの入り口が開いており、裏壁には小さな窓がある。石の積み方は、ドン・エンガスや蜂の巣小屋よりはるかに精巧で、形の揃った平たい石をしっかりと積み重ねてある。しかし、他の遺跡同様、石を接着するセメントの類いはまったく使われていない。石を積んであるだけである。
 この礼拝堂が建てられたのは、ざっと1200年前。当時の修道士たちは、人里離れたこの建物で日夜礼拝に励んでいたという。アイルランド版の修験道みたいなもんですかね(違うか)。
 礼拝堂の敷地の片隅には、○に十字を重ねた模様を刻んだ石標がぽつんと立っていた。十字の下には、折れ線やカギ型で構成された奇妙な紋様が描かれている。十字があるところを見るとキリスト教関係の石標なのだろうが、この石については何ひとつ説明が書かれていないので、紋様の意味もまったくの謎。なんだか気になる石である。

 ガララス礼拝堂を出発したバスは、再びディングルの町に戻ってきた。これで半島の先端部を一周したことになる。さて、これでキラーニーへの帰途に……って、これで終わり? 十字架とうずまきの描かれたリアスクの石標は? 古代のオガム文字を刻んだオガム石は? この半島に点在する遺跡がもっと見たかったのに、バスは無常にも帰路につく。
 ディングル半島はのどかないい土地だけど、バスツアーでざっと周るだけではあまりにも物足りない(観たいところへも行ってくれないし)。ここはやはり、レンタカーを借りて自分で周るべき場所だったようだ。もしもいつかまたアイルランドに来ることがあれば、そのときは車で気の向くままに旅したいものだ。それにはまず日本で車の練習をしなければ(妻も私もペーパードライバーなのだ)。

 さて、キラーニーに戻ってきたのは午後5時ごろ。アイルランドの日はまだまだ高く、日本なら3時ごろとしか思えない明るさである。またまたアイルランド料理の夕食をとり、みやげ物屋をひやかしたあとは、「アイリッシュ・ダンス・ミュージカル」と称する"To Dance on the Moon"というショーがなんだかおもしろそうだったので、それを見に行くことにする。
 予約は簡単。町中にポスターが貼られていて、そこら中でチケットが取れるのですね。予約と言っても、手書きでチケットに日づけを書きこんでくれるだけ。指定席とかそんなものはないらしい。会場はキラーニーからちょっと離れたグレンイーグル・ホテルのホールで、街からはシャトルバスが出ている。
 着いたのは開幕直前だったけど、500人くらいは入れそうなホールのうち、埋まっている席は半分くらい。私たちも無事前の方の席を確保。まあ、8月末までほぼ毎日やっているのだから、そうそう毎日大盛況というわけはないのだが。
 さてこの"To Dance on the Moon"、以前日本で観たリバーダンスロード・オブ・ダンスと同じく、アイリッシュ・ダンスをメインに歌やアイリッシュ・ミュージックを織り交ぜて構成されたショーで、今のところここキラーニーでしか観られない。タイトルに反して、月の上で踊る場面はない、残念ながら。
 前半は、父親にダンスを禁じられ、都会に出てエンジニアになった若者が恋人とめぐりあうという話。後半になるとこれがどうしたわけか舞台がアンダーワールドに移り、恋人と引き離されてしまった主人公が白馬の精、魚の精などと出会い試練を受けてダンスの真髄をつかむ、というファンタジーになってしまう。なんだか脈絡のない話だが、主役はあくまでもダンスであり、ストーリーは別にどうでもいいのだろう。
 メインダンサーのダンスはさすがに本場だけあってレベルが高く迫力があるのだけど、群舞はリバーダンスなどに比べると比較的小規模で、ちょっと盛り上がりには欠ける。楽器は舞台の左脇で演奏しているのだが、リバーダンスみたいにフィドルなど個々の楽器がスポットライトを浴びることがなく、ダンスの脇役に徹しているだけなのが、ダンスより音楽が好きな私としてはちょっと不満。美人フィドラーもいなかったし。
 舞台が終わると、出口のところでダンサーや歌手一同が送り出してくれるのがアットホームで微笑ましい。特にメインダンサーの二人はサイン責めにあってました。

 キラーニーに戻り、夜の街を歩いていると、なんだか人だかりができているパブがある。中からは中年のおじさんの歌声が聞こえてくる。窓からのぞき込むと、ステージでは50歳くらいのおじさんがギターを弾きながら、声を張り上げて歌っていた。横にはアコーディオンの伴奏つき。中はもちろん立錐の余地もないほどの混みようで、入ってみると恐ろしいほどの熱気。周りを見まわすと、そこはアイルランド人らしきおじさんおばさんばかり。若者の姿はまったく見当たらない。うう、場違いなところに入り込んでしまったのかな。
 歌手のおじさんが次の歌を歌い始めると、それはどうやら有名なバラッドだったらしく、ほぼ全員が体を揺らしながら合唱しはじめたではないか。私たちはもちろん歌えるはずもない。テンポのいい曲になると、壁には「ダンス厳禁」の張り紙があるにも関わらず、おばさんがノリノリで踊っている。
 まさかここにいる全員が地元民とも思えないのだけど、キラーニーは観光都市。アイルランドの各地からの観光客も集まっていても不思議はない。それともルーツを求めてこの国にやってきたアイルランド系アメリカ人なんだろうか。
 なんだか怪しい団体の集会にまぎれ込んでしまったような気分でちびりちびりとギネスをすすっていたのだけれど、別に「侵入者がいるぞ!」と警報を鳴らされることもなく、アイルランドのおじさんおばさんたちは、私たちに優しく席をあけてくれたのだった。
 おじさんも、おばさんも、歌手のおじさんと一緒に声を合わせて歌っている。なんだかみんなとてもとても楽しそうだ。40代50代の夫婦がこんなふうに夜遅くまで楽しめる場所が、日本にどれだけあるだろう。私たちが年老いたら、私たちはいったいどこで遊べばいいのだろう。
 でももう午前0時回ってるんですけど。あなたたちいったいいつ寝るんですか。
7月29日(土)

 もうすっかりおなじみになったアイリッシュ・ブレックファストを食べた後、ご主人に「今日はダブリンに戻るので、駅までタクシーを呼んでもらえませんか」というと、ご主人は顔を曇らせ、「ストライクがどうしたこうした」と言うではないか。
 ストライク? そういえばダブリンで列車に乗ろうとしていたときも、ツーリスト・センターでそんなこと言われたなあ。ストライクストライク……はっ、ストライキか!
 今日は列車は動いているんですか、とあわてて訊いてみたが、ご主人はわからない、と首を振るばかり。これはとりあえず駅まで行ってみるしかないか。
 現れたタクシーは大きめのバン。お世話になったB&Bのおばさんと握手を交わし、タクシーに乗ったのだが、なぜか車は駅とは逆方向へ向かっているようだ。どうしたことか、と思ったら、今度は若者のグループが車に乗り込んできた。なるほど、乗り合いタクシーか。
 ところが、別の建物から出てきた若者が車の中に何ごとか口にすると、さっき乗ったばかりの若者たちは車を降り、荷物まで降ろし始めたではないか。結局駅まで向かうのは私たちだけ。運転手さんは何も説明してくれない。いったい何があったんだろ。鉄道は動いているのだろうか。不安は高まるばかりである。
 出発時刻の10分くらい前にキラーニー駅に到着。駅の窓口は開いている。本数はいつもより少し少ないらしいが、列車はどうやら動いているらしくてひと安心である。
 「ダブリンまで2枚」というと、窓口のおねえさんが差し出したのは往復のチケット。値段もかなり高い。往復じゃなくて片道がほしいのだ、と抗議しても、おねえさんはスペシャルプライスだというばかり。何がスペシャルなんだかさっぱりわからないが、どういうことなのだろう? なんとも釈然としないが、列車に乗れただけよしとすべきだろうか。

 途中、マーロウ駅で乗り換え、4時間ほどでダブリンのヒューストン駅に到着。私たちは再びダブリンに戻ってきたのだ。2日滞在しただけの街なのに、なんとなく懐かしい気分がするから不思議である。初日と同じオーモンド・キー・ホテルに荷物を置き、私たちが向かったのは、2日目に行きそびれた国立博物館
 有名な「タラのブローチ」や「アーダの杯」など、数多く収められたケルト美術の名品に描かれているのは、今やすっかりおなじみになった網目模様や渦巻き模様。ケルトの美意識は、やはりどこか他のヨーロッパとは異質である。
 美しい工芸品を見て2階に上がると、そこはアイルランド近代史のコーナー。映画で有名なマイケル・コリンズのデスマスクや、当時使われた銃が展示されていたりして、いきなり現実に引き戻されるのがなんとも複雑な気分。
 そういえば、ヒューストン駅、コノリー駅、ピアース通り、オコンネル通り、パーネル通りなどなど、この街はアイルランド独立のために戦った運動家や政治家たちの名前で彩られている。彼らは今も地名となってこの街に生きているのだ。それは、いわばこの土地にかけられた呪術のようなものだ。だいたい、土地に名前をつけるという行為は、例外なく呪術的な行為である。たとえば、田無市と保谷市を西東京市と名づけることにより、確かにその土地には何らかの呪術がかけられるのである。田無市民が西東京市民になれば、たぶんいくぶんかその人の「構え」のようなものが変わるだろうし、この街の人々もオコンネル通りやパーネル通りを歩くたびに(たとえ無意識的にせよ)何かを感じるのかもしれない。いや、何も感じないのかもしれないけど(弱気)。

 夕食はテンプル・バーにある"Gallaghers Boxty House"という伝統料理の店で食べようと思ったのだが、店は満員で入れず。まあ土曜日のこの時間じゃ仕方ない。それどころか、このあたりの店はどこもいっぱいである。どうしようかと迷ったが、この旅が始まってからずっと夕食は高いものばっかり食べているような気がしたので、今日くらいは倹約しようかと思い、妻の反対を押し切って、チープそうな店に入ってみた。
 これが失敗。私が頼んだギネスシチューはまあまあ食べられなくもないのだが、一口食べさせてもらった妻のアイリッシュ・シチューは、これが信じられないほどまずい。今までのアイリッシュ・シチューの常識を覆すまずさである。妙にすいていたのもうなずける。当然ながら、妻の機嫌は最悪である。

 気まずい雰囲気のままテンプルバーを歩き、リフィ川にかかるグラタン橋を渡る。時刻は夜の10時過ぎ。リフィ川の黒い水面に映っているのは、昼の光がまだわずかに残る夜空と、河畔にたたずむフォー・コーツの緑色のドーム。そしてライトアップされた白い橋。それは、まるで絵葉書にしたいほど美しい光景だった。
 そういえば、リフィ川が黒いのは、初めに思ったように汚れているからではないらしい。ダブリンという地名自体、ゲール語で「黒い池」を意味する"dubh linn"から来ているように、この川にはもともと黒い水が流れているのだ。
 正直言って、この旅ではダブリンにあまりいい思い出はなかったが、この光景を目にすることができただけでも、なんとなくすべてが報われたような気分になった。カメラは持っていなかったので写真は撮れなかったが、それは別にどうでもよかった。どうせ安いカメラと私の腕では、この美しさを写真に収めることなどできはしない。ただ、心に焼きつけておけばそれでいい。

 ちょっとだけ安らいだ気分になってホテルに戻ると、初日ほどではないがやはりずんずんと響く重低音。
 ……そうか、今日は初日と同じ土曜日だったか。
7月30日()

 いよいよ今日がアイルランド最後の日。そして、この旅行中でもっとも早起きしなければならない日である。なぜかといえば、アムステルダム行きの飛行機が朝9時半の出発なのだ。
 6時半に起き、30分で準備、7時にフロントに下りて朝食も食べずにチェックアウト、タクシーを呼んでもらう。空港に着いたのはほぼ7時半ジャスト。エア・リンガスの窓口は恐ろしく混んでいて、並ぶこと30分。8時になってようやく空港に入ることができた。
 時間の余裕は充分。おみやげを買ったあと、チョコレートなどのお菓子も売っている小さな本屋に入ってみると、棚にはW.B.イェイツやジェイムズ・ジョイス、ロディ・ドイルなど、アイルランドを代表する作家の本が並んでいる。その中に混じって『第三の警官』で幻想文学ファンには有名なフラン・オブライエンの本も並んでいた。空港の売店でフラン・オブライエンが買えるなんて、さすがはアイルランド。私は、フラン・オブライエンの"The Poor Mouth"とテリー・イーグルトンの"The Truth about the Irish"を買った。
 それからしばらく、のんびりと搭乗が始まるのを待っていたのだが、どうしたわけか、いくら待っても搭乗が始まらない。9時になっても9時15分になっても「次の情報を待て」と出ているばかり。とうとう時刻は出発予定の9時半を過ぎ、10時を過ぎ、ついには11時になってしまった。ようやく搭乗が始まったのは11時過ぎ。結局、出発時刻は2時間15分遅れの11時45分頃。いくらなんでも遅れすぎである。そういや行きにも遅れてたな、エア・リンガス。
 アムステルダムでの飛行機の待ち合わせ時間は2時間半。2時間15分遅れということは、遅れずに着いたとしても乗り換え時間は15分しかない。果たして無事乗り換えられるのだろうか、心配である。
 かといって私たちが焦っていたかといえば、そうでもない。機内でいくら焦っていても仕方がない。ものごとは所詮なるようにしかならない。乗り遅れたとしてもそのときはそのとき。行きにはできなかったオランダ観光ができてラッキーではないか。私たちは基本的にふたりとものん気なのだった。
 機内で出た食事は、やっぱりアイリッシュ・ブレックファスト。さすがはアイルランドの航空会社である。考えてみれば、これが最後のアイリッシュ・ブレックファストということになる。心して食す。
 さて、アムステルダムに着陸したのは、成田行きの出発時刻の20分くらい前。なんとか間に合いそうだ、と思ったのもつかの間、遅れたせいでゲートが全部ふさがっているそうで、ゲートが空くまでしばらく待たなきゃならないという。ようやく飛行機から降りられたのは、出発時刻10分前。こりゃもう走るしかない。免税品なんぞを買いあさっている日本人観光客をかきわけ、動く歩道の上で立ち止まっている家族連れを蹴散らし、私たちは走った! 行きには腐るほど無駄な時間を過ごしたスキポール空港を、熱血刑事のごとく走る。
 たどりついたのは、もうほとんどの客が乗りこんだ後の閑散としたゲート。手持ち無沙汰な様子の係員が、私たちに向かい「東京へ行くのか、早くチェックインしろ」という。
 しかし、私たちは走ってなんとか間に合ったものの、荷物の積み下ろしをする時間はとてもなさそうだ。「荷物はどうなるのか」と妻が訊くと、「残念ながら荷物は置いて行くことになる。詳しいことはあとで成田で聞いてくれ」とのこと。やっぱり。
 飛行機は私たちが乗った後も、ダブリンから来た客をしばらく待ってくれていた。なんだ、そんなに息を切らせて走る必要はなかったのか。結局、荷物はアムステルダムに置いてきぼりになってしまったが、まあ人間が戻れただけましである。
 しかし、エア・リンガス、時間にルーズすぎ。
7月31日(月)

 アムステルダムから11時間。午前9時10分、成田に到着。
 飛行機から降りた瞬間、熱気がもわっと私たちを取り囲む。むちゃくちゃ暑いではないか、これは。間違えて熱帯の国にでも着いてしまったのではないかと思ったほど。いや、アイルランドに比べりゃ日本は確実に熱帯である。
 あああ明日からはこの熱帯で働かなきゃいかんのか。はあ。
 しかし、休みも今日で終わり。いつまでもいつまでも逃避しつづけていたい気持ちを抑え、そろそろ現実へと復帰しなければならない。
 でも、まだ一日あるし、最後の逃避行動として、帰って爆睡。

 最後に、もしまたアイルランドに行くことがあれば行ってみたいところを書いておこう。
 ダンセイニ城。もちろんかのロード・ダンセイニの居城である。タラの丘の5キロ南にある。ガイドブック"lonely planet"の記述によれば、現在の城主は、6月から8月までの間、日曜を除く毎日、午前9時から午後1時までの間に限り城を一般に開放しているそうである。個人で行くよりも、ドロヘダのツーリスト・オフィスで申し込めるツアーに参加した方がいいらしい。ダンセイニ家所蔵の美術品が見られるほか、ブティックでは現在のロード・ダンセイニ自らがデザインしたアクセサリーも買えるとか。
 幻想怪奇ファンなら絶対に訪れるべきスポットだと思うのだが、"lonely planet"のこの記述を見つけたのはアイルランドから帰ってから。ううむ、残念。
 というわけで、またいつかこの国に(今度はレンタカーを借りて)来ることを固く決意した私であった。
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