▼韓国の小学生のインターネット利用率。「インターネットを利用した経験がある」と答えた児童が96.9%、「ほとんど毎日利用している」と答えた児童は42.2%ってのは驚異的だなあ。しかも、76.6%が電子メール・アドレスを持っており、74.6%がインターネット掲示板に文章を載せたり、チャットをした経験があるのだそうだ。これはもう厨房どころではなく、消防の群れがあふれかえっている状態なのでは。
▼殊能将之『黒い仏』(講談社ノベルス)購入。「ジェイムズ・ブリッシュに捧げる」の献辞はいったい何を意味しているのか、読むのが楽しみ。
▼安田ママさんの注目新刊速報に、「SNOOPY BOOK 全86巻」角川書店の情報が! おお、欲しい。欲しいけど高そう……。でも、ピーナツ・ブックスって鶴書房版だけでも80巻以上なかったっけ? 全86巻ってのはどういう計算なんだろうか。それに、シリーズ名はあくまで"PEANUTS BOOKS"じゃないのか。"SNOOPY BOOK"と呼ぶのは勘弁してほしいなあ。
▼さてネタがないので、今日も1月1日と同じく『2001年の日本』から。今日は当たった予想を紹介。
「30年後には、電子計算機が飛躍的に進歩改善されるであろうから、テストの解答用紙は現在の小型のものからB5判程度の大型のものとなり、機械で自由自在に解答内容を読み取り、事後の採点・集計・標準化・分類等の作業が、非常なスピードで行われるようになるであろう。結果をタイプで打ち出すにあたっても、点数・順位から、段階評価、他のテストと総合判定した結果まで示すことができ、合否・指導上の留意点なども文字または記号で打ち出すことができるであろう」(能力開発)。
「テレビ受像機は今日の放送番組の専用器から、非常に包括的な情報諸サービスの汎用再生装置となる。……メディアの融合統一が進んだ結果、家庭内で受信される放送は、かなりの地域で(大都市を中心に)有線(ケーブル)化される(言うまでもなくケーブルは放送専用ではない。他の情報サービスとの共用)。1000ラインテレビ(走査線の数が今の2倍)、壁サイズテレビ、画質(特にカラー)の向上、高層建築による電波障害の克服などがそれによって可能になるだろう」(放送)。
このあたり、かなり正確な予想といっていいでしょう。ただし衛星放送については何も触れられていないし、家庭用ゲーム機について予想している人も誰もいません。そもそもコンピュータでゲームをするという発想がないのですね。
それにしても、この本を読んでいると、なんだか30年前の未来は堅苦しくて住みにくそうだ。現実の2001年は、かつての未来予想より、いいかげんでまったりとした時代になったような気がする。ま、それもまたよし。
▼今年最初の購入本は、時雨沢恵一『キノの旅III』(電撃文庫)、ピーター・ヘイニング編『死のドライブ』(文春文庫)。H・R・ウェイクフィールド、ジョー・R・ランズデール、ラムジー・キャンベル、イアン・ワトソンなどの未訳短編が読めます。
▼さて、1月5日にも書いた、「小股が切れ上がる」の「小股」とは何か、という問題なのだけど、この問題を考えるには、「小股」を使ったほかの言葉を考えてみるのが役に立つだろう。「小股すくい」である。これは「すもうで、相手の股を内側から片手で掬い上げるようにして倒すわざ」(新明解国語辞典)であり、別に「小股」をすくうのではない。
さらに、「小耳にはさむ」「小首をかしげる」など似たような表現を考えてみると、それぞれ「ちょっと耳にはさむ」「ちょっと首をかしげる」といった意味であり、別に「小耳」「小首」という特殊な器官があるわけではない。そう考えると、「小股が切れ上がる」も、「小股」という器官があるのではなく、「ちょっと股が切れ上がっている」という意味だと考えるのが妥当だろう。
では「股が切れ上がる」とはいったいどういう状態を意味するのか。
これは、実は前回は書かなかったけど、前にも引用した『すらんぐ 卑語』という本に書いてあったのですね。
なんでもこの言葉、もともとは男性の形容に使われていて、「すまた切れあがりて大男」という言葉が、西鶴の「本朝二十不孝」(1686)という本に見えるそうだ。股とは、ももそのものではなく、ももとももとの間の空間を意味する。つまり「すまたが切れあがる」とは「足が長い」という意味。これがのちに女の形容に使われるようなり、「小股が切れ上がる」という形容が生まれたらしい。
ということで、「小股の切れ上がった女」とは、足が長くて尻の位置が高くすらりとした女性をいうのだとか。
▼看護婦や看護士が患者を次々に殺すという事件は、欧米では別に珍しいものじゃないよね。ラインツ病院殺人事件というページでは、この手の事件がなぜ欧米に多いのか実例を挙げつつ、比較文化論的な考察がされています。
▼こないだ観た『バーティカル・リミット』には、DS9のドクター・ベシア役を演じているアレクサンダー・シディグが出演していたけど、ほかにもスタトレ俳優が出ている映画があるだろうか。ちょっと気になったので調べてみた。
まず、TNGのピカード艦長ことパトリック・ステュアートは別格。『陰謀のセオリー』や『Xメン』など主役級で活躍中。
ライカー副長役のジョナサン・フレイクスは『トータル・リコール2』を監督することが決定しているそうだけど、俳優としてはあんまり活躍を見ませんね。
デニス・クロスビー(ターシャ・ヤー)は、『ディープ・インパクト』でイライジャ・ウッドの恋人の母親役を演じたほか、『ジャッキー・ブラウン』にも出てたらしい。うーん、どこにいたっけ。
データことブレント・スパイナーの『インデペンデンス・デイ』も有名。
ウェスリー・クラッシャー役のウィル・ウィートンは『トイ・ソルジャー』、『フラバー』に出ているらしいけど、どっちも未見。
コルム・ミーニー(オブライエン)は『ウェールズの山』にけっこう大きい役で出ているほか、『ダイ・ハード2』や『コン・エアー』にもちらっと出演。パトリック・ステュアートを別とすれば、スタトレ俳優で最も多くの映画に出ているのは、もしかしてこの人かも。
続いてDS9から、シスコ司令官役のエイヴリー・ブルックスは、『ビッグ・ヒット』、『アメリカン・ヒストリーX』に出演。『ビッグ・ヒット』では、ブルックスの役名はパリスで、ほかにシスコという人物も出てくる、というややこしいことになってます。
レネ・オーバージョノー(オドー)は『パトリオット』に出ていたらしいが、素顔じゃたぶん観てもどこに出ているかわからんだろうなあ。
DS9のメンバーでは、ほかに大きな映画に出たのは冒頭に書いたアレクサンダー・シディグくらいのもの。わりと低率ですね(『CUBE』に主演したニコル・デ・ボアが、その後エズリー・ダックス役としてレギュラーになった例はあるけど)。
最後はヴォイジャー。チャコティー役のロバート・ベルトランは『ニクソン』に出てます。こないだテレビで見たとき、冒頭で犯人の写真として一瞬出てきたのは見たけど、その後も出番はあったのかな。私は寝てしまったのでわかりません。
ベラナ役のロクサン・ドースンは『ダークマン3』に出ているようですね。この映画は見た覚えがあるけど、全然気づかなかったな。
ケスのジェニファー・リーンは『アメリカン・ヒストリーX』に出演。おお、シスコと共演!
ドクター役のロバート・ピカードはジョー・ダンテ監督の『マチネー』に続き『スモール・ソルジャーズ』にも出演。
そして、ジェリ・ライアン(セブン・オブ・ナイン)は昨年公開された『キッド』に出てたそうな。
というわけで、たいがいがちょい役で、大きい役にありつけている人は少ないですね。やっぱりアメリカでは、テレビ俳優から映画俳優に昇格するのは難しいんだろうか。
▼『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観ました。いかにも感動大作でござい、といった宣伝攻勢にもかかわらず、これはいかにもトリアー監督らしくブラックでサディスティックな大意地悪映画。ヒロインはこれでもかというほどひどい目に遭わされるし、ヒロインの思い描くファンタジーには現実を変える力は何一つなく、ただ現実の悲惨さを強調する役割しか果たさない。
「ミュージカル映画のフィナーレの歌が嫌い。最後から二番目の歌が終わったら劇場を出るの。そうすれば映画は永遠に終わらないでしょ」と話すミュージカル好きなヒロインが今しも命を奪われようとするとき、「これは最後から二番目の歌。だから物語は終わらないのよ」と切々と歌い上げても、監督は容赦なくヒロインの最期を描き、有無を言わせずカーテンを引き、フィナーレの曲に突入させてしまう。これぞトリアー。もうほとんど強迫的なまでに露悪的です。
でもなあ、この展開、前作(正確には『イディオッツ』をはさんで前々作だが)『奇跡の海』とあまりにも似すぎちゃいないか。私は、ヒロインが警察につかまった時点でもうラストの想像はついてしまったよ。ヒロインは理不尽にも悲惨な運命に突き落とされ、何の救いもなく死んでいく。もう少しうまく立ち回れよ、と突っ込みを入れたくなるほど、あまりにも不器用な生き方だというのも『奇跡の海』と同じ。前作にはまだ最後に鳴り響く鐘という救いがあったのだけど、この映画にはそれすらないのである。『奇跡の海』ではヒロインの生き方が聖性にまで高められ、ヒロインは一種の聖女として描かれていたけれど、この映画ではそうした要素すらファンタジーとしてはぎとってしまい、ヒロインの独善性まで浮き彫りにしてしまっているという露悪ぶり。『奇跡の海』よりテーマが深まったといえなくもないけれど、私は前作の方が衝撃的だったし、好きだなあ(どうせ私はトリアーでは『ヨーロッパ』と『キングダム』がいちばん好き、という変わり者だが)。それに「ドグマ95」だかなんだか知らないが、全編手持ちカメラの映像は気持ち悪くなってかなわんよ。『ブレアウィッチ』じゃないんだから。
スタッフロールが終わってもしばらく椅子に座ったままの観客が多かったのだけど、あれは感動のあまり立てなかったのではなく、単純に「泣ける映画」だと思っていたら、思いもよらず過剰なまでに重苦しい話だったので呆然としていたのではないかなあ。まあ、デートには不向きな映画であることは確かです。この映画を観たあとでロマンティックな気分になんてとてもなれないだろうし、恋人同士がお互いに抱いているファンタジーをはぎとり、現実に目覚めさせてしまうだろうから。
しかし、『アルマゲドン』『グリーンマイル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の3作が全部「感動大作」としてくくられてしまうのには目眩すら感じます(★★★)。
▼古本市で、昭和32年刊行のてるおか・やすたか『すらんぐ 卑語』(カッパブックス)を入手。なんでこんな本を買ったかというと、今掲示板で少し話題になっている「あおかん」の語源が書かれているから。
「あおかん」は「やくざコトバの巻」という章にあって、前後の項目は「よたもん」に「あしを洗う」。やくざコトバだったのか。
近ごろでは、だんだん影をひそめつつあるパンパンなどが、ドヤ(宿)に客をくわえこまず、そこいらの野っぱらで用をたすのを「あおかん」という。同様な理由で、宮城前広場や、神宮外苑や、新宿御苑や、浜離宮エトセトラの、屋根のない茂みの多い木がくれで、若い諸君(とは限らない)が用をたされるばあいも「あおかん」という。
皇居前に浜離宮とは、また大胆な。当時、皇居前広場がそういう目的で使用されていたということは、確か井上章一の『愛の空間』にも書かれていたな。
続きを引用する。
この「あお」は青天井、すなわち青空の青であることは明瞭である。……「かん」は「姦」と思っておられるむきも多いようだが、これは最高検察庁刑事部監修の「隠語全集」に、不良青少年の隠語として記録されている、おかん(野宿すること)、おかん場(野宿する場所)の「かん」である。
さて、なぜ野宿することを「おかん」というかというと、これは同じく隠語のかんたん(泊まること)、またはかんたん場(泊まる場所)を略し、それに愛称の「お」をくっつけた語である。「かんたん」の語源は申すまでもなく「邯鄲」で、謡曲にもなっているおなじみの「邯鄲の夢」の故事にもとづく。
ということであるらしい。「邯鄲の夢」についてはすでに掲示板に説明があるし、辞書を引けば載っているので説明は略。なるほどねえ。邯鄲の夢→かんたん→おかん→あおかん、というわけか。しかし、まさか「あおかん」から「邯鄲の夢」に行き着くとは思わなかった。調べてみるものである。
▼ちなみに同じ本の「小股が切れ上がる」の項には、太宰治、織田作之助、坂口安吾という豪華メンバーの対談が引用されている。
坂口 僕が最初に発言することにしよう。この間、織田君がちょっと言ったんで聞いたんだけれど、小股のきれあがった女というのは何ものであるか、そのきれあがっているとは如何なることであるか、具体的なことが分らぬのだよ。いったい小股のきれあがっているというのは、そもそも何んですか。
織田 僕は、背の低い女には小股というものはない、背の高い女には小股というものを股にもっていると思うのだ。
坂口 しかし小股というものは、どこにあるのだ。
太宰 アキレス腱だ。
坂口 どうも文士が小股を知らんというのはちょっと恥ずかしいな。われわれ三人が揃っておいて……。
ということで、大作家たちにも「小股」の正体は謎だったらしい。しかし、いくらなんでも太宰治の「アキレス腱だ」はむちゃくちゃです。
▼山口で、新しくなったサビエル聖堂(以前の建物は落雷で焼失してしまったそうな)を見物。聖堂は真っ白で、大胆な三角形。二本並んだ時計塔と鐘楼の上には奇妙なオブジェが乗っている。現代建築も悪くはないけど、どうも教会に必要な聖性が欠けているような気がするなあ。イギリスの大聖堂に入ったときのような、あの空間に圧倒されるような感覚がないのですね。やっぱり現代音楽よりバロック音楽、現代建築よりゴシック建築の方が崇高さという点では上なんじゃないかな。
午後、飛行機で東京に帰還。
▼ジル・マゴーン『騙し絵の檻』(創元推理文庫)読了。久しぶりに読んだ端正な本格推理小説。なんだか、1950年代の作品、と言われても全然違和感がないような。これが日本の新本格だったらこの人が犯人なんだろうなあ、と思いながら読んでいたのだけれど、さすがにそこまで意外性だけを求めた作品ではなかった。ま、確かに小粒ながら佳品ではあると思うのだけど、解説の法月綸太郎は、超絶技巧、ケレンの見事さ、などと尋常ではないほめたたえぶり。そこまで言うほどの作品かなあ。それとも、本格ミステリを真に楽しむのは、私のようなにわかファンでは無理で、「本格道」を極めた通じゃないとダメなの?
▼雲仙に行ってました。
妻の両親と一緒に、山口から車で。温泉につかり、普賢岳を見る。土石流で埋もれた家がそのまんま保存されていて観光地化されているのに驚く。周囲にはみやげ物屋が軒を連ね、店の人が盛んに客引きしている。たくましく生きてますな。
帰りに大宰府天満宮に寄っておみくじを引く。景品つきで500円、という謎のおみくじだったのだが、私は小吉で、景品はなぜかドアストッパー。年始めに神社でもらう最初の景品がドアストッパー。なんでまた神社でこんなに実用的なものをもらわなきゃいけないんだ。このトホホ感、まさに「小吉」にふさわしい景品といえよう。
それから福岡に出て食事。福岡全日空ホテルの2階レストランで食べたのだけど、ステーキ、子羊、子牛などの中から肉料理を選べるという。どれにしようかな、と迷っていると、ウェイターが「メニューには載っていないがエゾジカもある」という。なぜに福岡でエゾジカ。鹿肉なんて食べたことがないので、話の種になるかと思い頼んでみたのだけど、なぜか料理が出てくる前からシェフが出てきて説明してくれるし、料理が出てきたあとも何度も出てきて、ソースやつけあわせについて丁寧に説明してくれるではないか。「ドイツの料理オリンピックに出品した料理です」とのこと。結果は? と聞くと、誇らしげに「銀メダルをいただきました」という。どうやらこのエゾジカ料理、このシェフの自信作だったらしい。確かに、鹿肉と聞いて思い浮かべるような臭みもまったくなく、柔らかくて実に美味。これが5000円は安いよ。いいものを食べさせていただきました。
▼20世紀から21世紀にかけて読んでいた本は、アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター『過ぎ去りし日々の光』(ハヤカワ文庫SF)。2001年にクラーク、というのは新世紀にぴったりのような気もするのだが、これが何とも古色蒼然たるSF。ワームホールを使って、世界中、宇宙中のどこでも覗き見することができるマシン「ワームカム」が発明される。おまけに、この機械を使えば、任意の過去の時点も見ることができる。SFではありがちなアイディアではあるのだけれど、ただそれだけのアイディアで、ここまで徹底的にその実用的可能性から社会の変化まで描いた作品は確かに今までなかった。その意味では貴重な作品といえるんだけど、その他の部分がなあ。
前半は、発明者の家族にまつわる叙情的な描写が続くのだが、これほどバクスターに不向きな分野もないわけで、実際、家族の場面は退屈きわまりない出来。中盤になって社会の変化が断章形式で描かれる部分は、いかにもクラークらしく読み応えがあるのだけど、描かれる歴史が西欧中心なのであんまりぴんとこないのですね。キリストやリンカーンの「真の姿」について描かれてもねえ。欧米人にはショッキングなのかもしれないけど。おまけに、肝心のキリストの死と復活については変な理屈をつけて描写を避けているし。
結局、ワームカム、小惑星の衝突、家族の問題といった要素は最後までかみ合わず、バラバラなまま終わってしまう。なんともまとまりの悪い不恰好な印象の作品である。
▼ついに21世紀到来。
この時間線にはHALはいないし、ムーンベースもないけれど、携帯電話はできたし、ASIMOだっている。まあ、こんなところでよしとしようか。
車はチューブの中を走っていないし、誰も銀色のつなぎを着ていたりはしないけれど、まだまだ希望を捨てることはない。21世紀はまだ100年あるのだ。たぶん、2100年までにはそんな世の中になってるんじゃないかな。そう思うことにしようかな。
▼さて、私の手元に一冊の本がある。asahi.comの「未来はどこまで当たったのか」という記事でも取り上げられている、1969年(私の生まれた年だ!)に出版された『2001年の日本』(朝日新聞社)という本だ。実は、こんなこともあろうかと、私も数年前に古本屋で見つけて即購入。それ以来、この日が来るのを楽しみに取っておいたのである。
この本、ほぼ正方形をしていて、奇数ページには真鍋博のイラストが入っており、偶数ページには各業界の人々だとか、学者や作家たちが真剣に書いた未来予測、という構成。さぞおもしろいことが書いてあるだろう、と思うかもしれないのだが、実は項目立て自体が今となっては古くさく、どうもぴんとこないものが多いのですね。たとえば「主婦連合会」とか「板ガラス」とか「家庭用ミシン」とか「クリーニング」とか「綿スフ織布」(って何?)とか。いくら1969年当時とはいえ、2001年の板ガラスについて知りたい人がそれほどいたとは思えないのだが。
というわけで、おもしろい項目を探す方がたいへんなくらいの本なのだけど、まあ、興味深くてasahi.comに紹介されてない記事もないわけではない。そういう記事を紹介していこう。
まずは「家族計画」の項目から。「この時代は知的水準が高くなっているので、優生上の見地から現在の盲目的な偶然的な恋愛から結婚という形より、見合い→恋愛→結婚という形が多くなろう。……結婚年齢はずっと若くなり男性20〜24歳でその50%が結婚するだろう(現在9%)」。これは大ハズレですね。
「音響事業」の項はパイオニア研究開発部の人が書いているのだけど、ヘッドホンステレオやデジタルオーディオについてはまったく何一つ言及なし。「FM放送の番組に応じ、自動録音装置に指令を与えておけば、自動的に放送を録音して、好きな時刻に再生できる事が出来る」などと書かれているけど、今となっては特に書くべきこととも思えません。まあ、当たってるといえば当たってるんだけど。
「この時代における旅行の主流は、家族ぐるみ、青年男女の友達づれ、そして老夫婦がレジャーを楽しむ形のものであろう」(旅行)というのも当たり前すぎる気がするのだけれど、当時は団体旅行が主流だったのかな。もしかするとこういう何ということもない予想こそが貴重だったりするのだろうか。
「おそらく、今日、電話やラジオ、TVが民衆のものとなったのと同じ状態で、コンピュータも、それに直結する小型の送信・受信装置を、家庭に、職場に、散在させることになるだろう。……今日の情報手段(TV・電話・郵便・各種出版物など)の役割も、このコンピュータ・ネットと、何らかの形で融合していくにちがいない。そして、国家的、世界的な情報網が、家庭の茶の間とも密着した形で、形成されることになる」(コンピュータ)というのは大当たりですね。この時代に「コンピュータ・ネット」という言葉を使っているのは驚き。
「SST(マッハ2〜3)が就航すれば、東京―ニューヨーク間は3時間半、HST(マッハ10)では70分」とか「2001年には、200人乗りのロケットで月への観光旅行が可能である(1人360万円)」(観光産業)という予想は完全にハズレ。宇宙関係の予想はすべてハズレといっていいでしょう。
それから、携帯電話とかレンタルビデオとかコンビニとか、今じゃ身近になったものも全然予想できてません。やっぱり未来予測は難しいもんですね。全体に、今の産業が30年後にどうなっているか、といった記述が多くて、あんまり大胆なスペキュレーションがないのが残念な本です。
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