石黒達昌『新化』(ハルキ文庫)読了。北海道の秘境に棲息していたハネネズミ絶滅の謎について語るノンフィクション形式の小説である。「架空の生物の生態を想定し、その生物と人間との関わりを通して、生と死について考察している」と『人喰い病』の感想に書いたけれど、それはこの『新化』でもまったく同じ。『新化』も『人喰い病』の諸作も、すべて同じテーマのヴァリエーションなのですね。いくぶん難解なところもある『新化』に対し、同じテーマでよりエンタテインメント性を高めたのが『人喰い病』といえるかも。すでに、この作家、架空生物小説の第一人者といってもいいだろう。
ただし、美しくも哀しい絶滅のイメージを、荻野アンナの解説?がすべてぶちこわしにしているのが残念。本文を読む前にも読んだ後にも、解説だけは読んではいけません。
折原一『倒錯の帰結』(講談社)購入。カバーには『首吊り島』『監禁者』の2つのタイトルが書かれており、帯には「前代未聞、前からも後ろからも読める本」とあるのだけど、別に前代未聞じゃないと思うがなあ。『風の裏側』とかあったし。あとエースのダブルブックとか。
ある雑誌の映画欄によると、これから「バトルフィールド・オブ・アス」という映画が公開されるそうだ。バトルフィールド・オブ・アス。訳せば「尻の戦場」。どんな映画なんだろう。わくわくするなあ。
「ああ人生にカミダーリ」というフレーズを思いついたのだが、これを面白がってもらえるためには、まず「カミダーリ」とは何かを説明しなきゃならないのが難点。
「カミダーリ」についてはここへ。
ベン・C・クロウ編『巨人ポール・バニヤン』(ちくま文庫)購入。
一気に4日分更新!
今年の読書週間は、10月27日から11月9日までだそうである。
ということで、1947年から今年までの読書週間の標語の一覧を別ページにまとめてみた。この表をつらつらと眺めてみると、大げさに言えば戦後の読書観の変化みたいなものがにじみ出ていておもしろい。
まずわかるのは、だいたい1960年代までは何年か連続して同じ標語ということも珍しくないということ。しかも毎年替わり映えのしない文句ばっかり。標語のオリジナリティとかそういうものは、あんまり重視されていなかったのですね。頻出するのは、「明るい社会」「明るい家庭」などのフレーズ。もともとの読書週間の主旨というのは、読書をすることによって明るい家庭や社会を作ろう、というものだったようだが、今となっては、「読書」と「明るい社会・家庭」が結びついていたことには戸惑うほかはない。久作とか乱歩を読んで明るくなれるか、と思ってしまうのだが、そういうものは読書には含まれてなかったんでしょう、たぶん。戦後から高度成長期にかけての当時は、何よりも「明るさ」が必要とされていた時代だったのかもしれない。おそらく「明るい社会」というのは、読書を推進することによって国民の教育水準を押し上げ、ひいては社会全体の生活水準を高める、という意味合いもあったんだろう。「みんなで本を読みましょう」なんていう何のヒネリもない標語が二回も選ばれているのも興味深いところ。
70年代になると社会が豊かになってきたせいか、社会や家庭よりも個人の内面に焦点があてられるようになってくる。読書も、人間の心を豊かにするものだととらえられるようになってきたようだ。「本との出会い 豊かな心」(74年)、「素晴らしき人生 本との出会い」(80年)など、「心」「人生」といった文句が頻出。78年と79年には「翔べ心! 本はその翼である」「燃えよ人生! 本とのふれあい」とあきらかに他の年とは異質な「なんちゃらよ! なんちゃら」みたいな熱い口調の標語が選ばれているが、いったいこの2年に何が起こったのだろうか。
内面重視の傾向は80年代前半まで続く。おそらく、このころまでが「読書は人生、知性を豊かにする」という大義名分が信じられていた時代。たぶん、娯楽のための読書は、読書としては邪道だと思われていたんじゃないだろうか。それがくずれてくるのが80年代後半である。「秋が好き。街が好き。本が好き。」(89年)、「風もページをめくる秋」(91年)とか「いつも、ずっと…読書週間」(98年)など、イメージ優先でなんだか意味がよくわからない標語が増えてくる。「あと1ページがとまらない…」(99年)とか、娯楽の読書も積極的に認めようとする姿勢もみられる。その傾向がもっともはっきり現れているのが97年の「読みたい本を読めばいい、読みたいように読めばいい」。読書離れが進んだせいで、「人生を豊かにする読書」なんて言ってられなくなったんでしょうね。なんでもいい、読んでくれさえすれば、というあきらめにも似た気持ちが感じられる標語である。
そして今年の標語は「はじまりは1冊の本だった。」 まあこのところの意味不明標語に比べればそれほど悪くないとは思うのだが、77年の「一冊の本から何かが始まる」に似過ぎているような気もする。
ハルキ文庫のSFフェアには、現役の医師が書いた書き下ろし医学SFが2冊。石黒達昌『人喰い病』と武森斎市『ラクトバチルス・メデューサ』だけど、これは2冊ともあたり。どちらも医学系ハードSFとしてハイレベルな作品です。
まずは、石黒達昌『人喰い病』から。
キャラクター描写を極端に廃し、渇いた文体で綴られる短篇が4篇。中では前作『新化』と同じノンフィクションタッチの「雪女」と「人喰い病」がいいですね。「雪女」の結末のそっけない一文の情感といい、「人喰い病」の奇病の正体を解き明かしていく過程の興奮といい、静かで淡々としているのだけれど、たとえようもないほどロマンティック。収められた4篇に共通するテーマは「生と死」。架空の生物(雪女も架空の生物に入れていいだろう)の生態を想定し、その生物と人間との関わりを通して、生と死について考察している。よくある医学ホラーのようにパニックが起きるわけでもないし、何かとてつもない秘密が明かされるわけでもない。しかし、この短篇集には、まぎれもなく科学そのものに内在する詩情が描き出されている。医学SFの極北、理系SFのひとつの理想型がここにある。
続いて読んだ武森斎市『ラクトバチルス・メデューサ』は、対照的に派手な道具立ての医学パニックSF。
作者が現役開業医だけに、医学描写のリアリティや詳しさは数ある医学小説の中でも群を抜いているし、遺伝子組み替えという現代的なテーマを扱っていて、情報小説としてもなかなか優秀。いささか多すぎるくらいの登場人物の出し入れにもなんとか成功している。30ページくらいで早くもパニックの原因がわかってしまうので、いったいこのあとどう続けるんだ、と心配してしまったのだが、後半ではなんとも意外な方向に話を持っていくのには感心。なるほど、こういう手があったか。ペルセウスがペガサスに乗ってメデューサを退治しに行く、というさりげないロマンティシズムにもにやり。
処女作だけに、文章が生硬だったり台詞が説明的だったりするところも多いし、医療問題に対する作者の生の主張がそのままぶつけられていて小説の流れを阻害しているところもあるのだけど、そうした欠点を割り引いても、充分合格点をつけられる作品である。
こういう作品は、SFフェアの多数の文庫の中の一点として地味に刊行するより、ハードカバーで帯には「瀬名秀明絶賛!」とかつけて流行りのバイオホラーの一冊として売り出した方がよかったんじゃないかな。徳間なら間違いなくそうするでしょう。いや、別に「大森望絶賛」が悪いというわけではないけれど、「大森望」「バカSF」という帯に惹かれるひねた読者層より、もっと一般的な読者層に読んでほしい作品だと思うので。
ハルキ文庫は精力的に名作復刊に取り組んでいるけど、復刊してほしい佳作はまだまだたくさんある。たとえば、堀晃『バビロニア・ウェーブ』とか別唐晶司『メタリック』とか石原藤夫『横須賀カタパルト』とか。出してくれないかなあ。
Mr.Jock, TV quiz Ph.D., bags few lynx.
(テレビのクイズ博士ジョック氏は、山猫をほとんど袋に入れない)
ほとんど意味不明の英文だが、さてこれはなんだろうか?
これが実は英語版いろは歌なのだという。アルファベットのすべての文字を使い、きっかり26文字。柳瀬尚紀『英語遊び』(講談社現代新書)に載っている作品である。
子音と母音がワンセットになった文字を使っている日本語と違い、英語では母音が5つしかないので26文字で文を作るのは至難の業。この文でも"TV","Ph.D."などの略語を使った上、ジョック氏なるよくわからない人名を作ってなんとかしのいでいる。かなり、苦しい。
A quick brown fox jumps over the lazy dog.
(敏捷な茶色い狐が、のろまな犬を飛び越える)
タイプの練習なんかによく使われるこの文が33文字。
The five boxing wizards jump quickly.
(5人のボクシングの魔術師がすばやくジャンプする)
これが31文字。
Quick wafting zephyrs vex bold Jim.
(さやさやとそよぐそよ風が、大胆なジムを苛立たせる)
これでやっと29文字。
Waltz, nymph, for quick jigs vex Bud.
(ワルツになさい、乙女よ、速いジグだとバドが苛立つから)
これはiとuの重複だけで28文字。略語も使っていないし、なかなか美しい作品である。
こういう作品を見ると、日本語の五十音、しかも子音と母音がワンセットになった文字というのは言葉遊びには絶妙であることがわかる。英語だと上のようにかなり無理をする必要があるし、フランス語やドイツ語でもそうだろう。かといって、康煕辞典に載っている漢字をすべて使った長大な詩を作ったとしても、全然おもしろくないに違いない。
私たちは当然のように高い食べ物はうまい、高級な料理は美味だと信じているが、よく考えればこれは奇妙なことである。食べ物の希少価値や値段やらは、その食べ物のおいしさとは無関係だろう。
いや、確かにうまい肉ほど高いぞ。安い肉は筋っぽくてとても食べられたものではないが、高い肉は柔らかくておいしいではないか。そういう反論が来るかもしれないが、確かにそういう序列ならあるだろう。同じ肉ならば、食べておいしい部位ほど高値で取り引きされるのは、市場原理からして当然のことである。つまり、ある野菜なら野菜、肉なら肉の中であれば、高価なものほどうまいという法則が成り立つ。
しかし、たとえば霜降りの松阪牛の肉はオージービーフよりはるかに高いが、どちらがうまいかとなると、これは好みの問題だろう。松阪牛が日本人好みなのは確かだが、病的に脂肪が混じった肉を気持ち悪いと思う感覚の方が私としては自然だと思う。コシヒカリとタイ米だって同じことで、日本風の食べ方をするからコシヒカリはうまいのであって、タイ料理の汁っぽいカレーにはタイ米の方がよくあう。つまり、この場合、高価なのは需要が高いからであって、どちらが美味かという比較はできない。
トリュフとかキャビアは高価であり美味だと言われているが、あれは本当にその値段に見合うだけの味なのだろうか。あれもそのものの味というよりも希少価値のなせる業であって、もしもキャビアが100グラム300円くらいで売られていたとしたら、珍味としてもてはやされることもないのではないか。
高級なレストランでは、手のこんだ料理が供される。しかし、手間をかけることとおいしさが比例するか、と考えるとこれも疑問である。中華料理で金魚のような形をした餃子や何やら彫刻のようにカットされたキュウリなどが出てくることがあるが、あれを作る労力が料理の味にわずかでも影響を与えているとは思えない。
しかし、実際のところだいたいにおいて、高い食べ物ほどうまく感じるのは事実である。高級フランス料理を食べれば美味だと思うし、行列のできるラーメン屋のラーメンはうまいと感じる。これは純粋な味そのもののほか、高い金を払ったことや、並んだ時間、店の評判、盛りつけや皿の美しさ、レストランの雰囲気などの付加的な情報を食べているからうまいと感じるのではないか。そして、盛りつけの美しさや雰囲気のよさは確かに値段に比例する。
レストランで食事をするときによく思うのである。私は本当にその食べ物の味をうまいと感じているのだろうか。それとも情報を味わっているのだろうか。そして、食べ物に付随する情報を差し引いたところに残る、純粋な味とはなんだろうか。そもそもそんなものがあるのだろうか。
そう考えると、とたんに自分の舌が信じられなくなってくるのである。
ハルキ文庫のSFフェアの中から、まずは鯨統一郎『千年紀末古事記伝ONOGORO』読了。なんなんでしょ、これは。基本的には古事記の再話なのだけれど、ところどころに仕掛けがあったりエロティックな描写があったり。戦前なら不敬罪で投獄間違いなし。
ただ、古事記の真相はこうだったんですよ、と言われても、それがおもしろいかどうかは別問題。その真相でなければならない必然性が感じれないのでどうも腑に落ちないし、唐突に天岩戸の密室とか言われても、舞台は神々の世界。世界を律しているルールがよくわからないので、真相を明かされても、へえ、そうなの、ふうんと思うほかない。作者が一体何がやりたかったのかよくわからない作品である。
このへんとかこのへんとかで話題のログインのバカ記事。私も愛読者でありました。デオキシリボ助さんは覚えているなあ。
山ログとかバカチン市国とか、85年から96年までのログインのバカ記事(TECH WinとEYE-COMも)を集めた『株式会社アスキー第二編集統轄部 バカ記事大全』という本が1997年に出ているのだけど、やっぱり最近の記事より80年代の方が無意味なパワーにあふれていてよいですね。でも、あのころのログインは普通の記事の中にバカ記事がまぎれ込んでいることが多くて、この本にもとうていすべては収められてはいないのが残念。湯川さんも触れている「ロ○○ン」の○○を埋めて下さい、という記事は収録されているが(回答は「口内エン」「中国ジン」「ロミ山田だよーン」などなど)、ログインいろはがるたは収録されていない。
私がはっきり覚えているネタは、何かの記事の欄外にあった長島茂雄ショーの歌「きょーねんのあーなたのおーもいでがー(中略)レコードといっしょに長島ショー」というもの。あと、編集部の慰安旅行を「いあ〜んバカンス」と称してカラー記事にしてしまった号とか。これも『バカ記事大全』には載ってない。
ハルキ文庫のSFが今月もまた大量に出ていたので大量に買う。ああ、SFが毎月こんなに出るなんて夢のようである。でも、一度にこんなにどっさり出しても普通の人は1、2冊しか買わないのでは。
買ったのは、親本が出たときまったくノーチェックだった松村栄子『紫の砂漠』、酒見賢一『聖母の部隊』、書き下ろしの石黒達昌『人喰い病』、鯨統一郎『千年紀末古事記伝ONOGORO』、武森斎市『ラクトバチルス・メデューサ』。あと、待望の梶尾真治『黄泉がえり』(新潮社)も。いつ読むね。
松坂投手書類送検。そんなことよりも驚いたのは、スケートの黒岩彰が西武の広報課長になっていたということ。メダルすら取れなかった若造の尻拭いをするメダリスト。
エドガー・ライス・バロウズ『ターザンの復讐』(ハヤカワ文庫SF)読了。
ターザンといえばジャングルの王者、といったイメージしかなかったので、開巻早々イメージとあまりにも違うシーンの連続に愕然とすることしきり。豪華客船のデッキチェアで物思いにふけるターザン。セーヌ河畔でアブサンを飲みながらバレエを鑑賞するターザン。寝室で人妻と抱き合っていて夫にどなりこまれるターザン。殴られて逆上し、逆に夫を半殺しにしてしまうターザン。これがジャングルの王者?
なんでもこの作品、一作目の好評に気をよくしたバロウズが一作目と同じ出版社に送ったものの、「バランスが悪い」と突っ返されてしまった作品だとか。憤然としたバロウズはライバル出版社に原稿を送り、こちらでは即座に採用され高額の原稿料をもらったという。
このエピソード、「編集者の見る目がなかった」ということにされているようなのだが、実際読んでみると確かにこの作品、『類猿人ターザン』に比べると格段に出来が悪い。展開は行き当たりばったりで、全体としてのまとまりが欠けており、「バランスが悪い」という評価もうなずける。この編集者、むしろ人気作家にあえて注文をつけた勇気ある人物だったんじゃないだろうか。
重要そうな役回りで出てきたのに途中で消えてしまう人物も多い。族長の娘(けっこう活躍するのに名前すらもらえないかわいそうな女性である)とかどうなったんだ。しかも、機密書類を上着に入れたまま脱いでしまい、しかも部屋の鍵をかけるのを忘れてたので敵に盗まれてしまいました、なんていう展開はヒーローとは思えない間抜けさ。宿敵のロコフもただのちんぴらにしか見えずあまりにも弱そうである。
ターザンがついにジェーンと結ばれる重要な巻ではあるのだけど、展開の甘さも目立つ作品。2巻目で早くもこれか、と思うと続きを読むのがちとつらいものがありますね。
あー、なるほど、「A MASKED BALL」は「仮面舞踏会」ですか。ご指摘ありがとうございます。洒落た英語使いやがって、となんだか10歳も年下の乙一に馬鹿にされたようでなんとなく腹立たしい今日この頃(←逆恨みです)。
時雨沢恵一『キノの旅II』(電撃文庫)読了。前作と同じ寓話風の短篇集なのだが、前作と比べ目新しさがない分だけ、底の浅さが目につく作品が多い。この手の作品を書くにはもっと人生経験が必要でしょう。作者には、前作の感想と同じ言葉を贈りたい。「できれば続編ではなく別の物語を希望」
栗本薫『大導師アグリッパ』(ハヤカワ文庫JA)、恩田陸『上と外 2』(幻冬舎文庫)、柄刀一『アリア系銀河鉄道』(講談社ノベルス)、谷川渥『幻想の地誌学』(ちくま学芸文庫)、高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ)、龍田恵子『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫)、辻由美『カルト教団太陽寺院事件』(新潮OH!文庫)と大量の本を買う。
新創刊された新潮OH!文庫のヘンなところは、著者に必ずキャッチフレーズがついているところ。たとえば龍田恵子は「こだわりのタウン誌編集者」だし、辻由美は「世界をウォッチする」。そのへんはまだいいのだが、中島義道が「好き勝手なことを言う男」というのはあんまりなような気もするし、岡田斗司夫が「日本を代表するオタキング」というのは、なんだかほかにも日本を代表しないオタキングがいるみたいだ。しかし、いちばんわけがわからないのは春日武彦の「オレたちの精神科医」だろう。オレたちって誰よ。
一方、リリー・フランキーの「イラストレーター」というのもあまりに普通すぎてどうかと思う。「キング・オブ・ベンチャー」とか「三面記事の鬼」とかすごい肩書きがあふれている中に「イラストレーター」。せめて「いさましいちびの」とか何とかつけてほしいものである。
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