進行麻痺 general paralysis

 進行麻痺(麻痺性痴呆ともいう)という病気をご存知だろうか。
 今ではほとんど忘れられているが、19世紀に爆発的に増加し、わずか数十年前までは全世界で猛威をふるっていた病気で、1910年代のドイツでは精神病院の入院患者の10〜20パーセントを占めていたという。主として中年の男性がかかる病気で、痴呆症状を示すとともに手足が痙攣、体が麻痺していき、ついには人格が完全に崩壊して死亡する。ほおっておけば発症後約3年で死に至る恐ろしい病気である。
 当初はまったく原因不明の謎の病気だったのだが、19世紀半ばになると、患者にはある共通点があることがわかってきた。患者はみな10〜20年前に梅毒にかかったことがあったのである。実はこの進行麻痺の正体は、長い年月、体内に潜伏していた梅毒スピロヘータが脳を侵して発症する慢性脳炎。ちなみに、1913年、進行麻痺の患者の髄液を培養して梅毒スピロヘータを確認したのは、かの野口英世である。
 19世紀にこの進行麻痺に対して行われていたのは、頭のてっぺんに吐酒石軟膏なるものを擦りこんだり、わざと灼熱した鉄を押しつけたりして化膿巣を作って膿を出す(人工打膿法)といった恐ろしい治療法。これを行うと頭皮はおろか頭蓋骨まで腐食して硬膜や脳回が露出するようになるという。ひい。精神病の原因である悪いリンパや血液が外に排出されるのがいい、という論理らしい。もちろん患者はものすごい痛みを感じるのだけど、その苦痛がまた患者を正気に戻してくれる、とも考えられていた。しかし、これはいくらなんでもあんまり残酷だし、脳膜炎を起こして死亡する犠牲者が絶えない、というので19世紀も後半になるとだんだん行われなくなってしまう。当然ですね。
 さて20世紀に入ってこの進行麻痺の画期的な治療法を発明したのがウィーン大学のユリウス・ワグナー・ヤウレッグなる人物。この人が編み出したのはその名も「マラリア療法」。これまたなんだかおどろおどろしい名前でなんだか嫌な予感がするだろうが、あなたの想像はたぶん正しい。
 1917年6月、ワグナー・ヤウレッグはあるマラリア患者の血液を採取、これを進行麻痺の患者に注射したのである。これだけ聞くとむちゃくちゃなことをやっているように思えるかもしれないが、実はそれほど無茶ではない。発熱のあとに狂気が改善することがあるということは(理由はよくわからないが)以前から知られていたし、大きな身体疾患にかかると精神病が一時的に改善することがあるのは私も経験したことのある事実。もしかしたら、免疫系と神経系の間にはなんらかの相互作用があるのかも。
 さらに、進行麻痺は死に至る病であるのに対し、当時すでにマラリアはキニーネ療法が確立していた。どっちをとるかといえばそりゃマラリアだろう。ただ、副作用も強くて、最初にマラリア原虫を注射された患者のうち生存者は全員改善したものの、数名は死亡したという。まさに、毒を持って毒を制すとでもいうべき壮絶な治療法である。ワグナー・ヤウレッグは1927年、精神科医としては初めてノーベル賞を受賞している(ちなみに二人目はロボトミーを開発したエガス・モニス)。

 さて当時、マラリア療法のほかに進行麻痺の有望な治療法として知られていたのが、サルバルサン(砒素の有機化合物)や水銀といった重金属による治療である。そんなもん、毒物ではないか、と思うのだが、重金属は人間に毒である以上に梅毒スピロヘータに対しても毒物のようで、ある程度の効果はあったらしい。ただし、サルバルサンは残念ながら血液脳関門を通過せず脳に到達しないので、進行麻痺にはあまり効果がなかったようだ。そこで水銀やサルバルサンを直接脳に注入する、などという治療も行われていたという。もうなんでもありですな。
 キール大学のルンゲは、1925年にさらにものすごいことを考えた。血液脳関門を通らないのであれば、むりやり通るようにしてしまえばいい。まず、煮沸滅菌したミルクを筋肉注射して、41度の発熱を作る! ちょっと前に、看護婦が間違えて牛乳を点滴して患者が死んでしまうという事件があったが、あれを故意に行うわけだ。発熱すると血管透過性が亢進するから、このときにサルバルサンを静脈注射してやれば脳にまで到達する、というわけである。これが「ミルク・サルバルサン療法」である。ルンゲはこの治療法を56例に試みて45パーセントの好結果を得たというが、当時すでに盛んになっていたマラリア療法には及ばなかった。
 結局、サルバルサン療法はマラリア療法の前に敗れ去ってしまったのである。

 どうやら体温を40度以上まで上げればスピロヘータは死滅するらしい、ということで、その後もいろいろと珍妙な治療法が現れた。熱風呂に入れてそのあとフランネルと木綿で体を厚く包む、高周波の低電圧電流を体に通して発汗、高体温を作る。マラリアと回帰熱を同時に接種する、マラリアと鼠咬症の同時感染、マラリア血液を患者の前頭葉に直接注入! それが本当に治療なのか、といいたくなるような実験的な治療がいろいろと行われたのである。今なら絶対人体実験といわれて告訴されてるよなあ。
 しかし、なんでもありの時代は長くは続かない。最初の抗生物質であるペニシリンが工業的に生産されるようになり、1944年にはペニシリンにより進行麻痺が劇的に改善することがわかる。こうして進行麻痺は完全に過去の病気となってしまったのである。マラリア療法の栄光もわずか27年間で終わったのであった。

 こうして凄絶な治療法の時代は終わった……と思いきや、何か身体に強い衝撃を与えれば精神病は治るというアイディアは、精神病に対するショック療法としていまだに命脈を保っている。精神科ショック療法の歴史もまた奇絶怪絶また壮絶なものがあるのだが、それはまた別の話
(last update 99/11/05)

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