現在の精神医学では、性倒錯のことを「パラフィリア(paraphilia)」と呼ぶことになっている。para-は「偏り」、philiaは「愛」という意味ですね。一見なんのことだかわからない病名になっているのは、「倒錯」という言葉の持つマイナスイメージや偏見を払拭してニュートラルな印象にするため。だからparaphiliaの日本語の定訳は「性嗜好異常」となっているけれど、ここは「パラフィリア」とカタカナで書くのが正しい。
性倒錯についてのもっとも素朴な考え方というのは、「生殖に結びつかない性衝動とか行動はみんな性倒錯」というもの。この考え方によれば、フェティシズムとかサディズムとか同性愛とかはみんな性倒錯ということになる。これは非常に古典的で批判も多い見方(常に生殖を意識して性行為をする人なんているか?)なのだれど、いまだに現実にはこの考え方が優勢である。
『戦闘美少女の精神分析』を書いた精神科医の斎藤環氏によればアニメキャラでヌケるかどうかがオタクと非オタクの分岐点なのだそうだ。そうすると、素朴な性倒錯の定義「生殖に結びつかない性衝動とか行動はみんな性倒錯」を採用するなら、オタクはみんな性倒錯ということになってしまう。
実際、アニメキャラやらゲームキャラやらが好きなどと言うと「いい歳して」などと周囲からは白い目で見られたりするもので、オレっておかしいんじゃないだろうか、などとふと思ってしまうことだってあると思うのだけれど、はたして本当にオタクは性倒錯なんだろうか。
この疑問に答える前に、性倒錯についての考え方の歴史をたどっておこう。
まず、精神分析の祖であるフロイトは「乳幼児はみんな性倒錯者」と驚くべきことをいうのですね。幼児期には自己愛があったり糞尿愛があったりサディスティックな行動があったりとあらゆる種類の性倒錯を持っているのだけれど、だんだん成長して社会化されていくにつれ、それが抑圧されるのだ、という。で、正常な発達過程があるところで止まってしまったのが成人の性倒錯だというわけ。この考え方だと、スカトロマニアも同性愛者もみんな発達の遅れだ、ということになる。
それに対して、やっぱり赤ん坊の便いじりとスカトロマニアは違うよ、と反論したのが「人間学派」と呼ばれる人たち。赤ん坊はきれいきたないがわからず便をいじるけれど、スカトロマニアはむしろ嫌悪すべきものだからこそ糞便を好むのだ、というのですね。このように、倒錯者には、規範や、自分や、相手を歪曲し貶めようとする破壊衝動がある、というのだ。相手の全人格に向かうやさしい愛情が障害され、性行動に破壊衝動が混入してしまっているのが、性倒錯の本質だ、と人間学派は主張するのである。
で、その両方を批判したのが、1957年に『性的倒錯』という本を書いたメダルト・ボス。
倒錯者は別に愛情が障害されてなんかいない。ときに破壊的に見えたとしてもそれは彼らの本質じゃない。彼らの愛情自体は普通の人とは変わりはないのだ。ただ、彼らは世界との関わり方がものすごく狭かったり硬かったりするので、どうしても周辺部にこだわってしまったり、自分や相手を覆う硬い殻を打破して真実の愛に到達するために暴力を使ったりするのだ……というのがボスの主張。40年以上も前に書かれたにしては、なかなか革新的な内容ですね。
そして、最新のアメリカの診断基準である
DSM-IVでの「パラフィリア」の定義はこんな感じ。
基準A:少なくとも6ヶ月間にわたる、1)人間ではない対象物、2)自分自身または相手の苦痛または恥辱、または3)子どもまたは他の同意していない人に関する強烈な性的興奮の空想、性的衝動、または行為の反復。
基準B:行動、性的衝動、または空想は、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている。
この定義には、ボスが強く主張したような性倒錯の本質論はまったく含まれていないが、それは仕方のないこと。原因や本質といったよくわからないものは無視して機械的に定義しようというのがアメリカ流DSMの考え方なのだから。
ともあれ、AとBの基準の両方を満たして初めて「パラフィリア」と診断されることになっているのですね。つまり、性衝動や行動があるだけでは異常とはみなさず、それが苦悩や障害をもたらす場合、初めて異常とみなす、ということなのだけれど、こういう定義になったのには歴史がある。
実はかつては、基準Aだけで性倒錯だとみなされていたのですね(最初に書いた素朴な定義がそう)。そして、もちろん「生殖に結びつかない」同性愛も、性倒錯の中に入っていたわけだ。しかし、アメリカでゲイ・ムーブメントが高まった1970年代以降、こんな批判がわき起こってくる。
「男女のセックスだってたいがい快楽とかコミュニケーションが目的なんだから、同性愛が生殖に結びつかないからといって即異常扱いすることないんじゃないの?」
もっともな話である。そこで、1980年のDSM-IIIでは、「同性愛で、しかもそのことに苦悩を抱いている」人に限り精神疾患ということにした。ここで基準Bが初めて登場するのですね。
でも、この定義もまた批判を受けてしまう。
「同性愛の苦悩ってのは、病気のせいじゃなくて、同性愛は異常だと社会がレッテル貼りをして差別しているからなんじゃないの?」
これまたもっともな話である。そして、1987年のDSM-IIIRでは同性愛という疾患概念は完全に削除されてしまう。同性愛は精神障害ではなくなったのだ。
現在のDSM-IVでは、「パラフィリア」は、露出症、フェティシズム、窃触症、小児性愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症に分類されていて、さっき書いたような定義になっているのだけれど、考えてみれば、「同性愛の苦悩」への批判は、パラフィリアの定義全体にあてはまるんじゃないだろうか。
基準Bの、パラフィリアの人の苦悩や障害ってのは、社会からのレッテル貼りに対する当然の反応なんじゃないだろうか。同性愛だけ基準から外すのは不公平なんじゃないか。当然そういう疑問がわいてくるのだけれど、フェチの人はゲイほど政治的発言力が強くなかったせいか、いまだに疾患扱い。眼鏡っ子好きとかSMマニアとかがホワイトハウス前でデモでもやれば違ってたかもしれないけど。
それに、実は基準Bには穴があるのだ。たとえば次々と幼女の暴行を繰り返している人がいたとして、その人が逮捕もされなければ、全然苦悩すらしていないとすると、その人は基準Bには当てはまらず、パラフィリアじゃない、ということになってしまうのである。
というわけで、DSMの定義にはかなり不備があるというしかない。
じゃあ、どういう定義にすればいいかというと、最近の傾向では、「性的暴力行為があれば性倒錯ということにしようか」ということになってきているのですね。
たとえば露出症とか窃視症(ノゾキ)はたいがい相手の同意を得てないので暴力的。小児性愛も相手に同意能力がないので暴力を伴う。でも、フェティシズムとか服装倒錯は個人的に完結しているので暴力は伴わない。SMだって同意のもとであれば性的暴力とはいえないだろう。
こういうふうに考えて行くと、こんな結論に達する。
二次元の幼女が好きなあなたも、ハイヒールフェチのあなたも、女装趣味のあなたも、スカトロマニアのあなたも、病気ではない。もしあなたが自分の趣味嗜好を恥ずかしく思ったり、苦悩したりしているとしたら、それは社会があなたを差別して異常とみなしているせいだ。
つまり、オタクは性倒錯ではない。
あなたが病気とみなされるのは、幼女を連れ去ったり、人前で性器を露出したり、電車で痴漢をしたりと、人様に迷惑をかけた時点から。これはこれで明快な定義である。
逆に、この新しい基準で考えると、今までは性倒錯に入らなかったものが性倒錯になってくる。たとえば「レイプ」。レイプは性的暴力の最たるものなわけで、新しい基準に従えば性倒錯である。
今までは「男なら誰でも強姦願望がある」とかいわれてきたし、日本の実際の判例でも「相手に抱きついて押し倒し、パンティを脱がせ、馬乗りになるなどの行為は、強姦にいたらない姦淫においても一般的に伴うものであるともいえるのである」と述べているものもある。だけど、最近ではレイプやレイプ願望を他の性倒錯と同列に扱う本も出てきているのですね。
つまり、性倒錯の定義は「生殖に結びつかない」→「本人の苦悩や障害がある」→「性的暴力行為である」と変わってきているのだ。まあ、今のところまだ、フェティシズムは診断基準に載っていて、強姦は診断基準には載っていないのだけれど、いずれ逆転することになるのでしょうね。それが、世の中の趨勢というものです。ただ、苦悩の源泉である「社会からの差別」はなかなかなくならないだろうけれど。ゲイ・パレードみたいに社会的認知を求めてフェチ・パレードでもやりますか。
参考・針間克己「性的異常行動」(臨床精神医学2001年7月号)
(last update 01/12/30)