古い精神医学雑誌をめくる楽しみのひとつは、研究のはやりすたりがわかること。医学だって当然ながら時代の産物である。昔の雑誌では、今ではまったく行われていないような研究で、盛んに論文が書かれていたりするのだ。例えば、
ロボトミー。昭和30年代には掲載された多くの論文では、当時からあった反対論など「いつの世も先駆者は非難されるのだ」と勇ましく一蹴しているのだが、昭和40年代以降はぱったりと姿を消してしまう。
ロボトミーほど論文数は多くはないものの、同じように昭和30年代に盛んだったがその後すっかり下火になったジャンルが、
実験精神医学。といっても聞いたことがないという人が大半だろうけれど、これはつまり「自然の精神病に似た状態を実験的に作り出すこと」。薬を使って人工的に精神病を作り出してしまえ、というわけである。なお、実験精神医学の文脈では、精神病といえば精神分裂病をさす。
当然ながら、使われたのは物騒な薬ばかり。それ以前に使われていた薬物は、アルコール、カフェイン、ハシシュ、そしてメスカリンという具合。「てんかん患者にアドレナリンの誘導体を注射したら異常脳波がさらに強くなりました」という実験もあったらしい。これなど、道義的にかなり問題があると思うのだが。
さて、それまでも行われていた実験精神医学が、なぜ昭和30年代に盛んになったかといえば、それは画期的な新薬が合成されたからである。「多彩な精神症状を誘発し、症状がきわめて(分裂病に)類似している点でより一層研究的興味がそそられる」夢の物質。それが、lysergic acid diethylamide、つまり
LSDなのであった。LSDは1943年、実験室で偶然に合成され、仕事中だった化学者ホフマンが偶然それを口にした(するか、普通)ことからその精神作用が明らかになったのだそうな。もちろん、昭和30年以前にも海外ではすでに研究されていたのだが、戦争の影響もあってか、日本でLSDの研究がようやくブームになったのは昭和30年代なのであった。
ただ、CTもなければ分子生物学も大して発達していない時代のこと、実験といってもせいぜい脳波をとるか、「LSDによる精神現象をありのままにとらえる」と称して、被験者を観察したり精神状態を報告させたりするという
現象学的研究ばかりなのだった。
この被験者には誰がなるのかといえば、「医学部の学生で男子20例、女子10例」だったり、「24歳から34歳の医者と看護婦」だったりする。「画家でもある精神科医が、自分でLSDを飲んで絵を描いてみました」なんて論文もある。つまり、手近な人間で済ませてるわけですね。うーん、なんだか集団でラリっている医者やら看護婦やら医学生やらの図が思い浮かんでしまうのだけれど。実験用のLSDをこっそり盗んでいた医者もいたんじゃないかなあ。
論文に引用されている24歳の女子医学生の報告文はこんな感じ。
「緊張感も恐怖感もなく、このままじっとしているのが自然で一番楽です。時間のたつのが気にならないというより、時間の観念がないのです。視野はさらに狭くなり、注視物だけが目に映り、それ以外は目に入りません。刺激が加わると、はっと一瞬実験されている自分に気がつきますが、またもとに戻ってしまいます。白い壁から銀色の線がわいてきそうです。自分のほうからもジーンと緑や黄色の線が飛び出していくみたいです」
ラリってますな、完全に。
27歳の看護婦は、突然ゲラゲラ笑い出したかと思うと、硬い表情になって両手を顔にあて、指の隙間から周囲をうかがうように目をキョロキョロさせるようになった。それから数時間たってもLSDの効果は消えず、何を聞いてもふんふんいうだけで答えない。同僚が「お手洗い?」と聞いたらふんふんというので、同僚は手を引いて階段を降り、便所に入れてやった。それから数時間眠ったあともやはりふんふんいうだけで何も答えず、翌日は一日中寝ていたという。次の日からは周囲を認識するようになったが、その後約1週間は感情が鈍麻した状態になり、勤務にはついていたが義務をこなすのがやっと。その間、
正常な状態ならとてもたえられないような精神的ショックを受けたが、きわめて淡々とした態度だったという。
とてもたえられないような精神的ショックってのはいったい何? ものすごく気になってしまうのは私だけだろうか。それ以前に、そういう状態の看護婦を働かせるなよ。もし医療事故が起きたら誰が責任をとるんだ。
一時は精神科医たちの間でブームとなったLSD実験だが、その後、LSDは一般に広まってしまった(60年代といえばヒッピーの時代ですね)ことから麻薬に指定されてしまい、そして、やっぱり薬による幻覚と分裂病の幻覚は違うよ、という当然といえば当然のことが明らかになったことにより、実験精神医学はすっかり下火になってしまうのであった。
しかし私もいちどくらい実験と称してラリってみたかったような気もするなあ。昭和30年代の精神科医がちょっとうらやましい私である(などと書いておくと、もし私がドラッグで逮捕されたとしたら、「エリート精神科医、ホームページでLSDを礼賛!」などと週刊誌に載ってしまうかも(笑))。
(last update 99/11/05)