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2003年9月19日(金)

 ペルーに行きたい。
 ずっと前からそう思っていたのである。
 ペルーといえばインカ帝国。カミソリ一枚通らない石組み、外科手術の痕のある頭蓋骨、文字も車輪も持たない文明、謎の空中都市、ナスカの地上絵(……これは実はインカ文明じゃないんだけど)。それはもう、中学生の頃に、NHKアニメ『太陽の子エステバン』を見て以来の私の憧れの土地なのだ。ただ、なんといっても南米といえば地球の裏側、それになんとなく治安の悪いようなイメージ(センデロ・ルミノソとかいるしね。ためしに外務省の海外安全情報のペルーのページを見てみると……、非常事態宣言が出てます(2003年10月3日現在))、ちょいと敷居が高くてなかなか実際に行ってみる気にはなれなかったのだけれど、ついに思い切って念願のペルーの地に旅立ってみることにした。

 まずは成田空港12時発のアメリカン航空176便でダラスへ……。と書きはじめようと思ったのだけれど、いきなり出発前にトラブル発生。深夜、妻がコンタクトレンズを洗面台の排水溝に落としてしまったのである。もちろんスペアなんて気の利いたものはありはしない。明日の朝一番に眼鏡屋に行ったとしても、飛行機の時間には間に合わない。さあ困った。
 結局、真夜中だというのに暮らし安心の○ラシアンの人を呼んでパイプを外してもらい、なんとかコンタクトレンズ回収に成功。ありがとう○ラシアン。ありがとう。かと思ったら、今度は私の鍵と時計が見あたらなくなってしまったので、1時間近く乱雑な部屋の中を探しまわる。恩知らずにも一時は○ラシアンの人まで疑いつつも、結局鍵と時計は部屋の中から見つかったのだけれど(ちゃんと普段から部屋を片づけとかないからこういうことになるのである)、ほとんど眠らぬまま空港へ向かうことになってしまった。なかなか波乱含みの幕開けである(すべて我々の不注意のような気がしないでもないが)。

 さてペルーである。現在ペルーへの直行便はないので(フジモリ大統領の頃はあったらしいのだが)、まずは成田12時発のアメリカン航空176便でダラス・フォートワース空港へ向かう。ほぼ12時間のフライトで、ダラスに着いたのは現地時間の9時半頃(実はこれが私にとって米本土初上陸)。しかし、リマ行きの飛行機の出発時刻は16時59分。なんと7時間以上もの待ち合わせ時間があるのである。なぜこんな不便なスケジュールになってしまったのかというと、旅行社の人に「最近、テロ警戒のためアメリカの入国審査が厳しくなっていて、2時間の待ち合わせですら乗り遅れた人がいる」などと脅され、うんと余裕をもった待ち合わせを勧められたためである。しかし、いったん預けたスーツケースを受け取ることになったり、金属探知器のところでは靴まで脱がされたりと、確かに警備は厳しかったとはいえ、それほど時間がかかったわけでもない。2時間はおろか、1時間半の待ち合わせでも充分なくらいである。確かに大事を取ることは大切とはいえ、ほんとにこんな待ち合わせ時間が必要だったのか旅行社よ、と遥か太平洋の彼方にいる旅行社の担当者を問いつめたくなってくるダラスの朝である。
 まあ、憤ってみても仕方ないので、無意味にうろつきまわったり無料の空港内無人電車に乗ってみたりしつつ、ひたすら時間をつぶす。はやくもげんなり感を感じ始めた我々である。
 永遠にも似た時間をダラス空港で過ごしたあと、我々が乗り込んだのは、16時59分発のアメリカン航空947便。ペルーの首都リマに到着したのはそれから6時間近く後の深夜0時少し前(ダラスとリマには時差がなくて、どちらも日本より14時間遅れである)。空港では持参したドルをペルーの通貨ソルに両替(だいたい1ドル=4ソルくらい)。円の両替は難しいときいていたのだけれど、空港でなら円も両替できた。とりあえず100ドル分をソルに替えたのだけれど、結論からいえばソルは高額紙幣より1ソルや5ソルなどの硬貨があった方が便利。ペルー全土にわたってかなりドル経済が浸透していて、ソルで支払うのは露店のミネラルウォーターやおみやげなど小さな買い物ばかりなので、50ソル札などあっても使い道に困るのだった。
 リマ空港には、流暢な日本語を操る色黒の青年が迎えに来てくれておりました。流暢なのも道理、この方はれっきとした日本人。本日の宿(というか仮眠を取る場所)を経営する日本人夫妻のご長男ダイキ君なのであった。

2003年9月20日(土)

 深夜のリマを車で約20分。看板も何もないなんだか普通の家のような宿に着いた我々を迎えてくれたのは、家の中を我が物顔でうろつきまわる巨大な犬と、猫2匹。ここは日本人の早内さんご夫妻の経営するペンション・カントゥータ。どうやら早内さん、かなりの動物好きらしい。
 リマでは仮眠をとっただけで、早朝の便でクスコへと飛ぶ予定である(朝一番の便を選んだのは、ペルーでは昼間の便ほど遅れやすいからだという)。クスコ行きの国内線は6時発なので、ダイキ君は4時に起こすという。ちょっとこの旅行のスケジュールはきついのではないか、と漠然と感じ始めた我々である。
 まずは軽くシャワーを浴びてから眠ろうとしたのだけれど、お湯がなかなか出なくて苦労する(あとでわかったのだけれど、たまたまこのときはシャワーが壊れていただけで、ふだんはちゃんと出ます)。シャワーと悪戦苦闘しているうちに午前1時半。さっぱりしたベッドに入ってほとんど眠ったか眠らないかのうちにまた起床、眠い目をこすりつつ、再びさきほどと同じ空港に向かうことになった。空港まで送ってくれるのはさきほどと同じダイキ君。
 このときはわずか4時間ほどのあわただしい滞在だったので、特になんの印象も感じなかったのだけれど、何日か後にリマに戻ってきたときに、このペンション・カントゥータの早内さんご夫妻と息子さんにはたいへんお世話になることになるのであった。

 さて、リマ空港からラン・ペルーという航空会社の飛行機で1時間ほどで、インカ帝国の古都クスコに到着。ちょうど乾期と雨期の変わり目の時期だからか、どんよりとした曇り空である。けっこう肌寒い。
 クスコでは、サイディーさんという女性ガイドが出迎えてくれていた。何もわからぬまま、まずは今回の旅でお世話になるNAO TOURという現地の旅行会社の事務所へ。篠田直子さんという、ペルーに住む日本女性の経営する会社である(篠田さんの姿は見えなかったが)。
 ここではペルー名物、コカ茶をいただく。コカ茶というのは、コカの葉をそのままカップに何枚も入れて、上からお湯を注いで作るお茶(レストランなどではティーバックで出てくることもある)で、ペルーではごく一般的に飲まれているお茶である。朝食の席などでは「カフェ、ティー、オア、コカティー?」と訊かれるし、ホテルのロビーで自由に飲めるようになっていることもある。利尿作用があるため、高山病予防の効果もあるそうだ。精製していないコカの葉には別に麻薬効果はないのだが、コカといえばコカインの原料なので、コカの葉は日本への持ち込み禁止。だから、コカ茶はここペルーでしか飲めないお茶である。味は何の変哲もないハーブティーのようなのだけれど。

 クスコは標高3360メートル。標高0メートルのリマから来ていきなりここに滞在するのはきついので、今日はまず「聖なる谷」を観光したあと、クスコよりいくらか標高の低いウルバンバという町に宿泊することになっている。「聖なる谷」というのは、クスコの北、周囲を山々に囲まれた地域のこと。谷にはピサック、ウルバンバ、チンチェーロ、オリャンタイタンボなどの村々や遺跡が点在している。谷底にはウルバンバ川が悠々と流れ、川沿いには畑が広がっている。朝の道には牛を追う子供たち、そして山腹にはインカ時代のアンデネス(段々畑)。のどかなアンデスの田園風景である。
 まず、私たちが向かったのは、インディヘナ(昔インディオと呼んでいた先住民のことを最近はこういう)の市で有名なピサックという村。……なのだけれどだけれど、市が立つのは火・木・日のみ。そして今日は土曜日。広場には土産物屋しかない寂しい状態である。しまった、出発を一日遅らせればよかった、と思ったもののあとのまつり。我々は寂しいピサックの村を散策することになった。写真は上から見たピサックの村。よく見れば山腹に段々畑の遺跡が広がっているはず。
 さて、車でピサックの村を出ようとしたときのことだ。なんだか先の道路が騒々しい。何やら群衆が路上に集まり、警官も集まっているようだ。道路には石が並べられており、タイヤの焼ける嫌な臭いまで漂っている。ガイドのサイディーさんによれば、なんでもバス料金をめぐる学生のストライキだという。大規模なストになると車がまったく通れなくなって交通がマヒしてしまうそうだが、今回は小規模のストで観光用の車は範囲外らしく、我々の乗ったバンが通りかかると石をどかしてくれた。ペルーのストというのは日本とは違い、ただ単にサボタージュをするのではなく、道路に石を置いて通れなくしたりと実力行使をするものらしい。しかしバス料金ごときのことでここまでしますかペルー学生。このときには、このペルーのストライキが、のちの我々の旅に大きな影響を及ぼすとは、まったく思いもよらなかったのであった。

 続いて車はウルバンバの町を越え、オリャンタイタンボへ。ここはインカ時代の宿場町。そしてまた、かつて皇帝アタワルパが処刑されてインカ帝国が征服されたあと、新たに皇帝の座に着いたマンコ・インカが抵抗軍を組織し、この場所を砦としてスペイン軍と戦ったという古戦場である。小さな村を抜けた我々の前に現れたのは、インカ時代に山の傾斜を利用して作られた斜度45度の段々畑。これを上まで登りきる。ここはクスコより低いとはいえ、まだまだ標高2750メートル。少し登っただけで息が切れる。
 段々畑を登ると、精巧に組み上げられた石組みが見えてくる。大きな石はきれいに磨かれており、段々畑の石組みとは明らかに違う。台形の門に、台形の窓。そしてぴったりと接合された岩と岩。まさに思い描いていたインカの石組みそのものである。ここはかつて神殿だった場所らしい。
 台形の門をくぐり、山の上に出ると、巨大な岩が鎮座していた。よく見るとそれは6枚の岩を並べて作られており、巨大な岩の間には薄い岩が、わずかな隙間もなくぴったりとはまっている。岩にはかすかに階段状の紋様が浮き彫りにされているのが見える。なんでも、この岩は谷を隔てた対岸の山から運んだのだという。明らかに、信じられないほどの手間ひまをかけて作られた建造物である。何か神聖な意味があったに違いないが、今となってはなにもわからない。向かい側の山の中腹には穀物倉庫だといわれる建物の跡があり、眼下にはオリャンタイタンボの村が見える。ここオリャンタイタンボは決して死んだ遺跡などではなく、今もまだ生きた村なのである。

 車はウルバンバへととって返し、ガーデンレストランで昼食。レストランの庭は色鮮やかな花が咲き乱れているし、檻の中にはオウムがいて(オラ!とスペイン語で挨拶したら、オラ!と返事をしてくれた)、芝生の上では小さな女の子が犬と遊んでいる。なんだか土と岩と日干し煉瓦の茶色ばかりが目立っていた今までとは別世界のようである。妻はチキンを、私は鱒料理を頼んだのだけれど、味は……まあ、こんなもんでしょう。あ、デザートのライスプディング風のお菓子はおいしかったですよ。考えてみれば、これがペルーに来て最初のまともな食事なのだった。この店、観光客向けのレストランらしく、私たちのあとにはフランス人らしい団体旅行客が大挙して押し寄せていた。

 続いて今日の宿泊先であるウルバンバのホテル・ソル・イ・ルナへ。瀟洒なコテージ風の三つ星ホテルである。昨日から移動の連続だったこともあって相当疲れていたらしい。まだ昼過ぎではあるのだけれど、ベッドに倒れ込むように横になり、それからは夕食時間以外はほとんど熟睡。まあ、部屋にはテレビもないので寝るくらいしかすることもないのだけれど。レストランへ向かうときに空を見上げてみると、降るような満天の星。南半球の星座はよくわからないので、見分けられた星座はさそり座くらいしかなかったのだけれど、澄んだ空には天の川までぼんやりと見えておりました。

2003年9月21日(日)

 5時半起床。
 朝食はビュッフェ形式。ペルーではコーヒーはコーヒーエッセンスにお湯を注いだものであることが多く、お茶はティーバッグだけれど、コカ茶、紅茶のほか、アニス、マンザニラ(カモミール)などハーブティーが一通りそろっている。ついでにいえばジュースには砂糖を入れて飲むことが多いようで、なんだか妙に甘いことが多かった。
 朝食の席で、今日からのガイドであるフェリペさんと初の対面。サイディーさんはきのうだけでお別れである。ふつうは全行程にわたって一人のガイドさんが担当するのだけれど、最近は旅行客が多いので変則的に二人のガイドが分担することになったのだという。フェリペさんはきのうプーノから帰ってきたばかりだとか。ペルーは9月までが観光シーズンで、ガイドさんは休む間もないらしい。
 このフェリペさん、かつては民族舞踏のダンサーをしていて、4年くらい前には蒲田の駅でフォルクローレを演奏していたこともあるという。そして今はクスコで旅行会社と小さなホテルを経営しているという。なかなか多彩な才能の持ち主であるらしい。

 さて、今日はいよいよ念願のマチュピチュ行きである。マチュピチュに行くには、まず列車でアグアス・カリエンテス駅まで行き、そこからさらにバスに乗ることになる。7時10分にオリャンタイタンボを出る列車に乗るというので、6時半にホテルを出発する。車は線路と並行した道をひた走り、ゆっくりと走っている列車を追い抜かす。あれが私たちの乗る列車だ、とフェリペさんが教えてくれた。
 車が停まったのは、別に駅でも何でもない線路際。なんでまたこんなところに、と思っていると、なんでも本当のオリャンタイタンボ駅は別にあるのだけれど、崖崩れでそこへ通じる道が通れなくなっているため、乗客はここで列車に乗るのだという。しばらく待っていると、さっき追い抜かした列車がゆっくりとやってきて停まった。

 クスコ発の列車ではないからか、車内はまったくのがらがら。私たちの席は1号車の1番前、しかも展望列車なので前方の景色がよく見える最高の席である。「今日は、アグアス・カリエンテスに向かいます」。頭の中で溝口肇のテーマ音楽と石丸謙二郎のナレーションが聞こえてきた。
 さすが観光列車だけあって、車内では軽食が出されるし(飲み物は当然ながら「カフェ、ティー、オア、コカ・ティー?」である)、土産物を売る車内販売も回ってくる。そうこうしているうちに列車はどんどん山の中へ。山の姿も変わってきて、オリャンタイタンボ周辺では赤茶けた岩肌が露出していたのが、だんだんと木々が密生した日本の山岳地帯に似た風景になってくる。ここはもうジャングルのとば口なのである。
 山奥へ入っていく、とはいっても別に山を登っているわけではなく、実は下っているというのが日本の感覚だとちょっととまどうところ。クスコは3300メートルくらいなのに対し、アグアス・カリエンテスは2000メートル。1000メートル以上も標高が違うのですね。マチュピチュだって空中都市などと言われているが、標高だけを比べてみれば2400メートルで、クスコよりもだいぶ低いのだ。

 2時間ほどで列車は山間の町アグアス・カリエンテスに到着。駅を出て、土産物屋が並ぶ通り(というより、貨物列車の通る線路の両脇に所狭しと土産物屋が立ち並んでいる)を歩き、川沿いの道をしばらく降りていった町の外れに、マチュピチュ行きのバス乗り場がある。町はなんだか日本の温泉街のようなにぎわいで、周りを取り囲む険しい山々を見上げてみたが、マチュピチュの姿など少しも見えない。とてもかの神秘の空中都市の入り口とは思えない雰囲気である。
 ここから観光バスに乗り、400メートルほどの高さを一気に上がる。つづら折りの道(舗装もされておらずガードレールもほとんどないので崖下に落ちたらおしまいである)でカーブを切ること10数回。20分ほど上ると、ついに行く手に憧れのマチュピチュが見えてきた!
 入場口を入り、早く空中都市の内部に入りたい気持ちを抑えつつ左手の階段をしばらく上るとたどりつくのが、マチュピチュ全体を見下ろすことができるスポット。おなじみのマチュピチュの写真はだいたいここから撮られるというベストアングルである。当然私も写真を撮る。ここからマチュピチュを見下ろすと、写真で憧れていたあの場所に実際に来ているのだという感動が体の底から湧いてくる……のだけど、思い描いていた神秘性がそれほど感じられないのは、日射しがぎらぎらと照りつけている上、そこかしこに観光客がうじゃうじゃといるからか。なんか隣では座り込んだおばさんが「中を歩くよりここから見た方がええなあ」などと大阪弁でぼやいてるし。だいたい本などに載っている写真は早朝に撮るためか光線は淡く、しかも観光客は写っていないことが多いが、実際のマチュピチュは世界中から見物客が集まる超有名観光地なのですね。まあ同じ観光客の分際で文句を言える筋合いじゃございませんが。
 ちなみに写真で背後に見える切り立った山(高い方)がワイナピチュという山である。傾斜が急で並大抵のことでは登れなさそうに見えるが、実は1時間ちょっとで登れる山で、私たちも翌日登ることになる(体力のない我々は半分死にそうになったが)。
 それから3時間ほどかけて太陽の神殿、コンドルの神殿、太陽の門など有名スポットを見学して回る。マチュピチュはまがりなりにもひとつの都市であり、意外に広いのだ。マチュピチュの民は山を神聖視していたらしく、山の方向に向けて置かれた祭壇と思われる石が多い。小高い丘の上には高さ1.8メートルのインティワタナ(太陽を縛る、という意味。突き出た角柱は正確に東西南北をさしており、日時計だと言われているらしい)と呼ばれる巨石が置かれており、観光客たちが手をかざしておりました。なんでも石のパワー(もしくは石に降り注ぐ宇宙パワー)を感じようとしているらしいです。そういやイギリスのストーンヘンジにも似たような連中がいたな。
 インティワタナのところから下を見下ろすと、何百メートルも下まで崖が続いており、少しでも足を滑らせたらひとたまりもなさそうである。遥か眼下の谷底にはウルバンバ川がとうとうと流れている。確かにここはクスコよりも標高は低いとはいえ山上の秘密都市であり、いったいなぜこんなところに都市を築いたのかと思うしかない。ガイドのフェリペさんは農業や天文学などさまざまな学問を修める場だったのではないか、という仮説を述べていたが、実際のところはよくわからないらしい。

 昼食は、マチュピチュの目の前にあるホテル、サンクチュアリ・ロッジのレストランでビュッフェ。このホテル、マチュピチュの正面に位置するたった一件のホテルであり、マチュピチュで昼食がとれるのもここだけ(マチュピチュ内は食事持ち込み禁止である)。バスで20分かかるアグアス・カリエンテスにならホテルもレストランも山ほどあるのだけれど、マチュピチュで泊まったり食事をしたりしようと思ったらこのホテルに来るしかないのである。だからもう一社独占状態。どんな値段でもつけ放題である。なんでも部屋は日本のビジネスホテルクラスなのだけれど、ハイシーズンには1泊300ドル以上取るとか。まあ、早朝の誰もいないマチュピチュを体験するにはここに泊まるしかない(マチュピチュ開場は6時、そしてふもとのアグアス・カリエンテスからのバスの始発は6時半なのだ)ので、私も心惹かれないでもなかったのだけれど、いくらなんでも高い。しかもちょっと旅行会社に訊いてみたところ、クスコでは同じ会社の経営する五つ星ホテル、ホテル・モナステリオに宿泊しないと泊まれないとか言われましたよ? 抱き合わせ販売ですか?(まあもともとモナステリオに泊まる予定だったのでこれはいいのだけれど) まあ、さすがオリエント・エクスプレス・グループが経営するホテルだけあって食事はおいしゅうございましたが。

 さて食事を終えてバスで戻ってきたアグアス・カリエンテスの町は、深い谷底に位置する山間の町である。坂道の両脇には観光客向けのレストランや安宿が並び、道ばたには土産物屋の露店と、なんだか日本の温泉街のような様相を呈している。それもそのはず、アグアス・カリエンテスとはスペイン語で「熱い水」、すなわち温泉という意味。つまり、ここは文字通りの温泉街なのである。バス乗り場がいちばん下にあるとすれば、坂を登ること約10分、坂のてっぺんまで登った町はずれにあるのが温泉の入り口。そこで一人5ソルの入浴料を払ってチケットを受け取り、さらに川沿いの遊歩道をしばらく歩くと温泉である。気分は山奥の露天風呂。ただし水着着用が必要だけれど。
 泉質はよくわからないもののお湯は濁っていて、地元の子供たちが入っているほか、アメリカ人らしい観光客が酒を飲みながら湯につかって騒いでいる。服は受付で預かってもらうこともできるが、みんな適当にそこらへんに脱いでいる。脱衣所はトイレと同じ建物なのでなんだか臭くて閉口する。入ってみると、日本の温泉に比べて妙にぬるい。湯船(?)は妙に深くて、少しかがんでようやく肩までつかるくらい。しかも底は砂利である。あんまり疲れがとれるという感じでもないので、我々は早々に上がってきてしまいました。素肌に風が冷たい。

 夕食はメインストリートからちょっと入ったところにあるインディオ・フェリスという店。フランス風にアレンジしたペルー料理の店で、「地球の歩き方」によれば、「開業以来3年連続でアグアス・カリエンテスのベストレストラン賞を受賞している」店だとか。店内の柱には世界中から来たお客さんの名刺がびっしりと貼ってあった。私はレモンバジル味の鱒を食べたのだけれど、確かに美味。考えてみれば、この料理がこの旅でいちばんおいしいペルー料理の食事だったような気がする。
 今日の宿は、バスの発着場にほど近い、ウルバンバ川沿いに建てられたハッチャイ・タワーというホテル。なんか黄色くて趣味の悪い建物である。なんでまたタワーなのかというと、5階建てでエレベータまでついているのですよ! これはもうアグアス・カリエンテスの基準ではタワーというしかないでしょう。部屋にはなんとバスタブまでついている(シャワーのみというホテルも多いのだ)のだけれど、お湯を出してしばらくしたら水になりましたよ。寒いです。どうも風呂を使う人が多い夜はお湯が出にくくなるようで、早朝に再度挑戦したら無事出ましたが。

2003年9月22日(月)

 今日も起床は5時半。
 起きてみると、首筋や耳の上の部分、鼻の頭が真っ赤になっている。きのうついつい日焼け止めを塗り忘れてしまったためである。さすがに高地の紫外線はあなどれない。
 ホテルでビュッフェ形式の朝食をとり、すぐ前の露店でミネラルウォーターを買う。ペルーで一般的なのはサン・アントニオというブランドのミネラルウォーターで、露店でも売ってるし、気の利いたホテルなら部屋に無料で置かれている(つまりは昨日泊まったのは気の利いたホテルじゃない、ということだ)。露店ではコカコーラやスプライト、そしてペルー名物インカコーラなどの炭酸飲料もよく売られているのだけれど、当然ながら冷やされていることはめったにない。冷えてない炭酸飲料なぞ私としては飲む気がしないのだけれど、こちらの人はあんまり気にしないようである。
 6時半のバスでマチュピチュまで上がると、すでに観光客がいっぱい。観光客の少ない神秘的なマチュピチュの姿は、とうとうおがめなかった。やっぱり高い金を惜しまずサンクチュアリ・ロッジに泊まっときゃよかったか。
 涼しいうちに山に登ってしまおうと、今日はマチュピチュに入るやいなや、まっすぐにワイナピチュ登山口に向かう。ワイナピチュというのは、マチュピチュ(老いた峰)に対して若い峰という意味。マチュピチュの遺跡は、マチュピチュとワイナピチュという二つの峰の間に位置しているのである。なんで若い峰という名前がついたのかは知らないのだけれど、確かになだらかな山容のマチュピチュに比べ、切り立った断崖のワイナピチュは若そうに見える。しかもその断崖の遥か上の方にまでインカ時代の段々畑や石組みの小屋の遺跡が見えるから驚きだ。
 入り口の管理小屋で名前と入山時間をノートに記入していよいよ登山開始。まずは少し下ったあと、狭い石段を登る。途中死にそうになりながらも、這うようにして登る。ところどころ危険な箇所にはロープが張られているので、それを命綱にしてとにかく一気に登る(嘘です。途中へばって何回か休みました)。いったいなんのためにこんなところに築いたのかさっぱりわからない段々畑と石の小屋を過ぎれば、頂上まではあと少し。最後はロープを頼りに巨石の上をよじ登り、1時間15分ほどかかってようやく登頂に成功。
 狭い頂上には巨石がごろごろと転がっていて、雲の下にはマチュピチュの遺跡が見える。ここから見下ろすマチュピチュはまさに天上の空中都市。遠いので観光客の姿もほとんど見えないしね。反対側を見下ろすと、遥か崖下に糸のように細いウルバンバ川が流れているのが見えた。
 落ちないように慎重に山を降り、管理小屋のノートに再びサインしたときには3時間ほどが経過していた。だいたい普通は2時間ほどで往復できるらしいので、かなりゆっくりのペースだったことになる。そういや大勢の人に追い抜かされたっけ。
 しばらく休んだあと、「インカの橋」へ行ってみることにする。マチュピチュの市街を横断し、太陽の門を抜けて、懐かしの百葉箱(マチュピチュで百葉箱の姿を見るとは!)の脇を通り、山の斜面に作られたインカ道(右側は崖になっているけれど、ところどころでは落ちないようにちゃんと壁状に石が積まれている)を歩くこと20分。行き止まりになった道の正面、白い絶壁に架けられているのが「インカの橋」。断崖絶壁から突き出すように石が積まれ、その上に丸太を3本渡しただけの橋である。写真ではものすごさがうまく伝わってこないが、この遥か上の方まで絶壁が続いていると思いねえ。昔は橋の近くまで行けたらしいけれど、今は崖が崩れて行けなくなったらしいとか。まあ行けたとしてもとても渡ってみる気にはなりませんが。
 来た道を引き返し、マチュピチュを見下ろす段々畑の草の上に横になる。聞こえるのは風のそよぐ音と鳥の声。空を見上げると、日本では見かけない種類のツバメやハチドリが飛んでいる。気持ちがよくて時のたつのを忘れそうだ。しかし、今日はクスコに戻るのでそうそうゆっくりしてもいられない。まだまだ見足りない思いを抱えつつも、1時くらいにアグアス・カリエンテス行きのバスに乗り込んだ。
 実は、マチュピチュでもうひとつ楽しみにしていたものがある。「グッバイボーイ」である。グッバイボーイというのは、帰りのバスがつづら折りの道のカーブを曲がるたびに近道を駆け下りて現れ、「グッバ〜〜〜イ」と手を振る民族衣装に身を包んだ少年のこと。スペイン語で「アディオス」じゃなく英語で「グッバイ」なのがなんともあざといではないですか。マチュピチュといえばグッバイボーイ、というくらいあちこちの雑誌やサイトで紹介されて有名な存在である。当然グッバイボーイは手を振るだけではなく、バスがいちばん下までたどりつくとバスに乗り込んで来て、チップをねだるのである。つまりはそういう商売なのですね。
 私はこのグッバイボーイに逢えることを楽しみにしていたのだけれど、残念ながら2日とも結局現れずじまい。ガイドのフェリペさんに訊くと、グッバイボーイは学校に行くよう指導され、しばらく前からいなくなってしまったのだという。確かに学校行かずにグッバイやって小銭を稼いでるのは問題だけど、マチュピチュ名物が消えてしまったのはいささか残念。
 昼食は、ウルバンバ川を見下ろすトトズ・ハウスというレストラン。またもビュッフェ形式である。ま、好きなだけ食べられるからいいんだけどさ。店内では、元気がいいだけが取り柄のようなフォルクローレ・グループが演奏をしていた。何をとち狂ったのかこのグループのCD買っちまったよ。

 クスコ行きの列車がアグアス・カリエンテスを出たのは15時半。クスコまでは4時間ほどの道のりなのだが、軽食や飲み物のサービスがあるし、なんだかよくわからないキャラクター(なんでもペルーのお祭りの扮装らしいです)が登場するアトラクションがあったり、男女乗務員がアルパカセーターを着て登場するファッションショーがあったり(もちろんそのあと車内販売でセーターを売るのである)と、さすがは観光列車。JRもこれくらいのサービスしてほしいと思ったものである。しかし、ファッションショーのあと、乗務員が、途中のポロイという町で降りてバスに乗った方が早いよん、というチラシを配りに来たのはどうかと思います。鉄道の誇りはないんですかあなたがた。
 というわけで、乗務員のお言葉に甘えてポロイで降りて車でクスコへ。7時過ぎともなるとすでにすっかり日は落ちて、街外れでは街灯などほとんどない真の闇である。クスコへ向かう峠からは、美しいクスコの夜景が望める。昼間のクスコは赤茶色の屋根の連なる街だけれど、夜はまるでガーネットをちりばめたようなオレンジ色の美しい光景である。
 クスコに戻り、夕食はドン・アントニオという店。またビュッフェだよおい。今日は3食ビュッフェだ。どうやら日本人の団体観光客はほとんどがこの店につれてこられるらしく、店内は日本人でいっぱい。ここでは民族舞踏とフォルクローレのショーを見ることができる。さすが古都クスコだけあって、フォルクローレは田舎町アグアス・カリエンテスより遙かにハイレベル。昼間のグループのCDを買ってしまったことを激しく後悔する。ええ、またこっちのグループのCDも買ってしまいましたとも。
 さて今日の宿はクスコでいちばんだという五つ星ホテル、ホテル・モナステリオ。1ヶ所くらいは豪華なホテルに泊まってみたいと思って決めたのがここである。古い神学校兼修道院を改装したホテルで、いかにも南米らしい装飾過剰とも思える礼拝堂が付設されているし、室内や廊下などの壁のあちこちにはどことなくエキゾチックな、これまた南米ならではの宗教画が飾られており、さながらホテル全体が美術館のような状態。確かにやや高い(とはいえ日本の高級ホテルに比べればはるかに安い)のだけれど、泊まる価値は十分にあるホテルといえよう。ちなみに、このホテル、現在のオリエント急行を経営しているのと同じ会社の経営なのですね(前にも書いたけれど、マチュピチュ・サンクチュアリ・ロッジも同じ)。

2003年9月23日(火)

 6時起床。これも高山病の症状なのか、よく眠れず、2、3時間おきに目が覚める。頭が痛い。ただ、毎日がぶ飲みしているコカ茶が効いたのか、ひどい高山病の症状には至っていないようで一安心である。ただし、明日からのプーノはさらに標高が高いのでまだ安心はできないのだが。
 午前中はまずクスコ周辺のインカ遺跡を見に行く。まずは市内のコリカンチャ(太陽の神殿)へ。神殿、とはいってもスペイン人が上部を破壊してしまい、その上にサント・ドミンゴ教会を建てたので、残っているのは基礎の石組み部分だけ。なんでもかつて神殿の壁は金の板で覆われていたとかいう話だが、当然ながらすべてスペイン人が奪い取ってしまい、今では金のかけらすら残っていない。
 教会の前には仔犬を抱いた民族衣装の男の子が座っている。ズボンには穴が開いており、かなり着古した様子である。ペルーの観光地には、だいたい彼らのような民族衣装の子供がいる。観光客と一緒に写真に写ってチップをねだるのが彼らの仕事なのだ。グッバイボーイはダメでも彼らはいいんかい、とか疑問はあるのだけれど、私も一人に1ソル(日本円にして33円くらい)ずつ渡して写真を撮り、彼らの商売に荷担してしまいました。

 続いてクスコ郊外のサクサイワマンへ。ここもまた、オリャンタイタンボと同じく、スペイン軍に抵抗した皇帝マンコ・インカが2万の兵士とともに立てこもった城塞である。城塞は巨石同士がぴったりと組まれていて、全体としては雷のようなギザギザの形をしている。なんでもインカ時代のクスコの町全体を上から見下ろすとピューマの形をしていて、ここはその頭にあたるのだとか。その形から、ここは単なる要塞ではなく、雷の神の神殿があったという説もあるとか。確かに小高い丘の上にあり、雨期には雷がよく落ちそうな場所ではあるし、何百トンもあろうかという数メートルの高さの巨石がぴったりと組まれた石組みは、単なる城塞のために作られたとは考えにくいものがある。また、かつては三層の城塞の上には円形の塔が建っていたらしいが、これもスペイン人に壊されてしまったとか。まったくなんでも破壊しますな、スペイン人。
 上の写真にも犬が写っているのだけれど、だいたいペルーには野良犬が多い。どこの遺跡に行っても必ず1、2匹は犬がいるし、町中にもそこかしこに犬がいる。しかも、その犬たちは屋台の下に寝そべっていたり、市場の近くをうろついていたりと、バリ島で見た、やせ衰えて皮膚病だらけの犬に比べると、だいぶ恵まれている様子である。そうした余裕は態度にもあらわれていて、そこらを歩き回っている犬であってもたいがい気だてがよく、噛んだり吠えたりしない犬が多いようである。ペルーの犬は、なんだか幸せそうだ。まあ、道路を歩き回っているということは、車に轢かれて死んでしまう不幸な犬も少なくないだろうことは容易に推察できるのだけれど。

 さて今日は朝から曇り空だったのだけれど、サクサイワマンのあたりから、ぽつりぽつりと雨が降ってきて、次の遺跡ケンコーに着いた頃にはどしゃぶりに。ここはインカ時代の祭礼場だったと言われる遺跡で、大地母神を祀ったと思われる半地下の洞窟の中には、生け贄を捧げたと思われる祭壇が残っている。周囲を取り巻く壁がんにはミイラが飾られていたとか。
 雨がひどいのでケンコーは早々に引き上げて(だから写真も一枚もありません)、車は赤い要塞プカ・プカラと水の神殿タンボマチャイへ。このあたりに来たときには、幸い雨も小降りになってきた。タンボマチャイはインカ時代の沐浴場であったとも言われている場所で、水源不明の泉からは今でも豊かな水が流れている。
 さてクスコ周辺の遺跡観光はこれでおしまい。長方形ではなく台形の入り口や窓、ぴったりと組まれた石組みなど、インカの建築物には共通する特徴がありますね。何のために造られたかはっきりわからない建物が多いのは、インカ帝国は文字記録を持たなかったから。だからスペイン人に滅ぼされて担い手がいなくなったとき、用途も永遠にわからなくなってしまったのである。ただし、遺跡とはいっても別にこれは古代遺跡ではないし、そういってしまえばインカの建造物は何一つ古代遺跡ではない。だって造られたのは15世紀頃。日本でいえば室町時代の建物を古代遺跡とはあまり言わないだろう。それでも発展の途上で暴力的に終了させられた文明の足跡は、私たちに何か鈍い痛みのようなものを感じさせてくれるのである。

 昼食前にいったんホテルに戻ったのだけれど、ホテルを出たあたりで靴磨きの少年が寄ってきた。私たちの靴はどっちも本革じゃないので別に磨いてもらう必要はないのだけれど、妻は汚れた靴を気にしてか、磨いてもらうといってきかない。立ち止まっているうちに背中の荷物から金品を奪われるという手口だってあるわけで、道端で突っ立っているというのは危険きわまりない行為だと思うのだけど。そうこうしているうちにアクセサリー売りだのつたない絵を売る少年だの、何人もの子供たちが私たちの周りに集まってきた。私たちを日本人と見て、ある子供が「ポケモン、ドラゴンボール、カメハメハー」と叫んだ。それしか日本語知らんのかい。しかも靴磨きの少年、最初は1ソルでいいといいながら、途中でスペシャルな薬剤を使うのだとかなんとか言い訳しつつ、やたらと時間をかけて磨いたあげく、最後には20ソルも要求するではないか。あきらかに暴利である。そんなこともあって、すっかり妻とはけんかになってしまった。
 冷え切った雰囲気のまま、昼食を食べに行く。アルマス広場(クスコに限らず、ペルーではどんな小さな街にも必ず「アルマス広場」という名前の広場がある)の近くにあるプカラというレストランで、久々の、ビュッフェではない食事である。ここの経営者は鈴木さんという日本人らしい。私はハーブチキンのライス添え、妻はアンティクーチョ(牛肉のハツの串焼き)のセットを頼む。どちらもかなりのボリュームである。
 ペルーの人もお米はよく食べるらしく、これまで食べたレストランでもよく出てきたのだけれど、日本とは違ってどこでもライスはパサパサ。だけど、ここプカラで初めて出てきたのが、水っぽくてねちゃねちゃした懐かしき日本風のライス。これは日本人経営だからなのかな?

 続いて、アルマス広場に面したカテドラルへ。カテドラルの中は、昨日見たホテル・モナステリオの礼拝堂を百倍濃縮したような、圧倒されるような空間だった。教会内部を覆うごてごてした装飾は金ぴかで鏡張り。褐色の肌をした聖人像が壁を飾り、キリスト像は肋骨まで見えるほどやせ衰え、体中の傷から真っ赤な血を流しているおどろおどろしい姿。裾の広がったケープを身に纏ったマリア像は、まるで山を模したような三角形をしており、インカの大地母神パチャママとの混淆をうかがわせる。正面の祭壇のいちばん目立つ位置に据えられているのも、鮮やかなケープを纏った山型のマリア像で、キリストではない。何やら蝋人形館のようで、悪趣味といえば悪趣味、猥雑といえば猥雑なのだけれど、まさに南米ならではのキリスト教。なるほど、これがウルトラバロックなのか。カテドラル内は写真撮影禁止だったのが残念。
 それからは十二角の石(インカ時代の石組みの間にあるちょいと複雑な形をした石。なんでこの石だけ有名なのかよくわかりません。クスコではあちこちにインカ時代の石組みが残っているので、それほど特別なものではないのだ)を見たり、インカ時代の雰囲気の残るロレト通りを歩いたり、インカ博物館へ行ったり、ホテルのそばにあったプレコロンビアン・アート博物館なる異様に入場料の高い博物館に入ってみたり、アルパカセーター屋を冷やかしたりしたのだけれど、特記すべきこともなし。
 夕食はアルマス広場に面したインカ・グリルなる店で。アルマス広場周辺ばかりうろうろしているようだが、クスコでは土産物屋やレストラン、ホテルなどはだいたいアルマス広場周辺に集中しているので、観光客はアルマス広場あたりにいればたいがいのことは事足りてしまうのである。逆に言えば、アルマス広場から離れると急激に治安が悪くなり、あまり一人歩きをしないほうがいいということになる。インカ・グリルではアルパカのステーキというものを食べてみたが、硬くてそれほどおいしいものではなく、付け合わせもなんだかじゃりじゃりしていた。

2003年9月24日(水)

 4時に起きた。
 今日は本来は7時にクスコを出発してティティカカ湖沿いの町プーノに向かう予定だったのだが、実は昨日の夜ガイドのフェリペさんから電話がかかってきていたのである。なんでも明日はペルー全土で農業関係者のストライキがあり、特にプーノ周辺は交通がマヒしてしまい、明日予定されているウロス島観光はおろか、空港にたどり着くことすらできなくなる可能性があるという(明日、飛行機でリマに戻る予定なのである)。そこで、明日観光する予定のところまで今日のうちに回ってしまい、今日は空港にほど近いフリアカという町のホテルに泊まった方が得策だというのだ。
 そういうわけで朝食も食べずに5時にクスコを出発(ホテル側には、朝食の代わりに、サンドイッチや果物の入ったランチボックスを作ってもらった)。まだ薄暗いクスコ市街を抜けて、車は標高3000メートルを超える高地をひた走る。
 クスコ郊外のオロペサという小さな町でガイドのフェリペさんがパンを買った。直径30センチはあろうかという大きなパンである。ここは小さな町ながら20軒ものパン屋が軒を連ねるパンの町だそうである。少し食べてみたが、ほのかな甘みがあってなかなかおいしい。ガイドさんの朝ご飯だろうかと思っていたが、別に食べる様子もなく車の後ろにしまったまま。このパンを何のために買ったのかは午後のウロス島で明らかになることになる。
 やがて、運転手さんとガイドさんは眠気覚ましだといってコカの葉を噛み始めた。コカの葉を噛むと口の中がしびれるような感じになり、眠気覚ましになるのだという。ちなみにコカインというのは大量の葉を精製して作る物であり、この程度の量では麻薬効果はありません。
 郊外に出るとあたりには畑や草原が広がり、ところどころに赤茶けた日干し煉瓦の建物が点々とする荒涼とした風景。建物には、おなじみインカコーラやコーラリアルなる飲み物の看板や、何やらよくわからないインディアンの横顔が描かれているものが多い。あのインディアンは何かと訪ねると、選挙の候補者の宣伝だとのこと。なるほど選挙ポスター代わりの絵が、今もまだ消されることなく残っているものらしい。さらにはペルーではナスカ以来の伝統なのか、大胆にも山肌に巨大な数字やら文字やらが描かれているのをよく見かけた。これも選挙の宣伝や学校の番号が多いそうな(ペルーでは、第○○○専門学校というように全国の学校には番号が振られているとのこと)。しかし、いったいなぜ学校の番号なぞを山に書かなければならないのかは不明だ。
 やがて到着したのは、クスコとプーノの中間点あたりにあるラクチという遺跡。時間はまだ7時半くらいである。遺跡の中心にあるのは、高さ20メートルほどの壁。今は中央の壁しか残っていないが、かつては太い柱が何本も立ち並ぶ巨大な神殿だったという。周辺には穀物倉庫や住居の跡、聖なる泉も残っている。遺跡周囲には水鳥の泳ぐ鏡のような池があり、池の縁では羊が草を食んでいる。のどかな朝の田園風景だ。
 遺跡の近くの村には小さな教会があり、広場ではインディヘナのおばさんが野菜を商い、地元の人たちが集まっていた。写真でも見えるけれど、シルクハットのような四角い帽子に鮮やかな色の風呂敷包みがアンデスのおばさんのスタイルである。
 車は広大なアルティプラーノ(高地)の大地をひた走る。標高が上がるにつれ家や畑は減り、ところどころに放牧されたアルパカの群れが見える草原が続く風景に。雪をかぶった山も見えてくる。しかし、そんなところにすら風呂敷をかついで道路際をとぼとぼと歩いているおばさんの姿が見えるのは驚異である。見渡す限り家なんてひとつも見あたらないというのに、いったい何をしに、どこへ行こうというんだろうか。
 車はやがて最高点のラ・ラヤ峠に到着。標高は4335メートル。富士山よりも遙かに高い地点である。地面はわずかに雪に覆われ、あたり一面雪景色。少し歩いただけで心臓がドキドキと打ち、空気が薄いのが実感できる。こんなところにまで土産物売りの露店が出ているのはさすがペルー人のたくましさといえよう。
 道はどこまでもまっすぐ続く。車はプカラという町を通過した。ここの名産は陶器。ペルーでは、屋根の上に小さな十字架と2匹の牛の置物が置かれた家が多いのだけれど、その牛の置物を作っているのがこの町なのだという。なんでも陶器の牛は繁栄を意味する縁起物なのだとか。
 クスコを出て6時間近く。車はフリアカという町に入った。かなり大きな町のようだが、道路はお世辞にもいいとは言えず、舗装されていない道に水がたまって川のようになっていたり、舗装されていても大きな穴が開いていたりという状態。そんな道の両脇に炭酸飲料や果物などを売る露店が軒を連ねており、自転車を改造した三輪タクシーが大量に走っている。理の当然として道路は大渋滞。この町が今晩の宿泊地になるのだけれど、確かにどうみても観光地とはいえない。果たしてまともなホテルがあるのだろうか。なんとも不安になってきた私である。
 フリアカ市街を抜け、車が向かったのはシユスタニという遺跡である。シユスタニは、ウマヨ湖という湖のほとりにあるプレインカ時代からインカ時代にかけての墳墓で、最も大きいもので高さ12メートルはある円柱型をした石塔が広い平原に点在する。石塔のある高台に登ると、空が広くて気持ちがいい。360度どちらを見ても、遥か彼方まで雲が連なっているのが見える。日本ではとても見ることのできない雄大な風景である。
 遺跡の前にはビクーニャを連れたおばさんがいた。ビクーニャは、アルパカやリャマと同じくラクダ科の動物だが、乱獲により極めて数が少なくなっているという。

 車はプーノへ。標高3855メートル、富士山よりも高い標高の、ティティカカ湖畔の町である。古い歴史を持つだけあって、新興の町フリアカに比べるとすっきりした印象の町だ。時刻は1時近く。これから本来なら明日行くはずだった、ティティカカ湖に浮かぶウロス島へとモーターボートで向かう。昼ご飯はきのう昼食を食べたレストラン、プカラで作ってくれたおにぎりのお弁当である。これがけっこうおいしい。
 ウロス島は、トトラと呼ばれる葦を積み重ねて作られた浮き島である。「ウロス島」といっても、別にそういう名前の島があるわけではなく、いくつもある島の総称である(ウル族の住む島だからウロス島なのである)。大小40近くもある浮島の上に併せて700人近くが生活しており、大きな島には教会や学校まである。プーノの桟橋からティティカカ湖を行くこと約30分。おそるおそる島に下りてみると少し沈み込むような感じはするが、別に水がしみ出てくるようなこともなく、かなりしっかりしている。ウロス島の主な産業はもちろん観光で、女たちが島の生活を刺繍したクッションカバーやミニチュアのトトラ舟などの土産物を並べていた。
 ここウロス島では、家も舟もすべてが(一部木でできているものもあるが)トトラという葦製。ただし文明からまったく隔絶しているというわけではなく、家にはソーラーパネルがついていて(写真でも小さく写ってます)、テレビだって見られるのだという。
 一人につき1ドルを払って地元のおばさんの漕ぐトトラ舟に乗り、学校のある島に渡ると、地元の子供たちがいっぱい(ここでガイドのフェリペさんは、オロペサで買ったパンを子供たちにあげておりました。パンは子供たちへのおみやげだったのだ)。ウロス島の子供たちの間で人気のあるスポーツはバレーボールだという。確かに足場の悪い葦の島ではサッカーは難しいだろうし、バレーボールがいちばんよさそうである。遊んでいるうちに湖に落ちたりすることはないのかなあ、と思っていたら……湖に落ちた女の子発見。なんか楽しそうにバタバタと泳いでおりましたが、岸は葦なので上がりにくそう。実際なかなか湖から上がれない様子でありました。楽しそうだったけど。
 島の隅で、男性が一生懸命石臼で何かを作っていた。何か食べ物でも作っているのかと思ったが、臼で挽いている粉は真っ黒。訊いてみると、挽いているのは炭で、これを使ってダイナマイトを作るのだとか。ダイナマイトは何に使うのかといえば、魚を捕るために使うのだという。なるほど、このへんではそういう漁法を使っているのか。
 ウロス島を出る頃になると、空はにわかにかき曇り、瞬く間に雨が降ってきた。このあたりでは、日射しはぎらぎらとあくまで明るく、降るとなると雨は一気に降り始める。ここでは晴れと雨の境界がはっきりしていて、中間というものがない。何もかもがうすぼんやりとしてあいまいな日本とは、あまりにも違う環境である。やはりここまで風土が違えば、人間の気性も違ってきて当然のような気がする。
 雨のプーノを出て、45分ほどでフリアカへ。フリアカはすでにさっきの雨が嘘のようにからりと晴れている。先にも書いたとおり、本来今日の宿はプーノの予定だったのだけれど、ストのためプーノに泊まることはできず、フリアカののドン・カルロスというホテルに泊まることになったのだ。「フリアカでいちばんいいホテル」だとフェリペさんはいうのだが、食堂には一人しかウェイターがいないわ、売店はセンスの悪い服ばっかり並んでいる上に電気が消えていて店員は誰もいないわ、なんだか場末のさびれた温泉旅館のような宿である。
 本来ならドライバー氏も明日まで同行する予定だったのだが、ストの明日はクスコに帰れるかどうかわからないということで、今日でお別れとなりクスコへ帰ってしまった。明日はタクシーで空港まで行かなければならないらしい。
 写真はホテルの前の風景。実に殺風景である。道路を人力タクシーが走り、正面には柔道(でも、跳び蹴りしてるんですが)のような謎のスポーツの絵が描かれた塀。空に向かって鉄骨が伸びているのは、別に建設中のビルではなく普通の家である。ペルーでは、家を建てるとき最初から全部完成させず、あとで継ぎ足すときのために鉄骨を伸ばしたままにしておくことが多いようなのである。雨が降って錆びたりしないんだろうか。
 ホテルの部屋の窓から見えるのは、瓦礫の山だらけの裏庭。部屋の暖房設備は、小さな電熱ストーブがひとつあるきりで、予備の毛布一つありゃしない(このあたりは標高が高いため、昼間は日射しが暑いくらいでも、夜は0度近くまで冷え込むのである)。
 当然ながら、夕食もプーノで食べることはできず(まがりなりにも観光地であるプーノならおいしいレストランがあったんだろうけど)、ホテルの食堂でぽつんとそれほどうまくもない魚料理を食べていると、私たちと同じようにプーノを避けてきたのか、年配者ばかりの日本人団体旅行客がやってきた。「上座はこっちかしら」などと南米でまで席順を気にしているあたりが、いかにも日本人らしいなあと思ったことである。
 そうこうしているうちに、フリアカの寒い夜は更けていったのであった。

2003年9月25日(木)

 今日は特にやることもないので9時起き。とはいうものの、2、3時間おきに目が覚めるので、9時まで寝ているというのも一苦労である。起きてみると頭が痛いし顔がほてっている。なんだか顔が丸くふくれあがっているような感じである。日焼けのせいなのか、これも高山病の症状なのか。
 朝食はホテルの食堂でスクランブルエッグを食べる。フリアカは別に観光地でもなんでもなく、観光客向けの見所も何もない街である。新しい町だから古い教会もなく、コロニアルな町並みなんていう気の利いたものもない。だからといって飛行機の時間まで何もせずにホテルにいるというのもつまらないので、フリアカの街をぶらぶらと歩くことにする。ただ、想像される通り、フリアカの街は治安がよくないらしいなのがいささか不安なのだが。
 まず、ホテルの前から歩いて鉄道の駅前広場に向かい、そこからアルマス広場まで歩く。道端には果物をしぼって作るジュースや、なにか鶏肉を入れたおかゆのような食べ物を売っている屋台が出ていて地元の人たちが集まっていたけれど、私にはとても食べてみる自信はありません。そこからさらにアルマス広場まで歩く。広場に面したカテドラルにも入ってみたのだけれど、クスコとは違い、観光とは無縁の地元の人のための教会であり、異教徒である私たちはいたたまれないような雰囲気であった。写真はカテドラルの外壁に掲げられた十字架。緑色の十字架にはキリストの顔と釘打たれた手足の絵だけが貼られており、なぜだか太陽やらはしごやら植木鉢までが飾り付けられているというセンスがいかにもペルーである。
 フリアカの町を走り回っているのが、自転車を改造して三輪車にし、前に客席をつけた人力タクシー。この人力タクシー、実は最初見たときから一度乗ってみたいと思っていたのだけれど、ついに念願かなって乗ることになった。アルマス広場から自転車タクシーに乗って、コントラバンド(闇市)へ。自転車タクシーは、町中ならどこへ行くのも1ソルである。道はいちおう舗装されてはいるものの、ところどころにぼこぼこと穴があいており、運転手は左右にハンドルを切り、穴を器用によけながら走っていく。車はがたがたと揺れて乗り心地はお世辞にもいいとはいえないし、車の後ろを走った日には真っ黒な排気ガスを浴びせかけられることになるのだけれど、風を切って進む感覚はなかなか快適である。
 コントラバンドは、無数の露店の集積である。大量の靴が並んだ一角があったり、違法コピーソフトのCD-Rが堂々と売られていたり、日本じゃほとんど見かけなくなったシンガーのミシンが現役で並んでいたりする。「闇市」という名前から期待したほど怪しげではなかったが、パソコンやゲーム機から食器まで、ありとあらゆるものが売られているのだった。
 昼前にホテルに戻って食事をとる。ついに三食をこのわびしいホテルの食堂で食べることになってしまった。しかも毎回給仕をするのは同じウェイターだ。食べたのはなんだか単調な味付けのビーフステーキに大量のフライドポテトの付け合わせ。
 しかし今日はストライキで、ガイドのフェリペさんによれば、プーノあたりでは実際路上に石が並べられたりしているそうなのだが、フリアカの町中ではまったくそんな様子は見られなかった。結局この日一日ストらしい場面に遭遇したことは一度もなかったのだけれど、ほんとにストだったのだろうか。泊まろうと思えばプーノに泊まれたんとちゃうか、そしてもっとうまい食事を食べられたんとちゃうか、と少し疑問を感じた我々である。

 フリアカ空港は、正式名称をマンコ・カパック国際空港という。マンコ・カパックというのは、ティティカカ湖から降臨したといわれる伝説上のインカ帝国初代皇帝の名前。実際はX線装置も壊れていて動かないような、ごくごく小さな地方空港なのだけれど、名前だけはなかなか大きく出たものである。この空港でフェリペさんとはお別れ。ちょっと風邪気味のフェリペさんは明日からまた別のグループのガイドをする予定だそうだが、ストのため今日はクスコまでの交通機関がなく、今日中に帰れるかどうかわからないとのこと。果たして無事帰れたのだろうか。心配である。
 15時5分フリアカ発のラン・ペルー機にてリマへ。なんだか若い女の子ばかり10人ほどの日本人ツアー客と一緒になる。だいたい日本人の回るコースは同じらしく、翌日のナスカ行きでも、彼女たちと出くわすことになった。
 飛行機はいったんアキレパを経由してリマへ。窓から見下ろすのは、一本の木も生えていない不毛な山岳地帯の光景。山は水の流れに削り取られてしわだらけ。なんだか地学の教科書に出てきそうな光景である。ここペルーでは人の手が加わっていない地形がふんだんにあるので、たとえば蛇行する川の流れや地層にしても実に教科書的で、こういう大陸なら地学の知識も簡単に実感できそうである。日本だと木が生い茂っていたり人の手が加わっていたりして、地学を実感するのも一苦労だ。
 首都リマは人口750万、ペルーの人口のほぼ1/3近くを抱える大都市である。リマで出迎えてくれたのは、初日と同じペンション・カントゥータの息子さんダイキ君。からりと晴れていたフリアカとはうってかわって、リマはどんよりとした曇り空。日本だと今にもどしゃぶりの雨が降ってきそうな天気なのだけれど、リマではいくら曇っても霧雨程度しか雨が降らず、どんよりとした天気がずっと続くのだという。道路は大渋滞で、交差点では婦人警官が必死に交通整理をしている(なぜか交通整理をしているのは必ず婦人警官だ)。車の外を見ると、ときどき「○○工業株式会社」とか「○○食品」など、日本語のロゴが入った車が走っている。ペルーには日本の中古車が輸入されているからなのだけれど、塗り替えるお金がもったいないのと、そして意味はわからないけど日本語がカッコイイ! という理由でそのまま走っているのだとか。
 リマの街はちょうど帰宅ラッシュの頃合い。日干し煉瓦の粗末な家々の並ぶあからさまに治安の悪そうな地域を抜け、20分ほど走ってペンション・カントゥータに着いた。リマ在住30年という早内さんご夫妻の経営する宿である。迎えてくれたのは初日と同じ巨大な犬に猫2匹。そのほかコンゴウインコやカメなど、広い敷地には動物がいっぱい。初日にはあまりはっきりとは見ていなかったが、これは日本の感覚でいえば大豪邸である。
 宿にはポコ・ア・ポコという土産物屋が併設されていて、アルパカのセーターからTシャツ、小さな置物まで(日持ちのしない食べ物以外なら)、2階建ての店内にはペルー全土の土産物がぎっしり。ペルーのおみやげならここだけですべてそろうという充実ぶりである(ウロス島のおばさんが売っていたクッションカバーまで置いてあったのには驚いたよ)。店主の香苗さんの本業は染織家で、この店オリジナルの染め物やセーターも置いてある。外には看板も何も出ていないから(そうしないと泥棒に入られるのだという)、知らなければ訪れるのは難しいだろうけれど。
 夕食までまだ時間があるので、ペンションのすぐ近くにあるというショッピングセンターに行ってみることにした。道を渡って(横断歩道も信号もないのでちょっと怖い)すぐのところにあるプラザ・サン・ミゲルは、デパートやスーパー、映画館などが集まった巨大な複合商業施設。映画館では『リーグ・オブ・レジェンド』や『フレディvs.ジェイソン』など最新のハリウッドムービーを上映しているし、デパートには、高価なブランド品やコンピュータや家具などが並んでいて、日本のデパートとまったく変わらない(高価な品はすべてドル表示だった)。SONYのブースには2000ドルの値がつけられたVAIOノートが売られ、AIBOまでが展示されていたし、おもちゃ屋ではバービーなどの人形と並んで日本のアニメ「遊戯王」のフィギュアが売られていた("Yu-Gi-Oh"と書かれてました)。なんと、「遊戯王」は地球の裏側ペルーでも人気があるらしい。今まで訪れた町には、どこにでも色鮮やかな風呂敷包みを背負った色黒のインディヘナのおばさんがいたものだけれど、ここにはそんな姿の人は一人もいない。みんな小ぎれいな西洋風の服装の人たちばかりである。午前中にいたフリアカと同じ国とはとても思えない光景だった。

 夕食のテーブルを囲んだのは、私たちと同じ旅行社の手配でペルーを訪れ、今日はリマをぶらぶらしていたという若い夫婦と、1ヶ月半にもわたりペルーに滞在しているという考古学者のご夫婦。残念ながら、二組とも今日深夜の便で帰国するという。
 テーブルにところ狭しと並んだのは、新鮮なウニにイカの刺身、味噌汁にカレーといった日本料理の数々。しかも、これがどれもうまいのである。別にいつもの私は海外旅行をしていても日本食が恋しくなるということはないのだけれど(だいたい日本にいても和食なんてあんまり食べないし)、これまで味気ないホテルの料理が続いていただけに、これはありがたかった。
 初日に泊まったときはシャワーしか浴びられなかったのだけれど、今日は大きな大理石の風呂に入ることができたし、朝日新聞の国際衛星版も読めれば、リビングにある巨大なプラズマテレビにはNHKの日本語放送も映る。北海道の地震や原監督辞任のニュースも早内さんから教えられたくらいで、このペンションにいるとここがペルーだということを忘れそうである。ペンションに泊まる、というよりは早内さんのお宅におじゃましている、という感覚である。なんだか親戚の家を訪ねてきたかのような居心地のよさの、不思議な宿なのだった。唯一の欠点は、日本に帰りたくなくなってしまうことくらいか。だって家よりもずっと快適なんだもの。  

2003年9月26日(金)

 今日はナスカ一日ツアー。まずはイカという町までプロペラ機で飛び、そこから小型のセスナ機に乗って地上絵を観光するという寸法だ。いよいよ小さい頃から憧れていたナスカの地上絵が生で見られるのだ!
 6時半に朝食をとり、7時にもうすっかりおなじみになったリマ空港へ。天気はきのうとおなじくどんよりとした曇り空である。
 どうやらナスカへ向かう観光客は多いらしく(きのうフリアカ空港で出くわした日本人の女の子グループもいる)、2機のプロペラ機に分乗してイカに向かうことになっているらしいのだが、8時発の1機目は無事離陸したものの、8時5分発の2機目の出発案内がいつになっても始まらない。
 出発時刻を30分ほど過ぎた頃になって、厳めしい女教師のようなスペイン系のおばさんが我々の前に現れ、まるで追試の日程でも告げるような口調の英語でこう言った。イカの天候不順のため、イカ行きの飛行機は遅れている。出発までは少なくともあと1時間以上はかかるだろう。やがて我々の乗る予定の飛行機の便名は、電光掲示板からも消えてしまった。果たして本当にナスカへ行けるのだろうか。そういや、きのうペンションの奥さんが、ナスカの地上絵を見るためだけにわざわざペルーまで来たのに、結局見られずに帰った哀れな日本人の話をしていた。まさか我々もその運命なのではないのか。不安がよぎる。
 女教師風のおばさんがようやく飛行機が飛ぶと告げに来たときには、すでに10時近く。ほぼ2時間遅れの出発だった。

 1時間ほどのフライトでたどりついたイカ空港は、天候不順という言葉が嘘としか思えないほどの晴天。そして、空港は日本人でいっぱい! 空港の土産物屋には「お土産屋」と日本語が! まるでペルー中の日本人がここに集まっているようなありさまである(その後のレストランでは、フリアカのホテルで一緒になった年配グループにまで再会した)。あとでペンションのダイキ君に訊いたところによると、なんでも、リマからのナスカ日帰りツアーの利用客は95%が日本人だという(ほかの国の観光客はたいがいイカに一泊するのだとか)。
 イカといえば、トンデモ本ファンには、『ICA 模様石に秘められた謎』なる本で知られる……と書いてはみたが、たぶん知ってる人は少ないだろうなあ。なんでもこのイカの近くで、翼竜に乗って空を飛ぶ人間やら、恐竜を狩る人間やら、心臓移植の様子やらを彫った石が大量に発見されたらしいのですよ(イカの石はこのサイトで見られるのだけれど、なんだかいかにも怪しげなサイトである)。しかし、地元でもイカの石なんてものは全然有名じゃないらしく、空港の土産物屋にも博物館にもそれらしき展示はどこにも見あたらなかった。
 さて我々日本人ご一行(女の子グループと、妙によそよそしい若いカップル、そして我々夫婦という10数人)は、窓口で体重を申告(小型機に乗るので体重配分が必要なのだ)したあと、空港内のビデオルームへと導かれた。係のおじさんが登場して、ところどころギャグを交えながらナスカの地上絵について達者な日本語で説明。そのあと「ナスカのビデオをお見せします」といってビデオをデッキに挿入すると、流れてきたのはどこかで聴いたことのあるようなテーマ音楽。そして抑揚のない緒方直人のナレーション。こ、これはTBSの「世界遺産」ではありませんか。まさか地球の裏側ペルーで「世界遺産」を見ることになるとは思わなかった。
 オープニングから次回予告(次回はタッシリ・ナジェールだそうだ)に至るまで、30分間「世界遺産」をしっかり視聴したあと、我々日本人一行は観光バスに乗せられた。今度はイカの町を観光するのだという。さすがは世界のナスカ地上絵、ビートルズ日本公演並みの前座の長さである。

 イカは砂漠の町である。今までのペルーの町は、どこも日干し煉瓦の茶褐色が基調だったのだけれど、ここではすべてが全体に白茶けている。町の中にはこんもりと巨大な砂山がそびえているし、町はずれにはオアシスがあったりもする。写真がオアシスなのだけれど、オアシスのお約束通りちゃんと椰子の木が生えております。木の下の部分が白く塗られているのは、理由はよくわからないのだけれどペルーの習慣らしくて、どこの町でも街路樹の下の部分はなぜか白く塗られているのであった。虫除けの薬剤か何かなんだろうか?
 バスは途中でメディカル・スクールのそばを通った。このメディカル・スクールの写真を撮らなかったことを私は今激しく後悔しております。これがほんとのイカ医科大学、というギャグがやりたかったのに。何が「これがほんとの」なんだかさっぱりわからないんだけど。
 バスはイカの博物館へ。ここには色鮮やかで美しいナスカやパラカス文化の土器や織物も展示されているのだけれど、なんといっても目玉はミイラ。妊婦のミイラや子供のミイラなどが並んでいるほか、ムーとかその手の雑誌でおなじみの「脳外科手術痕のある頭蓋骨」や「長頭に変形させた頭蓋骨」(当時は長頭が流行っていたのだとか)も展示されていて、なかなか見応えのある博物館である。ちなみに入場料はツアー料金に含まれているが、写真撮影をするには4ソル払う必要がある。
 続いてバスが到着したのは広々としたプールも涼しげなリゾートホテル「オテル・ラス・デュナス」。プールサイドのレストランで昼食をとってくれ、ということらしい。もちろん当然のごとくビュッフェスタイルだ。いったいペルーでは何回ビュッフェの食事を食べたことか。ここでは食事が終わったあとも2時間くらい待たされる。ナスカはまだですか。いくら世界遺産だからといって出し惜しみしすぎなのではないか。
 いいかげん待ちくたびれた頃にようやく迎えが来て、再びバスでイカ空港へ。ここで女の子グループと航空会社の係員の間に一悶着あったのだけれども割愛。結局女の子グループはまとめて10数人乗りの中型機に乗ることになり、我々夫婦は、なんだかぎくしゃくしたカップルと一緒に小型機に乗ることになった。
 酔い止めを持っていないという二人に薬を分けてあげつつも尋ねてみると、なんでもふたりとも一人旅なのだけれど、たまたま同じ旅行会社に申し込んだので成田で出会い、同じコースを旅しているのだという。おお、これぞすべての一人旅の若者の見果てぬ夢、「旅先での女の子との出会い」ではないか! それをいともたやすく実現するとは、なんという果報者か。しかし、成田からずっと一緒に旅をしてきたにしては、二人の間はどうもよそよそしい。そういえばイカに来るまでの飛行機の中でも一人ずつ離れて座ってたし。青年の方は、ふたり一緒の写真を撮ったりしてるのだけれど、女の子の方はなんだか乗り気ではなさそうである。……がんばれ青年。チャンスを生かせ、青年よ。たとえ望みは少ないとしても。

 さて、空港でさらにしばらく待ったあと、別の日本人客を乗せて戻ってきたばかりの8人乗りの小型機に乗り込む。時刻はもう4時を回っている。体重の関係からか、私の席はどういうわけかパイロットの隣。副操縦士席である。こんな機会はめったにないので隣の操縦席の写真を撮ってみたのだけれど、操縦桿についてる青いMP3プレイヤーみたいなものが気になります。私にはどう見てもこれと同じものに見えるんだけど……。MP3聴きながら操縦ですか?
 パイロットの言葉が聞こえるようヘッドホンをつけ、いざ出発。揺れが激しいので吐き気を催す人が多いらしく、席の前にはビニール袋が備えつけてある。30分ほど不毛な砂漠地帯を飛び、セスナはいよいよナスカへ。宇宙飛行士、イヌ、サル……、とテレビや雑誌で見たことのある絵が目の前に広がるのだけれど、空の上からなので今ひとつ大きさが実感できないのが難点。パイロットの兄ちゃんは、左右どちら側の席からも平等に見えるように、右旋回したあとは必ず同じ地上絵の上で左旋回してくれるのだけれど、これがまた気持ち悪さを倍増する原因でもありまして、5つくらいの地上絵を見たあとセスナが揺れたときには、一瞬だけだが確かに胃から何かが喉元までこみ上げてきた。嫌な汗がじっとりとシャツを濡らす。リゾートホテルのビュッフェで何も考えずに腹一杯食べたことを強く後悔する。
 右の写真は「木」と「手」。光線の関係かあんまり写りがよくなく、コントラストを調整してもこの程度である。上に見えるのは、故マリア・ライヘ女史が建造したミラドール(観測塔)とパンアメリカン・ハイウェイ。
 左はゲーム「ゼビウス」でも有名なコンドル。しかし、地上絵もさることながら、地上絵に重なるように縦横に直線が描かれているのもまた不思議である(中には自動車の轍もあるようだが)。クモ、ハチドリ、ペリカンと全部で10個ほどの地上絵を見てツアーは終了。空港に下りたときの私はほとんど死にかけており、操縦席には「チップありがとうございます」とごていねいにつたない日本語で書かれていたにもかかわらず、チップを上げることすら忘れていた。地上に戻れたというだけでほっとしていてそれどころではなかったのである。
 再びイカからプロペラ機に乗り、リマ空港に戻ったときにはすでに午後7時過ぎ。ペンション・カントゥータでの夕食は、ラーメンにさつまあげ、餃子、刺身にきのうに引き続きのウニなどなど。あいかわらずのうまさにほれぼれしてしまう。なんでも、さつまあげも味噌も、餃子の皮までもが、奥さんの香苗さんの手作りだそうである。
 宿の隣の棟にあるお土産屋ポコ・ア・ポコで大量のおみやげを買い込み、夜10時過ぎにダイキ君と一緒に再びリマ空港へ。ペンション・カントゥータの方々には、ペルー旅行の最後にたいへん居心地のいい思いをさせていただき、感謝しております(右の写真は、ペンション・カントゥータのマスコット的な犬。後ろ姿ですいません。名前はききそびれてしまった)。

 ところで、荷造りの途中、ベッドサイドの引き出しの中に、ちょうど読み終えたばかりの『目を擦る女』を忍ばせておきました(たまたま二重に買ってしまいダブっていたのだ)。というわけで、地球の裏側リマのペンション・カントゥータの一室には、今もまだ小林泰三のホラー短編集が静かに眠っているはずである。もしペルーのペンション・カントゥータを訪れる方があれば、ペルー観光に疲れた夜など、汁気の多いホラーを楽しむというのも一興ではないかと。

2003年9月27日(土)

 深夜1時12分発のアメリカン航空648便にてダラスへ。ダラス到着は8時20分。とどこおりなく10時10分発の175便に乗り換え、成田へ。アメリカン航空の飛行機は座席間隔がちょっと広いのか、エコノミークラスながら足を伸ばせていい感じである。機内食の置き方がぞんざいだったりと、サービスはあんまりよくなかったけれど。

 機内映画で日本未公開の映画を3本。まず、"Daddy Day Care"(邦題『ダディと14人のキッズ 』)は、エディ・マーフィ主演のコメディ映画。リストラされたパパが同僚と一緒に自宅で託児所を始めて悪戦苦闘する話。やっぱり家族がいちばん大切さ、という昨今のアメリカ映画にありがちなメッセージが露骨なあたりにはうんざりさせられるけれど、オタク青年マーヴィンが登場するあたりから、スタトレネタ(ただし、すべてTOS)満載になっていくあたりがうれしい。クリンゴン語を話す幼児が出てきたり、「宇宙……最後のフロンティア」という例の台詞が重要な意味を持ってきたり。特にスタトレ人形劇のシーンには笑いました(★★☆)。
 続いて、チョウ・ユンファ主演の"Bulletproof Monk"(邦題『バレットモンク』)は直訳すれば「防弾坊主」。このタイトルから想像できる通り、堂々たる馬鹿アクション映画である。だいたい、不死身のチベット僧侶と、カンフー映画で武道を学んだチンピラが、ナチスの残党と戦うというあたりからもう馬鹿。しかも、チョウ・ユンファはアクションを演じるには丸くなりすぎてるし、監督のアクション演出も全然ダメ。え、これが東京ファンタのクロージング作品なんですか。へえ(★☆)。
 最後に"Bringing Down the House"(邦題『天使が家にやってきた』)なのだけれど、これはなかなかおもしろい。黒人と白人の人種偏見を露骨にからかって見せたコメディ。差別的な台詞がばしばしと出てくる。よくアメリカでこんな危ない内容の映画が公開できたものである。しかし、クイーン・ラティファって1970年生まれなんですか。するってえと私より年下ですか。へえ(★★★☆)。

 アラスカ沖あたりで日付変更線を越える。

2003年9月28日(日)

 午後1時半頃、成田到着。
 ペルーでよく飲んだ、甘ったるいクリームソーダみたいな味のインカコーラが恋しいので、意味もなくイカの町にあった巨大インカコーラ看板の写真を載せてみます(その後、輸入食品店でアメリカ製のインカコーラを見つけたけど)。あと、今回の旅行ではペルー名物クイ(食用モルモット)の丸焼きを食べそこねたのが悔いが残るところでした(駄洒落で〆かい)。
 で、これが丸焼きにされる前のクイ。


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Written by Haruki Kazano (pfe00406@nifty.ne.jp)