スキゾイド(分裂病質)の話をします。
スキゾイドは、私が精神医学の中で興味を持っているテーマのひとつ。なんでかといえば、私自身、スキゾイドの傾向が多分にあると思ってるからなのですね。
……とか書いても、キング・クリムゾンの"21st Century Schizoid Man"という曲を思い出して、「お前は精神異常だったのか」とか思わないでいただきたい。確かに、あの曲の邦題は「21世紀の精神異常者」だし
(最近じゃ「21世紀のスキッツォイド・マン」と呼ばれているらしい。なんじゃこの英語ドイツ語ちゃんぽんな読み方は訂正:英語でもスキッツォイドと読むみたいです)、日常英語の"schizoid"には「分裂病の」という意味もあるのだけれど、精神医学用語としての"schizoid"を「精神異常」とか「分裂病」と訳すのは大間違い。スキゾイドは精神異常とはまったく別物なのです。
"schizoid"を日本語に訳せば
「分裂病質」になります。なんだかいかにも分裂病と関係がありそうな用語なのだけれど、これは
「社会的に孤立していて対人接触を好まず、感情の表出が乏しく、何事にも興味関心がないように見える」(あとで書くように、「ように見える」というところが重要)という性格特徴を表す言葉であって、分裂病とは違うものです。
実はこの"schizoid"という言葉、けっこう由緒正しい用語で、もとはといえばクレッチマーの『体格と性格』(1921)に由来するのですね。「やせ型−分裂気質」とか、「肥満型−循環気質」とか「闘士型−てんかん気質」とか、どっかで聞いたことあるでしょ。クレッチマーの考えによれば、正常レベルの分裂気質と、精神病レベルの分裂病の間にあるのが人格障害レベルの分裂病質。クレッチマーは、「分裂気質−分裂病質−分裂病」という正常から異常へのグラデーションがあると考えていたのですね。
もちろん今じゃ体格と性格が関係あるなんて思っている精神科医はいない
(いないよね?)し、統計学的には、別にこういう性格の人が分裂病になりやすいという証拠はない
(Zimmermanの大規模研究によれば、分裂病質人格障害と診断された人のうち、分裂病の既往があった人は0%。また、イスラエルの研究によれば、分裂病を発症したハイリスク児(分裂病患者の子弟)は、「非社交的、ひきこもり、不活発、周囲から好まれない、率直でない」といった評価を受けることが多かったそうだ。これは確かに分裂病質に近いのだけど、成人の分裂病質者が分裂病になりやすいという証拠にはならない。さらに、デンマークの研究では、発症したハイリスク児の病前特徴として、「幼児期の受動性・集中力不全、学童期の騒がしさ・攻撃性・感情の抑制不充分・級友からの拒絶」などがあったという。これは分裂病質とはまったく違う)。
要するに、
分裂病質は分裂病とは無関係なのですね。ややこしいことに。
さてこの分裂病質、DSM-IVでは人格障害に分類されており、こんなふうに定義されてます。
(1)家族の一員であることを含めて、親密な関係を持ちたいと思わない、またはそれを楽しく感じない。
(2)ほとんどいつも孤立した行動を選択する。
(3)他人と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない。
(4)喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。
(5)親兄弟以外には、親しい友人または信頼できる友人がいない。
(6)他人の賞賛や批判に対して無関心にみえる。
(7)情緒的な冷たさ、よそよそしさ、または平板な感情。
このうちの4つ以上が当てはまれば立派な分裂病質人格障害と診断できるのだそうな。
まあ、内面は無視して、外から観察してわかる要素だけを並べるというのがDSMというものだから仕方がないのだけれど、この定義じゃ、分裂病質ってのがどんな性格なのかさっぱりわからない。
ここで役に立つのが精神分析の分野の業績。どういうわけだか、イギリスの精神分析家は分裂病質に異常なほどの関心を注いだのですね。中でも、フェアバーン、ガントリップといった分析家たちが、スキゾイド研究で有名
(精神分析の分野では「スキゾイド」とカタカナ書きすることが多いですね。小此木啓吾はドイツ語読みの「シゾイド」がお好きのようですが)。
もちろん神経症も性倒錯も全部発達の遅れ扱いする精神分析のこと、当然ながらスキゾイドも幼児期の発達障害だと考える。しかも人間の性格のいちばん基本的なところが障害されていて幼児期に固着しているのだ、というのですね。
精神分析の教えによれば、スキゾイド的な人ってのは、深く関わることによって自分と相手が変化することを怖れているのだそうだ。相手をのみこんでしまうことによって対象を破壊する恐怖にとらわれる一方で、相手にのみこまれ自分の独立性を失ってしまう恐怖にもおびえる。そこで、他人との関わりを避けてひきこもる。
愛を求めはするんだけど、相手と深く関わると、自己を失い束縛されるような気持ちになってきて、自由を求めて脱出したくなる。こういうのを、ガントリップは"in and out problem"と呼んでます。有名な「ヤマアラシのジレンマ」もおんなじようなもの。
さて、ここまでの記述だと、なんだかスキゾイドはさんざんな言われようで、いいとこなし、という感じなのだけれど、ドイツの精神病理学者クルト・シュナイダーは『精神病質人格』(1923/50)という本の中で、こんなふうに書いています。
分裂病質人では、表層と深層が区別される。表面の姿はまったく違っていることがありうる。正面から見れば、ひとしく物をいわないのであるが、その背後にはなにもないこともあれば非常に多くのものがあることもありうる。分裂病質の人がなにを感じているかは他人には分らない。多くの分裂病質の人は、ローマ風の家屋、まぶしく輝く太陽の下にさらされながら鎧戸を固く閉じている別荘のようなものである。しかも、その内部では薄暗い内光の下に祭宴が催されているのである。
そう、外からはわからないけれど、分裂病質の人の心の中では祭宴が催されているのですね。普通の人には想像もつかないような独創的なアイディアを抱いていることもある。決してマイナス面ばっかりじゃないのです。
また、クレッチマーは『体格と性格』(1921/55)の中で、分裂病質の人間の典型例を次のように描写しています。
小羊のように温順な、内気な少女が幾月も町で奉公している。彼女は誰に対してもやさしく従順である。ある朝のこと、この家の3人の子供たちが殺害されている。家は焔に包まれている。彼女の精神に異常はない。何もかも承知しているのである。そして犯行を白状しながら、あいまいに微笑する。
他の例――ひとりの青年が美しい青春時代をぼんやりすごしている。彼の動きは大そう鈍くぎこちないので、ゆすぶってやりたいほどである。馬に乗せると落ちてしまう。彼は当惑して、幾分皮肉な微笑をうかべる。彼は何もいわない。ある日彼の手で一冊の詩集が出版される。それには実に繊細な自然の気分がうたわれている。また彼に荒っぽい腕白小僧が加えた乱暴の数々が、内的悲劇として取り扱われており、しかも詩はととのった磨きあげられた韻律をそなえている。
殺人犯と天才詩人。どう考えてもこれは典型例じゃなくて極端な例なのだけれども、ここにはDSMの無味乾燥な記述にはなかったロマンティシズムがあります。
古い本からの引用が続いたので、最近のアメリカの教科書であるカプラン『臨床精神医学テキスト』の記述からも抜き出してみましょう。
……彼らはもの静かで、疎遠で、引きこもりがちで非社会的にみえる。他人との感情的きずなをほとんど必要としないし、また切望もせず、自分自身の人生を追及する。
……彼らの性生活は、空想の中にのみ存在し、成熟した性欲をうやむやにすることがある。……彼らは数学や天文学のような非人間的なものに莫大な感情のエネルギーを費やすことができる。また、動物をなつかせることが非常にうまいことがある。一時的に流行するダイエット法や健康法、思想的な運動、社会改良計画などに、特にそれらに個人的に深く関わることが要求されない場合は、しばしば夢中になる。
……彼らの心的内容には、よく知らないか、もしくは長く会っていない人と親密であるという不確かな観念が存在することがある。また、生命のない対象もしくは形而上学的構造物に魅惑されることがある。
……彼らの反応の範囲には攻撃的な行動はめったにないため、ほとんどの脅威は、現実のものであれ想像のものであれ、空想上の全能感もしくはあきらめによって処理される。彼らはしばしば孤独に見える。しかし時に、このような人は紛れもなく独創的、創造的な観念を抱き、それを展開して世間に提示することができる。
えー、何やらある種のオタクの肖像に似てませんか。特に「ダイエット法や健康法……」の部分を「アニメやSF、同人誌、ゲームなど」に変えてみたら……。ええ、もちろん私自身にもこういう傾向が多分にあることは自覚してますとも。
つまり、私たちオタクこそが"21st Century Schizoid Man"なのだ!
……ま、それはさておき、さらにスキゾイド関係のトピックを挙げるなら、アスペルガー障害との関係ですね。アスペルガー障害というのは最近注目されるようになってきた自閉症の一種なのだけれど、今までスキゾイドと言われてきた患者の一部は、実はこのアスペルガー障害なんじゃないか、というのです。たとえば、哲学者のヴィトゲンシュタインは、昔はスキゾイドの代表例と言われていたけれど、最近じゃアスペルガーだと言われることが多くなってます。実際、スキゾイドと分裂病は関係がないようだし、むしろスキゾイドは自閉症の方に近いのかもしれません。
さて、かつては、現代社会はスキゾイドの人にとって住みやすい社会になる、と言われてました。メランコリー気質者
(真面目で几帳面、仕事熱心なタイプ)や循環気質者
(人づきあいがよくて同調的なタイプ)は時代遅れになり、他人に無関心で表層的な関わりしかしないスキゾイドこそが活躍できるし、他の気質の持ち主も、スキゾイド的な適応様式を身に着けた方が生きていきやすい、というのですね
(たとえば小此木啓吾『シゾイド人間』がそういうことを言ってます)。
確かにスキゾイドの一部、他人とその場その場で表層的な関わりは持つものの、決して深くは交流をしない、というタイプ
(こういうのをドイチュという分析家はas ifパーソナリティと呼びました)にとっては、現代はとても生きやすい社会だし、人間関係の濃厚な時代よりもかえって活躍の場が広がったといえるでしょう。
しかし、そうではない、表層的な関わりすら苦手とするタイプのスキゾイドにとっては、現代社会はかえって病的な傾向を促進する働きをしてしまっているようです。いわゆる「ひきこもり」の中には、このスキゾイドにあてはまる一群があります
(ひきこもりが増えている最近じゃスキゾイド研究はホットな話題らしくて、日本の精神分析専門誌をめくると、毎号のようにスキゾイド関係の論文が載ってます)。コンビニもインターネットもない時代には、対人関係からひきこもって生きて行くには、それなりの覚悟と苦労が必要でした
(人里離れた炭焼き小屋に住むとか)。でも、今では、一日中誰とも会話しなくったって何不自由なく生きていけます。
確かに、スキゾイドにとって、現代は住みやすい時代です。
でもそれは、社会に参加するのが容易になった、というだけではなく、社会に参加せずに生きていくのが容易になった、ということでもあったのです。
……そういえば、精神分裂病は統合失調症に改名されるそうだけれど、「分裂病質」はどうなるんだろ。統合失調症質?
(last update 02/05/15)