ポケモン事件

 第何次なのかはよくわからないが、今は数年前からの脳ブームであるらし い。
 書店に行けばしっかりと「脳」のコーナーがあって、学術書からトンデモ本 にいたるまでいろいろと並んでいるし、小説の世界でも、『BRAIN VALLEY』を 筆頭に脳をテーマにした作品がいくつも出版されている。私の専門である精神 医学の世界でも、20年の歴史を持つ学術誌「神経精神薬理」が時流に乗ってタ イトルを変え、98年の1月から脳科学全般を扱う月刊「脳の科学」として新た なスタートを切ったばかり。
 そんな脳ブームのさなか、脳の機能の限界を示すような事件が起きた。いう までもなく、例の「ポケモン事件」である。97年12月17日、テレビ東京系のア ニメ「ポケットモンスター」を見ていた全国の700人近くの子供たちが、次々 とけいれんを起こしたり気持ちが悪くなったりして病院に運ばれたのである。  その後の報道などでもう知らない人はいないと思うけれども、原因はテレビ の点滅による光誘発性発作だった。規模は今までになく大きいとはいえ、現象 としてはそう目新しいものではないのだが、事件直後のマスコミのヒステリッ クな騒ぎ方がすさまじかった。
 たまたまアニメが「ポケモン」だったこと、なお悪いことにタイトルが「で んのうせんしポリゴン」で主人公たちが電脳空間で活躍するという話(サイ バーパンクもすっかり世の中に浸透してしまったものですね)だったおかげ で、事件はあっという間に「電脳時代の落とし穴」にされてしまった。
 中でも大笑いだったのが朝日新聞の天声人語で、「ポケモンと聞くとまずポ ケットモンキーを想像する」と、全く内容のない書き出しで始まり、コン ピュータ内部での冒険というストーリーを紹介、「年輩の人の多くは、筋書き にアレルギーを起こしてしまうだろう」と続く。結論部では、昔の子どもはメ ンコを友だちと交換していたのに、今はゲーム機で怪物を交換している、と昔 を懐かしみ、「起こるべくして起こった事件のような気もしてくる」としめく くっている。
 それ以外にも、木村太郎は「サブリミナルと似てますね」などとコメントす るし、果ては橋本首相までが「光とかレーザーはもともと武器として考えられ たもの」などと、わけのわからないことを言い出す始末。ああ、頭が痛い。
 もちろん、この事件は電脳とは何の関係もないし、「ポケモン」自体とも関 係ない、単にアニメの制作側が映像の特性について無知だったというだけの話 である(だから「ポケモン」の放送を中止することには何の意味もなく、単な る臭いものにフタ的な対応にすぎない。中止するならすべてのアニメを中止し なければ話が合わない……って、そうされても困るけどなあ)。専門家がマス コミに登場して冷静に解説したおかげで、「アニメ悪玉論」が広がらないうち に沈静化されたのは、不幸中の幸いだったといえるだろう。
 さて、この事件の原因になった光誘発性発作(翌日以降に気持ち悪くなった という人はほとんどが暗示だと思うけど)という現象について、ちょっと精神 科医らしく説明してみようか。
 病院で行う脳波検査では、隠れた異常を発見するためにいくつかの賦活法を 使うのだが、その中にストロボの光を使う光刺激賦活法というのがある。通常 はただ白色光を点滅させるだけの刺激が使われるのだが、最近では、これより ももっと異常波を誘発しやすい方法として、点滅水玉だの点滅斜線だのと新し い刺激がいろいろと考え出されている。そしてその中でももっとも効果が高い ことがわかっているのが15ヘルツの赤色点滅なのだ。
 運が悪いというかなんというか、ポケモンで放送されたのがまさにこれ。し かも、視聴者の多くが子供だった、注意を集中して見ていたなど、発作を起こ しやすい条件がことごとく重なってしまった。つまり、1000万人以上の視聴者 が期せずして光過敏性てんかんのスクリーニング検査を受けてしまった、とい うわけだ。
 子供の場合、脳がまだ未発達で、ニューロン間の遮断も完全ではない。だか ら、刺激によって視覚野にかかった過負荷がニューロンの異常な興奮を引き起 こすと、たちまちのうちに脳全体に広がっていき、延髄、脊髄を通って末梢神 経系にまで伝わって筋肉の不随意的な運動を引き起こす。こうしてけいれん発 作が起きる。
 ひとつ断っておきたいのは「光過敏性てんかんが原因」という一部の報道は 正確ではないということ。発作が一回限りではてんかんとは限らない。今回の 発作が初発だった場合、てんかんであるかどうかは再検査をしないと確定でき ないのだ。だから、今の段階ではあくまで「光誘発性発作」と呼ぶべきだろ う。それにたとえ「光過敏性てんかん」と診断されたとしても、子供の場合は 成長するにつれて発作はなくなっていくことが多いから、それほど心配する必 要はない。
 今回の事件でわかるように、子供の脳というのは、環境に左右されやすく時 には異常な反応をしてしまうという性質があるのだけれど、これは「脳の可塑 性」という、外界の刺激に適応して変化していく能力と表裏一体のもの。大人 になると少々の刺激では発作が起きにくくなるのは、成長するにつれシナプス の結合が固定化していって、妙な方向に興奮が伝達されなくなるからなのだ。 それは脳が耐久性を増すということでもあるし、別の方向から見れば、発想が ある一定の方向にしか進みにくくなる、という哀しいできごとでもある。
 この事件を聞いた人がなんとなく不気味な感じを抱き、「電脳」のようなも のに責任を転嫁したくなるのは、私たちの意識を支配する脳に実はバグがあ る、ということを知らされたからではないだろうか。赤の点滅などといった他 愛ないイレギュラーな入力くらいで私たちのCPUは暴走してしまうのか、とい う驚き。それはペンティアムのバグの比ではない衝撃だ。その驚きと恐怖がヒ ステリックなマスコミの報道に現れているように思える。脳そのものにバグが あるという事実を受け入れるくらいだったら、多少無理があっても、電脳とい う得体の知れないもののせいで我々が被害を受けるという構図の方が受け入れ やすいのである。
 普通、私たちは脳を疑ったりすることはない。もし自分の脳が信用できない としたら、我々はいったい何を信じればいいというのだろう。『らせん』や 『BRAIN VALLEY』のような脳SFの傑作がホラーというジャンルから出てきたの も、脳について語るということが、そもそもそんな恐怖をはらんでいるからか もしれない。



 ここまではSFマガジン98年4月号の脳特集に「嗤うポケモン」(すいませんね、下らない駄洒落で)というタイトルで載った文章である。初めて商業誌に書いた文章なのでいくらか硬くなっているのはご愛嬌。
 その後、「日本醫事新報」という雑誌の98年2月28日号に、東京女子医科大学小児科の舟塚真氏らによる「TVアニメ『ポケットモンスター』視聴中にけいれん発作を起こした四例」という論文が掲載されている。この論文はポケモン事件の「その後」を医学的に語る貴重な資料だと思うので、ここで紹介しておこう。
 著者らは「ポケモン」視聴中にけいれん発作を起こした、10歳から14歳の子供4人に光刺激試験を行っている。刺激は、もっとも発作を誘発しやすいとされている赤色、水玉、斜線の各種フィルターを装着したストロボを点滅させるというもの(これは私がSFマガジンに書いたやつですね)。それに加えて、ディスプレイ上で市松模様、縦縞、横縞、格子、同心円の5種の図形(色は白と黒、および黄と青、黄と黒)を高速で反転させる、という刺激も使用している。ちなみに、モニターしている脳波上で光突発波反応が2秒以上出現した場合はただちに刺激を中止している。
 さて結果だが、4例すべてにおいて光突発波反応が誘発されており、光過敏性が認められたという。ポケモンで発作を起こした子供たちは(もちろんこの4例に限ってのことだが)もとから光過敏性をそなえた子供だった、というわけだ。つまり、かねてからの推測通り、この事件の原因は光過敏性てんかんだったのである。アニメやビデオゲームの不用意な特殊効果が、こうした子供たちにとっては凶器になりうるのだ。
 一部にはアニメ・ゲーム原理主義者とでもいうべき人がいて、アニメやゲームには罪はない、本人や保護者が危険を自覚してアニメを見ないようにしろ、見るなら自己責任で見ろ、などという暴論を主張しているようなのだが、それはどう考えても多数派の横暴というものだろう。発作を起こした子供だって、アニメやゲームを楽しみたいという気持ちに変わりはないのだ。ただ光過敏性があるというだけでアニメが見られない、ゲームができないというのは、あまりにも理不尽なのではないか?
 それに、光過敏性があるかどうかは、発作が起きてみるまでは本人や保護者にも知りようがないのである。通常の小児の健康診断では脳波検査などしないし、ましてや赤色点滅や反転図形の刺激など、たとえけいれん発作を起こした子供の検査だとしても、使っている病院はほとんどないだろう。
 というわけでまず必要なのは、一般の脳波検査に赤色点滅や反転図形を取り入れること。そうすれば光過敏性の有無を今よりももっと正確に知ることができる。この論文の著者は、赤色点滅より反転図形の方がさらに刺激として鋭敏だったため、反転図形を取り入れるべきだと主張している。
 そして何よりも必要なのは、外国のものでも参考にしながら、アニメやゲームのためのガイドラインを作ることですね。こんなことを言うと、必ず規制に反対する人が出てくるのだが、そういう人たちは、ただ規制だというだけで反対しているのであって、これは性描写とか残酷描写の規制とは全然質が違う問題だということがわかってないとしか思えない。これは表現の自由とは何の関係もない、純粋に医学上の問題なのだ。
(last update 99/11/07)

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