犬神憑き cynanthropy

 精神医学の専門誌、その名も「精神医学」という雑誌では、1998年の一年間「日本各地の憑依現象」というシリーズを連載していた。毎号、日本各地の研究者が実際に経験した憑依現象についての論文が掲載されていて、これがけっこうおもしろかった。しかし、「山陰地方の狐憑き」とか「滋賀県湖東の山村で発病した猫憑き」などといったタイトルが、最新の神経薬理学の論文と並んでいる目次はなんとも不思議で、とてもひとつの学問とは思えないほどである。
 そのほかタイトルだけ挙げてみると、「北海道のトゥス」「群馬のオサキ憑き」(オサキというのは、オコジョともいうイタチに似た動物である)、「沖縄の憑依現象 カミダーリィとイチジャマの臨床事例から」などなど。中でも異彩を放っているのは「飛騨高山の憑きもの俗信牛蒡種」で、牛蒡種はゴンボダネと読んで、植物のゴボウのこと。飛騨高山には「牛蒡種筋と呼ばれる家系があって、その筋の者に憎悪や羨望などの感情を持たれると、牛蒡種の生霊が憑いて精神異常をきたす」という俗信があるのだ。植物が憑くとは珍しいが、牛蒡種という名前は、修験者同士の呼称である「御坊」に由来し、それが植物の牛蒡に転化したという説が有力らしい。
 ずばり「徳島の犬神憑き」という論文もあって、これはまさに坂東眞砂子の『狗神』の世界。この論文によれば、犬神の伝承は特に四国の徳島県、高知県、九州の大分県において顕著で、小さな犬のような姿をしているとも、鼠のようなものとも言われているらしい。犬神はある特定の家筋に代々伝えられるとされ、その家筋を「犬神筋」「犬神統」などと呼ぶ。この家筋の者に怨まれたり妬まれたりすると、犬神に取り憑かれて病気になると考えられており、そのため犬神筋(統)の者との縁組は現在でも忌み嫌われており、重大な社会問題になっているとか。
 徳島県南東部のある町では、現在でも犬神信仰が根強く残っていて、多くの家の戸口には賢見(けんみ)神社のお札(この神社、「犬神落とし」で名高いとのこと)、赤い色の御幣、打ち上げ花火の殻を何個か連ねたものなどの、犬神除けの呪物が掲げられているらしい。
 さて犬神が憑依するとどうなるか、ということだが、これは非常に範囲が広くて、いわゆる人格が変化する憑依状態のほかにも、突然の高熱や足の病気、果ては登校拒否に至るまでが犬神憑きによるものと考えられてしまう、とのこと。この町では、原因不明の病気、あるいは現代医学では治療できない病気はすべて犬神による憑依と解釈され、「犬神落とし」のお祓いの対象になるのである。
 家族や自分が理不尽にも精神疾患や慢性疾患にかかってしまった場合、それを「犬神憑き」と名づけることによって、病気には意味が与えられ耐えられるものになる、というわけだ。これはこれでひとつの尊重すべき解釈体系といえるかもしれない。ただ、犬神筋というスケープゴートを必要とする体系なのはかなり問題があるけど。
(last update 01/04/01)

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