ファビョン(火病) Hwa-Byung

 「ファビョン」について、改めて書いてみたい。
 「改めて」と書いたのは、1年くらい前にファビョンについては一度書きかけたことがあるからで、そのときはどうにもうまく続けることができず、中途で止めてしまったのである。
 そもそもそのときは書き方がまずかった。
 日本のネット界では、「ファビョン」ということばは、韓国人が「議論で反論に窮した場合などに冷静さを失って感情的になる」ようなときに使われる。しかし、それは悪意ある歪曲であり、実際の精神疾患としてのファビョンはそうじゃないのだ、精神科医として本当のファビョンの意味を教えて上げよう、という啓蒙的なスタンスで何気なく書きはじめたのだが、よくよく調べてみれば、ことはそう簡単ではなかった。
 「ファビョン」は韓国特有の「ハン」(恨)の感情に関わる疾病概念であり、韓国文化と密接につながっていたのである。つまりファビョンを語るにはまず韓国文化を知る必要があるともいえるのである。ファビョンの概念はなかなか奥が深いのだ。
 というわけでなかなか面倒そうなので1年前には書きかけのままやめてしまったのだが、最近改めて医学文献データベースPubMedや、その韓国版であるKoreaMedなどでファビョン関係の論文を集めてみた(摘要だけなら誰でも無料で読める)ので、それを参考に、「ファビョン」とは何かについて書いてみたい。

 まず、「ファビョン」は漢字で「火病」(hwa-byung)と書く。また、"wool-hwa-byung"ともいわれるが、これは漢字で書くと「鬱火病」。この場合の「鬱」とは、「憂鬱」などの意味ではなく、「鬱血」とか「鬱積」と同じで、「出口がふさがれてたまる」といった意味である。「火」とは五行説の「木火土金水」の五元素のうちの「火」のことであり、「火」が体内にたまって気のバランスが崩れた状態が「鬱火病」というわけである。韓国では「火」は怒りに結びつくので、怒りを抑え、体の中に溜め込んだ結果さまざまな症状が起きるのが「火病」ということになる。
 「火病」は、アメリカの精神疾患診断マニュアルであるDSM-IVの巻末付録「文化的定式化の概説と文化に結び付いた症候群の用語集」にも載っていて、こんなふうに書かれている(なお、この用語集には日本の「対人恐怖症」も記載されている)。
hwa-byung(wool-hwa-byungとしても知られている):韓国の民俗的症候群で、英語には“anger syndrome”(憤怒症候群)」と文字どおりに訳されており、怒りの抑制によるとされている。症候としては、不眠、疲労、パニック、切迫した死への恐怖、不快感情、消化不良、食欲不振、呼吸困難、動悸、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。
 韓国で書かれた文献によると、患者は社会階層の低い中年女性に多いという。韓国で41歳から65歳までの女性2807人を調査したところ、ファビョンの有病率は4.95%であり、特に社会経済的に低い階層の人、地方在住者、離婚もしくは別居している人、喫煙者、飲酒者で高率だったという。また、韓国系アメリカ人109人の調査では、12%が自分はファビョンにかかったことがあると回答したという。
 症状としては、胸の中に塊があるように感じると訴える患者が多いが、これは韓国人は文化的に家族の調和と安定を重んじ、社会的なつながりを危険にさらすような怒りは抑え、胸の中に溜め込むべきだとされているため、怒りが塊となって胸や喉を圧迫しているのだ、と信じられている。
 ファビョンの原因は、夫の浮気、嫁姑問題、子供の非行など家庭内の問題が多く、男尊女卑の強い韓国社会の影響が強いと考えられている。もともと伝統的な韓国の家では、女の子は生まれても家族の一員とは数えられないほどだった。男の子を産まない母親は、母親扱いしてもらえず、家を追い出されることすらあったという。こうした社会において、女性は怒りを言葉や行動で表現することを禁じられ、忍従の日々を送らざるを得ず、その内にこもった怒りが「火病」の身体症状として表現される、というわけである。地方の貧困層に多いのも、そうした階層で封建的な価値観を持つ家庭が多いからだろう。

 このように、「火」=怒りと説明してある文献が多いのだが、Khim SYによる「看護における火病の概念」という論文では、「火」に少し違う意味づけをしている。
 この論文によれば、ファビョンの特徴は、「火」(ファ)、身体化、自己診断(主観性)の3つだという。
 まず「火」とは不公平の感情を意味し、ファビョンとは、「火」の鬱滞、つまり、屈辱を受けたり不当な扱いを受けたという感覚が蓄積したものがファビョンなのだという。長年のあいだ不当な扱い堪えつづけてきたという状況は、それだけの期間怒りを抑圧し無力感を感じ続けてきたということを意味する。抑圧された怒りは敵意や憎しみ、復讐心につながり、無力感は欲求不満、諦め、宿命論へと結びつく。
 続いて「身体化」とは、身体的な症状を通して「火」を表現するということ。身体化は、非言語的なやりかたで彼ら自身の中の抑圧された感情を表現する役割を果たしている。
 つぎに「自己診断」だが、これは読んで字のごとく。ファビョンの患者は、自分の症状の原因を知っていると考え、自分の問題はファビョンからきている、と自己診断するのである。ファビョンは、医者が診断するものではなく、自分でわかるものなのである。ファビョンの患者は自分の病気の原因(それは「不当に扱われた」という主観的な思いである)を充分自覚しており、それを周囲の人々に知ってもらおうとしているのだ。

 ここで書かれている「火」は、韓国特有とされる「ハン」(恨)の感情そのものだ。韓国の文献では、ファビョンと「ハン」(恨)の感情との関係を指摘している論文が多かった。ある韓国人精神科医が書いた日本語の文献では「“ハン”現象を意味する『ファビョン(Whabyung;火病)』」と書かれていたほどである。つまり「ハン」(恨)=ファビョンという認識である。
 「恨」(ハン)とは、非常にわかりにくいので私も充分理解できていないのだが、韓国人のメンタリティを示す概念であり、単純な「恨み」とはまったく違うものである。「苦しみ、悲哀、悲劇、剥奪、悲しみ、虚しさ、孤独、後悔、憎悪および復讐等と連関した、個人の感情的、ならびに認知的条件の非常に複雑な現象の総和」であり、「悲しみと喜び、悲嘆と希望、悲しみと幸福といった相反する二つの感情の混合状態のようなもの」だという。「永続的な悲哀」("everlasting woe")と表現していた文献もあった。度重なる戦争や侵略、政変などにさらされた経験から生れた韓国人特有のメンタリティといわれているもので、多くの韓国の専門家は、「ハン」は単なる個人的な感情ではなく、韓国人に共有された集団的な感情状態であると信じている。

 こうした見方はファビョンを韓国特有の民族的な病とみなす見方だが、一方で、ファビョンを普遍的な病の分類の中に位置づける見方もある。

 初めて英語圏にファビョンを紹介したLin KMらの「Hwa-Byung:韓国の文化結合症候群?」という文献から、韓国系アメリカ人の症例を紹介してみよう。
 Ms.Aは42歳の韓国人女性で離婚歴あり。5年前にアメリカに移住。症状が始まったのは1年前で、彼女自身それをファビョンだととらえている。症状は、極度の疲労感、寒さへの過敏、そして腹部に塊があって胸を圧迫し、動悸や呼吸困難、「火が喉元に上がってくる」感じを起こしているという感覚である。これらの症状により、彼女は窒息死するのではないかという恐怖を感じていた。「寒さへの過敏」のせいで、彼女は寒い季節にはできるかぎり厚い服を着込んで家に閉じこもり、暖房の設定を最大温度にしていた。その他の身体症状としては、全身の筋肉と関節の痛み、消化不良、そしてにぶい上腹部痛があった。それに加え、不眠と無力感、怒りの感覚、韓国に子どもを残してきたことへの罪悪感があると彼女は語った。
 Mrs.Bは33歳の韓国人女性で、夫とともにアメリカに移住。子どもは2人。移住3ヶ月後に初めて胸部下方に塊があるように感じ、ファビョンではないかと疑った。痰を吐くと異物感は一時的に楽になるため、塊は痰が固まったものではないかと彼女は考え、治療しないでいると、塊は命に関わるのではないかと怖れた。面談により、彼女はアメリカに移住してから非常に強い不安を感じていたことがわかった。さらに、緊張感、めまい、不定愁訴、食欲不振、体重減少、入眠困難、自分自身と家族の将来に対する不安を感じている、と彼女は語った。精密検査では異常なし。
 さてこういった症例を読んでみて浮かぶ感想は、「こういう人いるよね」というものだ。実際、日本人でもこういう症状を訴える中年女性は珍しくない。これは要するに現在の国際的分類では「身体表現性障害」、欧米の伝統的な概念でいえば「ヒステリー」にあてはまる病態なのではないだろうか。
 誤解を受けないように書いておくが、精神医学での「ヒステリー」は、日常語で使われている「ヒステリー」とは意味が違う。精神医学で使われる「ヒステリー」とは、特に身体的な原因がないのに失神、めまい、体の痛み、目が見えない、耳が聞こえないなどのさまざまな身体症状を訴える病気のことだ。症例報告でファビョンの患者が訴えている、のどの閉塞感はヒステリーに特徴的とされる「ヒステリー球」そのものである。このヒステリー、19世紀のヨーロッパでは盛んに議論されていたホットな病気で、フロイトもこの病気の研究を基礎にして精神分析の理論をつくりあげたほどだが、20世紀に入るといつしか精神医学者の関心は失われ、現在の疾病分類では「ヒステリー」という用語すら使われなくなり、「身体表現性障害」や「転換性障害」などのカテゴリーに分かれている。
 19世紀のヨーロッパで「ヒステリー」が女性に多かったのは(そもそも「ヒステリー」の語源は「子宮」である)、女性に対する抑圧の強い当時の文化の影響と考えられているのだが、ファビョンも同じく封建的で男尊女卑の傾向の強い韓国文化の影響が強いのだろう。もちろん、日本でもいまだに封建的な文化は残っており、怒りや抑うつをそのままのかたちでは表現できずに身体症状として表現する女性患者は少なくない(数は少ないが男性にもいる)。
 実際にファビョンと自己診断した患者をDSM-IVの分類で診断してみたところ、136人中31人が全般性不安障害、26人が大うつ病、21人が身体化障害、18人が気分変調性障害、15人が恐怖症、14人が強迫性障害、11人がパニック障害と診断されたそうだ。自己診断だから必ずしもひとつの病態には当てはまらず、憂うつと身体症状を特徴とする幅広い概念ということなのだろう。

 ファビョンは韓国文化と深く結びついた韓国特有の病であるという見方と、そうではなく普遍的な診断基準の中に位置づけられるという見方。どちらが間違っているというわけではなく、どちらもファビョンという病のひとつの側面をとらえていると考えるべきだろう。しかし、私としてはどちらかといえば後者の方が妥当なように思える。日本の精神医学者もかつて、「対人恐怖症」を、集団の調和を重んじる日本文化特有の病として欧米に発信したことがあったものだが(そのためDSM-IVのリストに載ったのである)、今では欧米にも似たような症状の患者がいることがわかり、「社会恐怖」とか「社会不安障害」といった診断名が日本にも逆輸入されるようになっている(製薬会社主導で。社会不安障害の情報サイトは抗うつ薬SSRIを販売している製薬会社が作っている)。別に日本特有の病じゃなかったのだ。ファビョンの症状も、それと同じように、別に韓民族特有の「ハン」などを持ち出さなくても、普遍的な概念だけで説明できるように思えるのである。

 さて、ファビョンは、前述のLin KMらの論文が1983年に"American Journal of Psychiatry"という権威ある雑誌に掲載されたことで英語圏でも知られることになり、1996年にはDSM-IV(精神疾患の診断・統計マニュアル)の巻末付録「文化と結びついた症候群」分類に記載されている。いろいろと調べてみたが、日本ではファビョンについて書かれた精神医学論文は(私の探した範囲では)ひとつも見つからなかった。在日韓国人の多い日本では患者も少なくないはずなのに、論文が書かれていないのは不思議に思えるが、おそらくこうした症状の患者は日本人でもありふれていて、韓国特有の病気とは考えられてこなかったからではないだろうか。
 最後に、日本のネット界で、ファビョンが本来の意味とは関係なく、興奮して癇癪を起こすことを意味するようになってしまっていることだが、ある意味これは起こるべくして起こった誤解であるようにも思える。なにせ、先に書いたようにファビョンの原型ともいえる「ヒステリー」からして、日常語では医学用語としての意味から離れ、興奮して感情的になるという意味になっているのだから。「ファビョン」は、「ヒステリー」という言葉の運命とまったく同じ過程をたどっているのである。
 将来的には、日本の「ファビョン」が逆輸入されるなどして韓国でも意味合いが混乱しはじめ、ヒステリー概念が精神医学から消えたように、いずれはファビョンの概念も解体されていくのかもしれない。それよりも先に製薬会社がファビョンをもっと薬を売りやすい病名へと解体してしまうかもしれないが。

参考文献
文化的定式化の概説と文化に結び付いた症候群の用語集(『DSM-IV-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル』(医学書院 2002)付録)
・Lin KM, Hwa-Byung: a Korean culture-bound syndrome?. Am J Psychiatry 140:105-107,1983
・Somers SL, Examining Anger in 'Culture-Bound' Syndromes. Psychiatric Times 15, 1998
・Park YJ et al., A survey of Hwa-Byung in middle-age Korean women. J Transcult Nurs 12:115-122,2001
・Park YJ et al., The conceptual structure of hwa-byung in middle-aged Korean women. Health Care Women Int. 23:389-97,2002
・Lin KM et al., Hwa-byung. A community study of Korean Americans. J Nerv Ment Dis. 180:386-391,1992
・Park JH et al., A Study on the Diagnosis of Hwabyung. J Korean Neuropsychiatr Assoc. 36:496-502, 1997
・Min SK et al., A Psychiatric Study on Hahn. J Korean Neuropsychiatr Assoc. 36:603-611, 1997
・Min SK et al., Symptoms of Hwabyung. J Korean Neuropsychiatr Assoc. 37:1138-1145, 1998
・Khim SY, The Concept of Hwa-Byung in Nursing. J Korean Acad Nurs. 29:1221-1232,1999
・ミン・ビョングン, 韓国文化におけるジョン(情)とハン(恨). こころと文化 第4巻第1号:16-19, 2005
火病:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
www.hwabyung.com 韓国にあるファビョンクリニックのサイト。ファビョンを扱った健康番組の動画が見られる。韓国語はわからないので推測だが、ここではストレスによって起きる女性の身体不定愁訴全般を「ファビョン」と呼んでいるようである。なお、この動画では「火病」の発音は「ファッピョン」と聞こえる。
(last update 06/05/31)

辞典目次に戻るトップに戻る