島田清次郎『地上』あらすじ

 主人公大河平一郎は中学三年生。級長である。
 柔道初段の長田が、美少年の深井に「稚子さん」になれ、と組み敷いているところを、たまたま通りかかった平一郎は「はなしてやれ」と止める。深井は「黒い睫毛の長い眼に涙をにじまして」立ち上がる。長田は平一郎と深井をにらみ比べて、「大河、お前こそ、をかしいぞ!」と捨て台詞を残して去って行く。「時折信頼するやうに見上げる深い瞳の表情は、平一郎にある堪らない美と誇らしさをもたらした。平一郎は実際、自分と深井とは少しをかしくなつたと思つた」
 どうなるんだろう、とわくわくしたのだが、残念ながらそういう話ではない。

 平一郎は、深井の隣の家に住む吉倉和歌子という女の子に片思いをしていた。深井は和歌子の幼なじみ。しかも、深井と和歌子は郊外の屋敷町の住人だが、平一郎は貧乏な借家住まいである。平一郎は深井を恋のライバルとして意識する。
 さて平一郎が和歌子に出会ったのは小学六年生のときである。級長として一番前に並んでいた平一郎は、やはり一番前にいた女子クラスの級長の和歌子を意識するようになる。その後、「談話会」なる催しがあり、平一郎は「アリババ」の話をするのだが、和歌子は、朝鮮にいたときに母が虎に食われたという話をして平一郎に強烈な印象を残したのであった。その後、教室でいろは歌を唱えるときにも、平一郎は「わかよたれそ」の「わか」のところだけ力を込めて読むようになったのである。
 平一郎は和歌子にラブレターを書く。しかし、深井に内緒で本人にこれを渡してしまうのは卑怯ではないか、と悩んだあげく、深井に自分の恋を打ち明けて、深井から和歌子に渡してもらう、という「男らしい」解決法を思いつく(私には、本人に渡す勇気がないので友達から渡してもらうという女々しい解決法にみえるのだが)。思いついたあとも、なかなか深井には打ち明けられず、国語の時間の間中、ノートに吉倉和歌子の名前を五十回も書いてしまう。四時間目になってようやく勇気を出して深井に手紙を渡し、「一事を敢行したことの英雄的な傲りを感じながら靴音高くかへつて来た」。そこまで大袈裟なものではないと思うのだが。
 結局、これはうまくいって、和歌子からは「ほんとにわたしはあなたのあれでございます。わたしは今、うれしくてぢつとしてをれないのです」という返事が来るのであった。拍子抜けするほどスムーズな展開である。

 平一郎の父は、平一郎が三つのときに亡くなっており、母親のお光が裁縫の仕事をして母一人子一人の暮らしを立てている。父の死後、家も売ってしまったため、遊郭のはずれにある芸娼妓紹介業の店の二階を借りて住んでいる。
 三年前、階下の店を訪れたものの主人に乱暴されそうになって二階に逃げ、お光に優しくなぐさめられて以来、お光を母のように慕っている冬子という女性がある。冬子は、三年の間に廓でも名妓とうたわれるほどの凛とした知的な美女に成長していた。冬子は、平一郎にとっても姉のような憧れの対象である。
 困窮したお光はその冬子のはからいで、冬子の住む廓で住み込みで働くことになる。平一郎は和歌子との格差がますます開くことを嫌がって強く反対するが、背に腹はかえられない。親子はやむなく廓に住むことになる。
 冬子は常に寂しげで超然とした表情をたたえた女性である。それは、幾年もの間、座敷で自分を待つ男が心から尊敬できる男であってほしいと願い、しかし絶えず裏切られつづけてきたからである。
 あるとき「日本一の実業家」の天野栄介が金沢を訪れ、宴席に冬子が呼ばれる。冬子はその男を見た瞬間、「體躯全體から湧き立つ重みのある嚴かな強い力に打たれてゐた」。男が一言口にすると、「あゝ、ゆるやかにも力ある微笑よ。世界が根柢から揺り動かされる微笑よ。僅かに口邊に漂はす一二片の微笑みから覗かれる、底の知れぬ偉大な力の海が冬子に押し迫る。(あゝ、かうした男子も此の世にはゐたのだつた!)」と感じ、自分が目の前の男と比べるとあまりにみすぼらしい、つまらない人間に思えてくる(このへん江川達也風の展開)。
 翌日、冬子は天野に身請けされ、東京へと旅立つ。その日、偶然お光は天野と出くわし、はっと息を呑む。お光と天野の間には深い因縁があったのである。

 お光には兄と双子の姉綾子がいた。勝ち気で華やかな性格の綾子は、貿易商の息子大河俊太郎との結婚が決まっていた。しかし、あるとき兄が、天野という青年思想家を家に連れてくる。兄と父はたちまち天野に心酔してしまうのだが、勝ち気な綾子は敵愾心を抱く。しかしなんと天野はその日のうちに綾子を力ずくで犯してしまう。綾子は燃えるような瞳でお光に「一生涯生かゝつて今日のこの屈辱の復讐をする。あの力に充ちた天野を滅ぼして見せます!」と宣言し、天野とともに去っていく。父や兄は、綾子は駆け落ちしたと信じ、俊太郎とはお光が結婚することになる。翌年父は死に、三年後には兄も自殺。そしてお光の実家は滅びてしまったのであった。
 天野はお光から綾子を奪い、そして冬子も奪っていった。お光は思う。(天野に勝ちうる者は、平一郎より外にない!)

 盛り上がってきた。さてその平一郎はどうしているかというと、和歌子とラブラブになってデートを重ねているのである。ただ、和歌子との身分の違いにコンプレックスを抱き、「えらくなるえらくなる」と口ぐせのように繰り返している。えらくなって政治家になり、貧乏をなくす、というのである。  あるとき、平一郎の学校で生徒たちの作品の展覧会が開かれることになり、平一郎は和歌子をひそかに招待する。しかし、和歌子が校庭に落とした招待状が教師に拾われてしまい、平一郎は停学処分を受ける。「学校内へ自分の情婦を入れると云ふことは許すべからざる行為」なのである。
 それ以来、和歌子との連絡はまったくつかなくなる。憔悴した平一郎は、深井の誘いで文学サークルに出入りするようになる。これが、メソメソジメジメと始終悩んでいるようないわゆる文学青年の集まりなのだが、そのときの平一郎の心にはぴったり合っていたらしく、たちまちのうちに入り浸るようになる。
 数ヶ月後、和歌子から手紙が来る。和歌子は招待状事件のあと親から強い叱責を受け、東京へ嫁に行かされてしまっていたのであった。そんなとき、冬子が久しぶりに天野とともに金沢を訪れる。冬子は、平一郎が自堕落な生活を送っていることを知ると、天野の世話で東京の学校に行かないか、と提案する。平一郎はそれを受け、東京へと旅立つ。 天野に、姉と冬子と息子をも奪われてしまったお光は呟く。「天野に勝つものは平一郎だ」

 さて東京に出た平一郎は、天野の家に住むことになる。平一郎は、東京では冬子は妾として日陰の生活を送っていることを知る。冬子はすっかり天野に従属した存在になってしまい、金沢にいた頃の凛とした美しさは影を潜めてしまっている。また、驚くほど母によく似た天野夫人も、天野に従属しているようだった。平一郎は、天野を崇拝して身も心もゆだねたい気持ちと、深い敵意とを同時に感じる。天野は自分を崇拝するものには限りない愛を向けるが、その反面、彼らを絶対的に支配しなければ気が済まない男なのだった。天野の周囲にいる人間は、すべて天野の奴隷であった。平一郎は「俺だけは天野の奴隷にはならない!」と強く自分に言い聞かせる。天野の世話にはなりたくないが、そうしなければ東京にはいられない。平一郎は深く悩むのであった。

 天野と平一郎の対決はいつか。和歌子との再開はあるのか。さまざまな謎を残して、第一部は終わる。

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