精神科病棟での医者の主な仕事は、患者さんの面接をすることである。普通は、だいたい週に一回の割合で、患者さんを診察室まで呼んで、そこで病状や悩みについて話しを聞いたり、あるいはただ世間話をしたりするわけである。終わったら、面接内容をしっかりカルテに記載する。
私が担当している病棟は古い上にあちこちが手狭になっていて、ナースステーションはいつでも看護婦さんや患者さんでごったがえしているし、診察室も狭いのが一つあるだけ。この病棟では私ともうひとりの先輩の医師とで、ほぼ半分ずつの患者さんを受け持っているのだが、診察室がふさがっていると面接がする場所がなくなってしまう。先輩医師が診察室で書類などを書いていることも多いのだが、新参者の私がどいてくれとも言いにくい。
仕方ないので患者さんたちのたむろするロビーに出たり、病室まで出向いたりして、くつろいでいる患者さんをつかまえて面接をすることにした。最初は仕方なくやっていたゲリラ的(笑)な面接だが、これを続けているうちに、今までは見過ごしてしまっていたことに気がついた。
患者さんの様子が、明らかに診察室とは違うのだ。診察室での患者さんたちは、明らかに身構えている。考えてみれば、白衣を着た医者と狭い部屋に二人きりでいるんだから、緊張して当然である。つまり、「よそ行き」の姿なのである。
診察室ではそっけなくこちらの質問に短い答えを返すだけの患者さんも、ロビーの長椅子に並んで腰掛けていると、意外に豊かな表情を見せることもある(もちろん、全然変わらない患者さんだっているんだけど)。逆に看護士さんの前では水を飲むたびにむせ込んでいた患者さんが、私が見ている前では一度もむせ込まずにコップ一杯を飲み干したこともあった。「あれ、おかしいなあ」と看護士さんは首をひねっていたけど、これも患者さんは医者である私の存在を意識していたのだろう。
普通の人なら、誰だって、仕事をしているときと家庭での姿、親しい友達と過ごしているときの姿はそれぞれ違うはずだ。人間は、無意識に「場」に応じた姿を選び取っているのですね。これがつまり社会に適応する能力ということ。
分裂病ってのは、そういう社会適応能力が失われる病気なんだけれど、長椅子で笑顔を見せる患者さんたちを見ていると、入院期間が何十年にもおよび、一見自閉的になってしまっているような患者さんでさえ、診察室とロビーという「場」に応じて自分の姿を変える能力を持っているようなのですね。つまり、彼らはまるっきり対人関係能力を失ってしまったわけではないのだ。
同じように、精神科の外来を訪れたときの患者さんの姿も、ふだんの姿とはおそらくかなり違ったものだろう(それが同じだとしたら、かなり病状が重いということになる)。
精神科医は患者の全体像をとらえるように、とかよく言われるのだけど、医者が週に一度程度の外来診察だけで患者さんのことを理解したような気になったとしたら、それは傲慢きわまりないことだろう。医者が見ることのできるのは、あくまで「医者を前にした患者さん」の姿だけなのである(これは入院患者さんの場合も同じで、医者にわかるのは「病院という場における患者さん」の姿にすぎない)。家では物忘れがひどくて家族を困らせている痴呆老人が、病院ではかくしゃくとしていて一見どこもおかしくないように見える、というのもよくあることだ。
この限界は、家族の話をこまめに聞いたりすることによってある程度超えることができるけれど、その家族の話も疑わなければいけない(疑いつつ共感するというおそろしく難しい技術が要求されるのです)というのが、精神科医というもの。因果な商売ですね。ひとりの人間の全体像を把握するなんてことは、あまりにも遠い目標である。
結論ですか? つまり、精神科医はこの限界を自覚して、謙虚になれってことです。あ、尻切れトンボですか? すいませんね。
(last update 01/04/01)