西郷隆盛 明治座新狂言『城山の月』
島田清次郎

 十七日に大洋丸で、いよ/\出かけようとしてゐる矢先へ、御社の小林君がやつて来て人のいゝ僕を明治座へつれ出した。
 元来が、役者の一人々々に就て、その生れつきや、伝統(トラヂシヨン)や、教養や、其他かういふことについて、予備知識のない己れをつれ出して何か書かさうといふのは元来人が悪い。それにも関はらず、何かいふてみる己れの人の良さは、自分でもあきれる。
 演劇なり、ドラマなりの本質については、己れでも現代の日本位に対しては充分の言ひ分を持つてゐる。己れが今日本の役者共に対して、予備知識がないといふことは、今の日本の演劇常識からゆけば田舎者であるが、一面から言へば、それは己れ自身の演劇論を裏づけるものなんである。己れ自身の抱懐する所の演劇に対する理想から言へば、現在行はれてゐる所の戯曲なり、役者なり、その他一切は、己れ自身に用のないものである。用のないものを覚えてゐる必要はない。即ち予が劇界に通ぜざる所以である。
 併し、これは別に、特に演劇に対してのみの僕の態度でないのであつて、その他各方面に対して、僕の絶対的態度である。
 併し、かう言ひ切つてしまつては問題はなくなる。僕が僕の力で新しいものを作るより外なくなる。しかも真理はあくまでも、僕自身が新しいものを作るより外仕方がないのであるが、真理の世界より僕自身を堕落せしめて、現実の世界に幾分妥協を試みるのならばそこに、少しばかりの感想が浮ばんこともない。
 これを、今度も問題に引き換へるならば僕は絶対的態度からいへば、明治座の芝居を見る必要もなく、役者各自の芸をみる必要もなく、手取り早く言へば明治座なんか、たゝき壊してしまへばいゝのだが、さうせずに人の悪い小林君に連れられて、のこのこと、暢気な拙糞(へぼくそ)西郷を見て、空鉄砲の音を聞いて、何時こしらへたか分らぬまづい鮨を食つて、屁たれ芸者共の顔を見てゐる始末だから、余り絶対論も押し通せぬ。
 しかし、いくら暢気でも、のこ/\出かけて来るには何等か僕自身を牽引する魅力がなくては行かない。それは実に劇場に非ず、役者に非ず、果たまた岡本綺堂輩の脚本に非ず、実に大西郷の名であつた。
 西郷は己れの好きな人物の一人だ。
 流石に西郷は偉いものだ。あんなヤワな芝居でありながら三度ばかり涙が流れた。それは役者の力でもなく、脚本の力でもなく、実に実際、薩南健児の為めに一身を投げ捨てた、西郷の赤誠である。又、西郷一人の為めに、死をも厭はなかつた八千の若者達の男々しい真情の為めである。
 芝居に就ては、第一ネチヤ/\した、惚れたはれたの芝居を見せられてゐる外、嘘にしろ、空鉄砲にしろ、ドン/\パチ/\と一斉射撃は嬉しかつた。ぼろ/\の古洋服を着たり、ぼろ/\の筒袖にぼろ/\の袴を穿いた若者達が一身を西郷に托して城山の一隅に追ひ立てられてゐながら尚ほ西郷を先生々々と盛り立てゝゐる、あの気持を見ると涙がこぼれる。
 西郷は世間的に言へば失敗者である。併し成功と失敗とは何を標準にして言ふかとい事は深く考へさせられた。
 あの当時に於ける官軍の代表者は大久保利通であつた。大久保は西郷を殺した後、側の人に語つてかう言ふたさうだ。「西郷は多血性にして、感情に動かされ易き素質を自覚して、禅を学んで修養した。しかもその結果は感情を制することは出来たが、豪性の風を養ひ、意満たらざれば孤山に閑居し、終ひに英豪を気取つて終りを全くしなかつた。」といふたさうである。併し乍ら、そんな事を言へば大久保利通自身が加賀の浪人の為めにやつつけられてゐるのだから、大久保自身の西郷を評した言葉は其儘、大久保自身の屍の上に投げ返されねばならぬのである。してみれば暗殺者が、馬車の中に斬り入つた時、一人もこれを助ける者の無かつた大久保の最後が幸福か、刃は折れ、衣は破れても尚ほ且つ最後まで、先生々々と八千の健児まで言ふに及ばず、誠に鰻屋の主人に迄、先生々々と恋ひ慕はれたことが不幸か、疑問ではないか。疑問ではないかと言つたことは、一寸これは月次(つきなみ)に言つたのであつて、大西郷が成功者なのである。但し是れは、西郷個人の事を言ふのであつて、唯物主観的に西南の役そのものを見れば、言ふ迄もなく勃興せるブルヂヨア階級に対する熱望せる武士階級の最後の断末魔であつた事は否定することは出来ない。しかも、是れ冷徹なる歴史観の如何に関はらず、西郷といふ一人格が、偉大なる成功者であつた事は明らかなる事実である。武士階級には、ブルヂヨア階級は勝つ事が出来た。併し、西郷には勝つ事が出来なかつたのである。其処が人生の美妙な所である。
 芝居の西郷にかへるが、一番最初の左團次(・・・)の出は余り良くなかつた。併し、「浜津応輔屋敷の場」で出来上つた単衣を貰つて、黙つて一人で消えるやうに去つて行つた背後姿は余韻の深いものであつた。それから「岩崎谷山路の場」で雨倉や飯原が負傷して来た。其処を猿之助(・・・)の森田と西郷とが、「しつかりしろ、/\」と言ひながら介抱する幕切は、誠に実感が迫つて宜しかつた。猿之助(・・・)に就て一寸言ふが、猿之助(・・・)を始めて舞台に見たのは帝劇の女優劇で、題は忘れたが、ある労働者が監獄に行つてゐる間に、嬶を取られて、(取られる男は勘彌がやつたが、)それの尻押しをした肝玉の太い労働者かをやつてゐた。それが始めてゞあつた。今度も一生懸命にやつてゐるやうだ。狂人(きちがひ)などは一寸御愛嬌者だが、ロンブロソーではないが、狂人と英雄とは何処か一味の相通ずる事のあるといふ事を、芝居を見ながら思つた。狂人は空間の無い時間のやうなもので、思ひつめる一心は誠だが、世界に対する認識がないのである。狂人の一心と西郷の一心は同じものだ。たゞ西郷には如何にして一心を実現するか、乃至はその一心の位置が世界に於て如何いふ取扱ひを受けて居るかといふ事はよく分つてゐる。そこが狂人と英雄の違ひである。実際、狂人が一心にあの繊細い喇叭を吹く心持も、西郷が僅か八千や一万の宗党の面々と天下を覆さうとした心とは同じ事である。この意味に於て狂人を出したことは舞台効果がないとは言はれない。
 最後の「浜津門前の場」の場は無かつた方が良いのではないかと思ふ。西郷が首になつて仕舞へば、それでいゝではないか。敢て月照の弟子の西照なんといふ生臭坊主などの説明を加へるなどといふのは蛇足ではないかと思ふ。併し、あの門の中から黒装束の松蔦(・・)の浜津の妻のお秀が一寸出て来て立つた姿は良かつた。
 もう一つこの芝居を見て感じたことは、今迄本なんかで読んでゐた西郷の伝記をある程度まで現実化して考へる事が出来たといふことだ。まあそれだけでも時節柄、劇場当事者なり、役者なり、脚本家なりの労は、(ねぎら)はなくてはなるまい。又かういふ芝居を見せてくれた本誌記者小林徳二郎の労も謝さなくてはなるまい。これを終りとする。新演芸の読者諸君にはちと不向かも知れないが、北国の雪の中から出て来た熊のやうな田舎者の事だから、一寸自惚れを言へば近代的な西郷のやうな男だから、お愛想の言ひやうもない。今度欧米を廻つて、帰つて来たら、少しは都会人になつてゐまいものでもないから(西郷も岩倉具視一行と洋行してゐたらあゝいふ最後にもならなかつたと思ふが)我国演壇の為に応分の貢献をしたいと思つてゐる。どうか其の節は天下の人材がそれ/゛\に脚本なり、舞台監督なり、乃至は男女優となり、私と共に働いて下さることを今からお願ひして置きたいと思ふ。別に嫌なものを来て欲しいといふのではない。来たい人に来て欲しいといふのである。尚ほその内改造社から、僕の今日までの戯曲全部を集めた「革命前後」といふ本が出来るから愛好者は読んで貰ひたく、現在我が国劇壇の中枢者たる劇場当事者なり、乃至俳優諸君なりが試みに実演してみたならば案外世間の人気が集らないものでもあるまい。妄言多謝。
底本:「新演芸」大正11年5月号

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