いと若きものより 花袋秋声五十年祝賀会に際し
島田清次郎

 両氏が、与へられた天分を完全に生長し切らずにたをれた明治の文芸、思想界の先人のあとに、とにかく生きながらへ、自然主義運動を有効にしたことは、秋水等の挫折にもかゝはらず、堺氏が社会主義運動を徹底させようとしてゐるのに、勿論全然同じではないが、よく似てゐる。しかし明治神宮祭、日曜学校大会などゝ、お祭りさはぎの多い現在の日本、心あるものをして、あくまで沈着に、自己の心を失はず、ものゝ表裏を見とほす覚悟の必要を感じさせる。過去を尊重するのは、死物なる過去そのものゝ形骸を尊重するのではなく現実に生きる過去を尊重することである位は誰れでも分らう。現実の光をもつて、過去を照らし直すところに過去の価値が生じる。御祭さわぎのみに視界をさえぎられて肝心の現実と未来を忘却しては何んにもならない。われわれは現実に生き未来に進展するがために現実の内に生きかへる過去を尊重するのであつて「未来」が恐ろしいためになじみの深い、慣れた「過去」を掘かへす時代錯誤であつてはならない。自分は、現在の文芸界とのみは云はず、現代の諸方面に向つてこれ丈の警告をする丈の義務を感じる者である。
底本:「時事新報」大正9年11月23日号

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