島田清次郎の生涯

 島田清次郎は、明治32年2月26日、石川県の美川に生まれた。実家は回船業を営んでいたが、清次郎が生まれて間もなく父親が亡くなって没落、母子は貧しい生活を送る。小中学校は、母方の祖父が金沢で営んでいた遊郭から通っており、少年時代の遊郭暮らしの経験はその後の清次郎に大きな影響を与えた。しかし、祖父が米相場で損をして遊郭の経営も傾き始め、清次郎をこれ以上中学に通わせることができなくなった。一時、東京の実業家の庇護を受け、東京の明治学院に通うが、次第に富豪への反感がつのり、激しい衝突の末金沢へ帰り、叔父の元に身を寄せた。

 小中学校では神童といわれていたこともあり、島田はこの頃から自分のことを天才だと信じるようになる。ノートには「清次郎よ、汝は帝王者である。全世界は汝の前に慴伏するであろう!」「人類の征服者、島田清次郎を見よ!」などと書きつけていた。

 金沢では叔父の庇護を受けて商業高校に通うが、弁論大会で校長を弾劾する演説をして停学。さらに読書や創作にかまけて学業を怠るようになり落第、退学となり叔父からも学資を出してもらえなくなった。

 

 自活しなければならなくなった清次郎は、さまざまな職業を転々とするが、傲慢で人を見下したような態度のためどれも長続きしない。大正6年には目をかけてくれていた仏教思想家・暁烏敏の紹介で京都の宗教新聞「中外日報」に小説『死を超ゆる』を連載。これが商業紙デビュー作となる。翌大正7年にはわずか19歳で中外日報記者として迎えられるが、例によって仕事を頼んでも「僕はそんなつまらないことをするために入社したのではない」という調子なので、わずか二ヶ月でクビになってしまう(このあたりのことは涙骨回想録にも詳しい)。

 

 新聞社をクビになった清次郎は、中外日報主筆の伊藤証信が友人の評論家生田長江に宛てて書いてくれた紹介状を持って上京。生田長江に長篇『地上』第一部の原稿を手渡す。清次郎は原稿を読んでくれるまで生田宅に何度も日参。生田は辛辣な批評家として知られていたが、この島田の小説をドストエフスキーやトルストイとも比較して大絶賛。さらに社会主義思想家で、後に日本共産党初代書記長となる堺利彦も、社会主義の見地から『地上』を絶賛。こうして『地上』第一部は華々しい宣伝とともに新潮社から刊行されることになり、大正8年には文芸愛好家ばかりか一般読者もまきこんだ大ベストセラーとなる(ただし第一部は無印税の契約だったので清次郎はまったく儲からなかった)。

 

 清次郎は続けて『地上』を第4部まで刊行。いずれも版を重ね、合計50万部を売り上げて、『地上』は大正期を代表するベストセラーとなった。しかし自ら「精神界の帝王」「人類の征服者」とまで豪語する傲岸不遜な振る舞いは文壇では嫌われ、揶揄する声も多くなる。それでも若者を中心とした一般読者には絶大な人気で、清次郎は『大望』『帝王者』『勝利を前にして』など力強いタイトルの本を次々に出版していった。

 

 この頃に書かれた断章「閃光雑記」では、「日本全体が己れに反対しても世界全部は己れの味方だ。世界全部が反対しても全宇宙は己れの味方だ。宇宙は人間ではない、だから反対することはない。だから、己れは常に勝利者だ」「滑稽なる案山子共よ、実力なき現代諸方面の人々よ。――今に、目がさめよう」などと書き記している。

 あるときなどは出版元の新潮社を訪ね、社長の佐藤義亮に向かって、「自分の小説が売れているのは政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者といえば、政友会出身の内相、原敬であるが、今や新しく小説家島田清次郎も人気を得ている。これが気に入らず、政友会は、島田清次郎を民衆に読ませないためにために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない」と真顔で言ったという。

 

 堺利彦の絶賛を受けてデビューしたこともあり、デビュー後の清次郎は社会主義運動に接近。社会主義同盟にも加入しているが、清次郎の思想は、基本的には一人の英雄が世の中を導くという英雄主義であり、社会主義とは相容れることがなかった。また、プロレタリア文学運動が本格化するにつれ、文壇での清次郎の居場所はなくなっていった。またこの頃、堺利彦の娘真柄に恋心を抱き求婚するが、父利彦によって拒絶されている(真柄と利彦をモデルにした人物は『地上』第4部に登場する)。

 

 大正11年1月、それまでファンの女性と手紙のやりとりをしていた清次郎は、山形県に住む女性の家にいきなり押しかけて強引に関係を結んで結婚。同じ年の4月からは妻・豊子を日本に残し、アメリカ、ヨーロッパ各国をめぐる半年間の外遊に出発した。清次郎は赤坂で盛大な送別会を開き、作家仲間に招待状を送ったが、訪れたのは発起人のほかは吉井勇ら2人だけだったという。出発後、清次郎が船上で林田総領事夫人に強引にキスを迫り事務長にたしなめられたという事件が新聞で報じられると、それまでも清次郎の暴力に耐えてきた妻は実家に戻り、二度と清次郎の元には戻らなかった。このとき、豊子はすでに清次郎の息子を宿していた。息子は自分が島田清次郎の息子とは知らないままに育ち、早稲田大学理工学部に入学したが、昭和20年8月15日に若くして亡くなっている。

 さて、外遊中の清次郎は、ちょうどその前に外遊していた皇太子に自分をなぞらえて「精神界のプリンス」と自称。アメリカではクーリッジ大統領と面会し、イギリスでの歓迎パーティには文豪ゴールズワージー(国際ペンクラブ初代会長)やH.G.ウェルズらが出席。このとき、清次郎は日本初の国際ペンクラブ会員になっている。アメリカの老詩人エドウィン・マーカムと面会して「貴方が島田さんですか、大層お若い」と言われ、「肉体は若いが、精神は宇宙創生以来の伝統を持つてゐる……」と答えたのもこの外遊中のことである。

 

 帰国後、実質上『地上』第5部となる『我れ世に勝てり』(「改元」第1巻)を出版。この小説の中では妻・豊子をモデルにした人物が登場するが、実兄との近親相姦で子供を身ごもり自殺するというひどい扱いを受けている。大正12年4月にはファンレターをきっかけに手紙のやりとりをしていた海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。これが監禁陵辱であるとして舟木家から訴えられる事件が起きる。結局、清次郎が提出した芳江からの手紙が決め手となって、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり告訴は取り下げとなるが、この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎のイメージは大幅にダウン。最大の味方だった世間からも見放され、注文もなくなり、原稿も受け取ってもらえなくなってしまう(余談だが、この事件は大正15年にすでに「女性の戯れ」というタイトルで映画化されている。天才作家を演じたのは新人俳優であった三田英児、本名浅利鶴雄。劇団四季を創立した浅利慶太の父である)。

 

 宿代も払えなくなり、知り合いの作家の家を転々としていた清次郎は、大正13年7月30日午前2時半頃、巣鴨の路上を人力車で通行中、警察官の職務質問を受ける。浴衣に血痕が発見されたため逮捕され(本人の説明によれば「帝国ホテルに夕食に行ったが、島田だと言ってもボーイが待遇をしてくれなかったため殴って逃げた」とのこと)、警視庁の金子準二技師(のちの日本精神病院協会理事長)による精神鑑定の結果、早発性痴呆(現在の統合失調症)の診断を受け巣鴨の保養院に収容された。

 入院中には、大泉黒石らが訪れ、新潮社に受け取ってもらえなかった改元第2巻を春秋社から『我れ世に敗れたり』として出版。さらにわずかな詩を、辻潤らが創刊したダダイズム雑誌「悪い仲間」などに発表。外遊中に知り合い意気投合した木村秀雄(新興宗教・観自在宗の教祖。『吾れ世に勝てり』の主人公の兄のモデル)らは清次郎を退院させるべく奔走、清次郎自身も徳富蘇峰らに退院を願い出る書状を何通も送っているが、結局退院は叶うことはなかった。病状は快方に向かっているように見えたが、昭和5年4月29日、肺結核のため31歳で死去。

 

 「文芸ビルデング」昭和4年10月号には、「明るいペシミストの唄」と題された清次郎の詩が掲載されている。

わたしには信仰がない。

わたしは昨日昇天した風船である。

誰れがわたしの行方を知つてゐよう

私は故郷を持たないのだ

私は太陽に接近する。

失はれた人生への熱意――

失はれた生への標的――

でも太陽に接近する私の赤い風船は

なんと明るいペシミストではないか。