無名作家の処女作小説『地上』を読む
堺枯川(利彦)
私は著者から特に此書の寄贈を受けたが未だ著者に会つた事はない。此書は著者の自伝的小説で、著者はまだ二十一歳の青年だといふ。二十一歳の無名の青年が突如として数百頁の著書を出版し得た事を珍らしく思つて、私は兎にかく最初の一章を読んだ。すると忽ち引きつけられる様な気持がして、二章三章と読みつづけ、とう/\忙しい日を一日丸潰しにして、仕舞まで読んで了つた。
私が此書に感心したのは、文章の新しい大胆な技巧と、鋭いそして行届いた心理描写、若しくは心理解剖とではない。其二点に於ても此作は確かに優れてゐるとは思ふ。それだけでも人を引きつける力がある。然しそれだけならば此頃の若い文士達の中に随分よく出来る人が外にも少くないだらう。それだけならば、只一通り有望の文士、有望の小説作者として認めるに過ぎないが、私は特に著者が社会学的の観察と批判とに於いて頗る徹底してゐる点に深く感心したのである。
著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交はりなど、悉く著者の「貧乏」といふ立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である。殊に或る特殊な村の庄屋であつた其の祖先の事、其村の歴史、村民と庄屋との関係などを批評的に叙述した所は、其の社会組織の理解と洞察とに於いて最も深く私を感心させた。
然し私は必ずしもそういふ社会批評の叙述を小説に望むのではない。理屈めいた字句がなくても、其の理屈が感受されさへすれば満足する事は無論である。只底に理屈のない(即ち社会組織に対する理解も洞察もない)小説は、一向つまらない気持がする。眼科の医者でも一般医学の知識は持つてゐる。小説作者でも一般社会の組織構造に対する相当の知識を持つてゐて貰はなくては困る。此頃の多くの小説を読むと、(いや、余り多くは読まないのだから、私の読んだ中の多くに依つて見ると、とでもしなくてはなるまいが)、何となく一般医学の知識のない眼科医に眼の療治をして貰ふかの様な気がして、甚だ不安心でもあり不愉快でもある。然るに此作を読むと、前に云つた部分ばかりではなく、全体に亘つて善く眼が開けてゐるといふ感じがする。
作中の主人公が上京する前に、或る地方の文学的小倶楽部に出入した時の一節も非常に面白い。其の仲間の絶望的な、厭世的な、廃頽的な、虚無的な、高踏的な、逃避的な諸種の感情、理智が入り乱れて、自然に一団の空気を醸成してゐる有様が、非常に面白く書かれてゐる。然し此類の作は之までにも幾つか見た様に思ふが、只此の作者のは其の仲間の人々に比べて、更に別種な、一層透徹した思想(若しくは其の萌芽)を主人公に持たせてゐるので、(実は即ち作者がそれを持つてゐるので)他の類作に比して一段の高さと深みとを覚えしめるのである。
謂ゆる社会的文芸の代表作家がもうどうしても現はれねばならぬ時だと私は思つてゐるが、此書の著者嶋田清次郎氏は即ち実に其人ではないだらうか。然し前途は永い。好青年幸ひに自重せよ。
底本:時事新報大正8年6月25日