令嬢を監禁する迄 小説家島田清次郎の罪

悲劇の芽は五六年前に彼女が彼に送つたあこがれの手紙
英文豪ガルズワージーの自称親友の小説家、島田清次郎が某名家の令嬢貞子(彼女の名誉の為め仮りに二人が逗子の養神亭に泊つた時の名にして置く)を脅迫監禁した事件につき貞子の長兄貞一氏(仮名)の詳細の談話を事件の一面を知る為めに左に掲げる。文学中毒の娘を持つ親達の参考にもなるべく事件としても丸で西洋の探偵物にでもありさうな奇怪な物語で貴族院議員T氏の名が出て来るなど事件を彩るに十分であらう。以下貞一氏の話である。

島田の小説『地上』の第一巻が出で文壇に嘖々された頃、私の妹貞子は府立第○高女の二年か三年で十六七であつたが、其の小説を読んで感心して島田に手紙を出した(斯ういふ事は今度の事件が起つて初めて解つた事だから其のつもりで聞いて下さい)が、恐らく当時は様々の人から推称の手紙を受取つたらしい島田は、妹の手紙に返事をよこさなかつた。
所が今年の正月に島田が郷里金沢から出した活版刷の年賀状が来て、妹はそれに矢張り年賀状を出した。すると二月中旬にまた島田が代々木に転居した通知の葉書が来て、余白に『お遊びにお出で下さい』とペンで書いてあつたが、妹は返事も出さず行かなかつた。それは恐らく、私や弟が島田の近頃書くものは実につまらないと話したりするのを傍で聞いてゐたせいでもあらうと思ふ。
すると三月廿日頃、島田が突然妹を電話に呼びだして『明日遊びに来ないか』と言つたので、妹は好奇心もあり又私達兄弟の友人に沢山若い文学者があつて人格上何れも尊敬すべき人々であるので、何等の杞憂も無く翌日出かけて行つた。そして島田を『地上』の主人公大川平一郎のやうな男と思つて行つて見ると、丸で違つた人格であつたので、見事に予想を裏切られて失望して帰つた。島田は其日蓄音器をかけて聞かせたり洋行談をしたりした揚げ句に、指環を見せろと言つて妹の指から脱きとり、返して呉れと言つても、今度来た時返すと言つて到頭返さないので、午後二時頃から一時間ばかりで帰つた。
次に三月廿五日島田から妹へ最初の手紙が来た。それは『この間は来て呉れて嬉しかつたまた来ないか』といふ数行の文句であつた。妹は彼に好意を持てなくなつてゐたが、指環をとり返したく廿八日の午後二度目の訪問をすると、指環は返して呉れず、こんな指環何だと罵り大法螺を吹くので、すつかり恐ろしくなつて帰つて来た。
その後も電話がかゝつたが、私の家庭は厳格で妹に男から電話が来たのは例の無いことであるから、(ちよう)ど三月廿九日に弟がドイツに留学するので、見送りがてら神戸へ行き序に関西を旅行して暫らく留守にすると言つて電話に予防線を張つたが、その後も度々もう帰つたかと電話がかゝつた。生憎女中が暇をとつてゐて電話には大概妹が出るので、島田の電話には自分が女中のやうな風で未だ帰らないと言つてゐた。すると四月四日に二度目の手紙が来た。それには暗示的に結婚の申込みを書いてあつた。
暗の暴風雨を衝いて男女は葉山へ 無人の家を叩く彼女の父
その島田の手紙には、ある男がある女を恋してゐる、男は何にでも女の意に適ふやうな人間になる、また年が若いから政治家になれと言へば大政治家になるし実業家になつて金を儲けろと言へば大実業家にもなるし、軍人になつて大将になれと言へば大将にもなる、あなたはさういふ男に結婚を申込まれたらどうするかといふ意味で二枚ばかりの長さの手紙であつたが妹は返事を出さなかつた。
その後も電話が何度もかかつたが、或る時電話に母が出ると、それが島田からで妹が在宅だと答へ妹が已むなく電話に出ると、島田は妹に是非来い、来ないと承知しないなぞと脅迫したので、妹は指輪が島田の手にあるからこんな事を言はれるのだ、何うでも取り返したいが一人で行くのは恐しいので学校時代(妹はこの三月府立第○高女を出た)の親友である政友会の領袖某代議士の娘かね子(仮名)に一緒に行つて呉れと頼むと、かね子は親か兄に相談するやうに勧めたが、妹はさうすると前に家に隠れて島田を訪ねたのが暴露するのが恐いからと強ひてかね子に頼み到頭二人で島田を訪ねた。それが事件の起つた四月八日の事で、午後三時頃であつた。
かね子は島田の家の前に立つてゐた。妹が友人が待つてゐるから指輪をすぐ返してくれと言ふと、島田はかね子をも家に呼び入れた。妹は友人もゐるので気強く指輪の返却を迫つたが、愚弄して返さない上に今日は家に帰さない、二階に来いと言つて、逃げようとするのを捉へて無理に二階に引上げ意に従へと言つて殴つたり短刀を抜いて脅迫したりするので、妹は叫び声を上げて救ひを求めた。かね子も吃驚して二階に上つたが怒られて下された。
恰ど八日はあの大嵐の日で其の時はもう晩の五時であつたし、叫び声は家の外へは洩れなかつたかも知れないが、家の下の部屋にゐる島田の母親と書生にはよく聞えた筈で、かね子も書生に島田の凶暴をとめてくれと頼んだが、書生も母親も二階に上らうとさへしなかつた。妹は時間も晩くなるし、かね子を帰さないと気の毒と思ひ、若しもの事があれば死ぬ、帰りに麻布の家に行つて知らせて呉れと頼んでかね子を帰した。
その後で妹はどうしても帰らうとすると、島田は何処かへ出たければ一緒に出ようといふので兎も角外へ出た上で逃げようと考へた。それに当時私は京都に旅行中だつたので、迎ひに来るとすれば父より外にないが、島田が老年の父にどんな乱暴もし兼ねないと思つたので、一緒に出ることを承知すると、島田は車を二台呼び、鞄を持ち出して旅の仕度をしてゐるので、其の間に妹は紙片に『交番に知らせてくれ』と書き、五円紙幣と共に、車に乗る時車夫に渡すと、島田がそれを見つけて車夫から取り上げ、紙片を引裂いて了つた。それから渋谷駅から電車で品川へ行き、汽車に乗り替へて葉山に行つたが、其の間妹は恐怖に脅えて頭がぐら/\して居り、島田の監視が厳重で逃げる事が出来なかつた。
一方かね子から事情を聞いた父は驚いてかね子を案内に二人自働車に乗り、暴風雨を冒して島田の家に駆けつけると、恰ど家の前で二台の車が梶棒を上げる処であつたから、屹度島田と妹だらうと思つて声をかけると、違ひますと言つた。一人は年寄りの女の声で一人は若い男の声であつた。車夫にきくと島田さんには誰もゐませんと言つた。門は内から閉まり横手のくゞりは外から錠が下りてゐた。頻りに呼んだが声が無いので近所の交番から巡査をつれて来て調べたが、矢張り無人のやうであつた。仕方なく淀橋署に行つて届け出たが、父には島田と妹がどんな事情にあるのか丸で関係が分らないので、すぐに告訴をもし兼ねたのであらうと思ふ。
徳富蘇峰氏を呼び自己の偉大を誇示す 京都へ行く途上に拘引
空しく帰宅した父はすぐ親戚の人々に来て貰つて相談したが、父や親戚には島田清次郎が何者か分らず、鵠沼に島田といふ別荘があるがそれでは無いかと翌九日親戚の者が鵠沼へ出向いたが要領を得なかつた。
私は九日に京都から鎌倉の家に帰ると、父から直ぐ来いといふ電報が来てゐたので急いで上京すると、鵠沼へ行つた者はまだ帰つてゐなかつた。その帰りを待つて相談したが、私にも全然行先きの見当がつかない。とにかく代々木の島田の家に行つて見ると、書生が一人ゐたが何を聞いても要領を得ないので、其の晩の車屋を確かめて訊ねて見ると、その夕方と夜にかけて車が五台出てゐる。最初の一台はかね子の乗つたもので、次の二台は島田と妹らしい。最後の二台は父の見たもので、之は島田の母親が急に金沢へでも帰ることになつて、書生がそれを停車場に送つて行つたものと分つた。
一方葉山の養神亭へついてからも島田は厳重に監視し、一寸立つても後へついて歩き部屋では絶えず意に従へと言つて脅迫し、殴つたり髪を掴んで引き摺り廻したりした。妹は食事の勇気もなく、十日の午後まで一食も一睡もしなかつた。島田が飯を食へと起るので、飲んだ風をして牛乳を捨てたりした。島田は短刀を抜いて床の花瓶に挿してある桜の枝を切つて切れ味を見せて脅しもした。その短刀は鞘がこはれてゐたが島田は、之は鞘のまゝで人を殴つた時に破れたのだと言つた。
二人は坐つて睨み合つてゐたが、九日の晩宿の女中が湯に入つてゐるのを知り、女中に話して救つて貰はうと思ひ、島田の止めるを強ひて湯に入つたが、島田は湯殿の入口に立つて監視し、妹が女中に一と言云ひかけると島田が怒つて湯から妹を引出して了つた。妹は金を十五円持つてゐたが、島田はそれを取り上げて逃げ出す旅費を無くして了つた。
九日に徳富蘇峰氏が島田を訪問した。何と島田が電話をかけたか分らないが、アノ老大家が確に桜山の別荘からやつて来た。ある新聞にはそれが妹との結婚を頼む為めに島田が氏に来て貰つたやうになつてゐるが、事実は島田が徳富氏程の人も自分が呼べば来るといふ自分の偉大さを妹に見せる為めにした事で扨て、徳富氏は来たが何の話題もないので此の娘と結婚したから媒酌をして欲しいなどと口から出任せに喋つたらしいので、蘇峰氏はこの時国木田独歩の話などをし、島田に君は気の変り易い人間ではないのか、結婚はよく考へなきアいかんなどと言つたさうだ。
十日の朝になつて妹はやつと隙を見つけて女中に助けて呉れと言つたので、女中は直ぐに葉山署に届けたらしいが、恰度摂政殿下が葉山の御用邸に行啓されて警察に余裕が無かつたらしく直ぐには来て呉れなかつた。その内に島田は急にこれから京都に行くと言ひ出し、自動車を呼んで停車場に行つたのが午後三時半で、殿下の御帰京を警衛してゐた警官が、養神亭からの届出での不審人物として拘引したのである。そして葉山署からの電話で父が葉山へ行つて妹を連れて帰つた。葉山で捕まつた時、島田は恐ろしい顔をして、妹に『おれに悪い事を言ふと承知しないぞ、おれは手を出さないが子分がいくらもゐるから』と言つて脅かしたとかで、妹は今でもそれを恐れてゐる。(完)

(以下てい子の長兄の日記)前述の事柄は私が実際に調査したり、島田氏の誘拐から逃れて帰宅した妹から聞いた事実を綜合したもので、この事件の誤らぬ真相と思ふ。かゝる事柄は私達の立場として世間に発表されたくなかつたのだが、諸新聞に書き立てられた以上は、実際の事実を人々に知つて貰いたいと思つてお話したのだ。うか/\と未知の島田氏を訪ねたりした妹の軽率な好意は責むべきだが、島田氏の暴行は前述の如く驚くべきものだ。人々の公平な判断を仰ぎたい。私が同じ文芸に携はつてゐる者だけに、島田氏のかゝる行為は文壇の為にも悲しまないではゐられない。今後の処置については、私達の感情のみによつて動くべきものでなく、作家として又一種の人傑として大望を抱いてゐるらしい島田氏の将来も考へ、その上事件が世間に発表されたからには、社会問題としても十分に考慮を払つた上、最も正当だと信ずる方法を採りたいと思つてゐる。それから附加へて置きたいのは、私達兄弟は文芸に携つてはゐるが、二人とも島田氏とは一面識さへないことを知つて置いて貰いたい。さもないと妹や私達兄弟が人々からどんな誤解を受けるかも知れないと思ふからだ。とにかく悲しむべき厭はしい事件だ。私達に弱点がまつたくないとしても、かゝる事件が私達の家庭で惹き起されたことは、社会に対して慚愧しないではゐられない。
底本:読売新聞大正12年4月14〜16日号

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