自称天才の末路 精神病院に泣く島清君
丘緑

島清君の売り出した頃
 「地上」第一篇が世に現はれて、洛陽の紙価を高からしめた頃の島清君の勢ひは全く素晴らしいものであつた。始めて日本の文壇に大天才が現はれたかの如くに思はれ、島清君自身は勿論自分を天才なりと堅く信じ、且つ自称してゐた。彼は既成文壇の大家を軽蔑し、殊に彼の「地上」を新潮社に紹介した生田長江氏や徳田秋声氏等までも軽蔑し、かなり傲慢な態度を執つたものらしい。殊に生田長江氏等の宅へ遊びに行つた際に、恰も座に文士や、文学青年などが居ると、非常に尊大ぶつて、生田氏にも、座の客にも狂人らしい程の態度を示したらしい、「宇宙」以下の話はしなかつたと笑はれたのもその頃である。
「地上」第一篇は島清君が、未だ文壇に少しも名のない全くの文学青年であつたので、いゝ加減の原稿料であつたらしいが、発行所が何しろ名高い新潮社のことであり、地上の内容も既成文壇の作家のやうに狭い範囲の自己の経験や告白などとは異つて女郎屋の内幕などをそろ/\文壇に流行しかけたセンチメンタリズムで行つたのだから発行後間もなく数万部を売り尽すといふ勢ひであつた。
 世間からはやんやと喝采されるし、既成文壇の作家からも女郎屋の内幕を露骨に描いたあたりは青年の割には仲々よく書けてゐるので、或る一部では評判が良かつた。何よりも先づ碌々飯も食はないで、髪のみ蓬々とのばし、骨と皮ばかりになつた文壇の大家の門のあたりを原稿を抱いて迂路ついてゐる文学青年達の羨望の的になつたことは、彼の最も得意なところであつた。文学青年の中には、島清君に書を寄せて、彼の創作を讃美したり、態々彼の下宿を訪ねて彼と親しむことを喜ぶものすらもあつた。かゝる際には、島清君は腹が空いてよろ/\になつた文学青年に「宇宙」以上の話をして盛に煙に捲いたものだ。その頃、島清君は俺はマンではなくキングであると言つてゐた。
 次いで地上第二篇、第三篇を書いたが、これは第一篇ほどは売れなかつたらしいが、いづれにしても彼が数万円の印税を得たことは事実だから売れ行きは素晴らしいものであつた。市内を自動車で横行し、温泉や、ホテルで大威張りになつて、女中などにいたづらをしたりなどして何処へ行つても嫌はれてゐたもので岩野泡鳴氏が始めて道を拓いてから文士仲間で有名になつて、何時行つて見ても知名な文士が必ず一人か二人はゐた大森の大金に泊つてゐた時なども、女中に暴行を試みて追ひ出されたなども、島清君全盛時代の隠れた話である。郷里の金沢付近の温泉でも女中に暴行しかけたとかで土地の警察に拘引された話もある。欧米漫遊に出かけた際に、太平洋の真中でアメリカの大使館に赴任する三等書記官某氏の新夫人に露骨なキスを要求したとかで、桑港(サンフランシスコ)電報で「渡米文士の失敗」と報ぜられたこともある。
 島清君は余り文壇に友人を持つてゐなかつた。勿論、誰も島清君の対手(あいて)になつて遊ぶものがなかつたであらうが、数万円の印税を取りながらも彼と一緒になつて金を使つたものは不思議にも一人もないらしい。高い原稿料を取つて大勢の仲間や文学青年とカフエや待合で、金を湯水のやうに大ぴらに使つてゐるのが、今日の文士達の生活であるのに、島清君ほど金を隠れて費つたものは珍らしい方である。彼は元来プロ出身で、金には非常にケチであつたらしい。雑誌記者や本屋などと一緒に晩飯を食つて必ず彼は割前を要求したらしいのを見ても分る。島清君が文士仲間で評判が悪るかつたのは、勿論彼の(きちが)ひじみた自称天才と、人格の劣悪なことも原因であらうが、一面に彼が金には非常にケチで、仲間遊びも出来なかつたり、雑誌社や、本屋などにも無理な要求をしたので大概のものは呆れたものだ。
キングから屋外漂泊者に
 島清君の失脚は、何と言つても例の舟木芳江嬢との事件からだ、あの事件の起らぬ前は、天下の島清と言はれなくとも、少しく頭を下げて雑誌社の御用聞になつてどうやらかうやら文士生活は出来たものだ。外遊から日本に帰つて「我世に勝てり」を出して文壇以外に、社会問題、政治問題等に大風呂敷を拡げようとしたが、誰も相手にしなかつたから何の効果もなかつた。本も余り売れなかつたらしい。しかし彼は少しも悲観しないで、代々木富ヶ谷に大きな邸宅を構へて田舎から来た母と共に豪奢な生活をしてゐた。彼が文士として、又社会改造家として幾分の重きをなして、世に働くだけの素地を作ることが出来たとすれば、その頃が一番好機会であつたらしいが、不幸にも芳江嬢事件の為めに、再び起つ能はざるまで失脚して終つたのは、如何に狂ひじみた彼にも幾分の同情は出来る。
 芳江嬢事件の為めには、彼はすつかり社会的に葬られて今まで出した本は少しも売れなくなり、折角出しかけて紙型にまでなつた「釈迦」もたうとう世に現はれずに終つた。震災前頃はもう家賃も払へずにゐたらしい。
 彼は震災で代々木の家が倒壊したのを好機会に郷里金沢へ帰つたが、年末に再び上京して原稿を持ち廻つても、何処の社でも相手にしないので、ひどく生活に困つたらしく出逢ふ人毎に金を貸せと言つて困らせたらしい。
 彼が困り抜いて、下宿にゐたゝまらずに、屋外を放浪するやうになつたのは、今年の春頃からである。
 大磯の正宗白鳥氏の宅を訪ねたのは七月頃である。白鳥氏の宅には昨年も訪問したので同氏夫妻は島清君の顔を覚えてゐたが、白鳥氏も文壇の事情の明るい××氏から既に島清君の近情を聞いて知つてゐたので、容易に上れとは言はなかつたらしいが、無遠慮な彼はずん/\上り込んで白鳥氏を困らした。新潮九月号の白鳥氏の「来訪者」の主人公は言ふまでもなく島清君である。白鳥氏の冷たいリアリズムは当時の島清君の姿をかう描いてゐる――時々やつて来る無心者ではないかと疑はれた。抱へてゐる汚い風呂敷包みの中には筆か墨が入つてゐるのぢやないかと思はれた。来訪者は私と顔を見合せると、懐つこさうに微笑した。そして足早く歩いて、閾を跨いだが、それと同時に私は思ひ出して「アヽ安達か」と独言のやうに言つた。安達はろくに挨拶もしないで、足袋を穿いてゐない埃つぽい足で玄関に上つた。「オイ無断で人の家に上つちやいけないぜ」と私が咎めると安達は何とも答へないで、玄関の壁際に無作法な姿勢をして座つた。――
 安達とは島清君のことである。零落しても相当に図々しい島清君の態度が如何にも良く描かれてゐる。彼は前夜どこで寝たことか、何時飯を喰つたことか少しも分らなかつたらしい。白鳥氏夫人から昼食を御馳走になつて、夕方まで昼寝して、已むなく帰つたらしいが、「大磯雑筆」を書き度いから玄関脇の三畳を借して呉れとか、原稿を世話して呉れとか、言つて白鳥氏に頼んだが「人に物を頼むならもつと謙遜になれ」とたしなめられたりした。
 徳田秋声氏も島清君には余程困らせられた一人である。秋声氏は島清君と同郷であり、且つ島清君を東京に紹介した先輩であるから、島清君から見れば、最も頼り行き易い人である。秋声氏は島清君とは良く親んでゐただけに彼の醜さは最も良く知つてゐる人であり、例の芳江嬢事件の際には仲裁の労を取らうとした位であるから島清君が困つた時には何より先に同氏を訪ねるのが当り前である。が、毎度のことであるから同氏も殆ど寄せつけない。此夏頃も島清君は秋声氏を訪ねたが、相手にしないので、彼は勝手口から入り込んで女中部屋に座つたまゝ動かずに、コーヒーを持つて来いとか、昼頃になると、鰻丼を取つて来いとか言つて大威張りで女中を使つたといふことである。巣鴨で巡行巡査に捕へられる前夜の三時頃などは彼の最後の単行本「釈迦」を出す筈であつたG社の出版部長の門をどん/\敲き起すので、起きて見ると、島清君が人力車に乗つて来て是非泊めて呉れと強要したので僅かな金を恵んで体よく帰したが、門前で車夫から車賃を催促されて喧嘩してゐたらしく大きな声で怒鳴つてゐたといふことなどから察すると、島清君は知り合を訪問しても泊めて呉れる人もなく郊外の墓地や、木の下などで毎夜を明かしたらしい。
 春から夏にかけて依然たる屋外漂泊者になつた島清君は、飢餓と疲労との為めに体も心も全く破壊され、その頃からもう立派に狂人としての生活に入つてゐた。
 正宗白鳥氏の宅を訪ねても、G社の出版部長や徳田秋声氏の宅を訪ねても、必ず泊めて呉れとか、若しくは本能的に明いてゐる室などに眼をつけるところから見ると、如何に彼は屋外漂泊者として夜露に濡れて不安な夜を明かすことの苦痛を深刻に味つたかゞ分る。壁や障子に包まれた落ちついた部屋の中で静かに眠り、開け放たれた窓から露ばんだ朝の光を眺めることがどんなに彼は夢みたことか。そのやうな小さな願ひさへも充たされないで、間もなく巣鴨の精神病院の一室に悩みの身を横へたのである。地上一篇で日本の文壇を支配しやうとした天才(?)の末路がかくまでも悲惨なものであつたのか。
精神病院に於ける島清君
 巣鴨署の密行巡査に捕へられたのは七月三十一日午前二時頃であつた。その夜は瀕々として行はれる爆弾事件の警戒密行をやつてゐると巣鴨橋附近の往来をあちらこちらと何の目的もなく走り歩いてゐる怪しげな男があるので有無を言はず捕へた。見ると、色の黒い、疲れた人相の険悪な男である。黒つぽい垢じみた単衣を着て汚れた風呂敷包を大事さうに抱いてゐるが、どうしたことか全身血まみれになつてゐる。折柄の爆弾騒ぎに緊張し切つてゐた巡査達を非常に驚かした。早速本署に拘引して調べて見ると舟木芳江事件で有名になつた島田清次郎であつたので本署でも再び驚いたといふことである。
 島清君は巣鴨署で「お前達に文芸なんか分るかい」などゝ不相変(あひかはらず)巡査相手に暴言を吐いたので、署でもてつきり狂人と見做してその夜は留め置いて翌日警視庁の金子医師に診断させた結果、真正の狂人として巣鴨の保養院に送られたのである。
 島清君は巣鴨の保養院の公費患者である。つまり入院料の支払能力のないものが東京府の支弁に依て養療する患者である。彼は真正の狂人であつて病名は感情顛倒、忘覚で、喜怒哀楽の変化が限りなく、記憶が脱出したのである。私は島清君がほんとうの狂人であるかどうか、態々(わざわざ)見舞がてら見に行つたが、果して彼は今は疑ひもなく狂者である。「島田にお逢ひになりますか」と係の医員から尋ねられたので「いや、狂人に逢つたからとて記憶もあるまいから仕方がないが、硝子越しに見て行きませう」と言ふと、その医者は直ぐ島清君の病室に案内して呉れた。
 玄関側の応接間を出て島清君の病室に行かうとして広い廊下を中途まで歩いて来ると、案内の医者は急に立ち止つて、大きな泣声のする方を指して「アレが島清ですよ」と言つた。
 島清君の病室は薄ぎたない六畳敷程の室で、他に一人の患者が同室してゐた。不思議なことに彼は病院も破れるやうな大声を出して切に泣いてゐた。「頭が痛い!!」「訳が分らない!!」と悲しい声を出して泣いてゐた。怖々ながら硝子越しに覗いて見ると。彼は両手を頭の両脇に当てゝ室内を駆け廻りながら泣いてゐた。医者が「今に直して上げるから泣くんぢやない」と赤ん坊をだますやうにして彼の頭をなでながら慰めてやると少しは泣き止んだ。間もなく医者が室を出ると又しても大声で泣き出した。この悲惨なる光景を医者と共に廊下で見てゐると、それまで部屋の隅つこの方に黙座してゐた同室患者が、静かな影のやうな声で「何んだ、天下の島清ぢやないか、意気地がない、泣くな、泣くな」とたしなめてゐたのは、如何にもこれこそほんたうに同病相憐れむともいふのかと、微笑を止め得なかつた。
 島清君は大抵の日は、蒲団をかぶつて終日無言のまゝ寝てゐるさうである。余程機嫌のいゝ日には医者を相手にして雑談をしたり、或る時には原稿を書くから原稿紙を呉れと言ふが、少しも書かないらしい。以前知り合ひだつた文壇の知名の士などにも電話をかけることもあるが、いづれも旅行中だとか、何とかかとかと断はられるさうである。舟木芳江嬢の話が出ると、「いづれ結婚するつもりだ」と言ふので、病院の人達からは「あんな女はきれいにあきらめてしまへ」とか、「あんな女のことを考へてゐると病気が直らないぞ」とか言はれてゐるらしい。
 彼は不思議にも風呂に入ることを嫌つてゐる。垢じみた体で部屋の中に寝転んでゐるので、時折風呂に入れるがその際には数名の看護人が泣き叫ぶ島清君を裸にして入れるさうである。
 郷里の母親からは時折手紙が来るさうである。母親の直筆かどうかは知らないがその手紙はかなり情理をつくしたもので、頭のいゝものでなくては到底書けないやうな名文ださうである。
島清君のみれん
 島清君の悲惨なる末路(?)を見るにつけても思ひ出されるのは舟木芳江嬢である。
 島清君は芳江嬢には深い未練を持つてゐることは多くの事実が証明してゐる。今でも出来ることならば芳江嬢と結婚し度いと考へてゐる。発狂したのも或は芳江嬢のことが主な原因になつたであらうと思はれる。震災前或る事情から島清君と懇意になつた男の話によると、彼は雑談の途切れる時には、必ず芳江嬢の話をしたといふことから見ても、彼の未練が如何に根強いものであるかゞ分る。
 島清君が直接舟木家を訪問して芳江嬢に面会を強要したのも、或る男のいたづら半分からの煽動に乗じられたものらしい。それは彼が余りに熱心に芳江嬢の話をするので、すべてラヴアフエヤは本人との直接交渉が最も効果的なものであるから、蔭で徒らに悩むよりは、本人に逢つて自分の真心を打ち明けたならば、必ず成功するに違ひない、君を拒絶するのは芳江嬢の心ではなくて、家族の世間体からだらう」と言はれて島清君も熱心になつて、芳江嬢に逢ふ方法などを聞いたといふことであるが、間もなく島清君が舟木家に訪ねたといふ新聞記事として現はれたのである。
 白鳥氏の「来訪者」の中にも、白鳥夫人と島清君との対話に「不断は忘れてますが、わたしの頭をもつと大きな箪笥のやうな物と仮定すると、この底の方へ着物のやうに畳んでしまつてあるやうなものです、それで時々引き出されるのです」と彼は白鳥夫人に芳江嬢に対する未練を告白してゐる。
 何と言つても島清君は青年である。或は愛すべき青年であるかも知れない。一女性との事件が動機となつて、パンとペンとを共に奪はれ、雨露をしのぐ一夜の宿も与へられずに、わずかに郊外の墓石、公園のベンチにもたれて夜を明かすほどの漂泊者となり、遂には精神病院の一室に狂ひ泣くとは自業自得とはいへ一掬の同情に値ひしない事もあるまい。
底本:「東京」大正13年12月号

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