島田清次郎君の発狂
中山啓
一 彼の家系
飛んだ回顧録の御注文を受けて、聊かたぢらはれずには居られぬ。――事が人々の名誉や何かに係はり、当り触りも多からうから、普通の雑誌であるのなら御断りしたいのであるが、雑誌が専門の雑誌であると云ふので、許せる範囲内で島田君の発狂した原因を、簡単に書いて見る事にする。――島田君の発狂した原因に就ては、殆んど世人が知つて居らぬのだから、これ等の原因の裏面消息を語るのも、研究の一材料となるであらう。
島田君の出世作『地上』に出て来る、彼の故郷は確か大川村としてあつたが、あれは石川県の美川と云ふ処で、手取川の川口にある小港である。
彼の小説では、自分の家を大変の名家のやうに書いてあるが、別に村長でも何でもなく、彼の誇大妄想的な想像から、ああした名家にせねば気がすまなかつたのである。
彼の祖父は誰とか云つて、名を忘れてしまつたが、僕の祖父――千五百石取の小侍であつた――の家の門番をしてゐた者で、非常識な男であつたが、遂に気が変になつてしまつたとか云ふ話であつた。
『地上』を出した当時、彼の母がしきりに僕に向つて、おぢ様のやうになりはせぬかと心配でたまらぬと云ひ云ひして居たが、遂にその通りになつたので、実に気の毒に思つてゐる。――その母は今でも僕の家へやつて来て『清次がどうなつたか見て来てくれ』と云つては、僕が僕の母と連れだつて巣鴨の脳病院へ行つて、控へ室へ彼を連れ出すと、そつと窓の外から覗いて帰るので、つくづく不幸な星月の下に生れた女だなと、気の毒でならぬのである。
そつと窓の外から覗いて帰るのは、彼が母の姿を見ると、必ず連れて帰つて来れとアバれて、四五日は病勢がつのるからである。
二
中学は同じ金沢の第二中学で、僕が四年の時に彼は一年生で、よく柔道をもんでやつたものであつた。その時分は全く小さな子供であつたが、きかぬ気の男で、やたらに負けるのが嫌で、投げると武者ぶりついて来る男であつた。
僕は卒業をすると直ぐに、東京へ出て早稲田に入り、そこを卒業すると、銀座の某商店の番頭になつて働いてゐた。
その時分、雑誌の中で『中外』と云ふのがあつて、始めて新聞半頁の広告をやり出し、中央公論を向うに張つて、ラリカルな思想を宣伝し出した物で、それが財政的に破綻をすると共に、その色彩と特長が分れて『改造』と『解放』が出来たのである。
その雑誌がつぶれる最後の号に、丘浅次郎博士の妙な論文が出たので、僕は番頭ながら癪にさはつて、直ぐに学術的な駁論を書いて、それをその雑誌にのせてもらはうと思つて、友人の紹介で、その『中外』の客員をしてゐる有名な批評家の○○氏の処へ行つたのである。
原稿の事を依頼すると、雑誌がもう来月から出ぬとか云ふ話だと云ふ事を聞いて、がつかりした様な気持で辞して帰らうとすると、玄関のところで色の黒い青年が入つて来るのに出会つた。
夕暮の光を背にして入つて来るので、誰であるか分らぬので、黙つて出やうとすると、その男は僕に声をかけて『あなたは中山さんぢやありませぬか』と尋ねるのである。――何だか見おぼえのあるやうな、ないやうな気がするので、誰であるかを反問して、やつと島田君である事が分つたのである。
主人の○○氏は『やあ御存じですか、島田君はね、今度非常に良い小説を書きましてね、それを出版してくれと云つて、持つて来ましたがね、実に感心してしまひましたよ、今日新潮社へ行つて出す相談をして来たのですよ』との話。それからどうして食つてゐるかとか何とか云ふ話で、非常に困つてゐるので、当分飯が食へる様になるまで、僕の家に来たまへと云ふので、根津権現前にあつた僕の家に連れて来たので、『地上』が出たのは何でもそれから四ケ月ばかりたつてからで、僕の家に居た時である。
僕の家に来た時は乞食のやうな、なりをして居り、体から乞食のやうな臭気を発するので、それをすつかり洗濯をし、僕の衣物なんかを著せて、どうにか不自由のないまでにしたのである。
いよいよ『地上』が出て、名声があがると、島田式と云ふ高慢が芽を現はして来たので、家に居ると僕や妹や僕の両親を、全く奴隷視する様になり、『お前の家に居てやるのを光栄とおぼえろ』とか、何とか云ふ変な事を云ひ出したのである。
両親からも抗議が出、妹からは手を握るの、何のと云ふ抗議が出、何だつたかつかの機会に、余り乱暴な事を云ふので、僕も堪忍袋の緒をきつて、家の外へ投げ出してしまつたのである。彼は衣物の泥を払ひもせず、おぼえて居ろと立ち去つて、車屋に荷物を取りに寄させて、ドコかへ移つてしまつた。それからの島田君の生活は、有名な『島清』式のものとなつたのである。
三
島清式の生活を自分で英雄がつてゐる冬、例のヒドイ流行感冒が世界中を脅かし始めた。その時彼もその患者の一人であつたが、島清式の英雄ぶりに誰も寄りつかぬので、非常に孤独であつたのであらう。彼は突然に僕にハガキを寄せて『流感で臥てゐる。人は冷たし、木枯は寒し、これまでの態度は悪かつたから、看護に来てくれ』と云つて来た。
それで彼も前非を悔いたか、生意気にならぬさえしたならば、また良い友達になつてやらうと思ひながら、彼の下宿に行つたのである。
彼は本郷の蓬莱館とか何とか云ふ安下宿に居り、『地上』が出たとは云ふものの、同書の第一部は無印税の約束だつたので、本が売れてもみぢめな姿で、毎月五十円かづつもらふ金で生活してゐたのであつた。
見ると障子は破れて外気が吹雪き込み、障子や戸は建てつきが悪くて、風が吹き入るのである。実に悲惨とも何とも、云ひ様ない病状であつた。額に手をさはつて見ると、四十度もある大熱である。
この悲惨な光景にすつかり同情をして、早速に糊を買つて障子を張りかへ、障子の隙間には新聞紙をつめ、炭を買つて湯気をわかし部屋を温め、流感に特効のある漢方の『地龍』を煎じ出して、飲ませると翌朝から平熱になり、食大に進み三日目には床の上に坐せるだけに回復した。
かくて少し元気が出ると、また島清式の高慢が出て、僕を下男扱ひにするのである。然し最後になつて、とうとう僕の堪忍も爆発してしまつた。――それは彼が『地上』を出してもらつた○○氏に対して、聞き棄てならぬ暴言を吐き『天才に奉仕するのが凡人の勤めだ』と云つた。
僕は『ほう、では僕が君を看護するのも、君の様な天才に対するつとめかね』と聞くと、『そうだ、生意気な口答をするな、貴様は同郷だから出入りを許してやるのだ、我輩の看病をさせてやるのを有難く思へ』との話。
あんまり癪にさはつたので、僕も声を大きくして『何を云ふか、お前は木枯は寒し、人は冷たし、来てくれ頼むと泣言で哀願したから、窮鳥も懐に入れば猟師も云々と云ふから、お前は生意気な野郎だが、来てやつたのだ、お前に何の責任があつて奉仕せねばならぬのか』と怒鳴つた。
すると『天才に反抗するか』と云つて、まるで殿様が家来を手打ちにする様な形で、僕になぐり掛つたのである。
僕はしつかりと其手を押へて『まあ静かにしろ、僕をなぐりたければ何時でも相手になつてやる。然し僕は今健康だ、お前は病人だ、お前の対手にはなれぬ、病人をなぐつて死なれては困るからな。貴様が健康になつたら、何時でも相手になつてやる。イヤ必ず貴様をなぐつて見せる。中学時代の手並をおぼえて居ろうが』
と云つて、その部屋を逃げ出した。島清君は二階の上から『糞ッ馬鹿!帰れ』と怒鳴つてゐた。これには如何な僕も呆れ果ててしまつた。それから病気が治るなり必ず、なぐりつける決心をし、人にもそれを語つてゐた。
四
島田君の病を治して間もなく、僕は店員生活をやめて新聞記者になつたが、島田君を見つけ次第になぐるつもりで、秘かに懐ろに武器を入れて歩いたりしてゐた。
島田君が治つたと云ふ話を聞いたが、ちつとも姿を見せぬ。下宿へ尋ねて行つても、移つてしまつたと云ふ。
実は文士の常として、頗る腕力が弱いので、兇器でヒドイ目にでも合はせてやらねば、或は負けるかも知れぬと武器を用意してゐたのだ。だが内心では今ではアイツに負けるかも知れぬがと、少々こわかつたものだ。
処が弱い男の下にも、下には下があるもので、或る知人の医者の処へ行くと『島田君がね、君になぐられるのが恐ろしいと云つて、クゲ沼に行きましたよ』との話。――僕も僕に恐ろしがる男が世にあるものかなと、実は自分でほつとしたのである。――義理にでも喧嘩をせねばならぬと思つたので。
だが人間は相手が弱いと見ると、つけあがる癖があるもので、島田君が僕に恐れをなして逃げ出したとなると、急に気が強くなつて、クゲ沼へなぐりに行くと云ふ手紙を出したものである。――すると先生、また其処を恐れて国へ帰つてしまつた。
国へ帰つては彼は母と二人で二階借りを始めたが、運悪くも其家は、僕の母の里家であつて、彼の行動は一々僕の処へ達した。――何でも従弟からの通信によると、其処での彼の生活も狂的なものであつて、母と二人で飯を食つてゐて、気に入らぬ事があると、イキナリお汁を母親の面から、ひつかけた事が度々で、母親は良くこぼしこぼし、顔を洗ひに下におりて来たと云ふ。また時折は母を足で蹴つて、非常な虐待をした事もあると云ふのである。
こんな親不孝な通信に接すると、僕の血は義憤に燃えた。そして従弟に対して、島田の暴行から其母を救つて保護してやれと書き送つたのである。――これに刺戟されて、僕の従弟は、島田が母を二階から蹴落してしまふと怒鳴つてあばれた時、それを仲裁して、島田をヒドクなぐりつけたと云ふ事である。――ところが母となると、また変に子供が可愛ゆいと見えて、自分を保護するために、他人が息子をなぐるのが気にくはぬのであつた。
それや、これやで島田君はまた、母の里を飛び出して、また上京して、今度は洋行となつたのである。
五
洋行から帰つて来て、舟木事件を起し、全く世の中から捨てられてしまつた。そしてそのあとに直ぐに大正十二年の大地震がやつて来た。
僕の根津の家は焼けなかつたが半壊になつて、住めなくなつたので、下落合の親戚の家を転宅する事になつたが、そこは下宿屋の跡の大きな家であつたので、部屋があいて居た。すると或日叔母に家を借りる約束をして、荷物を持ち込んだ男がある。――見ると島田君だ。
その家には金沢で島田君に二階を借した、僕の祖母も来て居れば、また島田君をなぐりつけた従弟も来てゐる。島田君は僕達を見ると、顔の色をかへて考へこんでしまつたのである。
然し地震の後だ。お互ひに親切にしあいたい心で一ぱいになつてゐる時でもあり、僕も島田君の一切を許して、友達になる事になつた。――島田君は舟木事件でひどい目にあつて、すつかりおとなしくなつて、僕や母の云ふ事を、ハイ/\とかしこまつて聞いて居る様子が、実におかしい程だつた。
だが島田の母を虐待する癖は、当分の中は無かつたが、二三ケ月すると、そろ/\始つて来出して、或日島田君が母をなぐりつけ、母が逃げるのを追ふて、僕等の住んでゐる棟にやつて来た。丁度その時は、僕が留守であつたが、それを見た僕の従弟が島田君の母をかばいながら、島田君をなぐりつけた。島田君の金ブチの眼鏡はこはれて飛び、更に喰つてかかるのを、廊下から庭へ投げ飛ばしてしまつた。
すると島田君は「糞ツ」と云ひながら、自分の部屋へ帰つて、カバンを持つてぷんぷん云つて、家を飛び出してしまつたとの事である。
それからドコをドウ飛び渉いたのか、一週間ほどたつと、新聞に島田君の発狂が報ぜられ、母親は気毒な様に泣きくづれた。――何でも菊池寛君あたりの家へも、泊めてくれと云つて出掛けたとの事も新聞に見えた。
六
島田君の発狂はこの様に、根本の原因は其の家系に精神病者があるからであるが、その精神異常をいよ/\本物にした直接の誘引は何であつたか。
僕は彼の母の願ひで病院へ見舞ひに行つたり、或は彼から餡パンが食ひたいから持つて来てほしいなど云ふ手紙が来る度に、それを持つて出掛けて居るが、昨年彼の気分も大分に落ちついて来たので、或日『君はなぜ気が狂つたか、その第一の原因は何か』と問ふた事がある。
すると彼は『地上』を出すために世話になつた文士の事を云ひ出して『君は○○の病気の事を知つてゐるだらう。僕はあの病気を知らず出入をし、あそこで飯を食つたり何かしたが、あの恐ろしい○○病がうつりはせなかつたらうかと、しよちう心配になり、一寸蚤が食つたのを見ても、その徴候でないかと心臓がドキリとし、熱が出ても心配になり、果ては夢にまで体がくづれて、浅草あたりを乞食してゐるのを見、それがしよつちう頭を離れなかつた。それだ』
と云つて淋しく笑つた。○○氏は島田君を世に出し、恩を仇で報ぜられて、全く煮え湯を飲まされた形だつたが、その病気によつて島田君の遺伝的な恐迫感念を刺戟して、無形の報復をした事になつたのだ。
○○氏の病気に就ては、誰でもイヤであるが、そう何時までも恐迫感念におそはれると云ふ事が精神病患者たるの故であつた。かくて僕が彼を流感の時に救つて、治つたらなぐると云つたのに恐れて、東京を逃げてクゲ沼に行き、更に金沢へ帰つた心理が理解されたのである。
地震で家がつぶれて、僕の家へ偶然にやつて来た時、彼の対世間的の信用は全くゼロであつて、誰も鼻つまみをして対手にしてくれず、たつた僕だけが許したのであつた。然るに従弟にひどく撲られて庭へ投げつけられ、家へ帰るとまた撲られると恐れをなして、外を彷狼し、かくて行く処がなくて家出をして一週間目にいよ/\本物に発狂したのではあるまいか。
何でも彼は洋行で金をなくし、また舟事件で一万円近くも弁護士に脅かされて巻きあげられ、僕の家に来た時は、貯金の通帳に三百円の残金があつたきりであつた。――これからドウして食つて行くのかの心配も、頭にこんがらがつて居たに相違ない。
それや、これやの心配が集りあつて、彼を本物にしてしまつたのである。思へば不運な性格に生れたものである。時々僕の家へ、彼の様子を聞きに来る彼の母を見るにつけ、しみじみと同情の涙がこぼれる。いとしきものは彼の母である。
七
強がりの癖に、気の弱い者であつた。彼の『地上』を出した当時の、まだ金が入らなかつた時代に、良く彼は僕から淫売買ひにつれて行つてくれとか、何を食はしてくれとか我儘を云つたが、それを出来るだけの程度で満足させてやつたが、それを忘れなかつたと見えて、下落合の家に来てから、僕を御馳走するからと云つてさそい出した。
『ほウ君の御馳走になるのか、世は変つたな』と笑ひながら家を出たが、彼は洋行先きで買つて来たプラチナの時計の鎖を質に入れて、五十円ほどの金を借り、本郷の白山の洋食屋へ行つたものだ。
御馳走をすると云つても、僅かに二人で四円に足らぬ勘定だつたが、いよ/\勘定になると、勘定は自分が払ふから、チツプを僕に出してくれと云ふ。あんまり根性がきたないので、よし/\出してやると承諾をすると、彼は十円札で支払をした。女給が釣銭をもつて来ると、僕は女給に釣銭はこちらにと云つて取り寄せ、その五円なにがしの釣銭を、そこに居る女給の全部に分けてやり
『チツプは此様に払ふものだよ、これで安心したらうが』と頭からあびせかけた。――『おい帰らう』と云つても、彼はくやしそうに黙つてゐて椅子から離れやうとはせぬ。
とう/\僕は一人で家に帰つたが、彼はその晩は家へ帰つて来なかつた。白山あたりで泊つたのであらう。
色んな意味で、彼は確かに始めから狂人であつたに相違ない。『地上』は大変に上手だが、偶然に出来たもので、あとの作はダメであり、小さんの落語なんかを小説にして『改造』などへ売りつけてゐた事もある。
人との対話は、全く何を云つてゐるのか、分らぬ方で、突然変な事を云ひ出したり、問ひかけぬのに返事をしてゐたりした。『地上』を出す前から、幻聴などがあつたのではあるまいか。――今でも幻聴は去らぬと云ひ、しきりに病院を出して僕の家に置いてくれと云ふてゐるが、僕は『君が病院で何か病院の事を小説にして書いたら出す』と云ひ、本人も何か書いて見てゐるが、三枚と長くまとまつた物が書けず、木に竹をついだ様な、変な連絡のない文章を綴つてゐる。
此の狂人を見るにつけても、しみ/゛\と人生の淋しさを感ずる。――彼が如何に唾棄すべき男であるにしろ、僕にはやつぱり可愛そうでならぬ。そして世間の人達が『地上』の第一巻をも忘れてしまつたのを、なげかはしく思ふ。『地上』の第一巻は、今でもやつぱり良い。もう少し売れても良いであらうにと思ふ。彼は天才であつたが故に、狂人であつたか、或は其反対であるか僕は知らぬ。――時は過ぎて行く、汽船の赤き船腹の過ぎ行くが如く。――人よ淋しからずや。
底本:「脳」昭和2年8月号