島田清次郎の手紙
岸洋介

 島田清次郎が死んでから、もう一年半ばかりになる。彼は作家としても、人間としても、可成特殊な存在であつた。殊にその前半生の華やかさに比して、後半生は余りに悲惨であつた。地上第一巻を著はして一躍人気者となつたのが廿歳頃、そして多くの脱線行為に依つて世間に興味あるニユースを与へ乍ら、遂に精神病院入をしたのが廿六歳、死んだのが三十二歳である。即ち前六年間は流行作家として、後六年間は狂人としての生活であつた。彼の如き若さで一躍文壇の王者的寵児となつたのも珍らしければ、彼の如く末路の悲惨な作家も珍らしい。とも角、彼が大正文壇に於ける一彗星であつたことは事実であらう。天才と狂人、こんな言葉が昔からよく云はれてゐるが、彼などは此の問題に対して一つの興味ある存在である。
 自分は今、彼の在院時代残して置いた手紙に就いて書く。
 これは彼の狂人としての後半生の手記の一つであり、彼の未だ知られざる後半生の秘密である。
 彼の手紙は当時の顕官名士宛のものが多い。これは多く自己の不法監禁を訴へて、退院援助を要求してゐるものである。
一、当時の首相田中男爵宛
表面
東京市麹町区霞ヶ関外務省情報部経由にて内閣総理大臣男爵田中義一閣下
警視庁医務課精神課狂病院保養院不法監禁解除退院許可の件につきて御願
昭和二年四月廿四日――六月三日――六月十五日、西巣鴨庚申塚保養院六号小石川二八六島田清次郎
文面内容
拝啓去る大正十三年七月下旬池袋を俥上三冊の自著原稿包みを携へ通行中の余を巣鴨署の巡査が暴力をふるつて拘引し留置場に不法監禁し(此の巡査は奇怪にも大正十四年九月頃この狂病院にいたるやうなり)警視庁より来れると詐称する狂病院の医員の診察を強制し余が立去らんとするや狂病院は数名掛りで不法監禁(、、、、)し今日迄満二ヶ年数ヶ日の間暴力催眠力、強制的薬品によつて殺人状態(、、、、)を継続してゐます、而して僅少の食料代等を警視庁経由公費支弁であるといふので右費用を返済して退院すべく昨年十二月従来関係のある出版会社○○○○氏が社員を派遣しても催眠暴力をもつて用務をつくさしめず母親が引取りに来ても診察をなさずに退院を許可せず、何とか退院後訴訟を起す考へ(、、、、、、、)で自重してゐる次第ですが余は狂人に非ず此のまゝ幽閉されてゐることは身命に危険です去る五月六日の交渉では警視庁医務課の許可あれば幽閉を解くと云ふのみ何とか直ちに退院許可幽閉解除願ひ上げます、院長は○○○○と称し○○警視庁技師、医員数名、及二三十名の鬼畜(、、)の如き看護人と称するもの、一日も早く退院して慈悲で身心の衰弱を恢復療養しなくては危険です危急の場合御願ひいたします、手続を当局者が執る様御願いします。
二、同じく田中男爵宛
謹んで新年を賀し奉る、昭和四年一月元旦昭和三年十二月十九日
昨年中は種々と有りがたく存じ上げます。大正十三年七月以降の幽閉にてほとほと困却いたしをります。何とぞ一日も早く退院許可のやうお取計ひ願い上げます。(昭和四年一月廿日)敬具
因にかくいつ迄も公費といふ常識はづれた状態であるのは幽閉過程に不承服の点もあつたのですが牛込区矢来町三○○○○(出版業)が余の印税を横領して支払はないのと度々出版会社又わ新聞社がその手続きに社員を派遣しても看護と称する穢多が原稿を強奪するなど妨害して用件を達せしめないのに基因してゐます。
此の二つの手紙で気のつくことは(手紙中の傍点は原文のまゝ)被害妄想の著明なことで、彼の周囲のものが皆彼に害意を持つて色々のことをする様に思つてゐたのである。その為か当時の彼は、常に蒲団を頭からかぶつて、部屋の隅にうづくまつてゐた。又催眠術をかけられて困ると憤慨してゐた。又入院当時のことに就いては――当時彼は巣鴨の通りを泥と血にまみれて、人力車に乗つて通行中を警官に怪しまれたのであるが、後日院長の問に対し『入院時の血痕は帝国ホテルに夕食に行つた時、ボーイを殴りつけたが五六人追かけて来て、日比谷公園の所で私を殴つた。其時私を殴つたは国粋会の○○○と云ひました。其の時鼻血が出たのです。』何故ボーイを殴つたかと問はれて、「島田だと云つても待遇しなかつたからです」尚「金は持つていましたか」「二円持つてゐました、」と答へてゐる。又、当時母親がわざわざ郷里から上京して来たのに拒絶して面会しなかつたやうである。
 尚此の手紙と全く同趣意の手紙が当時の文相、中橋徳五郎氏、小山検事総長、高橋是清氏、尾崎行雄氏、床次竹次郎氏、精神科三宅教授、花井卓蔵氏、後藤新平氏等宛に一通内至数通書かれてゐる。
二、珍田千束氏宛
つゝしんで故珍田捨己伯爵閣下霊前に哀悼の意を表します。
去る大正十三年七月池袋俥上通行中を突然幽閉されて今日に及んでゐますが故伯爵御存生中しば/\伯爵閣下にまで幽閉解除取計ひ方を御願ひしようかと考へましたが余りの境遇を反省して思ひ止つてゐるうちにこの悲しみを知りました。取り敢へず哀悼の意を表します、田中男中橋氏等に去る昭和二年春頃よりたのみをります御大切に遊度候
三、本山彦一氏宛
謹啓愈々御清遊にて慶賀に存じ上げます、去る大正十三年七月下旬以降狂病院に幽閉されて今日迄満三ヶ年五ヶ月以上の歳月を経てゐます、貴社発行昭和三年一月廿一日附東京日日新聞学芸欄記事中現代長編小説全集といふものが新潮社から出版されて余輩の著書の一冊が刊行されるごとく誤聞されたさうで御座いますが右は全く事実相違にて昨年十二月末同店員に余は明白に拒絶したるもの(、、、、、、、)にしてその際然らばその理由が承りたいとの事であつたが理由は余の旧著「地上」はすでに普及してゐるので、これ以上読者を拡める必要が全然無い事、余は好まないことに存するのであるから拒絶は絶対的なることをここに再び声明して一般の誤解を防ぎ助力希いをきます、去る大正十三年七月下旬幽閉の当初貴紙には余が半夜に郊外を彷徨してゐた如く伝えられてゐたさうですが事実は白昼俥上論究一冊、小説一冊の風呂敷包みを携えて池袋通りの一知人を往訪中余を栃木県生○○○○等の交番巡査が暴力を揮いたるものにて、ことに巣鴨署まで単独不法拘引監禁したるものです、警視庁衛生部医務精神課に退院又は他の善良なる病院え移転方を速かに許可されんことを希望いたしをきます、以上簡単乍ら訂正希います特に退院出来る様に御援助願います 敬具
同様の趣意の葉書が日日新聞社編集局編集長学芸部係宛に出されてゐる。
四、警視庁医務課精神科宛
一、退院の許可を願います
一、左の事由により他の善良なる病院に移転方希望します
一、容体宜しからざるわ診療に間違いあるにあらずや
一、前年引取りにある会社員が来たりたる時これを碍害したるものが未だ処分されてゐないのでそれ以上退院手続をたのみ得ないによる、ことに△△印及他一名わ言語を交えざるも穢多なりと考へられ屡々危害を及ぼして危険ある事適当の処置願います
五、知人宛のもの
去る大正十三年七月下旬余幽閉以来今日まで実に不断にお見まい下され実に有りがたく深く感謝に堪へません、どうぞ本年も宜しく切に願います、貴君の健康を祈り又一同にもよろしく申上げて下さい、又これは余が申上げるまでもないがどうか商用で旅に出られても女と酒を厳重につゝしまれるやう(・・・・・・・・・・・・・・・)今からでも忠告してをきます、昨年十二月一度たづねられたが御目にかゝれなかつたがその前にわ御菓子と雑誌をありがとう今度この葉書がつきましたらついでがあつたら一度寄つて下さい、その時昨年夏から去年のくれにかけて郷里の母から着物と一緒に送つて来たお菓子折りを五六度にわたつて看護に悪い奴がいて余の手にわたつていないので腹の虫がおさまらないので困つてをりますから次の物品を買つてもつて来て余に会つて余に渡して下さい、代金わあとで返済します、
 一、キャンデイ一箱 二、餅菓子一箱 三、葡萄酒一瓶
右願いますよ、又公費と云ふ目下の待遇は危険ですから故郷の母へ早く警視庁へいつて手つゞきして退院引取り方を忠告して下さいたのみます。
六、知人宛のもの
此の手紙就き次第直ちに院長に直接お目にかゝり「余一身を責任をもつて引受ける」ことをあく迄主張して余を引取られ度し、尚一切の支払は必ず全部支払ふべきこと、然らざれば余の生涯は警視庁あたりの間諜と云ふやうなものと同一視される結果になります、(註、公費患者であると云ふことのためであらう)退院に際して何か手続が必要ならば(余は一切の支払ひをする丈けで充分と心得るが)余は健康を取りかへしてゐますから貴下と一緒に退院後によくその旨を院長に話して下さい、尚院長から余を院長診察室にまで呼出しててもらつて願つて下さる様願ひます、ぐずぐずしてゐると何時までのばされるか分りませぬ、此の上特に願ひます
尚御承知か知らぬが保養院のものは皆催眠術を使ふから(・・・・・・・・)最初の意志をごまかされぬ様何より肝心です。
何より余自身を保養院の外へ引きとることが肝心です。
以上の如きが彼の手紙の大体である。彼の手紙で変つてゐるのは、宛名を書いてある表面に色々用件の大意のやうなことが書いてあることや、違つた日附が二つも三つも書いてあること、又文面が消した所だらけでまるで模様か何かの様になつてゐる事等である。
 彼の症状は前にも云つた通り被害妄想があり、その為医員等には殆ど打あけた話をしなかつた、平素は終日部屋の隅に蒲団を頭からかぶつて坐つていて、殆んど他患者と口をきかなかつたが、時々亢奮して怒鳴つたり、着物を引裂いたり、窓から小便したり、唾を部屋中に吐き散らかしたり等した。又絶えず梅毒だから血液検査をしてくれと云ひ、検査の結果陰性と判明した後も、会ふ度に血液検査と六〇六号の注射を請求してゐた。又時には幻想があるらしく、独語を云つてゐた様である。昭和四年には割合元気になつて毎日原稿を書いてゐた。一度どんなことを書いてゐるかと思つて一寸見たが、余りの大長編なので読まずにしまつた。昭和四年一月中頃より肺結核となりて発熱し、病院としても名高い患者だから、色々手当をして見たが、4月廿九日に死んだ。
 彼の家系には彼の母方の祖父及び母の弟に精神病の人がある。彼の病名は早発性痴呆症の内の破瓜病と云ふ病気であつて遺伝関係は右の如く可成り著明である。彼の父は早く死んで、彼は伯父に育てられた。自分は彼の伯父に会つたが、伯父の話では彼は小学、中学時代から全く始末に終へない乱暴者で、癇癪が強く、少し気に入らぬと何でも投げ飛ばすので全く弱つたそうである。彼が作家として著明であつた時代も彼の性質は少しもよくはならず、むしろ我儘がつのつた位だそうである。洋行から帰つて来た時も全く突然二百円持つて神戸へ迎へに来いと云つて来たので、金沢から遥々金を都合して出かけ、久し振に一緒に上京しようと思つてゐると、金を受取るとそのまゝ待合室から行方不明になつてしまつたと云ふ話である。
 古来著名の文芸家や、音楽家にして狂死した人は多い。又世にときめきし人の精神異常を来すことは往々見る所である。島田清次郎もその一人であらう。彼が果して天才であつたか狂人であつたかの問題に関して自分の此の記述も何等かの参考になりうるものと思ふ。
底本:「犯罪公論」昭和7年2月号

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