島○清○郎君の死――被害妄想及心気妄想の一例――
池田隆徳

 昭和五年四月二十九日、天才的の青年文士島○清○郎君は保養院の一室で死んだ。其末路は淋しかつた。

 君が保養院に入院したのは大正十三年七月三十一日で、巣鴨警察署から住所不詳として公費患者で送られて来た、其の入院するに至つた事情が、翌日の東京日々新聞の記事によつて大体知る事が出来る。


あはれ天才島清クンの末路

精神病者と鑑定され昨夜保養院送り

 青山墓地の爆弾事件犯人捜査のため巣鴨署では三十日午前一時から全署員を督して管内の総密行を行つた所、午前二時半ごろ巣鴨町二ノ三五先道路で怪しい男を発見し、刑事が取押へると汚れたゆかたになまなましい血痕を発見したので、こいつ大きな獲物とばかり、有無をいはせず引捕へて取調べると、はじめは辻褄の合はぬ事を申し立てゝゐたが、これなん先日吉野博士の宅におしかけ、居候をきめこんでお得意の一問題起こした天才島○清○郎クンと判明したので、同署でももてあまし、引取り方を徳田秋声氏に交渉したが、同氏も受けつけてくれず、今更放還する訳にもゆかず閉口してゐる。同署警察医の鑑定では精神病者なることが確実なので、更に警視庁金子技師の鑑定を仰いだ結果、いよいよ精神病者として三十一日午前九時巣鴨町庚申塚四一四保養院(私立の精神病院)に送られた。


 翌日型の如く診察して大体次のような答弁を得た。

『年は二十六歳、住所は震災前には代々木富ヶ谷一五六、震災後は郷里金沢に行つたり来たりした。東京では方々友人の所に行つた、此所に来たのは先輩を訪ねる途中警察へ連れられ其れから車で来ました』。

『体を診て下さい、神経衰弱なんです、私は昨年以来或事件で脳を悩ました、他人が私の云ふ事を正解せず、常に反対する、財政上の事かなんかで、僕の病気は脳の病気で味方の医師でなければ判らぬ』。

『友人を訪ねても独身の処ならば宜しいが、妻子のある所には一週間二週間と永居は出来ぬ、気の毒です』。

『入院の前日帝国ホテルに飯食ひに行つたが入れて呉れない、金は二三円持つて居つた、島○だと言つても待遇して呉れない、それでボーイを殴つて逃げて来た、五六人で追駆けて来て日比谷公園の所で私を殴つた、其私を殴つた者は国粋会の佐○間だと言ひました、其時鼻血が出て衣物に血が着いて居たんです』。

『海防義会の評議員桜○昌○少将が媒酌人で○木よ○えと結婚する事になつて居る』。

『知人では浅草左衛門町に長○川○太郎と云ふ遠い親戚がある、世話して呉れる先輩は本郷森川町一番地の徳○秋○』。

『郷里には伯父西○八○が金沢市尻垂坂通町三丁目六に居て、地主で代書をして居ます、母は其伯父の厄介になつて居ます、東京の人達は駄目だから郷里に帰ります』。

 君は白皙黒髪にして眉目清秀、一見して天才児の風がある、病的の症状としては顔貌表情乏しく談話低声で渋滞し、記憶稍不良で感情稍鈍麻し、意志減退して居る、早発性痴呆の破瓜病と云ふ事が判つた。其内に時々親戚知己等の面会があつて、遺伝や既往歴等が判つて来た、父は常○と云ひ三十一歳で病死した、母はみ○と云ひ、五十歳で健存して居る、父方祖父は脚気で五十余歳で死し祖母は長命した、母方祖父が精神病だつた、其れから母の弟が精神病である、君は一人子で同胞がない。

 君は小児の時から癇癪強く自恣だつた、十八歳の時に蓄膿症に罹つた、其外に著患はない、気質は勝気で憤怒し易く、智力は敏捷であつた、中学三年まで修め、次で商業学校一年修業した。

 其後の診察の時に妄覚がある事を愬へる。

『時々誰か催眠術を掛ける、前からそんな事がありました、其時は頭が苦しくなります、隣に寝て居る人の蒲団が恐ろしく見えた、気味が悪い』。

 入院後三四箇月して、春秋社の神田豊穂氏が大泉黒石氏と同伴で私を訪問して来られた。島○君が原稿を持つて居るそうだが、大泉氏に校閲を願つて物になるようだつたら出版し度いと云ふ事である、其れで君を呼んで来意を告げたら快く原稿を渡した、一二週間後に再び大泉氏が来られて、文章は纏つて居るから出版して貰はうと云ふ事である、其れで君を呼んで其旨を告げ、書物の名を求めたら「我れ世に敗れたり」と命名した。大正十三年十二月、其書は出版された、原稿料は在京の親戚の手を経て郷里の母親の手に入つたようである。

 其頃は終日無為に暮らして原稿等は書かない、無趣味で茫然として眉を顰め、時々悲しそうにして居る、室内に痰を吐き散らし、窓から放尿する、其頃から時々診察の時に、

『言ひ悪い事ですが黴毒と○○に罹つて身体が痒くて節々が痛みますから癒して下さい』。

と言ふ。○○の方は事実だが黴毒は事実ではない、血液の反応も陰性である。軽い心気妄想と考へられる。

 又時々人物誤認症があつた、診察中突然私に向つて『あなたは大化会の○○さんですね』と云つた事があつた、又雑誌記者等の面会の時に人を間違へたり、旧知の人を知らないと言つたりした、其等の人の話によれば以前は非常に傲慢で、其れが為めに親友がなく、先輩の人にも感情を害して居る、又利己的で原稿料が手に入つても友人等に奢るやうな事はなく、皆自分で使つて仕舞ふ、先年原稿料二万円這入つた時にも、其れを持つて一人で洋行して来たと云ふ事である、又かつて一高に行つて演説した時に、自分は漱石以後の文豪であると非常な気焔だつたそうである。併し今では私等無名の医師に対しても非常に丁寧である。其後しばしば看護人に向つて、『馬鹿野郎』とか『無礼者』とか怒鳴る事がある、其理由を問ふに、

『看護人が催眠術を掛けて私を殺さうと思つて居る、危険です』と言ふ、被害妄想である。

 其頃頻りに方々に書面を書いて出さうとする、若槻総理大臣、横田大審院長、床次本党総裁、後藤新平子爵等に宛てたものである(次頁に掲げたのもその一つ)。内容は多くは退院に就いて尽力を頼んだものである。

 こんな容態で大正十四年は過ぎた、其後松岡看護人は小林と云ふ死刑囚と同じ顔をして居ると云つた事がある、其頃は能く手拭で頭を包んで居た、診察の時にも其手拭を取らない、頭から背、腹全部痛いと愬へる、前述の妄覚や妄想は矢張り時々現はれて居る、斯くして大正十五年と昭和二年は過ぎた。

 その後は多くは臥褥して稍沈鬱して居る、人に接するのを嫌ふ。

 昭和三年七月二十三日板橋税務署から税務官吏が病院に調査に来た、其れは君の所得額は印税収入で一箇年二万円となつて居るが、其所得税がずつと滞納になつて居ると云ふのである、其れで全盛時代にはそんな事もあつただろうが、今は精神病で而も公費で入院して居るから、そんな税金は納められる筈がないと言つて帰へした。

 昭和四年になつて新聞を切抜いたり、時々原稿を書いたりして居ることがあつた。又衣類や蒲団を破る事がある食器を窓から捨てることがある。

 昭和五年一月になつて左の肺尖加答児(カタル)を起して来た、三十七度余の発熱があり、時々咳嗽がある、其為めダンダン衰弱して来た。

 其れに下痢も加はつて来た、肺の患部はズンズン進んで来た、遂に四月二十九日、君は天才を抱いて空しく斃れた、行年三十二歳、其末路は淋しく哀れで、而も短命であつたが、君の創作の収穫は長命の凡人の遠く及ばない処である、殊に君のローマンスに至つては、世人に一大センセーシヨンを与え、世の父兄に一大教訓を示した。

底本:池田隆徳『妄想』(昭和7年 精神衛生学会刊)

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