“島清”と青春
林正義

 島清こと島田清次郎の思い出を依頼された瞬間、例によって気軽にOKと即答はしたのものの、よく考えてみると三十年ないし四十年ほど昔のことを思い出そうとするのだから、宿酔の朝、前夜の行状を断片的に思い返してみるとき以上にまとまらない。
 ただかれと筆者は少年時代から、後の隣組といったような近距離に住んでいたし、小学校も中学校も同門だったこと、“地上”第一巻に登場してくる和歌子なる女主人公が、偶然にも後で筆者の義姉というような関係におかれるにいたったので、なんとなくそのおぼろげな記憶をたどって御注文に応じないことには義理が立たぬようにおもわれてきたのである。
 ところでかれは小学時代から筆者とは一年か二年上級だったが、そのころのかれは上小柳町の二階家に母親と間借りをしてたようだった。母親には一度も会う機会はなかったが、彼女は西郭かどこかあの辺のとにかく水商売の家の女中もしくは仲居をやっていたのではないかとおもわれる節がある。
 いつかれの家へ遊びに行っても、かれは独りぼっちで、しかもかれはそうした火の消えたような家庭にありながら、少しもさびしそうな様子もなく、母親からは相当小遣いをねだっていたとみえ、少なくも当時の堅気な家庭に育っていた他のわれわれ少年とくらべるとかなり放縦な環境にめぐまれていたような印象を残している。
 独り住まいをさびしがるどころか、驚いたことには、小学五年ころから、同年もしくは一級上の女子同校生にさかんに附け文を送るという始末で、しかもかれのねらう少女はいわゆる才えん型ばかりで、勉強もでき、みめかたちも整っていないことには相手にしないという調子だった。
 とにかく、相手の少女から返事のくるまで根気よく今日からみれば全くあどけない附け文を、それも差出人名義は“黒坊から”の一点張りで、盛んにラヴ・レターを郵送していた。
 相手の少女が自分に興味をもっていようが、いまいが、そんなことは一向お構いなしで、自分がモーションをかければ、いかなる女性でもなびくにきまっているといったような一つの信念に似た気位と心臓の強さを自負していた。
 島清という男は少年時代から、そうした型に属する心臓男だった。
 小遣いには余り不自由しなかったらしいかれは、夏がくると、われわれ友達を誘って、金石や小舞子の海水浴場へよく出かけたものであるが、かれはいつも女子の海水浴場へ突入、裸体の女性群が逃げまどうのなかへ動ずる色もなく、あたりをへいげい――実際へいげいといった方が一番よく当っているが――それでも目元や口元に野性的ではあるが、どことなく魅力的な愛情をひらめかすことを忘れぬ表情で、憶面もなく泳ぎまわるという始末だった。
 この場合遊泳中の女性群が逃げようが逃げまいが、また同行の男性友達が迷惑を感じようが、感じまいが、一向気にかけるというようなことなく、逆にそうした大胆不敵さを同行の友人に得々と誇っているというようなジェスチュアをとっていた。
 われわれは驚いたり、迷惑をしたり、それでいてかれを引きとめることもできず、いつもかれの心臓には押され通しだった。
 かれの風格、心臓、不敵さというものはかように少年時代から大人も及ばぬ迫力に燃えつつあったのである。
 中学はいまの紫錦台中学の前身、二中だった。学校の成績は小学も中学も、一二を争うほどの秀才だった。
 ところが校内の弁論大会があると、かれは必ず登壇、演題は“人格の輝き”とか“青年の使命”などというすこぶる教訓的なもので、その言々句々、その直情的しかも迫真的舌端の数々はこれまた上級生なども遠く及ばぬ構想とジェスチュアで満場を圧するというふうだった。
 かれが二中を中途退学したのは家庭の事情によるものか、あるいはなにか受持教師と論争の果て憤慨して出たのか、はっきりしたことを知らない。
 一説にはかれは当時中学生はゲートルをつける校則となっていたが、ゲートルは青年の足の発育上、不衛生であり障害であるというのでゲートル廃止論を提言して容れられなかったため憤慨して立ち去ったという話だった。
 二中退学後しばらく姿を消していたが、やがて金沢に舞いもどり、当時彦三にあった金沢商業学校に入学したが、これも一年か二年で教師とけんかして退学してしまった。
 和歌子とのロマンスはこのころから始まったもののようであるが、和歌子以外にもかれに追いかけられた女学生は一二に止まらなかったようである。
 しかし“地上”でみてもわかるように、かれは数ある女性のうちで和歌子には最も興味と執着を感じていたらしい。
 そこで和歌子なる女性の分析を試みることとする。
 地上でクローズ・アップされている彼女のポーズは大体真相に近い。
 かの女の父というのは伊藤博文のブレーン・トラストの一人であったが、伊藤博文が朝鮮で凶弾に倒れた後、寺内元帥ににらまれ、宮仕えはすまじきものと慨嘆して、故郷金沢に帰ってきた。
 和歌子とその弟三人は父とともに朝鮮から引揚げてきたが、父は当時全国的に一時は銅山王と呼ばれた横山一家に随身、尾小屋鉱山の顧問のような資格で官吏から実業界に転身した。
 したがってかれら兄弟の住宅は偶然にも筆者と同じ街に構えられたが姉弟四人はいつも留守居を守っていた。和歌子らの母親はとっくに朝鮮で客死していたから、留守宅は和歌子が主婦格、年齢は島清とおそらく同年だったとおもう。
 和歌子という女性は当時の金沢女性の標準からいうと良くいえば進歩的なタイプだったが悪くいえばいわゆるお転婆娘といった感じの、見方によれば姉御型であり、伝法はだでもあった。
 顔立ちは大和なでしこ型でなく、どちらかといえば変装でもしたら、いわゆる男装の麗人とうたわれたかも知れない。
 なにぶん当時広坂通に新設された第二高等女学校の生徒の洋装が、女にあるまじき服装として問題になるほど封建的だった金沢の一角にそうした毛色の変った女性が出現し、それがたまたま狂的天才の素質をもつ島清の近所に住むこととなったので、それがロマンスの芽生えとなったことは宿命的なめぐり合わせだったかも知れない。
 しかし後で聞いた話だが、島清は例のごとく大いに積極的かつ攻撃的だったようだが、和歌子の方ではそれほどでもなく、警戒的だったという。
 家庭を離れ生活の本拠を尾小屋においていた和歌子の父親が島清のわがいとし子に対する熱意と求愛に動かされて、むしろ一緒にさせてやったら、というので島清を探したころ、かれは金沢を去って京都に苦学していた。
 当時のかれの心境は筆者にとって推測の限りでないが、かれの勤務先きが中外日報であり真渓涙骨の門下生として苦難力行にてい身しているというようなうわさが風の便りに伝えられていた。
 狂的天才島田清次郎の処女作、地上は実にこの京都在留中における苦心の作であったと記憶する。
 “地上”を脱稿してからのかれは、これが売込みのため東奔西走、郷土出身の先輩作家の門をたたいたようだが、いずれも取り合わず、最後に生田長江の知遇を得てようやくこれを新潮社から出版する機会にめぐまれたのである。
 二十歳そこそこの青年作家のかくも大胆な花柳紅灯街素破抜きは、当時の創作界に一大センセーションを巻きおこしたこと周知の通りであるが、この画期的作品がついにかれをしてたちまちのうちに松沢病院(注1)に狂死を余儀なくせしめるヒューネラル・マーチの前奏曲となったことはまことに一きくの同情なきを得ない。
 筆者が島清に最後に会ったのはこの地上第一巻が全国津々浦々からあらしの歓呼をうけた直後であった。筆者が旧四高在学中のことである。
 かれは金沢地裁前、胡桃町の、この時も二階家の二間を借りていた。
 筆者がかれに敬意を表するため訪れた時である。かれは薄暗い四畳半の二階に、たんすの引出し二つを裏返しに重ねて机代わりとし、端然とすわって、第二巻“地に潜むもの”を執筆中であった。
 隣の部屋には病魔に襲われた母親が横たわっているような気配だった。
「お母さんも喜んでおられるでしょう。」
 と祝辞を述べた途端
「そうです、しかし母はぼくがどれだけ偉くなったかを知らないだけかわいそうです、実際総理大臣より偉くなったんですからね。」
 ときた。筆者はつぎの言葉に窮した。
「私達もこのごろ“アカシヤ”という同人雑誌をまわしたりしておりますが、何かとよろしく。」
 と半ば退却準備にうつるや、かれはすかさず、
「ぼくのように成功すると、それが刺激となって、君達も真似するようになるんでしょう。」
 筆者は瞬間少し、きているな、と直感し、再会を約してそうこうと暇を告げたが、これが筆者がかれに会った最後となった。
 “地に潜むもの”完成後、かれは矢継早に“われ世に勝てり”を発刊。
 渡米の船中で郷土出身の外交官夫人にたいし恋愛攻勢を試みるほか、最後に海軍少将だったかの令嬢にちょう戦、少年時代さながらの恋愛合戦で終始、その最後がいかにみじめであったかはここに再録するにたえぬものを感ぜしめられる。
 筆者のかれにたいする記憶は大体以上のように決して華々しくもなければ芳しくもないものだった。
 しかしかれの死を慰めるとすれば、もし当時郷土の先輩その他がいま少しくかれを慰ぶし、保護し、鼓舞激励していたらんにはかれもあるいはもっと真人間として、他の郷土先輩作家並みに終りを完了し得たかも知れなかったろうと悔やまれる。
 文壇とか、作家の社会にはわれらの夢想だにおよばぬ封建的残しが今日といえども清算払しょくされずに放置され、依然として新進作家のひのき舞台デビュを困難ならしめているような面も多々温存されているように聞く。
 島清はそうした新進作家中の最初の犠牲者だったようにもうかがわれる。
 これは狂人天才島清を思い出すごとに筆者の脳裏に浮び上ってくるかれにたいする好意的解釈の一端であるのだ。

(注1) 正しくは「保養院」。
底本:「北国文化」昭和25年7月号

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