英雄型の作家(島田清次郎氏に対する公開状)
橋場忠三郎

 島田清次郎君。
 君は、少年時代から友達同士で遣り取りする手紙でゝも、兄か様でなければ承知せず、偶々君で呼びかけたりすると大変機嫌が悪かつたものだ。尤も君の方でも、実は他人から然う呼んで貰ひたなさからだらうが、滅多に君と呼びかけて来なかつたけども。――
 勿論、誰れにだつて其様な傾向はある。けれども君のは殊に其れが甚だしく且つ露骨だつた。鳥渡(ちょっと)したことだが、これは如何にも君らしくて大変面白いと思ふ、ところが一層面白いと思ふことは、その後何年かを経過し少年から青年となつた君の上に猶、否、より甚だしき程度に進んだ其の傾向が看取し得られることだ。病的で何となく不自然のやうにすら感じられる。と言ふと(さぞ)かし君は、真つ赤になつて怒るに違ひなからうが、君のその余りにも大なる、最初はあり余る稚気から生まれ途中反抗的に増大した君のその自信と傲慢とは、心ある者をして反感や不快よりも寧ろ同情と愛とを抱かしむるが如き性質のものである。それと同時に、言ふまでもなく其の点が、君の痼疾的な些つと位の手術では到底快癒しさうにもない病所ではある。而して、これは序に一寸苦言を呈するのだが、最近の君の上に僕は、此の際速かに手術せざるに於いては病愈々(いよいよ)膏肓に入るの危険を感ずる者だ。僕は衷心より其れを怖れる。君の特異なる豊富なる天分の、或はその病所につけ入るかの如き浮薄な批評家の煽動や文壇の厭ふべきかのヂヤアナリズムの為め、譬へ幾分なりとも害はれはすまいかと。
 さて、人としての君は、その少年時代から上に挙げた様な顕著な特徴、と言はんよりも若しかすると其れが君の全部ではあるかも知れぬ、そんな傾向を有つてゐることは君自身否定し得ぬ事実だと僕は確信する。
 今一度繰り直して言はう。君のその、最初は有り剰る稚気から生まれ途中にして反抗的に増大した自信と傲慢とを。
 君の稚気、それは君の最も愛すべき一面であるが、これが君の芸術の唯一の詩的要素である。何時までも失せまいと思はれる稚気(、、)、その稚気(、、)の内容の成長の如何が君の未来の芸術の価値を決すると思ふ。些か突飛に奇抜に過ぎる僕の断定だと、君を初め人は嗤ふかも知れぬ。が僕は、君の少年時代の作品、「復讐(、、)」「反抗(、、)」「廃人(、、)」等から最近の労作に係る「地上」に至るまでの最も忠実なる読者たるの自信に於いて斯く断定を下して憚らぬのである。
 君の十七八歳に書いた物で実に驚嘆すべき作品が以上三篇のほか、未だに僕の記憶を去らぬ物がある。その題名を忘れたのが遺憾である。忌憚なく言へば、君の少年時代の勝れた作品の中には、読者の受ける感銘だけから言つて、現在の作にも()を取らぬ、否、若しかすると君のその稚気が何の蔽ふところもなく露き出しに出てゐたゞけ其れだけ、現在の動もすれば嫌味をさえ伴ふやうになつた一種の型に嵌まつたゼスチユアで以て語り出される其れに比較し、もつとずつと純粋な魅力に富んでゐたやうに思ふ。
 が、それは兎も角、君の作品を読む毎に僕如き君を古くから知つてゐる者をして、私かに微笑するを禁じ得ざらしめ、其処に何とも言へぬ親愛な感じを味はしめるものこそ、それこそ僕の力説する君のその稚気である。
 試に、君の「地上」第一部を見よ、其処には主人公大河平一郎をして心憎くきまでの自由さと大胆さとを以つて、君の感じで言ふなら必らずや「心ゆくばかり」に振る舞はしめ、而して君はその稚気を満足させてゐるではないか? 誰れか其れに当てられざる者があらうか?
 君は、その満足を味はんが為に創作するに違ひない。どんなに/\深い、それは歓喜であつたことか! あれを書いた君の心情を想ふ時、僕はぞツとしたやうな胴震ひを覚へた。
 が、大河平一郎(、、、、、)をして余りにも君の傀儡にしすぎた所にあの作の大きい欠点、人としての君の上に大きい欠陥があることを深く記憶せねばならぬ。君は虫がよすぎた。大河平一郎(、、、、、)を余りにも英雄にしすぎた。君は君の歓びに溺れた結果、自然の運命を(、、、、、、)無視した。そして平気だったのである。
 武者小路(・・・・)氏は「如実には書けぬが真実は書けると思ふ」と言ふことをよく口にせられたも例に依つて頗る平凡で単純だが、氏でなければ容易に口にできぬ言葉だ。君、この貴重な言葉を味つて見給へ。僕は決して自然主義風な単なる描写や、文壇のある一隅で根気よく唱へられてゐるへん(、、)な形ばかりのリアレストたれと、すゝめる者ではない。今更ら其麼(そんな)小つぽげな窮屈な形に拘束せられるにしては、君の詩は余りに大きいのだから。
 君こそは日本の生んだ最もスケヱルの大きい作家だ。あの文壇稀有の長篇「地上」の如きを書き、あれほどまでに緊張した感じと、獅子の吼ゆるにも似た雄々しく力強いリズムとを鳴り響かしめつゝ終始し得る作家、それは君の他に幾人を求め得よう。先づ、嘗つて日本のヘツベルを以つて擬せられた長与善郎(・・・・)氏位のものでなからうか?
 畢意、君は一個の暴君である。ある人が言つた様に芸術家の中に聖者型と英雄型とがあるとすれば、君は正しく後者に属すべき作家でなければならぬ。即ち、己が生命を其処に生かさうが為め自然を都合よく勝手に切盛しすぎる点に於いて、その思想の著しく反抗的で且つ物質的で今の儘では稍浅薄との(そしり)を免れ得ぬ点に於いて、風格の上に必らずしも悪い意味はなく何処ぞに俗気のある点に於いて、非常の野心家であり些か山師らしい臭いのある点に於いて。
 最後に、僕は君の表現の上に一言云はふと思ふ。けれど正直に言ふと君は、その表現から見て到底玄人(、、)たり得ぬ作家であるらしい。君の文章は、広津(・・)氏に悪口言はれた通り、時々へんに浮づいて両足が大地にちやんと附いてゐないやうな、表面の調子だけが妙に甲高いことがよくある。君は一字々々を、君のその内心の素晴らしい音楽を奏で出づる鍵としての使命を与へる意気込で書いて欲しい。
 それから、面倒だから一々数へ立てぬけれど、而して、恁んなことは至極の些末事ではあるけれど、君の作中には往々にして譬へば日本の気候では春と定まつた草花が秋咲いたり、女などが冬着る物を夏着てゐたりするやうな、それに類した錯誤がよくある。それからもつとへん(、、)なのは、これは実例を示さうが「地上」第一部で主人公大河平一郎の恋人たる一少女に「古英雄のやうな眉」を有つた容貌であらしめたりする。誠にグロテスクだ……勿論これは末の末だ。けれども古来より偉大なる作家を以つて目された人の作には恁麼(こんな)風な間違ひすら余り見出せないやうに思ふが、どんなものか。
底本:「新潮」大正9年5月号

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