島田清次郎語録

「お前は何だ。文学者か、芸術家か、予言者か、革命家か、政治家か、哲学者か、いつたい何者だ」
「――」
「答へろ!」
「俺は、俺は、――俺は島田清次郎だ!」
「早春」より
馬鹿なのである。自分がこの馬鹿であることを知つたとき、馬鹿をしつつあることを発見したとき、馬鹿から自らを救ふ道は一直線に馬鹿を押しとほすより外にないやうに思ふ。
「馬鹿」を利用する賢き人々にとつては「馬鹿」に対するある都合のよい分量を予想してゐる。「馬鹿」を押しとほすことによつてその予想してゐる分量を越え、「馬鹿」力であやつつてゐる賢い奴をも「馬鹿」の中に捲き込むより外に仕方がない。
「早春」より
自刃か、然らずんば涙を湛えて微笑せよ
「早春」より
ほんとうの勝利者は常に涙をたゝへてゐるものだよ。
「二つの道」より
僕は永久の強者で僕は永久の勝利者なんだから、僕の仲間入りするところは常に月桂冠が輝やくのだ。
「二つの道」より
僕は君達より生じて、君達を超越したもの、君達は憎むのが役目で、憎まなくてはならない。しかし、僕は憎まなくともよいのですよ。僕にはそんな必要がないのだからね。
「二つの道」より
(米国の老詩人マークハムに「あなたが島田さんですか、たいそうお若い」と言われて)
肉体は若いが、精神は宇宙創生以来の伝統を持つてゐる……。
「鍬に倚れる人マークハム」より
今地と人類の求めるものはあらゆる苦しい認識のうちにも、尚人間の未来を祝福するもの、尚人間の未来を信ずるもの、そのためにそれのみに生存の使命を感ずるもの、この自分より外にはあるまい。
「ある人に」より
諸君は眼を双手で蔽うて、「太陽が出なくてはならぬ」と言ふけれど、太陽は出てゐるのだ。「己れ」と云ふ若き太陽が出てゐるのだ。眼をひらいてよつくみるがよい。
「閃光雑記」より
日本全体が己れに反対しても世界全部は己れの味方だ。世界全部が反対しても全宇宙は己れの味方だ。宇宙は人間ではない、だから反対することはない。だから、己れは常に勝利者だ。
「閃光雑記」より
己れは、見くびつて失敗したことがなく、常に見くびらなくて失敗してゐる。このことは、正しき認識を怠ることに基因する。換言すれば、私に見くびられないものはこの世には存在しない筈なのである。
「閃光雑記」より
諸君は未だ、世の中と戦つたことのないもの、未だ自分の足で立つたことのないもの、私は一度も二度も世と戦ひ、幾度負けては起きあがり、勝ち、征服し、自分の足で立つてゐる人間。先づこのことからのみこんでかゝられよ。
「閃光雑記」より
島田の命のある限り、私の胸の火は消ゆることはない。胸の火の消えない限り、望みをつないでゐてくれ、たのむ。全国民とそして全世界よ。
「閃光雑記」より
人類十七億、ことごとく死物で、私一人が生きてゐて、怪物の名をほしいまゝにするのは、ちと、身に過ぎた贅沢のやうな気もする。ハハ。
「閃光雑記」より
私の今日の地位は、単なる一個の文学者としてのみならず、実に現代の新しき一勢力の具現として、社会的な重要な意義を有つ。このことは分る人には分る。
「閃光雑記」より
誇大妄想とは、事実大ならざるものを大と妄想することであるが、大なるものを、大とすることは決して誇大ではない。それは認識力の正確である。私は少くとも誇大者ではない。私は唯大を大とする丈けのこと、その大を見る力なき人が、例へば、筑波山丈けを知つてゐて、富士山を知らぬ人に、山は大きいといつても、いや、山はそんなに大きくはない、それは誇大で、汝は誇大妄想狂だとかう云ふ。しかし、それはさう言ふ人の認識の狭小を意味するのであつて、決して大を大とするものの妄想を意味しないのである。
「閃光雑記」より
やはり、常に恋をしてゐなくてはならぬのだ。
「閃光雑記」より