SFマガジン2004年9月号
●八杉将司
『夢見る猫は、宇宙に眠る』(一九〇〇円/徳間書店)
●坂本康宏
『シン・マシン』(一八〇〇円/早川書房)
●宮部みゆき
『ICO −霧の城−』(一八〇〇円/講談社)
●浅倉卓弥
『君の名残を』(一九〇〇円/宝島社)
●瀬名秀明
『ロボット・オペラ』(四七〇〇円/光文社)
まず今月は、第五回日本SF新人賞を受賞した八杉将司の
『夢見る猫は、宇宙に眠る』(一九〇〇円/徳間書店)から。医療機器メーカーに勤務するキョウイチは、仕事で立ち寄ったカウンセリングルームで、心理学科の学生であるユンという不思議な女性に出会う。キョウイチは、天真爛漫なユンに惹かれるが、ユンにはすでに婚約者がいた。やがてユンは婚約者とともに開拓途上の火星へと向かうが、その半年後、火星は突如として緑の星へと変貌、つづいて地球との間で独立戦争が始まった。火星の人々は、ナノマシンを体内に取り込むことにより、思い描いたものを物質化する能力を手にしており、どうやらこの現象にはユンが大きく関わっているらしい。キョウイチはユンを探すために火星へと飛ぶが……。ナノテクがほとんど魔法同然の扱いなのはちょっと気になるし、ストーリー展開にはまだまだ生硬なところも見られるが、ごく日常的なほのかな片想いの物語が一気に全宇宙規模へと広がっていく感覚は一読忘れがたいものがある。独特の感性を持った作家の誕生だ。
続いて、Jコレクションの最新刊は、第三回日本SF新人賞で佳作を受賞した坂本康宏の
『シン・マシン』(一八〇〇円/早川書房)だが、奇しくも、こちらもナノマシンによる人類の変貌を描いた作品。脳の一部が機械化されてしまう奇病MPSに冒されることにより、究極のユビキタス・コンピューティング社会を作り上げた人類。しかし、ごく一部にはMPSに罹患しなかった人もおり、彼らは〈スタンドアロン〉と呼ばれて差別的な待遇を受けている。スタンドアロンの青年、国東弾は、ある女性の身辺調査を請け負ったことをきっかけに、「無意識政府体」から次々と送り込まれてくる異形の敵たちとの戦いに身を投じることになる。コンピュータ用語と医学用語をごちゃまぜにしたような造語で描写されるグロテスクな未来社会の光景と、風太郎忍法帖を思わせる奇想天外な敵たちとの七番勝負とのギャップが楽しい。単なるB級アクションと思いきや、物語の構造自体をがらりと変えてみせる結末も心憎い。文句なく楽しめるノンストップSFアクションだ。
宮部みゆき
『ICO −霧の城−』(一八〇〇円/講談社)は、同名のプレイステーション2用ゲームに触発されて書かれた異世界ファンタジー。村に何十年かに一度生まれる角の生えた子は、そびえたつ巨大な「霧の城」の贄とならなければならない。ならわしに従って贄となった少年イコは、囚われの少女ヨルダと出会い、彼女を守って城を出ることを決意する。さすがは実力者の作者だけあって、ゲームではまったく語られなかった村での生活やヨルダの過去にまで踏み込んでいて、冒険ファンタジーとしてそつなく仕上がっている。ただ、その読後感はゲームとはまったくといっていいほど異なる。そもそも、『
ICO』というゲームは、背景説明を極限まで省くことにより、たとえばつないだ手と手の感触、ヨルダの儚げなしぐさ、物言わぬ古城の空気感などから、プレイヤーのそれぞれが無限の物語をつむぎだすことのできる稀有なゲームなのだった。プレイヤーの心の中で形作られた無限の物語には、いくら宮部みゆきの才能をもってしてもかなうわけがないのだ。本書にゲームの感動の再現を求めるのであれば、あまりお勧めはできない。あくまでゲームとはまったく別の、独立した作品として楽しむべきだろう。
最後に、浅倉卓弥
『君の名残を』(一九〇〇円/宝島社)は、高校生と中学生の男女三人が平家物語の時代にタイムスリップし、巴御前、武蔵坊弁慶、北条義時になってしまうという歴史ファンタジー。歴史改変の要素は薄く、むしろ平家物語の再話といったほうがいいかもしれない。なにしろ主人公たちはみなマリオネットのように「時」に突き動かされる存在で、自らの役割を最初から従容と受け入れてしまうので、キャラクターとしての魅力がいささか乏しいことは否めない。時の流れの前では個人などは塵のようなものであり、個人が何をしようとも「正しい歴史」の流れは絶対に変えられない、という決定論的な歴史観を承伏できるかどうかで、評価はだいぶ異なってくるに違いない。
●瀬名秀明
『ロボット・オペラ』(四七〇〇円/光文社)
瀬名秀明はインターフェースの人である。
瀬名秀明といえば、科学と人間の関係性をくりかえし語ってきた作家である。さらに『八月の博物館』や『虹の天象儀』などの叙情的な作品では物語と科学の間にある人の「想い」を描き、科学研究の現場に取材したノンフィクションでは、最前線の研究と社会との境界面に着目している。瀬名秀明が関心を向けるのは、つねに関係であり、境界面なのだ。
古今東西のロボットSFからロボットマンガ、現実のロボット研究までを横断し、ロボットをめぐる人間の想像力の歴史を俯瞰してみせた本書は、インターフェースを指向する瀬名秀明の資質がまさに体現された著作といえるだろう。
本書に収められた国内作品は、チャペックの『R.U.R.』が日本に紹介されて間もない一九三一年に発表された海野十三の「人造人間(ロボット)殺害事件」から、二〇〇二年の藤崎慎吾「コスモノートリス」まで全十一編。通常のロボットSFアンソロジーと違うのは、「人間はロボットとどう向きあってきたのか」というテーマをはっきりと打ち出しているところ。あまりにも有名な星新一「ボッコちゃん」も、対話型人工知能の文脈でとらえ直されているし、人間がロボットに求めるものを風刺的に描いた田辺聖子「愛のロボット」のような小品も、SFプロパーのアンソロジストなら凡作として見逃しがちな作品だ。アンソロジーの掉尾に藤崎慎吾「コスモノートリス」を持ってくるのも実に確信犯的。遺伝子操作とナノマシンの力を借りて宇宙空間に適応した人類を描くこの中篇には、通常の意味での「ロボット」は出てこない。SF畑の編者なら「ロボット」「アンドロイド」「サイボーグ」の区別をつけたがるところだが、編者はそれを意識的に無化し、人間という存在を外側から問い直す媒体として、広義の「ロボット」を提唱しているのである。
瀬名秀明が本書で目指しているのは、ロボットを、SFや研究者の手から解き放つことだ。彼がアトムにこだわる理由もそこにあるのだろう。アトムは人間と共生するロボットであり、初期には「アトム大使」というタイトルだった。大使とはつまりインターフェースであり、それは彼が指向するものにほかならないのだから。瀬名秀明は、アトムになりたいのだ。
(C)風野春樹