SFマガジン2002年7月号
●牧野修
『傀儡后』(一七〇〇円/早川書房)
●北野勇作
『どーなつ』(一五〇〇円/早川書房)
●恩田陸
『劫尽童女』(一五〇〇円/光文社)
●野尻抱介
『太陽の簒奪者』(一五〇〇円/早川書房)
四月の日本SF界の話題といえば、なんといっても、ハヤカワSFシリーズJコレクションの創刊だろう。日本作家によるSF叢書は、八三年の「新鋭書き下ろしSFノヴェルズ」以来だから、ほぼ二十年ぶりの快挙。
第一回配本作品は、野尻抱介、牧野修、北野勇作、といずれ劣らぬ個性的な三作家の作品がそろい、日本SFの広がりを示す三冊となった。
野尻抱介『
太陽の簒奪者』についてはクロスレビューの方で書いたので、ここでは残りの二作品を紹介しよう。
まず、牧野修
『傀儡后』(一七〇〇円/早川書房)は、牧野版『
カエアンの聖衣』ともいえる、ドラッグ・パンク・ファッションSFである。
舞台は隕石の直撃から二十年を経た大阪。落下地点から半径五キロの範囲は特別危険指定地域、通称D・ランドとして立ち入りが禁止されている。その中に足を踏み入れた調査団はすべて消息を絶ち、戻ってきた者はひとりもいない。さらに、隕石の落下後から、体がゼリー上になる麗腐病という原因不明の奇病が流行。麗腐病に侵された者は、特別危険指定地域の中に消え、二度と戻らない。
ただひとりの特別危険指定地域からの生還者である私立探偵の涼木王児は、見えざる支配者階級の頂点に立つ二人の老人の依頼を受け、危険指定地域内部を探る〈オルガン計画〉を推進していた。そして、麗腐病と関わりのあるドールプリンセス・ミカという人形の製造元を訪れた涼木は、D・ランドを支配する「傀儡后」という存在に出逢う……。
全編にわたって畸人たちが入り乱れる上、フェティシズム、病気、暴力、ドラッグ、人体変容など、牧野印のガジェットが横溢した、作者の集大成的な作品といえよう。
あまりに物語が広がりすぎたせいか、置き去りにされた伏線もあるし、結末での収束がうまくいっていないきらいもあるけれど、この作品の場合そんなことは些細な問題にすぎない。極彩色で展開する牧野ワールドを堪能し、圧倒されるべし。
続いて北野勇作
『どーなつ』(一五〇〇円/早川書房)は、きわめて要約のしにくい、紹介者泣かせの小説。
どうやら、戦争があったらしいのである。それは、テレビの中で始まり、テレビの中で終わった戦争だった。番組は終わったので戦争も終わったのかもしれないし、まだ続いているのかもしれない。
その戦争によって、半径五キロの黒いもやに覆われた土地が出現。そこに入ると「入る方法」と引き換えに記憶と人格が組み換えられてしまい、自分が誰なのか定かではなくなってしまう。
さらに、「人工知熊」という熊の形をした作業機械が登場する。人間は熊の中に入って神経を直接接続して操作するのだが、熊に乗ると前任者の記憶が自分の中に入り込んでくるのである。場合によっては熊が自律的に動いて記憶をやりとりすることもある。
そしてまた、知能を発達させたアメフラシに人類の記憶を託し、火星へと送ろうとしている女性科学者の物語が語られる。
物語は十の断章で語られるのだけれど、それぞれの章は時系列がバラバラになっていて、まるで夢のようにあいまいでとらえどころがない。それは、誰だかわからない「おれ」の記憶であるとともに、いまや滅びを迎えようとしているヒトの記憶でもあるようだ。
なにか大切なものを失ってしまったかのような、けれどそれが何なのか思い出せないような、言葉にならない喪失感ともどかしさ。北野勇作はそれを描くことのできる稀有な作家である。
最後に、恩田陸
『劫尽童女』(一五〇〇円/光文社)は、秘密組織に追われて放浪する超能力少女を描いた冒険SF。筒井康隆の『七瀬ふたたび』や、かつてのジュヴナイルSFを思わせる、懐かしいタッチの連作短篇集である。
サスペンスあふれる前半に比べ、後半の強引なまとめ方にはいささか難があるけれど、七〇年代SFへのオマージュに徹した力強い物語には引きこまれる。
●野尻抱介
『太陽の簒奪者』(一五〇〇円/早川書房)
アメリカの国立科学財団がまとめた科学技術についての意識調査の結果がウェブ上で公開されているのだけれど、その中にSFについて書かれた一節がある。
「SFに関心を持つことは、人々が科学について考え、科学に親しむのに役立つだろう。SFへの関心は、職業としての科学に興味を持つための重要なファクターなのかもしれない」。おお、国家機関の報告書でSFが礼賛されるなんて!
さらに報告書は言うのである。科学者は、自分が科学の道を選んだきっかけとして、子供の頃からSFが大好きだったことを挙げることがよくあるし、SF小説を好むことと宇宙開発を支持することには、強い関連性があった、という研究もある、と。
かように、アメリカでは、SFは科学に親しむきっかけとして広く認められているのである。なんとも心強い話じゃないですか。しかし、ひるがえって理科離れの進む今の日本で、科学に親しみ、科学者への道を選ぶきっかけになるようなSF作品があるかというと……はたと困ってしまう。
誤解を受けないように言っておくと、別にだから日本SFはダメだ、と言いたいわけじゃない。日本SFはアメリカSFとは違った方向へ発展していったわけであり、それはいい悪いで語れるようなことではない。でも、アメリカSFに多い、実在する科学技術の上に物語を構築していくようなタイプのハードSFが、日本にはほとんど見当たらないのは確かなのだ。
そこに満を持して登場したのが、この『太陽の簒奪者』である。
西暦二〇〇六年、突如水星から鉱物資源が吹き上げられ、やがて太陽をとりまく直径八千万キロのリングを形成する。リングによる日照量低下のため、地球の気候は激変。やがて、リングには直径十三万キロの〈島〉と呼ばれる暗斑が出現。水星や〈島〉に近づいた地球の探査機は、すべて攻撃を受けて破壊される。
リングが確認された二〇〇六年には高校の天文部員だった白石亜紀は、大学理学部から宇宙科学センターへと進み、やがて有人宇宙戦艦によるリング破壊ミッションに志願する。リングに近づいた亜紀が異星のテクノロジーを目の当たりにするのが第一部。そしてさらに年月を経て五十代になった亜紀が、コンタクト船の艦長として、ついに太陽系を訪れたリング建造者とのファースト・コンタクトを果たすのが第二部。
作者はこう書く。
「人類が滅亡することに恐怖は感じなかった。亜紀が恐れたのは、あの異星文明を知らずに死ぬことだった」
大海を知らずに井の中の蛙として生きていくことに意味はあるのか? 世界に関心をもたず、身の回り半径五メートルの世界だけで生きていていいのか? それは、これまでライトノベルの分野で活躍してきた作者が、年少の読者に送り続けてきたメッセージでもある。
もちろん、作者はそれが理想主義であることも知っている。十分承知した上でなお、「知りたい」という好奇心の重要さと、科学の可能性を力強く描くのである。
残念な点があるとすれば、あまりに短すぎること。地球環境の激変は一ページで片づけられ、十数年の年月がわずか数ページのうちに過ぎ去っていく。最近の海外SFに多い超大作も願い下げだけれども、物語のキーになる自己と他者の問題についてや社会情勢も含め、もう少しディテールを書き込んでもよかったのではないか。もっとも、テーマとは外れた細部を省略したからこそのスピード感があるのも確かなのだけれど。
とはいえ、この作品が新世紀日本SFの最良の収穫のひとつであることは間違いない。ついに、海外にまったくひけをとらない骨太のハードSFが誕生した瞬間である。
(C)風野春樹