猫畑

「典子!」
 揺り起こされて目が覚めた。
 何か、ひどく気味の悪い夢を見ていたような気がする。背中にじっとりと冷たい汗をかいていた。でも、それがどんな夢だったかは、どうしても思い出せなかった。
 目を開くと、日に灼けた中年の女性の顔が目に入った。化粧っ気はほとんどなく、無数の小じわを隠そうともしていない。私を揺する手は節くれだって浅黒い。
「誰?」ぼんやりと、私はつぶやいた。どこかで見たような顔。だが、それが誰なのか思い出せなかった。
「何寝ぼけてるんだろうね、この子は」
 女性は呆れたように云った。
「いつまでも寝てるんじゃないよ。ごはんを食べたらすぐ刈り入れだからね」
「……母さん」そうだ。母親ではないか。目の焦点が合うと、それは確かに私の母親の顔だった。私を見下ろしていらだたしげな表情を浮かべている。なぜ見知らぬ女性だと思ってしまったのだろうか。私にはどうしてもわからなかった。
 起き上がるとそこは畳敷きの八畳間で、両親の布団はすでに畳まれ、押し入れに上げられていた。天井は高く、太い梁が頭上を横切っている。もちろんここが、私がこれまでずっと夜を過ごしてきた寝室だ。そのことに疑いの余地はない。それなのに、なぜ私は一瞬だけ、かすかな違和感を覚えたのだろうか。私はいつもは白い天井の部屋のピンクのベッドカバーのついたベッドで寝ていて、目覚ましの音で起きていたような、そんなあるはずもない感触にとらわれたのはなぜだろう。
 布団を上げ、隣室のふすまを開けると、すでに父、祖父、そして弟がちゃぶ台についていた。卓の上には焚き立てのごはんと焼魚。
「おはよう」
「おはよう、遅いな」ぼそりと、父親が云う。
 いつもと同じ朝食の風景。そのはずだ。疑問なんて何もないはずだ。私は首を振って違和感をふり払った。
 食事を終えるとすぐ、母親たちは身支度を始めた。
「どこに行くの?」
「刈り入れだよ。さっき云ったでしょうが」面倒くさそうに母親は答えた。
 家を出るとそこに広がっているのは一面の農村風景だった。瓦屋根の農家の集落、広大な田畑と、遥か彼方の真っ赤に紅葉した峰々。どこかで見たような、見たことがないような、あるいは毎日見ているような風景。
「さ、行くよ」母親が篭を背負った。父や弟もそれぞれの篭を背負う。残ったのが私の分の篭らしい。私はおそるおそるそれを背負った。
 黙りこくったまま畦道をしばらく歩いた。田んぼは黄金色の海で、重そうに首を垂れた稲穂が肌寒い秋風に揺れていた。
 畑に着く少し前から、私は虫の羽音のような、甲高いうなるような音に気づいていた。音は寄せては返す波のように強弱を繰り返し、しかし決して絶えることなく続いていた。何の音なのかはよくわからない。だがなんとなく、肌を粟立たせるような不快な音だった。
 私は何気なく畑に目をやった。
 そこは一面の猫だった。

 三毛猫、白猫、黒猫。さまざまな種類の猫がいる。猫たちは畑に埋められ、畦に沿って整然と並んでいた。どの猫も首だけを地面の上に出し、もぞもぞと居心地悪そうにうごめいていた。みゃうみゃうとうなる音は、無数の猫の鳴き声だ。
「何……これ」
 私は思わずつぶやいていた。
「猫よ」当たり前じゃないか、と云わんばかりに母親が答える。
「あんた、今朝はちょっと変よ。熱でもあるんじゃない?」
 母親は眉をひそめてから、こんな馬鹿な娘は相手にしている暇はないと言わんばかりにさっさと篭から鎌を取り出した。
「さ、始めるわよ」
 母は鋭利な鎌を右手に持って畑にかがみ込み、左手で猫の頭をつかむと、瞬間の早業でその首をスパリと切り落とした。
 私が声を上げるすきさえなかった。
 地面から噴水のように赤い液体が吹き飛ぶ。
 母は真っ赤な血をしたたらせたままの猫の首を、無雑作に背中の篭に放り込んだ。
「ぼうっとしてないで、典子も手伝いなさいよ」私を振り向いて非難めいた口振りで云う。
「私も……やるの?」
「当たり前じゃないの」
 すでに父や弟は畑のあちこちで刈り取りの作業を始めていた。刈り取るたびに、地面から真紅の血が四方に飛び散っている。
「なるべく血が畑じゅうに行き渡るようにしてね」母は大声で指図する。
「じゃないと来年の猫の成長が悪くなるから」
 そして、私の方に向き直り、「どうしたの、早く始めなさいよ」
「この畑は……」
 毎年やってきた仕事のはずだ。それなのに、私はどうしても鎌を手にする気分にはなれなかった。まるでここにいる自分と、別の自分とがひとつの体の中で争っているような、奇妙な感覚だった。
「この畑はちょっと……」
「仕方ないね」
 呆れはてたのか、母はため息をつく。
「じゃ、典子はあっちの畑の刈り取りをやって」
「わかった」
 この畑でさえなければ、私にも刈り取りの仕事はできそうだった。
 私は母が指さした方の畑へと歩き出した。こちらに植えてあるのは幸い猫ではないようだ。何か黒っぽい、西瓜ほどの大きさの野菜が並んでいる。
 畑まであと少し、というところで私は立ち止まった。そこに植えてあるのが何なのか、ようやくわかったのだ。
 そこは人畑だった。
 野菜と見えたのは人間の首だ。何十という人間の首が、地面から顔を出していた。畑のあちこちからはかすかなうめき声が聞こえてくる。誰もが哀れっぽい目つきで私を凝視していた。
 まるでその視線に吸い寄せられるかのようだった。私は気づかぬうちに畑の前に立っていた。
 私はふとある首に目をとめた。
 その瞬間、激しい電撃が私の背筋を走った。懇願するような視線を私に向けているその顔は、まぎれもなく私の母親だった。その隣は父親。弟、ボーイフレンド、先生の顔も見える。みな、私の知り合いの顔だった。そのすべてが、まるで物乞いのように哀れっぽい表情を浮かべて上目づかいに私を見つめていた。
「典子」母親の首がかすれたうめき声をあげる。
 母親? そんなはずはない。私は首を振った。猫畑で刈り入れをしているあの母親とは全然違う顔だちだ。これが母親であるはずがない。なぜこの首が母親だなんて思ったのだろう。じっと見つめると、その顔はまったく見覚えのない顔に変わった。
 それにこれが人間の首だと思ったなんて。これはただの野菜にすぎない。毎年土から生えてくるただの野菜だ。
 ふっと、今まで感じていた違和感がばかばかしく思えてきた。なぜあんなふうに感じてしまったのだろう。なぜ猫畑の刈り入れが怖かったのだろう。今となってはなんとも理解に苦しむ、ばかばかしい話だ。毎年やっている農作業にすぎないのに。
 私は目の前の野菜の黒く細い葉をわしづかみにすると、右手の鎌を高く振り上げ、少し細くなった肌色の根もとを、ざっくりと切り落とした。
 その瞬間、野菜がかん高い叫び声を上げたような気がした。
「典子!」
 揺り起こされて目が覚めた。

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