博物館

 よく晴れた日曜日だった。
 家の中にひとりくすぶっているのがもったいないような天気だった。
 どこか出かけてみるか、と立ち上がってはみたものの、考えてみればどこへ行けばいいのか、さっぱり思いつかない。繁華街の人混みは苦手だし、公園でひなたぼっこという歳でもない。映画は興味をそそられないアクションものや恋愛ものばかり。
 やはり今日は家にいるか、と思い直したそのとき、ふと思い出したのが「東京現代博物館」のことだった。
 通勤電車の窓の外に見えるその看板に気づいたのは、もう一年近く前になる。初めて見たときには、こんなところに博物館があるのか、という程度の感想しか抱かなかったが、二度三度と見るうちに、どうも変だと思うようになった。「現代美術館」ならわかるが「現代博物館」とは何なのかよくわからない。しかも、友人も、同じ電車に乗って会社に通っている同僚すらも、誰一人としてその博物館の存在を知らないのだ。たぶん、通勤電車の窓の外の景色などというものは、そんなふうに誰にも注目されることなく、毎日毎日、ただひたすら流れ去っていくものなのだろう。
 そのように長い間興味をひかれていたにも関わらず、今までその博物館を訪れずにいたのは、多忙と怠惰のせいというほかはない。私は、かつては旺盛だったはずの好奇心が、毎日の生活の中ですっかり錆びついてしまっていたことに気づいた。
 博物館へ行ってみよう。正確な場所はわからないが、散歩をしながら捜せばいい。私はジャケットを羽織った。

 大げさな名前の割りには随分と小さい建物だった。三百円の入場券を買って中に入ると、室内はひんやりと静かだった。私のほかには客は誰もいない。
 一歩展示室に踏み込むと、そこはものの洪水だった。まず最初のコーナーは「椅子」だった。丸椅子、ひじかけ椅子、ロッキングチェア、ベンチ、歯科用の椅子などなど、とにかく無数の椅子が台の上にひしめきあっていた。もちろん台に乗る椅子の数には限りがある。置くことのできない椅子は、壁にびっしりと貼られた絵や写真で紹介してあった。
 そして次のコーナーは「机」「棚」と続く。どうやらこの一帯は家具の展示区域であるようだ。もちろん、「椅子」のときと同様、実物、写真ともに無数に並んでいる。
 室内を見回すと、向かいの壁には温度計が所せましと並べられていた。右側にはなぜかバス停がひとつ立っており、壁には車や列車、飛行機などの写真がひしめいている。室内で見るバス停はどうにも不似合いで居心地悪そうに見えた。
 左側には二階への狭い階段があり、その上にぶらさがったプレートには「二階 自然物」とあった。一階は人工物の展示室ということらしい。
 頭の中に疑問が渦を巻いていた。こらえきれなくなって、誰か質問に答えてくれる人はいないかと思い、職員を捜そうとしたとき、後ろから声がかかった。
「現代博物館へようこそいらっしゃいました」
 振り返ると、四十代前半らしい、やせ型の男が微笑んでいた。
「私は、館長の藤谷と申します」
「ここは何なんですか、いったい?」私の口調は少し詰問調だったかもしれない。
「現代博物館ですよ」館長は当然と言った様子でそう告げた。
「現代?」
「現代美術館があるのに、現代博物館がないなんて、不思議だとは思いませんか」
「それはそうですが……」
「そうでしょう」と、館長は我が意を得たりとばかりにうなずいた。「ここには、現代のさまざまなものが収められているのです。これこそが、今まで存在しなかった、我々が今最も必要としている博物館なんですよ」
「しかし、こんなにたくさんのものを収集して、いったい何の意味があるのですか」
 館長は私の質問には直接答えず、逆に私に尋ねた。
「『現代』とはいったい何でしょうか?」
「現代、と言われても……」
「わからないでしょう? わかっているつもりではいるのだけれど、本当のところは少しもわかっていない。現代というのは、実際あまりにも曖昧で、あまりにも不透明です。そして、この博物館は、そんな『現代』を理解するための一つの試みなのです」
「これで本当に理解できるのですか?」
「『記憶の劇場』という言葉をご存じですか」館長は微笑んで言った。
「記憶の……劇場?」
「ロバート・フラッドやジュリオ・カミッロなど、ルネサンス期の学者たちが、人間の記憶を増進させ、世界のすべてを知り、そしてその背後にある偉大なる真実を知るために作り上げた建造物です。そこには世界のあらゆるものが収められ、その中央に立つ者は、すべての情報を手に取るように知ることができたといいます」
「そんなことが……本当にできるのですか?」私の声はかすかに震えていた。
「残念ながらルネサンスの魔術師たちが作り上げた劇場は、みな不完全なものでした。しかし、原理的には充分可能である、と私は信じています。私はこの博物館を、現代版の『記憶の劇場』を目指して建てたのです。今のところまだまだ不完全なところばかりですけれども、少しずつ力を発揮しつつあるところです。ここに立ってみて頂けますか?」館長は床に描かれた同心円の中心部を指さした。
「ここ、ですか」私がそこに立つと、とたんに眩暈に似た感覚が私を襲った。その地点からはこの博物館のすべての場所を見渡すことができる。家具、機械、衣服、建築物といったあらゆる人工物、そして吹き抜けの二階からはあらゆる自然の事象が、四方から私に向かって迫ってきた。それは崇高ともいうべき、圧倒的な感覚だった。その瞬間、確かに私は世界の秘密を垣間見たのだ。私はたまらず床に膝をついた。
「大丈夫ですか」館長が私を助け起こしてくれた。
「ええ……。今のがつまり、偉大なる真実というわけですか」
「いえ、まだまだ不完全です。ここにはまだ現代のすべての情報は収められてはいません」
「しかし……この博物館にこの広大な『現代』すべてを収めることは、到底不可能じゃありませんか」
 そう言うと、館長は不意に悲しげな表情を見せてうなずいた。
「そうです。それこそが、当館の悩みなのですよ。いくら収蔵物を増やしても、『現代』そのものには決して追いつけない。それでは現代のすべてを知ることはいつになっても決してできません。いくら博物館を広くしたところで、現代そのものの広さにはかなわないのです。このジレンマを解決する方法はたったひとつです。それは……」そこで館長は口をつぐんだ。
「いや、しゃべりすぎたようです。いずれあなたにもわかることでしょう。そのときこそ、私たちは世界のすべてを知ることができるのです」
 私は背筋が寒くなるのを感じた。館長の瞳は大きく見開かれ、その視線は私ではなく、私の背後にある何かに向けられていた。
「失礼」私はそれだけ口にして、二階の自然物は見学せずに博物館を出た。
 そして私は一ヶ月後、この東京に暮らすすべての人々とともに、館長の言った解決策を知ることになった。

 その男はごく普通のサラリーマンに見えた。
 昼下がりにしては混み合った山手線の中、男は私のすぐ脇で吊り皮にもたれながら、眠そうに単行本を読んでいた。
 それだけなら私の注意を惹くことはなかっただろう。だが、その男はときおり思い出したように、おどおどとした態度で辺りを見回していた。本で顔を覆うようにして、まるで初めて先輩から万引に誘われた中学生のように周りを確認するのだ。私は、そのたびにそっぽを向いて知らん振りをしながら、横目で彼のことを観察していた。
 しかし、私の期待に反して彼は何一つしでかさず、電車が駒込に停まると、ミュシャの絵の栞を挟み込むと本を閉じ、なにごともなかったようにホームに降りて行った。
 私は憮然として彼の後ろ姿を目で追った。何か肩透かしをくらったような気分だった。しかし、何気なくそれまで彼がもたれていた吊り皮に目をやったとき、私は驚きのあまり目を見開いていた。
 吊り皮には小さなラベルが貼ってあり、そこには丁寧な楷書体で、「吊り皮」と記されていたのだ。
 しばらくの間じっとそのラベルの前に立ち尽くしたあと、私はおもむろに電車のドアに目を向けた。果たして、ドアにもまた小さなラベルが見えた。遠くて文字は読めなかったが、私はそこに「ドア」と書かれていることを確信していた。そして、車両の外側には「電車」というラベルが貼ってあることもまた。

 ほんの数週のうちに、街の至る所にそのようなラベルが見られるようになった。自動販売機には「自動販売機」、車には「車」、すべての物体がラベルを貼られ、街は異常に説明的になった。JRや車の持ち主がラベルをはがそうとしても無駄だった。特殊な接着剤を使っているらしく、ちょっとやそっとでははがせないばかりか、たとえはがしても、また翌日になると何者かの手によっていつの間にか貼られているのである。
 ニュースやワイドショーはこぞってこの話題を取り上げた。どこかの企業の広告なのではないか、という者もあれば、クリストのような、街全体を巻き込んだ現代美術のパフォーマンスではないか、という者もあった。
 しかし私だけは、それが館長の言った「解決策」であることに気づいていた。館長の言葉のすべてが、現在起こっている現象に符合していた。彼らは、現代を狭い博物館に収めることを諦め、現代そのものを博物館化しようとしているのである。
 何とも壮大な計画と言わねばなるまい。この都市にあふれる(今のところ、彼らの活動は東京都内に限られているようだ)こまごまとしたあらゆるものに対し、正確な定義を与えようというのだから。

 二ヶ月が過ぎ、私を含めた都民たちがすっかりラベルに馴れてしまったある日曜日、私は再び東京現代博物館を訪れた。予想していた通り、扉は閉ざされており、ノブには「ノブ」というラベルとともに、閉館中の札がかかっていた。街全体が博物館と化した今となっては、現代博物館が存在する必要はないのだ。
 引き返そうとドアから離れたとき、前から見覚えのある人影が歩いてくるのに気づいた。館長だった。たしか藤谷という名だった。あの尋常でない視線を思い出し、見つかる前に帰ろうと思い足を早めたが、すでに遅かった。館長は私に向かって手を振っていた。仕方なく立ち止まって小さくお辞儀をすると、「やあ、お久しぶりです」とニコニコしながら小走りに近づいてきた。
「どうですか、我々の解決策は」
「やはり、このラベルはあなたがたの……」ノブのラベルを指さすと、館長はにんまりと笑ってうなずいた。
「現代を理解する試みです」
「それで、理解できましたか?」
「まだ不十分です」その声音はわずかな苛立ちを隠しているように聞こえた。「まだまだたくさんのものが定義し残されています。我々は目に入るすべてのものを言葉で定義しなければなりません。それがすなわち理解するということですから」
 本当にそうなのだろうか。私は思った。言葉で定義すれば、それがすなわち理解したということになるのだろうか。私には、最初に、「東京現代博物館」を訪れた時からの疑問が一つあった。館長にその疑問をぶつけずにはいられなかった。
「一つだけ、訊いてもいいでしょうか」
「何です?」
「現代というのは、そもそも定義できるようなものではないんじゃないでしょうか」
「……」
「過去と未来という長大な領域の境界に当たる動点が現代なのではないのですか。定義したと思っても、次の瞬間にはそれは過去になってしまう。だから……」
「だから、我々のやり方では現代を理解することは永遠に不可能だというのですね」
 私はうなずいた。
「そういった意見はすでに検討済みです。対策も着々と進んでいるところです」
「対策があるのですか?」
「つまり、現代が動点であることが問題なのです。動き続けるから、それを抑えつけて定義づけることができない。しかし、もし現代が定点であるならば話は変わって来るでしょう?」
「しかしそんなことはありえない」
「ええ、そうです。でも、もし過去も未来も、すべてが均質であったなら、もう現代が動点であるか定点であるか誰にも区別がつかないことになる。簡単なニュートンの運動法則ですね」
「しかし……」
「もうこれ以上は話すことができません。また計画が進んだら、あなたにもきっとわかるでしょう。いや、そのときにはあなたはいないかもしれない。いずれにせよ計画は順調に進んでいます」館長は自信たっぷりに言った。
「ではまたいずれ」
 館長は手を振った。私は手を振り返した。

 それからというもの、私は毎晩のように館長の言葉について考えている。未来と過去を均質化するとはどういうことなのか。もしかすると、それはすべての生命を抹殺するということなのではないか。地球上から有機物が消え去り、時の流れが止まったそのときこそ世界の博物館化は完成し、世界の秘密は開かれるのかもしれない。
 私はときおり、廃墟と化した東京の街を、たったひとり静かに散策する館長の姿を想像する。一個人にそんなことができるわけがない、と即座に否定するものの、街全体をラベルであふれかえらせた彼のことだ、もしかしたら、という思いは拭い去ることができない。
 時が止まり、世界そのものが博物館となったこの街で、彼は真実を知ることができるのだろうか。

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