白い部屋に、老人は横たわっていた。
白い部屋の白いベッドの上で、老人は静かに目を閉じていた。
大きな窓からは五月の陽光が降りそそぎ、砂浜に打ち寄せる波の音がかすかに聞こえていた。
窓の外は広大な海だ。穏やかに凪いだ紺碧の海が、眼下に広がっている。沖合いには色とりどりのヨットの姿も見える。
しかし、老人にはその海を見ることができなかった。白いベッドの上から目に入るのは、四角に切り取られた青空と眩しい陽の光だけ。海を見るには窓際まで歩いて行かなければならないのだが、今の老人には、それすらも切り立った絶壁を登るほどの難業に思えた。栄養は、腕の静脈に刺してある管を通じて全身に送られる。尿道に差し込まれたカテーテルのおかげで、トイレに立つ必要もない。だから、老人は夢見るような朦朧とした意識の中で、ただかすかに耳に届く波の音と、子供たちのはしゃぎ声をたよりに、窓の外の光景を思い描いて毎日をすごしていた。
老人を訪う客はほとんどなかった。入院した当初こそ親戚たちが入れかわり立ちかわり訪ねてきてうるさいほどだったが、薄情なもので二ヶ月が過ぎた今となっては、週に一度、息子夫婦が訪れてくれる程度になってしまった。老人は、息子の妻が自分には聞こえないと思って夫に小声でぐちをこぼしていたのを知っていた。――こう長いと、入院費がかさんで仕方がない。
老人は、自分がもう永くはないことを知っていた。こんな状態になってさえあくまで生き続けたいと思うほど、生に対する執着はなかった。かといって、もう死んでしまいたいとも思わない。半ば眠り、半ば覚醒し、老人は夢と現実のあわいをたゆたっていた。
ほら穴の前に立つと、少年は大きく息を吸い込んだ。
蝉の声が、まるで山全体が鳴っているかのように四方から響き渡る夏の午後だった。
少年は素速く振り返り、後ろにいる友達に向かってひとつうなずいた。友達もこくりとうなずく。それだけですべて通じた。
――ほら穴の探検をしようぜ。前の日に友達に持ちかけたのは、少年の方だった。八月も半ばを過ぎ、夏休みの残り日数を数えるようになり始めた頃のことだ。海で泳ぎ、山を駈けまわり、遊んでも遊んでもいっこうに飽きることはなく、それなのに夏休みの終わりが確実に近づいていることが、どうにも理不尽に思えてならなかった。禁じられている場所にあえて行ってみようと口にしたのは、たぶんそんないらだちのせいだ。
裏山に登る道の脇にあり、前から気になっていた穴だった。母親には、危ないから入っちゃいけません、と口うるさく言われていた。近くを通るたび、穴の奥の闇をじっと見つめ、そしてわざと穴をよけるよう大回りをして通り過ぎていた。
自然の穴ではないようだったが、何のために掘られた穴なのか、少年たちは知らなかった。戦時中の防空壕の跡かもしれないし、「やぐら」と呼ばれるこの地方特有の中世の墓所かもしれなかった。あるいはもしかするとその両方とも正しいのかもしれない。でも、少年たちにとってはそんなことはどうでもよかった。防空壕であれ墓であれ、謎めいた穴が確かにそこにあるのだ。それだけで充分だった。
――おじいちゃん。
はずむようなその声も、老人にとっては夢の中の呼び声のように現実味を欠いていた。
セーラー服の少女が、老人の顔をのぞき込んだ。中学生の孫娘が、学校の帰りにときどきこの病院を訪れるのだ。
老人はぼんやりとかすんだ網膜の上で少女の顔をとらえた。それは誰なのか、そして自分はどう答えればいいのか。すべてがぼんやりとかすんでいた。
何か言いたげに口を動かしたが、自分でも何を言いたいのかよくわからなかった。
――来てくれてありがとう。そう言いたかったのかもしれない。しかし、老人の声帯からはくぐもった音がもれただけだった。
少女にはその言葉が聞き取れなかったが、それでもにっこり笑うと、祖父の眼を見て話しかけた。
――今日はお花を持ってきたのよ。
そして床に置いた紙袋の中からガラスの花瓶を取り出し、洗面所で水を入れると、ベッド脇のサイドテーブルの上に置いた。
花は水仙だった。華やかな黄色い花を生けると、病室全体が明るさを増した。
――きれい。
少女は満足げにつぶやいた。
じめついた黒土の地面を踏んで、少年はほら穴の中に足を踏み入れた。あとから友達もついてきていることは、気配でわかった。
黄土色の岩でできた壁は湿り気を帯び、湧き出た地下水のせいか、地面はぬかるんでところどころに水たまりができていた。蒸し暑い外とはうって変わって、ほら穴の中はひんやりと涼しい。
少年は自分の心臓の鼓動を聴いていた。すぐそこで鳴いているはずの蝉の声さえも、遠く別世界のできごとのように感じられた。
穴は意外に深いようだった。穴は右へと大きく折れ、さらに先へと続いていた。
少年はおそるおそる曲がり角の先をのぞき込んだ。
そこで行き止まりだった。
ほら穴はあっさりと終わっていた。地面にはジュースの瓶や炭酸飲料のつぶれたアルミ缶が捨てられている。半ば朽ちかけた新聞紙の上を、小さな虫がカサコソと這っていた。
少しがっかりしたのは確かだ。
でも少年にとっては、洞窟を征服した、という満足感の方が強かった。もしこれ以上奥まで穴が続いていたとしたら、次第に高まる心細さのせいで、とてもいちばん奥までたどり着くことはできなかったろう。
少年は天井から地面まで、あたり一面を見渡した。振り返れば入口はすぐそこだ。全長にして二メートルもないだろう。それでも洞窟の中の空気はひんやりとして、半袖では寒気を感じるほどだった。
少女は来客用のパイプ椅子に腰掛け、薄い文庫本を読んでいた。
ここでこうして波の音を聴き、本を読みながら老人と一緒にときを過ごす。それが少女の習慣になっていた。毎日のように学習塾に通っている少女には、とても毎日ここに来ることはできない。ときおり時間を見つけてやってくるのがせいいっぱいだ。それでも少女は、時間があくたびにこの病院を訪れ、祖父とともに過ごすのだった。
――喉が渇いちゃった。ジュース買ってくるね。
何ページか読み進めたあと、ふっとため息をついて本を閉じると、少女は老人にそう告げた。
もちろん答えがあるはずはない。
しかし少女は少しの間老人の返事を待ってから、静かに部屋を出た。
――なんだろう、これ。
友達の声に、少年は振り返った。
友達はかがみこみ、地面を見下ろしていた。少年が近づくと、友達は半ば土に埋もれ、錆びついた金属片を指さした。かすかに残る表面から、もともとは鮮やかに彩られた模様がついていたことがわかる。
掘ってみようか、と言うと友達は眼を輝かせてうなずいた。
道具も何もなかったが、ふたりは両手を使って柔らかい土をかき出していった。金属は、思ったよりも大きかった。どうやら、高級な菓子を入れるような大きな四角い缶のようだった。
四角い缶はかなり重かった。
ふたりははやる気持ちを抑え、掘り出した缶をかかえてほら穴を出た。開けるのなら明るい光の中で開けたかった。
ほら穴を出ると、外は相変わらず真夏だった。とたんにむっとする空気がふたりを包み、眩しい光が目を射た。蝉しぐれが急に音量を上げた。
目を馴らすまでに時間がかかった。
地面に置いた缶のそばにかがみ込み、ふたりは蓋の両脇に手をかけ、錆びついた蓋を力を込めて開けた。
ふたりは歓声を上げた。
ビー玉が、ぎっしりと詰まっていた。ビー玉は太陽を反射して、色とりどりの光を放っていた。
缶の錆び方からいって、去年今年ではなく、かなり前に埋められたものと思われた。たぶん誰か子供が自分の宝物をそこに埋め、そのまま忘れ去ってしまったものだろう。
――山わけにしよう。
少年が言い、友達はうなずいた。
その日から、ビー玉は少年の宝物になった。
少年は毎日のようにビー玉を飽かず眺めては、角度によって微妙に変化するその色合いと、ビー玉の中に現れる奇妙にゆがんだ世界に心を奪われていた。
夏が過ぎ、冬が来ても、ビー玉を箱の中から取り出すたびに、少年は夏を思い出すのだった。
海水浴、花火、そしてあのほら穴。あの夏に体験したすべてが、七色に輝く球形の凸レンズの中に収められているのだと、少年は信じていた。
片目でビー玉をのぞくと、水の中のようにゆがんだ世界が見えた。ビー玉を動かすと、その中の世界も、ビー玉のゆがみに合わせて蜃気楼のように揺れた。
ビー玉を見つめては、少年は夏を思っていた。
しかし、いつしか少年はビー玉を忘れた。
それが、たぶん成長する、ということなのだろう。そして、あれほど大事にしていたはずのビー玉も、どこへいったかわからなくなった。
老人はまたひとりになった。
しばらくぼんやりと室内に視線をさまよわせていた老人は、やがて黄色い水仙に目を止めた。そして視線を下に向け、透明な花瓶に目をやる。
どうしたわけか、花瓶から眼を離すことができなかった。
光を反射して微妙に変化するその色合いが、とても懐かしいなにかを思わせる。しかし、老人には、それがなんなのか思い出せなかった。
なにか。とてもなつかしい、なにか。それなのに、思い出すことができない。
何年もの間感じたことのなかったいらだちと、それが何なのか知りたいという欲望が老人の心を揺さぶった。自分の中に、そんな感情が残っていたこと自体が驚きだった。
老人は体にせいいっぱいの力を込めて上半身を起こし、ゆっくりと、震える手を伸ばした。
点滴の管がぴんと張り、腕にかすかな痛みが走ったが、老人は気にも止めなかった。そのまま腕を伸ばすと、点滴の針を皮膚にとめてあったテープがはがれ、針は液をこぼしながら床に落ちた。
老人は花瓶に触れた。
花瓶の曲面には、老人の顔がゆがんで映っていた。
その瞬間だった。
老人は思い出した。
遠い少年の日々のことを。長く暑かった夏休みを。そして、あの日、ほら穴で見つけたビー玉のことを。
すべてを、老人は一瞬のうちに思い出していた。
その瞬間。
花瓶もまた、思い出していた。
遠い昔、自分がまだビー玉だったころのことを。自分をのぞき込んでいた少年の瞳の輝きを。自分に触れた少年の手のぬくもりを。
それは花瓶のガラスの分子構造の中に、かすかにしまわれていた記憶だった。ガラスの中で幾度も幾度も反射し、長い間とじ込められていた淡い光だった。
老人は静かに花瓶に触れ、花瓶もまた、静かに老人の手を感じていた。
老人と花瓶の記憶は混じり合い、ひとつになっていった。老人にはもう、自分が歳老いた人間なのか、それともガラスでできた花瓶なのか、それすらもわからなくなっていた。
花瓶の中では、老いた自分の顔がゆらゆらと揺れていた。窓の外の碧い海の景色すら、小さく映っているように見えたが、それは花瓶そのものの青だったのかもしれない。
部屋に戻った少女が目にしたのは、点滴がはずれ、不自然な体勢でぐったりとベッドに横たわる老人の姿だった。だが、その右手だけはまっすぐ花瓶へと伸ばされていた。
老人の体はもはやぴくりとも動かなかった。
しかしその顔にはとても満足そうな笑みが浮かんでいた。
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