正字正假名隨筆 「鞭毛亭日乘」

休日篇 「死都ヂズニイランド」


 八月某日、さる女性の誘ひで浦安ヂズニイランドに赴く。東京驛にて京葉線に乘る。京葉線コンコオスは地下深くに有り、廣々として快適であるが、土地不足の所爲で他のホオムと遠く離れてゐるのが缺點だ。人氣の少ない地下道を長々と歩き、漸く京葉線コンコオスに辿り着いた。
 爽やかな音色の發車ベルに送られて、列車は東京驛を後にした。列車は地下をひた走り、湾岸へと向かふ。列車は越中島を過ぎた辺りで螢光燈で照らされた地下世界を出、工場が立ち並びトラツクの行き交ふ殺伐とした光景の只中へと顔を出す。
 電車を舞濱で降りる。快速に乘つた爲意外に早く到着してしまつた。約束の時刻迄は未だ三十分近く有る。仕方なく漫然と時を潰す。子供らが眞つ青なアイスクリイムを食べてゐる。體に毒ではないか、舌が青くならないかと要らぬ心配をする。
 實は、私は今回初めてヂズニイランドを訪れるのである。前々から何時か訪れやうとは思つてゐたのだが、内心「あんなものは子供騙しだ」と馬鹿にしてゐた事もあり、自分から進んで行く氣にはなれなかつた。今回も餘り乘り氣ではないのだが、女性の誘ひとあれば斷れない。
 約束の時刻の五分前になつて彼女が現れる。瀟洒な陸橋を渡りパスポオトなる高價なキツプを購入する。ゲヱトをくゞつた瞬間に、周圍の空氣が相轉移する。此処は既に現實とは離れた夢幻世界である。夏休み中だけあつて、園内は家族連れやアベツクで賑はつてゐる。開業當初は土地轉がしだ資金隠しだと酷評されたとは思へない隆盛だ。餘りの人の多さに些かげんなりしつゝゲヱトを振り返ると、成程話に聞いてゐたやうに、外界の風景は殆ど望見出來ない。此処は浦安であつて浦安でない、シユワルツシルトの障壁に隔てられた一つの閉宇宙だ。
 巨大なミツキイマウスやグウフイらがお客を迎へ、子供等と握手してゐる。共に同人活動をしてゐる友人が、あれは些か不気味だと書いてゐたのを思い出す。ヂズニイアニメのフアンである友人は、身體のバランスの惡い無樣で巨大なミツキイは許せないのだといふ。あれを可愛いと思ふ人間は腦が冐されてゐるに相違ないとまで書いてゐた。その事を話すと、彼女は「隨分と皮肉な物の見方をする人だネ」と可笑しさうに笑つた。子供達は怖がる樣子もなく、につこりと微笑んで手を差し出してゐた。彼らの腦が心配である。
 ツモロウランドなる地區に足を踏み入れると、更に人混みは激しくなる。現實から離れた閉空間も、かうも人間が多くては興醒めである。非現實が現實に浸蝕されてゐるやうに思はれる。スペヱスマウンテン、スタアツアヽズといつた人氣アトラクシヨンは凡て一時間以上の待ち時間だといふ。仕方がないので先ずは餘り待ち時間の多くないアトラクシヨン幾つかに入る。矢張り人氣がないものにはそれだけの理由は有るものだ。
 それでも幾つかのアトラクシヨンを體驗してゐる内に、私は不可思議な心地好さに包まれてゐる自分を感じ始めた。非現實が體に浸透したとも云へるだらう。
 スタツフは皆その場の雰圍氣に適した制服を着込み、敏活に應對する。落ちたごみは即座に回收され、地面には塵一つない。乘物の運轉手は分け隔てなく客に挨拶し、動物達は雨の日も風の日も愛想を振り撒く。裏に存在する嚴格なマニユアルを感じる事は確かだけれども、見てゐて不快でない事も又、確かだ。
 曾てヂズニイランドで「ジヤングルクルウズ」の船長をしてゐたといふ人物の話を、電網空間で聞いた事がある。彼に據れば、ヂズニイランドではスタツフの事を「キヤスト」と云ふのださうである。ヂズニイランドといふ舞臺でウオルト・ヂズニイが演出するシヨウの演技者、といふ事らしい。アトラクシヨンの運營も、掃除も、凡て客に對する演技なのである。さう考へれば、彼らの態度も納得がいく。
 さて、キヤスト達は夢の國の住人を演じてゐる譯だから、それを利用して彼らを困らせる事が出來る。「東京灣はどつちですか」と尋ねるのだ。かう云ふと、キヤストは返答に窮する。「ヂズニイランドは日本ではない」といふ原則に引つ掛かつて、答へる事が出來ないのである。これも、電網で聞いた話だ。
 閑話休題。ビツグサンダアマウンテン、スタアツアヽズと樂しいアトラクシヨンの數々に(膨大な待ち時間には閉口したが)暫くの間打ち興じてゐたのだが、次第に胸の裡に小さな疑念が芽生えて來た。
 何かが違ふ。言葉にならない違和感を覺えるのである。これは何だらう、とつらつら考へてゐる内に、或る事にはたと思ひ當たつた。生き物の姿がないのである。ヂズニイランドに入つて數時間、見掛けた人間以外の生物は、アメリカ河を泳いでゐたカルガモ數羽のみである(染色してある樣子の水中を泳いで大丈夫なのだらうか)。そのカルガモも、もとより此処で飼はれてゐるものではなく、豫期せぬ闖入者だ。
 この廣大な閉空間には生き物はゐない。一山幾らで賣れる程ゐるヒトと、凍りついた笑ひを顔に浮かべた身長二米のミツキイ達の他には、生物は存在してはならないのだ。樹々はそこかしこに植ゑてあるが、それもきつちりと錐状或は直方體状に刈り込まれてゐる。何故生き物がゐないのか、それは簡單だ。生物は生きてゐるが故にその行動を管理する事が出來ないからだ。凡てに於て管理された死の都、それがヂズニイランドなのである。
 さうなのだ。此処は住む人のない死の都だ。狂王ルドヰ゛ヒのノイシユワ゛ンスタイン城のやうに、中世の城の形だけを模して建てられたシンデレラ城は未だ一人の君主も迎へた事はなく、密林では死んだ象や河馬がクルウズ船を永遠に待ち續ける。
 終はりのない夢。終はりのない現實。私が去つても、この都は同じ夢を觀續けるだらう。エレクトリカルパレヱドはワルプルギスの饗宴にも似た華麗さを誇り、凍りついた笑ひを顔に浮かべたミツキイは子供らに媚を賣る。
 此処にはブリウジユの沈默と憂鬱はない。有るのは華やかな賑はひと喧噪だ。しかし、この空間を支配してゐるのは紛れもない死である。
 人は、キヤスト達の笑顔に送られてゲヱトを出る折に、去り難い思ひを感じるであらう。それは、甘美なる永遠の死への憧れと同質の物である。又、その一方で駐車場の車の群れや近代的な舞濱の驛舎を前にして心の片隅に安堵の感覺を覺えたとすれば、貴方は正常である。貴方は充分に現實世界に適應してゐる。
 斯く云ふ私は、以前はあれ程馬鹿にしてゐたといふのに、夜も更けたヂズニイランドを去る時には、強く後ろ髮を引かれる自分を發見した。
 ふと舞濱驛で振り返ると、シンデレラ城の頂だけが煌々と照明を受け、ぽつかりと闇に映えてゐた。それ以外はこんもりと繁つた事象の地平線に隠されて何も見えない。日本であつて日本でないこの都は、宙に浮いた風船のやうに永遠に東京灣を漂ひ續けることだらう。

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